意識

3章 人の構造 - 8節 意識

個々の記述の真実度: 999.3-1000
節全体の真実度: 1000
節全体の活動性: 1000

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意識とは

  • (1000/1000) 意識とは、「自己が自己である」と認識する主観性そのものであり、心の機能特性を活用し、無形体の機能系統を通して、あらゆる表現の造化をおこなう内的構造のひとつです
    • 意識は、「⾃⼰が⾃⼰である」と自覚的/無自覚的に認識しており、自覚して認識している側面と、自覚なく認識している側面がある点に留意してください
    • 「自己という主観性」があるからこそ、無形体の機能系統を通して、心の機能特性を活用できるのであり、「自己という主観性」がないのならば、認識/理解することはできず、精神で表現を造化することもできません
    • 思考/感情などの精神で造化される表現は、自己ではなく、自己が造り出した表現のために、精神で表現を造化していなくても、自己(自己という主観性)は常に存在しています
  • (1000/1000) 意識が、無数の表現の造化へ適宜に処理の優先度を割り振り、優先度に基づいて、逐次に、あるいは、並列/並行して処理し、精神全体での造化をおこないます
    • 特に、自覚できる意識の領域は、自覚できない意識の領域に比べて、単位時間に処理できる許容量が少ないために、処理の優先度を割り振ることで、許容過多になるのを防いでいます

意識の構成

  • (1000/1000) 意識には、心/精神とのつながりから捉えた構造としての意識と、造化する表現の性質/程度から捉えた機能としての意識、の2つの側面があります
    • 構造としての意識と、機能としての意識は、別々の意識ではなく、ひとつの意識を異なる側面から捉えただけに過ぎません
  • このサイトでは、「意識」という語は、3つの側面を表す定義を混在させて用いています
    • 1つ目は、「自己という主観性」を表す本質的な定義であり、例として、「意識を集中する」「意識を向ける」「意識が感じ取る」などがあります
    • 2つ目は、構造としての定義であり、例として、「意識の範囲」「意識の偏重する範囲」などがあります
    • 3つ目は、機能としての定義であり、例として、「意識に占める」などがあります
    • ある記述に用いられている「意識」の語は、ひとつの定義、あるいは、複数の定義を指していますが、どの定義を表しているのかは記述の文脈から判断できます

構造から捉えた意識

  • (1000/1000) 意識には、有形界では、物質の心/分霊の心の全部と、大霊の心の一部が含まれ、加えて、表現を造化する場として、精神を内包しています
    • 意識は、自覚できる意識の領域と、自覚できない意識の領域に区分され、自覚できる意識の領域には、3つの心の一部が含まれ、自覚できない意識の領域には、3つの心の残りの部分が含まれています
    • 大霊の心は、自覚できる意識の領域/自覚できない意識の領域だけでなく、意識の領域外の範囲にも含まれており、意識外の範囲は、自覚の有無に関わらず、自己と認識する主観性の領域内ではありません
    • 精神は、自覚できる意識の領域と、自覚できない意識の領域の双方に縦断して内包されています
    • 自覚できる意識の領域では、自覚して認識する、自覚できるものの自覚なく認識する、自覚なく認識する、自覚して理解する、自覚して実証する、の活動がおこなわれ、一方で、自覚できない意識の領域では、認識/理解/実証の活動がおこなわれません
    • 自覚できる意識の領域でおこなわれる活動は、常に自覚できているとは限らず、自覚している状況に気づいていない(自覚できるものの自覚なく認識している)場合も多くみられます
    • 自覚できる意識の領域に含まれる心の機能特性は、自覚的に(自覚して/自覚できるものの自覚なく)活用できますが、一方で、自覚できない意識の領域に含まれる機能特性は、自覚的に活用できませんが、常に膨大な処理を無自覚的に(自覚なく)おこなっています
(1000/1000) 意識の構造
(1000/1000) 意識の構造
  • (1000/1000) 自覚できない意識の領域での処理は、自覚できる意識の領域よりも、処理が速く、単位時間あたりに処理できる量も多いです
    • 自覚できる意識の領域では、重要性の高い内容の処理を担っているために、ひとつひとつの処理に時間を必要とし、また、単位時間あたりに処理できる量も少なくなってしまうのです
(1000/1000) 自覚できる/自覚できない意識の領域での処理の比較
(1000/1000) 自覚できる/自覚できない意識の領域での処理の比較
自覚的/無自覚的とは
  • (1000/1000) 自覚的も、無自覚的も、対象を「自覚している」状況を指しています
    • 自覚的であっても、無自覚的であっても、自己が自覚するのは、自己の認識できる範囲内(意識の範囲)のみです
    • 自己の認識できない範囲(意識外)では、自己は自覚的にも、無自覚的にも、自覚しません
  • (1000/1000) 自覚的とは、対象を自覚できる可能性のある状況を指しており、「自覚する」と「自覚できるものの自覚なく」に区別されます
    • 自覚するとは、対象を「自覚している」ことが自覚できた状況を表しており、自覚して、自覚する、自覚のある、気づく、などの表現が含まれます
    • 自覚できるものの自覚なくとは、対象を「自覚している」ことが自覚できるにも関わらず自覚できていない状況を表しており、自覚できるものの自覚していない、自覚できるものの自覚のない、などの表現が含まれます
    • 対象を「自覚できるものの自覚なく」自覚している状況は、対象を「自覚する」自覚できた状況へ相互に移行します
  • (1000/1000) 無自覚的とは、対象を「自覚している」ことが自覚できる可能性のない状況を指しており、対象を自覚していますが、自覚している自覚ができません
    • 無自覚的には、自覚なく、自覚しない、自覚のない、などの表現が含まれます
    • 対象を「無自覚的に(自覚なく)」自覚している状況は、対象を自覚的に(自覚して/自覚できるものの自覚なく)自覚する状況へは相互に移行しません
(1000/1000) 自覚的/無自覚的の構成
(1000/1000) 自覚的/無自覚的の構成
  • (1000/1000) 自覚的/無自覚的の区別は、内的構造(内環境)でおこなわれる様々な活動にみられます
    • 下記は、様々な活動にみられる自覚的/無自覚的な区別の例となります
    • 自由意志による選択は、自覚的に(自覚して/自覚できるものの自覚なく)/無自覚的に(自覚なく)おこなえます
    • 外環境の認識は、自覚的に(自覚して/自覚できるものの自覚なく)おこなえ、無自覚的に(自覚なく)はおこなえません(ただし、外環境から取り込んだ情報を認識するまでの処理には無自覚的におこなわれる段階もあります)
    • 外環境への表現は、自覚的に(自覚して/自覚できるものの自覚なく)おこなえ、無自覚的に(自覚なく)はおこなえません(ただし、活動性の性質の表現のみ無自覚的に外環境へ表現されます)
    • 内環境での考察/内省は、自覚してのみおこなえ、自覚できるものの自覚なくはおこなえず、無自覚的に(自覚なく)もおこなえません
    • 精神での表現の造化は、自覚的に(自覚して/自覚できるものの自覚なく)/無自覚的に(自覚なく)おこなえます
    • 表現/行為へ付与する活動性の程度は、自覚的に(自覚して/自覚できるものの自覚なく)決定し、無自覚的に(自覚なく)は決定しません
    • 認識に占める有形的/無形的認識の割合は、自覚的に(自覚して/自覚できるものの自覚なく)決定し、無自覚的に(自覚なく)は決定しません
    • 意識に占める物質の心/大霊の心の割合は、自覚的に(自覚して/自覚できるものの自覚なく)決定し、無自覚的に(自覚なく)は決定しません
    • 同調する活動性の程度の向上は、自覚してのみおこなえ、自覚できるものの自覚なくはおこなえず、無自覚的に(自覚なく)もおこなえません
    • 同調する活動性の程度の下降は、自覚的に(自覚して/自覚できるものの自覚なく)おこなえ、無自覚的に(自覚なく)はおこなえません
    • 行為の目的には、自覚的な(自覚のある/自覚できるものの自覚のない)/無自覚的な(自覚のない)内容があります
    • 自覚できる意識の領域では、自覚して認識(理解/実証を含む)、自覚できるものの自覚なく認識、自覚なく認識、がおこなえます
    • 自覚できない意識の領域では、自覚している状況を自覚できない処理がおこなわれており、また、自覚している状況を自覚できない内容(記録の一部/経験)が貯蔵/保存されています(自覚できない意識の領域で認識/理解/実証はおこなわれていません)
    • なお、自由意志による無自覚的な選択に基づいて、無自覚的におこなわれる活動には、物質の心へ生命の活動性を付与する活動の一部、外環境から情報を受け入れ濾過/抽出する処理、記録から情報/知識を取り出し濾過/抽出する処理、活動性の性質の表現を造化して外環境へ表現する、などが挙げられます
(1000/1000) 活動にみられる自覚的/無自覚的の区別の例
(1000/1000) 活動にみられる自覚的/無自覚的の区別の例

機能から捉えた意識

  • (1000/1000) 意識は、精神で表現を造化する工程のほとんどを担う分霊の心を基本として、物質の心/大霊の心が、分霊の心のおこなう造化の工程へ与える影響の程度を、「意識に占める割合」として示すことができます
    • 意識という一定の枠内を、分霊の心が大半を占め、残りの部分を占める物質の心/大霊の心の割合は、自由意志によって選択されています
    • 意識に占める物質の心の割合が増大すると、分霊の心へ不誠実な性質の表現を造化するように、はたらきかけ、相対的に、大霊の心の意識に占める割合は減少します
    • 意識に占める大霊の心の割合が増大すると、分霊の心へ誠実な性質の表現を造化するように、はたらきかけ、相対的に、物質の心の意識に占める割合は減少します
(1000/1000) 意識に占める心の割合
(1000/1000) 意識に占める心の割合
  • (1000/1000) 意識の枠内でみられる3つ心の感覚的な位置関係は、地上の外環境へ最も近い位置に有形体の内包する物質の心、その後上方に、無形体の内包する分霊の心、更に後上方に、大霊の心があります
    • 加えて、分霊の心には、物質の心よりも拡がりを感じ取り、更に、大霊の心は、分霊の心よりも広大な拡がりを感じ取ります
    • 意識の枠内で、物質の心の意識に占める割合が増大するほどに、外環境の眼前の狭い範囲へ意識(注意/焦点)が向きやすくなり、一方で、大霊の心の意識に占める割合が増大するほどに、外環境の拡い範囲の全体へ意識(注意/焦点)が向くようになります
    • 3つ心の感覚的な位置関係は、有形的認識に基づいて感じ取っており、無形的認識に基づいては位置関係を感じ取りません
(1000/1000) 意識の感覚的な心の位置関係
(1000/1000) 意識の感覚的な心の位置関係
  • (1000/1000) 意識に占める分霊の心/大霊の心/物質の心の割合には、絶対的な割合と、相対的な割合があります
    • 絶対的な割合を基準として、相対的な割合が表されます
    • 分霊の心は、絶対的/相対的な割合のそれぞれで、常に一定の割合を意識に占めており、割合が変化することはありません
    • 大霊の心/物質の心は、絶対的/相対的な割合のそれぞれで、意識に占める割合を常に変化させています
    • 絶対的な割合は、分霊の成長の程度を表しており、大霊の心/物質の心の割合は比較的にゆっくりと変化します
    • 相対的な割合は、絶対的な割合を基準とする「相対的な同調する活動性の程度」を表しており、割合の変化は比較的に速く、有形体/外環境の様々な周期、自己の意志、造化する表現、などの影響を受けて、絶え間なく変化しています
    • 分霊の成長の程度と同調する活動性の程度については、4章3節 内的成長度を参照してください
(1000/1000) 絶対的な割合と相対的な割合
(1000/1000) 絶対的な割合と相対的な割合
  • (1000/1000) 相対的な割合が、常に、絶対的な割合よりも先行して変化し、その後に、相対的な割合の変化へ相応するように、絶対的な割合が変化します
    • 相対的な割合で、大霊の心の割合が増大していくほどに、絶対的な割合でも、徐々に大霊の心の割合が増大していくために、成長の程度は向上し、成長の促進へとつながります
    • 逆に、相対的な割合で、物質の心の割合が増大していくほどに、絶対的な割合でも、徐々に物質の心の割合が増大していくために、成長の程度は下降し、成長の退行へとつながります
    • 相対的な同調する活動性の程度が、成長の程度で有している活動性の程度(基準)と乖離[かいり]が大きいほどに、成長の程度は速く変化し、逆に、乖離が小さいほどに、成長の程度はゆっくりと変化します
(1000/1000) 相対的な割合と成長の促進/退行
(1000/1000) 相対的な割合と成長の促進/退行
  • (1000/1000) 絶対的な割合と相対的な割合を総合した心の割合が、現在の意識に占める心の割合となり、世界を構成する無限の活動性の程度に対しての「絶対的な同調する活動性の程度」を表します
    • 相対的な割合に占める物質の心/大霊の心の割合が同じでも、絶対的な割合(成長の程度)が異なれば、現在の意識に占める物質の心/大霊の心の総合的な割合は異なるために、絶対的な同調する活動性の程度も異なります
    • 同様に、絶対的な割合に占める物質の心/大霊の心の割合(成長の程度)が同じでも、相対的な割合が異なれば、現在の意識に占める物質の心/大霊の心の総合的な割合は異なるために、絶対的な同調する活動性の程度も異なります
    • なお、この「機能からみた意識」の段落では、意識に占める心の割合と、活動性の程度とのつながりを説明するために、同調する活動性の程度を絶対的/相対的で区別して用いていますが、実際には、両者は同じ定義のために、他の段落/節では区別せずに「同調する活動性の程度」として用いています
(1000/1000) 絶対的/相対的な割合のそれぞれで心の占める割合
(1000/1000) 絶対的/相対的な割合のそれぞれで心の占める割合

分霊の活動性と意識

  • (1000/1000) 意識に占める物質の心/大霊の心の総合的な割合は、分霊の同調する活動性の程度を決定しています
    • 大霊の心から受ける支援が、同調する活動性の程度を高めるように促しているために、大霊の心の占める割合が増大するほどに、分霊の同調する活動性の程度は高くなります
    • 逆に、物質の心が造化する利己性/自己中心性/欲望から影響を受けるほどに、物質の心の占める割合が増大し、相対的に、大霊の心の占める割合が減少するために、分霊の同調する活動性の程度は低くなります
    • 意識に占める物質の心/大霊の心の割合は、分霊の自由意志によって、自覚的に(自覚して/自覚できるものの自覚なく)選択して決めることができ、その選択の結果が、分霊の同調する活動性の程度として表れています
    • 現在に同調する活動性の程度(意識に占める物質の心/大霊の心の総合的な割合)に基づいて、表現を造化する工程で用いられた無数の「工程の方向性」は、「同調する活動性の程度に相応する活動性の程度を表現へ付与する習慣」として経験の機能特性へ保存され、これらの習慣の総合が、分霊の成長の程度として表されます
    • 工程の方向性については、前節の3章7節 心を参照してください
  • (1000/1000) 意識に占める物質の心/大霊の心の総合的な割合によって、不誠実な性質を有する表現の造化を制御する程度が決まります
    • 意識に占める心の割合に関わらず、不誠実な性質の表現を造化する状況はありますが、大霊の心の意識に占める割合が大きいほどに、不誠実な性質の表現が造化されないように制御する程度は高くなり、逆に、物質の心の意識に占める割合が大きいほどに、不誠実な性質の表現が造化されないように制御する程度は低くなります
    • 不誠実な性質の表現が造化されるのを自覚して制御しようと努めている生き方が「誠実な生き方」であり、無形界では人霊界の各界層で生活します
    • 不誠実な性質の表現が造化されないように制御する程度が低くても、不誠実な性質の表現が造化されるのを制御しようと努めているのならば、無形界では人霊界の各界層で生活します
    • 不誠実な性質の表現が造化されないように制御する程度が低く、更に、不誠実な性質の表現が造化されるのを自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく制御しない生き方が「不誠実な生き方」であり、無形界では地獄層で生活するようになります
    • なお、「制御する」とは、不誠実な性質の表現が造化されないように制御するのであり、不誠実な性質の表現を造化してから制御するのではありません
    • 誠実/不誠実な生き方については、2章5節 無形界の住人 #不誠実の性質を有している者/有していない者の違いも参考にしてください
(1000/1000) 意識に占める心の割合と造化を制御する程度
(1000/1000) 意識に占める心の割合と造化を制御する程度

分霊の成長と意識

  • (1000/1000) 無限の次元に属する大霊から分割された分霊もまた、無限の次元に属していますが、それぞれの次元とのつながりは不活性な状況にあり、分霊の現在の成長段階までに活性した範囲が「意識の領域」を構成し、未だ不活性の領域は「意識外」となります
    • 意識の領域の中で、最も低い活動性の程度から、現在の成長段階までの活動性の範囲に、自覚できる意識の領域と、自覚できない意識の領域を構成しており、高い活動性の範囲ほどに、自覚できる意識の領域が拡く占めます
  • (1000/1000) 有形界では、無形界での「自覚できる意識の領域」の中で、僅かな領域のみを自覚でき、他の多くの領域は自覚できません
    • 睡眠中の体験を思い出せないのと同様に、地上での学びへ意識を集中させ、地上での体験を通した学びを阻碍しないようにするために、地上での学びに必要な領域のみを自覚するように、大霊によって配慮されています
    • ただし、地上では「自覚できない意識の領域」が、地上での「自覚のある学び」を支えており、自覚できない領域なしには、地上での体験を通した学びは得られません
(1000/1000) 分霊の成長と意識の領域
(1000/1000) 分霊の成長と意識の領域
  • (1000/1000) 分霊の成長(活性)により、徐々に意識の領域は拡大し、それにともない、分霊の属する次元が上昇し、つながりのある次元の範囲も拡大していきます
    • 現在の成長段階で、活性している最も高い次元が分霊の「属している次元」となり、最も低い4次元から属している次元までが、分霊の「つながりのある次元」の範囲となります
    • 属している次元よりも高い次元は意識外であり、認識できませんが、つながりのある次元の範囲内は認識できます
    • 分霊の属している次元と、つながりのある次元については、3章3節 分霊も参考にしてください
(1000/1000) 成長による意識の領域の拡大
(1000/1000) 成長による意識の領域の拡大

意識の受ける感覚

  • (1000/1000) 意識は、精神で表現を造化する工程や、造化された表現、から絶え間なく様々な感覚を受け取っています
    • 造化された表現の種類、形状、性質、付与された活動性の程度、内容、などから受ける感覚もあれば、造化の工程そのものから受ける感覚もあり、この中には、理性/気づきの機能特性が整合性を確認した結果として受ける「腑に落ちる、納得する、違和感、不自然感、矛盾感」などの感覚も含まれます
    • 精神では、外環境を認識する際にも、外環境へ表現する際にも、内環境で考察する際にも、必ず表現が造化されるために、意識は常に無数の感覚を受け取っています
    • 活動性から受ける感覚も、外環境から活動性を認識した段階で、認識した内容が印象として造化されるために、印象から「認識した活動性の程度に相応する感覚」を感じ取り、高い活動性の程度からは透明/精細/無重などの感覚、低い活動性の程度からは混濁/粗雑/有重などの感覚を感じ取ります
    • なお、意識の受ける感覚と、分霊の心が有する感覚の機能特性は、どちらも「感覚」という語を用いていますが、両者の定義は異なり、両者に関係性はありません
    • 理性/気づき/感覚などの機能特性については、前節の3章7節 心を参照してください
(1000/1000) 意識の受ける様々な感覚
(1000/1000) 意識の受ける様々な感覚
  • (1000/1000) 意識は、絶え間なく受け取っている無数の感覚を選別して、特定の感覚へ焦点を当てることができます
    • 特定の感覚へ焦点を当てる例として、痛みの感覚、暑さ/寒さの感覚、活動性の感覚、などがあり、特定の感覚へ焦点を当てることで、他の感覚を感じ取り難くできます
    • 特定の感覚へ焦点を当てることは、特定の感覚を生み出している特定の表現/行為へ意識を集中する状況と密接に関連しています
    • 同様に、特定の感覚へ焦点を当てないことで、特定の感覚を感じ取り難くできます
  • (1000/1000) 意識による「感覚の選別」と、自由意志による「選択肢の選択」は異なります
    • 意識による感覚の選別は、特定の感覚へ焦点を当てているだけであり、焦点を当てていない他の感覚が消え去ってしまう状況はなく、特定の感覚へ焦点を当てなくなれば、他の感覚も感じ取るようになります
    • 自由意志による選択は、表現の造化へ関与しており、ある選択肢を選択したのならば、選択した選択肢に基づいて表現が造化され、選択されなかった選択肢に基づいて表現が造化される状況はなく、他の選択肢へ選択し直す状況もありません
    • なお、有している習慣を修正するために、造化した表現へ意識を向ける、あるいは、意識を向けないように努めることは、自由意志によって意識を向ける/向けないを選択しており、意識が感覚の選別をしているのではありません
    • 自由意志については4章6節 自由意志/運命、意識を向ける/向けないについては5章1節 修養の生活を参照してください
  • (1000/1000) 意識の受ける感覚は、個体としての認識/感覚と、全体としての認識/感覚に大別できます
    • 個体としての認識/感覚と全体としての認識/感覚は、意識の受ける「感覚に占める割合」として常に変動しています
    • 成長の程度が向上するほどに、また、同調する活動性の程度が高くなるほどに、意識の受ける感覚に占める「全体としての認識/感覚」の割合が増大し、相対的に「個体としての認識/感覚」の割合は減少します
    • 逆に、成長の程度が退行するほどに、また、同調する活動性の程度が低くなるほどに、意識の受ける感覚に占める「個体としての認識/感覚」の割合が増大し、相対的に「全体としての認識/感覚」の割合は減少します
(1000/1000) 意識の受ける個体/全体としての認識/感覚
(1000/1000) 意識の受ける個体/全体としての認識/感覚

至言の紹介

(1000/1000)「瀞沁」
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自己を自己以外の何かに
変化させることはできません
待っていれば、誰かが自己を
変化させてくれることもありません
現在の自己から、周囲の状況から
眼を逸らし、隠れ、逃げ回っていても
何ひとつ変わる状況などないのです

自己が自己を変化させるしかないのです
自己を誠実に省みる勇気をもち
眼前の課題に集中して取り組むのならば
必ず自己に変革が訪れ
周囲の状況も改革されていきます

質疑応答

  • それぞれの質問文を押すと、応答文が表示/非表示されます
    • すべての応答文を一括して開くには、「すべての質疑応答を開く」ボタンを押してください
    • すべての応答文を一括して閉じるには、「すべての質疑応答を閉じる」ボタンを押してください

意識全般について

(1000/1000)

 自覚できる意識の領域でおこなわれている活動を、自覚できるものの自覚していない、あるいは、自覚している状況に気づいていないのは、自己の造化している表現を内省しないためです。常に、自己の内面を内省することによって、自覚できる意識の領域でおこなわれている「表現を造化する活動(表現を造化する工程/造化された表現)」を自覚できる(自覚している状況を自覚する)ようになります。

 常に絶え間なく、自己の内面の変化を内省することで、自覚できる意識の領域でおこなわれている表現の造化が、どのような状況で、どのような表現が造化され、それぞれの造化された表現がどのようにつながっているのか、を自覚できるようになります。

 自覚できるのに自覚していない、あるいは、自覚している状況に気づいていないのは、「自己は自己である」という主観性を常に自覚している状況へ気づいていないことも含まれます。結果として、「自覚できるものの自覚していない」「自覚している状況へ気づいていない」のは、「自覚していない」状況といえますが、「自覚できない」のではなく、「自覚しようとしない」だけだという点に留意する必要があります。

 なお、自覚できる意識の領域でおこなわれている活動と、意識そのものは同じではありません。意識は「自己という主観性」であり、行為(発言/行動/思考/感情など)、物体、物事、などの「造化されたもの」ではなく、記録へ保存されている情報/知識(記憶/思い出を含む)でもなく、経験へ保存されている習慣/技術でもありません。また、精神で造化した無数の表現から意識が受ける感覚も「自己という主観性」そのものではありません。「造化されたもの」や情報/知識、習慣/技術、感覚は、自覚できる意識の領域でおこなわれている活動を指しています。「自己という主観性かもしれないと捉えられる無数の候補」から、これは自己という主観性ではない、あれも自己という主観性ではない、と除去していき、最後に残るものが「自己という主観性」となります。

(1000/1000)

 意識に占める個体/全体としての認識/感覚の割合は、意識に占める物質の心/大霊の心の割合に相当し、個体/全体としての認識/感覚と、物質の心/大霊の心の意識に占める影響力は、同じ定義を表しています。分霊の心がおこなう表現の造化へ影響を与える程度が、「意識に占める物質の心/大霊の心の割合」として示されます。そして、意識に占める物質の心/大霊の心の割合を土台として、造化された表現から受ける感覚や、物事の捉え方、などが、「個体/全体としての認識/感覚の割合」として示されます。

 大霊の心の影響力が大きくなるほどに、全体としての認識/感覚は増大し(全体としての認識/感覚を濃く感じ取り)、相対的に個体としての認識/感覚は減少し(個体としての認識/感覚を薄く感じ取り)ます。逆に、物質の心の影響力が大きくなるほどに、個体としての認識/感覚は増大し(個体としての認識/感覚を濃く感じ取り)、相対的に全体としての認識/感覚は減少し(全体としての認識/感覚を薄く感じ取り)ます。ただし、個体/全体としての認識/感覚の、どちらか一方のみを感じ取る状況はなく、常に双方の認識/感覚を感じ取っています。

 どれほどに成長の程度が高くなっても、自己という意識は、個体としての認識/感覚と全体としての認識/感覚を同時に有しており、全体としての認識/感覚のみになる状況はありません。同様に、どれほどに成長の程度が低くなっても、個体としての認識/感覚のみになる状況はありません。成長の程度、同調する活動性の程度、によって、意識に占める個体としての認識/感覚と全体としての認識/感覚の割合が変化するだけであり、成長の程度が高くなるほどに、個体としての認識/感覚と全体としての認識/感覚を自覚して適宜に識別することができるようになります。

(1000/1000) 個体/全体としての認識/感覚に含まれる内容の相対的な比較
(1000/1000) 個体/全体としての認識/感覚に含まれる内容の相対的な比較

 地上/惑星圏無形界で生活する成長段階では、全体としての認識/感覚が占める割合を自覚して増大させ(相対的に個体としての認識/感覚が占める割合は減少する)、ある段階まで全体としての認識/感覚の割合が増大することで覚醒の成長段階へと移行します。ただし、覚醒初期の成長段階までは、個体としての認識/感覚の占める割合が自覚できるものの自覚なく増大する状況はあっても、自覚して増大させるのは困難です。その後に、覚醒中期の成長段階から、眼前の状況へ適切に対応するために、個体としての認識/感覚の割合を自覚して増大させることができるようになり、また、個体/全体としての認識/感覚の割合を自覚して適宜に変化させるようになります。覚醒の成長段階については、4章4節 覚醒を参照してください。

 なお、不誠実な行為を自覚的に(自覚して/自覚できるものの自覚なく)おこなうことでも個体としての認識/感覚の割合は増大しますが、個体としての認識/感覚を自覚して増大させているのではありません。自覚的におこなった不誠実な行為によって、自覚できるものの自覚なく個体としての認識/感覚が増大しています。また、覚醒中期以降の段階で自覚して個体としての認識/感覚を増大させるのは、不誠実な行為をおこなって増大させるのではなく、眼前の状況にあわせて有形的/無形的認識の程度を調整することで増大/減少させています。

(1000/1000)

 外環境を自覚的/無自覚的に認識できる範囲と、意識の範囲のつながりを、外的構造/内的構造の観点から捉えた場合で下記に記述します。

 外的構造の観点から捉えると、有形体を通して「自覚的に認識できる範囲」は肉眼で視える(見渡せる)視界の範囲内となり、視界内の一部を自覚的に(自覚して/自覚できるものの自覚なく)認識しています。自覚的に認識できる範囲とは、自覚的に認識する可能性のある上限の範囲を表しており、自覚的に認識できる範囲内を、すべて自覚的に認識しているのではありません。範囲内の一部を自覚的に認識しています。有形体を通して認識できる範囲には無自覚的に認識できる範囲がなく、視界外はすべて「自覚的に認識できない範囲」となります。

 一方で、無形体を通して「自覚的に認識できる範囲」は、有形的な形状の無形体を造化している場合では霊眼で視える(見渡せる)視界の範囲と視界外の特定の範囲となり、これらの範囲内での一部を自覚的に(自覚して/自覚できるものの自覚なく)認識しています。自覚的に認識できる範囲は内面の状況によって適宜に変化し、拡くも狭くもなります。「無自覚的に認識できる範囲」は、意識全体の範囲と同じ拡さを有しており、有形的な形状の無形体を造化している場合では視界外の一部の範囲までを自覚なく認識し、無形的な形状の無形体を造化している場合では無形体の範囲と同じ拡さを自覚なく認識しています。意識全体の範囲よりも拡い範囲(意識外)は、「自覚的/無自覚的に認識できない範囲」となります。

 なお、無形体を有形的な形状として造化している場合は、無形的な形状として造化している場合とは異なり、無形体の範囲内ではなく、無形体の有形的な形状が存在する周囲の外環境を認識しているように捉えています。これは、無形体を有形的な形状として造化している際には、有形的な形状を中心に意識が強く偏重しているために、周囲の外環境を認識しているように感じるのです。無形体の形状の違いによる認識できる範囲については、3章4節 無形体 #質疑応答の「地上で無形体を通して認識できる範囲が有形体の周囲に限らないのであれば、地上全体の様々な物事/現象を視て聴くこともできるのですか?」を参照してください。

 内的構造の観点から捉えた場合では、自覚できる意識の領域の中で、一部の範囲を自覚して/自覚できるものの自覚なく認識しており(自覚的に認識できる範囲)、他の範囲は自覚なく認識しています(無自覚的に認識できる範囲)。「自覚的に認識できる範囲」は内面の状況によって適宜に変化し、拡くも狭くもなります。自覚的に認識できる範囲が拡くなれば、相対的に無自覚的に認識できる範囲は狭くなり、逆に、自覚的に認識できる範囲が狭くなれば、相対的に無自覚的に認識できる範囲は拡くなります。

 一方で、自覚できない意識の領域では、領域内のすべてが「無自覚的に認識できる範囲」となり、内面の状況によって範囲は変化しません。自覚できる意識の領域と自覚できない意識の領域で構成される意識全体の範囲よりも拡い範囲(意識外)は、「自覚的/無自覚的に認識できない範囲」となります。

(1000/1000) 意識の範囲と認識できる範囲
(1000/1000) 意識の範囲と認識できる範囲

(1000/1000)

 はじめに、外環境を認識する範囲については、この節の質疑応答の「自覚的/無自覚的に認識できる範囲と意識の範囲には、どのようなつながりがありますか?」、また、外環境から受け入れる情報を選択/濾過する過程については、3章6節 内的構造を参照してください。

 外環境には無数の表現(物事/現象の内包する情報)があり、外環境から受け入れる可能性のある情報は無限にあります。しかし、外環境にある無限の情報のほとんどは、意識が自覚的/無自覚的に認識できない範囲(意識の範囲外)に相当し、自覚的/無自覚的に認識できない範囲の中での僅かな範囲を意識(意識全体の範囲)が認識できます。

 意識が認識できる範囲は入れ子構造を成しており、自覚的/無自覚的に認識できない範囲の一部を無自覚的に認識でき、そして、無自覚的に認識できる範囲の一部を自覚的に認識でき、更に、自覚的に認識できる範囲の一部を自覚的に(自覚して/自覚できるものの自覚なく)認識しています。同様に、外環境から受け入れる情報を選択/濾過する過程(視場/視域/視野/視点/視座)も入れ子構造を成しており、外環境の無限の情報を視域で絞り込み、視域で絞り込んだ情報を更に視野で絞り込み、視野で絞り込んだ情報の一部(視点)を視座で選択します。視場は土台として、視域/視野/視点/視座で受け入れる情報を選択/濾過する範囲/量を決めています。

 視域は、無自覚的に認識できる範囲となり、自覚的/無自覚的に認識できない範囲の僅かな部分を受け入れ絞り込んでいます。受け入れている範囲は外環境の僅かな部分に過ぎませんが、個体からみれば膨大な情報量を受け入れています。個体は絶え間なく膨大な情報量を受け入れているために、その処理(視域での絞り込み)を自覚的におこなえば即時に処理が許容過多となります。自覚的におこなう処理は優先度/重要度の高い情報へ向けるために、あらかじめに無自覚的に処理して情報の優先度/重要度を選別しています。

 視野は、自覚的に認識できる範囲となり、視域で受け入れた「個体からみて膨大な情報量」の僅かな部分を更に受け入れ絞り込んでいます。視域の処理で選別した情報の中から、優先度/重要度の比較的に高い情報を視野で受け入れています。

 視点は、自覚的に認識できる範囲内で自覚的に認識している範囲となり、視野で受け入れた情報の中から、現在に必要となる更に優先度/重要度の高い情報を自覚的に選別します。この視点の情報を、視座によって自覚的に選択し組み合わせて、精神でおこなう表現の造化へ受け渡します。視域/視野は、それぞれがひとつの範囲を成していますが、視点は複数の範囲を有しています。

 視座は、有形的/無形的認識による認識方法、様々な物事の捉え方、などを指しており、これらに基づいて、視点の情報を組み合わせます。視座は視点と同様に、ひとつ、または、複数を有しています。複数の視座がある場合には、それぞれの視座で選択した視点の情報を総合して処理、あるいは、並列/並行して処理します。

 視場は、認識する程度(捉え方の程度)、認識に占める有形的/無形的認識の割合、視域/視野で受け入れる範囲の拡さ、視点/視座の多さ、視域/視野/視点/視座で単位時間あたりに受け入れ濾過/選択する情報量、などの、外環境から受け入れる情報を選択/濾過する過程全体の処理量、処理の程度(処理の速さ)を決定しています。

 この質疑応答に関連する内容には、3章3節 分霊 #質疑応答の「分霊の属する次元/つながりのある次元からみた場合に、どのようにして不変/普遍の外環境から情報を受け入れているのですか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000) 外環境を認識する範囲と受け入れる情報を選択/濾過する過程
(1000/1000) 外環境を認識する範囲と受け入れる情報を選択/濾過する過程

(1000/1000)

 はじめに、意識の偏重する範囲/程度については、この節の質疑応答の「自己という意識の中で、更に「自己」と強く認識している範囲とは何を表しているのですか?」、また、外環境から受け入れる情報を選択/濾過する過程については、3章6節 内的構造を参照してください。

 意識の偏重する程度は、外環境から受け入れる情報を選択/濾過する過程(視場/視域/視野/視点/視座)での、単位時間あたりに受け入れる情報量の割合に影響を与えています。外環境から受け入れる情報には、有形体を通して受け入れる有形的な情報と、無形体を通して受け入れる有形的/無形的な情報があり、これらの情報を総合して受け入れ選択/濾過しています。意識の拡さ(意識全体の範囲)は、単位時間あたりに受け入れる総合的/絶対的な情報量の多さを決めており、また、意識の偏重する程度は、意識全体の範囲の中での、単位時間あたりに有形体を通して受け入れる有形的な情報量と無形体を通して受け入れる有形的/無形的な情報量の割合を決めています。意識の拡さ(意識全体の範囲)は同調する活動性の程度によって変化し、意識全体の範囲が拡くなるほどに、単位時間あたりに受け入れる総合的/絶対的な情報量は増大します。一方で、意識全体の範囲が狭くなるほどに、単位時間あたりに受け入れる総合的/絶対的な情報量は減少します。

 ある同調する活動性の程度に相応する意識の拡さでは、単位時間あたりに受け入れる総合的/絶対的な情報量は一定ですが、地上では、意識の偏重する程度が強くなるほどに、物的に有形体の存在する地点を基点とする周囲の外環境から、有形体を通して受け入れる有形的な情報量が増大し、相対的に、無形体を通して受け入れる有形的/無形的な情報量は減少します。逆に、意識の偏重する程度が弱くなるほどに、意識の中で「自己と強く認識する範囲」が意識全体へ均等に拡がりやすくなるために、無形体を通して自覚的に認識できる範囲から受け入れる有形的/無形的な情報量が増大し、相対的に、有形体を通して有形体の周囲から受け入れる有形的な情報量は減少します。

 外環境から受け入れる情報を選択/濾過する過程での、視場/視域/視野/視点/視座のそれぞれからみると、視場は意識の拡さと密接に関連しています。これは、同調する活動性の程度が、視場を構成する、認識する程度、認識に占める有形的/無形的認識の割合、視域/視野で受け入れる範囲の拡さ、視点/視座の多さ、視域/視野/視点/視座で単位時間あたりに受け入れ濾過/選択する総合的/絶対的な情報量、などと、意識の拡さを決定しているためです。意識の偏重する程度は直接に視場へ影響を与えませんが、同調する活動性の程度は認識に占める有形的/無形的認識の割合と密接に関連しており、有形的認識の割合が増大するほどに意識の偏重する程度も強くなりやすいために、意識の偏重とともに同調する活動性の程度が下降すると視場にも影響を与えるようになります。

 視域/視野では、それぞれが受け入れ絞り込む総合的/絶対的な情報量は視場によって決定しますが、それぞれが絞り込む「有形体/無形体を通して受け入れた情報量の割合」は、意識の偏重する程度によって決定しています。
 
 視域/視野と同様に、視点では、ひとつの視点が有する総合的/絶対的な情報量と視点の多さは視場によって決定しますが、それぞれの視点に含まれる「有形体/無形体を通して受け入れた情報量の割合」は、意識の偏重する程度によって決定しています。

 視座は、意識の偏重する程度から直接に影響を受けていません。ひとつの視座から選択できる視点の多さや、同時に有する視座の多さは視場によって決定しています。

(1000/1000) 受け入れる絶対的/相対的な情報量
(1000/1000) 受け入れる絶対的/相対的な情報量

 なお、地上では常に有形体を有して活動するために、どれほどに同調する活動性の程度が高くなり成長の程度が向上しても、有形体を通して受け入れる粗雑な感覚によって、有形体を基点とする範囲へ意識が強く偏重しやすくなります。同等の意識の拡さを有していても、有形体の有無や、有形界/無形界の場の違いによって、外環境から受け入れる情報量の割合には大きな差がみられる点に留意してください。受け入れる情報の差については、2章3節 有形界の構造 #質疑応答の「同じ活動性の程度へ同調し、同じ認識の次元で物事を捉えていても、無形界の霊と、地上の人では、認識の程度に差がみられますか?」を参照してください。

 有形体/無形体を通して受け入れる情報量の割合は、意識の偏重する程度に影響を受けて変化しますが、無形体を通して受け入れる情報量が、有形体を通して受け入れる情報量よりも、量的に少なくなる状況はみられません。常に、無形体を通して受け入れる情報量は、有形体を通して受け入れる情報量よりも遥[はる]かに多いです。

意識の受ける感覚

(1000/1000)

 意識の受ける感覚が、はじめは鮮明に感じても、しばらくすると鮮明に感じなくなるのは、意識の受ける「あらゆる感覚」は常に相対的なためです。意識の受ける感覚には、活動性から受ける感覚、有形体を通して感じる痛み、苦しみの強さ、快楽/快感を感じる強さ、外環境(太陽光/照明など)の明るさ/眩[まぶ]しさ、騒音/音量の大きさ、夏の高い気温/冬の低い気温による暑さ/寒さ、食事の味付け、などがあります。ある一定の程度から受ける感覚は、はじめは強く鮮明に感じても、受け続けていることによって、弱く不鮮明に感じる(馴れる/慣れる)ようになります。そのため、多くの場合は、強く鮮明な感覚を得るために、更に高い程度を求めるようになります。これは、現在の程度よりも、高い成長の程度を求める、高い活動性へ同調する、欲望を追求する、快楽/快楽を求める、などにみられます。

 もしも、意識が「絶対的な基準」に基づいた感覚を受けるのならば、無限に成長し続けようとはしなくなります。常に「相対的な感覚」を受けるからこそ、現在の程度よりも更に高い程度を求めて、無限に成長し続けることができるようになるのです。ただし、意識の受ける感覚が相対的なために、自己が現在に同調している活動性の程度が一定であっても、活動性の程度から意識の受ける感覚が、はじめは透明/精細/無重の感覚を鮮明に感じても、しばらくすると、はじめほどには鮮明に感じなくなります。受ける感覚は常に同じではなく、変化するために、自己が現在に「どの程度の活動性へ同調しているのか?」を意識が受ける感覚から知るのは困難です。そのため、地上では、自己の同調している活動性の程度を知るための絶対的な基準として、筋反射検査を用いて測定できる内的成長度の指標があるのです。筋反射検査については1章3節 筋反射検査、内的成長度については4章3節 内的成長度を参照してください。

(1000/1000)

 意識の拡大によって変化する外環境の認識は無形的認識に基づいているために、外環境を認識して受ける感覚を言語で表現するのは困難です。自己の体験を通してのみ明確に理解/実感することができます。意識の拡大については、4章1節 分霊の成長 #成長の構成を参照してください。

 意識の拡大(自己と認識する範囲の拡大)によって変化する外環境の認識から受ける感覚を、大雑把に言語で表現した例として、意識が地上を包み込み地上全体へ意識が敷衍[ふえん]している成長段階では、自己が地上のあらゆる物事/現象そのものと感じ取り、同時に、自己の内に地上のあらゆる物事/現象があり、自己が地上のあらゆる物事/現象を内包していると感じ取っています。これらの感覚とともに、自己の用いている有形体を通して認識する、地上の有形体が存在する物的な地点を基点とした物事/現象から受ける有形的認識に基づく感覚も感じ取っています。ある特定の物事/現象へ意識が偏る状況はなく、意識は意識の範囲全体へ均等に敷衍しており、必要とする時にのみ、必要とする行為/物事/現象へ意識が向きます。なお、自己が「あらゆる物事/現象そのもの」と認識しているのであり、自己が「あらゆる物事/現象を所有している」と認識しているのではありません。「所有」は、自己以外を自己が有している状況を指しており、自己そのものではない点に留意してください。

 また、身近な具体例として、意識が有形体の周囲のみに限定されず、拡い範囲へ拡大している段階では、雨の降る日に、屋外で有形体へ当たる雨や風を感じている自己と同時に、自己が有形体へ向かって降る雨や吹く風と感じ取っています。これは、無形的認識が優勢となり、距離/空間の捉え方が変化して、見る者と見られる者の区別がなくなり始めた状況を示しています。距離/空間の捉え方の変化については、2章4節 無形界の構造 #空間を参照してください。

 この質疑応答に関連する内容には、4章4節 覚醒 #質疑応答の「書物などでみられる、自己が世界そのものと実感するとは、自己を大霊/全体そのものと認識することを表しているのでしょうか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 誠実/不誠実な生き方は、意識に占める全体としての認識/感覚と個体としての認識/感覚の割合とは、直接的に関係していません。誠実/不誠実な生き方については、2章5節 無形界の住人 #不誠実の性質を有している者/有していない者の違いを参照してください。

 意識は自己という主観性そのものですが、更に、意識の中には「自己」と強く認識している範囲があります。この「自己」が意志を向ける方向性によって、誠実/不誠実な生き方の違いが表れるようになります。「自己」の意志を向ける方向性は、言い換えると、成長を求める/求めない、あるいは、不誠実な表現/行為が造化されないように制御する(制御へ努める)/制御しない、の自由意志による自覚的な(自覚のある/自覚できるものの自覚のない)相反する方向性の選択といえます。なお、意志そのものは誠実/不誠実の性質を有していません。意志は、意図を土台とする「行為の目的」を推し進める強さ(推進器/増幅器)であり、行為の目的が誠実であれば、意志によって推進され増幅された行為も誠実な性質を有しますが、一方で、行為の目的が不誠実であれば、意志によって推進され増幅された行為も不誠実な性質を有します。

 意識に占める個体としての認識/感覚と全体としての認識/感覚は、成長の程度/同調する活動性の程度が高くなるほどに、全体としての認識/感覚の占める割合は増大し、相対的に個体としての認識/感覚の占める割合は減少しますが、現在の成長の程度/同調する活動性の程度に関わらず、「自己」が全体としての認識/感覚を増大させる方向性へ向いているのならば「誠実な生き方」となり、逆に、個体としての認識/感覚を増大させる方向性へ向いているのならば「不誠実な生き方」となります。

 これは、成長の程度/同調する活動性の程度が相対的に低く、個体としての認識/感覚が意識の大部分を占めていても、全体としての認識/感覚へ「自己」の方向性が向いているのならば、不誠実な生き方にはならず、未誠実な程度にある誠実な生き方となることを表しています。意識に占める個体としての認識/感覚の増大する状況が不誠実さを表しているのではない点へ留意してください。同様に、成長の程度/同調する活動性の程度が相対的に高く、全体としての認識/感覚が意識の大部分を占めていても、個体としての認識/感覚へ「自己」の方向性が向いているのならば、誠実な生き方にはならず、不誠実な生き方となることを表しています。どれほどに成長の程度/同調する活動性の程度が高くても、個体としての認識/感覚へ「自己」の方向性が向けば(不誠実な生き方をするようになれば)、成長の程度/同調する活動性の程度は急激に下降していきます。

 誠実な生き方とは、全体としての認識/感覚へ意志の方向性が向き、全体への統合を求めている生き方といえます。全体へ統合していると捉える認識/感覚が強くなるために、他者との協調、調和、などを生み出すようになります。逆に、不誠実な生き方とは、個体としての認識/感覚へ意志の方向性が向き、全体からの分離を求めている生き方といえます。全体から分離していると捉える認識/感覚が強くなるために、他者との対立、序列/優劣、競争、などを生み出すようになります。ただし、不誠実な生き方によって求める分離とは、個々の個体の生き方に対してであり、社会/国家に隷属している状況からの地域/新国家の分離独立などとは意味が異なります。同じ用語でも用いる状況によって定義が異なる点に留意してください。

(1000/1000) 自己の向いている方向性
(1000/1000) 自己の向いている方向性

 「自己」の向く方向性は、有形界(地上)では、有形体の内包する物質の心が、全体からの分離を求め個体としての認識/感覚を強めるように絶え間なく「はたらきかける」ために、全体としての認識/感覚へ方向性を向け誠実な生き方へ努めていても、向く方向性が反転して、個体としての認識/感覚へ方向性を向け不誠実な生き方へ陥[おちい]る可能性を常に有しています。同時に、何時[いつ]であっても、個体としての認識/感覚へ向いている方向性を反転させて、全体としての認識/感覚へ方向性を向け誠実な生き方へ努めることもできます。どちらの方向性へ向くのも、どちらかの方向性へ長期に渡って向いておくのも、僅かな期間で向きを反転させるのも、自己の自由意志による選択で決められるのです。

 一方で、無形界では、有形体を有していないために物質の心から個体としての認識/感覚を強めるように「はたらきかけられる」状況はありません。無形界の地獄層でみられる不誠実な生き方は、経験の機能特性へ保存されている不誠実な性質の表現/行為を造化する習慣に基づいて、自覚的に(自覚して/自覚できるものの自覚なく)個体としての認識/感覚へ方向性を向けているだけであり、誠実な生き方へ努めると自由意志で自覚して選択し、「自己」の向きを反転させ、全体としての認識/感覚の方向性へ向けたのならば、自覚できるものの自覚なく再び反転して、個体としての認識/感覚の方向性へ向いてしまう状況はありません。自覚して再び反転させた場合にのみ、個体としての認識/感覚の方向性へ向く(不誠実な生き方をする)状況がみられます。

(1000/1000) 自己の向いている方向性の反転
(1000/1000) 自己の向いている方向性の反転

 個体としての認識/感覚から全体としての認識/感覚へ「自己」の向く方向性を反転させる(不誠実な生き方から誠実な生き方へ転換する)と自由意志で自覚して決めたのならば、即時に「自己」が意志を向ける方向性を反転させることはできますが、即時に「生き方」も反転するのではありません。生き方の方向性を反転させるには、自由意志で方向性を反転させると決めた後に、その意志を持続することで、日常の生活(造化する行為)に表れる方向性が僅かずつ反転していき、結果として、日常の生活の積み重ねとして表れる生き方が反転します。生き方は、自己の経験の機能特性へ保存されている様々な強さを有する無数の習慣の総合として表れている点へ留意してください。習慣は即時には修正できず、絶え間ない強い意志で僅かずつ修正していくことのみができるのです。

 生き方の反転は船の航行に譬[たと]えられ、船は進行方向を反転させると決めて舵を切ってもすぐには反転せず、舵を切ったまま維持しておくことで、徐々に旋回して進行方向を反転させます。重要な点は、力を込めて舵を切ったまま(強い意志を持続したまま)にしておかなければ進行方向(生き方)が反転しない点にあります。途中で力尽きて舵を戻してしまうと進行方向を反転させることができなくなってしまうのです。自己が誠実な生き方へ努めているのならば、他者自身の自由意志で決めた「自己(他者自身)」の向く方向性が反転したのにともない、おこなう発言/行動の内容/性質/程度が変化し、徐々に生き方の方向性も反転していく状況へ気づくようになります。特に、誠実な生き方から不誠実な生き方へ反転していく際には、他者の「自己(他者自身)」の向く方向性が反転した後の発言/行動に強い違和感/不自然を感じ取りやすくなります。

 なお、「自己」を全体としての認識/感覚の方向性へ向け、日常の生活で不誠実な表現を造化しないように制御へ努めていながらも、突発的に不誠実な表現(感情など)の造化を制御できず、個体としての認識/感覚の方向性へ瞬間的/一時的に向いてしまったからといって、すぐに不誠実な生き方となるのではありません。「自己」が個体としての認識/感覚の方向性へ向き、不誠実な表現の造化を積み重ねて、何時[いつ]の間にか自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく不誠実な表現の造化を制御しなくなることで不誠実な生き方となっていくのです。地上の生活では、有形体の内包する物質の心から、個体としての認識/感覚の方向性へ「自己」の向きを向かせる(不誠実な生き方をさせる)ように絶え間なく「はたらきかけ」を受け続けているために、常に全体としての認識/感覚の方向性へ向く(誠実な生き方をする)ように強い意志で努めていなければ、不誠実な生き方の方向性へ向きやすくなります。

(1000/1000)

 自己という主観性そのものを表す意識の中で、更に「自己」と強く認識している範囲とは、意識の偏重して向いている範囲を指しています。意識の偏重して向いている範囲は濃度の濃い範囲に譬[たと]えられ、意識の範囲内にも、自己という主観性の薄い範囲と、濃い範囲があり、常に意識全体の濃度が均一なのではありません。意識の偏重して向いている「濃度の濃い」範囲からは、意識内の他の「濃度の薄い」範囲よりも多くの情報量を受け入れやすくなります。

 無形界では、物事を認識する際の認識に占める有形的/無形的認識の割合によって「自己」と強く認識する範囲、強く認識する程度を自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく変化させることができます。一方で、有形界では、無形界と同様に、有形的/無形的認識の割合によって変化するものの、有形体の粗雑な感覚に大きな影響を受けるために、有形体が存在している物的な地点を「自己」と強く認識しやすくなります。意識の中で「自己」と強く認識している範囲については、この節の質疑応答の「意識に占める全体としての認識/感覚と個体としての認識/感覚の割合は、誠実/不誠実な生き方と関係がありますか?」も参考にしてください。

 意識の偏重して向いている範囲は、有形的認識に基づいて、意識の範囲内で移動させることができます。意識の偏重して向いている範囲を自覚して移動させることもできますが、多くの場合では、外環境の状況や内面の状況によって、自覚できるものの自覚なく適宜に移動させています。

 なお、瞑想で呼気にあわせて意識を拡大していく際には、意識の中で「自己」と偏重している範囲を意識全体へ均等に拡げていくようにして偏重を減少させ、更に、意識全体へ均等に拡がっている「自己」の範囲を拡大していくように努めます。瞑想については、5章5節 祈り/瞑想を参照してください。

(1000/1000) 意識の偏重と有形的/無形的認識の割合
(1000/1000) 意識の偏重と有形的/無形的認識の割合

(1000/1000)

 意識の範囲を拡大していく感覚と、意識の偏重している範囲を周囲へ均等に拡げていく感覚は識別できます。ただし、感覚そのものは文字/言語で描写できず、また、個々によって感じ取る感覚も同じとは限らないために、自己の実践を通して両者の感覚の違いを識別するようにしてください。

 意識は自己という主観性のために、意識の範囲全体にある「もの」とは一体感を感じていますが、その中でも、意識の偏重している範囲にある「もの」とは一体感を強く感じ取っています。意識の偏重している範囲を周囲へ均等に拡げていく際には、一体感を強く感じ取っている範囲が拡がっていく感覚を受け、既に一体感を感じている範囲内での一体感を感じ取る程度(強さ)が変化します。一方で、意識の範囲を拡大していく際には、これまでに一体感を感じていなかった範囲に一体感を感じ取るようになります。一体感を感じる程度は、意識の偏重している範囲の大きさや、有形体/外環境の無数の周期、疲労/熱、内面の状況、などによって強く感じ取る場合もあれば、弱く感じ取る場合もありますが、どちらの場合でも一体感が拡がる感覚を明確に受けます。

 なお、祈り/瞑想などで同調する活動性の程度を高める際に、意識の偏重の程度が強くても意識全体を拡大していくことはできますが、意識が均等に拡がっている(意識の偏重の程度が弱い)ほどに意識全体を拡大しやすくなります。祈り/瞑想については、5章5節 祈り/瞑想を参照してください。

(1000/1000) 一体感を受ける感覚の違い
(1000/1000) 一体感を受ける感覚の違い

(1000/1000)

 はじめに、意識の偏重している程度については、この節の質疑応答の「自己という意識の中で、更に「自己」と強く認識している範囲とは何を表しているのですか?」を参照してください。加えて、有形体は自己ではなく、自己の用いる道具に過ぎないという点に留意してください。道具を自己そのものと誤認する状況が、有形体を自己と誤認する程度として表れます。

 意識の偏重している程度と有形体を自己と誤認する程度の間には直接的に強いつながりを有していませんが、成長の程度によっては、意識の偏重している程度が有形体を自己と誤認する程度へ影響を与えている可能性もあります。意識の偏重している程度、有形体を自己と誤認する程度、加えて、意識に占める物質の心/大霊の心が与える影響力の割合、認識方法に占める有形的/無形的認識の割合、認識/感覚に占める個体として/全体としての認識/感覚の割合は、それぞれが相互につながりを有しており、常に強く影響を与えるつながりもあれば、一方で、関連しているものの状況によって強く影響を与える場合と弱く影響を与えるつながりもあります。

 意識の偏重している程度に大きな影響を与えるのは、認識方法に占める有形的/無形的認識の割合となります。有形的認識が優勢になるほどに意識の偏重する程度は強くなり、逆に、無形的認識が優勢になるほどに意識の偏重する程度は弱く意識全体へ均等に拡がるようになります。

 有形体を自己と誤認する程度に大きな影響を与えるのは、意識に占める物質の心/大霊の心が与える影響力の割合となります。意識に占める物質の心の影響力が増大する(相対的に大霊の心の影響力は減少する)ほどに有形体を自己と強く誤認するようになり、逆に、意識に占める大霊の心の影響力が増大する(相対的に物質の心の影響力は減少する)ほどに有形体を自己と誤認する程度は弱くなります。なお、地上では常に有形体を用いて活動するために、一切に有形体を自己と誤認しなくなる状況はありません。また、意識に占める物質の心の影響力は、有形体/外環境の無数の周期や、熱/疲労/痛み/飢餓などによる有形体の均衡/調和の崩れる程度から影響を受けて絶え間なく変化しているために、有形体を自己と誤認する程度も常に変化しています。

(1000/1000) 有形体を自己と誤認する程度と意識/認識/感覚のつながり
(1000/1000) 有形体を自己と誤認する程度と意識/認識/感覚のつながり

 意識の偏重している程度、有形体を自己と誤認する程度、意識に占める物質の心/大霊の心が与える影響力の割合、認識方法に占める有形的/無形的認識の割合、認識/感覚に占める個体/全体としての認識/感覚の割合を総合して捉えると、それぞれのつながりの中核には「意識に占める物質の心/大霊の心が与える影響力の割合」があります。ただし、これらのつながり以外にも、記録へ貯蔵されている情報/知識の内容/程度や、経験へ保存されている習慣(固定観念/既成概念などの囚われを含む)の内容/強さも、意識の偏重している程度や有形体を自己と誤認する程度に影響を与えています。

 この質疑応答に関連する内容には、3章5節 有形体 #質疑応答の「食事を摂る習慣は、有形体を自己と誤認させやすくしますか?」、また、5章5節 祈り/瞑想 #質疑応答の「瞑想時に有形体の頭部が後傾すると、高い活動性の程度から受ける感覚を認識し難くなるのはどうしてですか?」がありますので参考にしてください。

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