有形界での成長

4章 成長の構造 - 2節 有形界での成長

個々の記述の真実度: 999.3-1000
節全体の真実度: 1000
節全体の活動性: 1000

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有形界の特徴

  • (1000/1000) 無形界との比較から捉えた有形界は、世界の中の最も低い次元で構成されており、活動性の程度も低い範囲にあります
    • 有形界は、常に3次元と4次元の下位の範囲で構成されています
    • 4次元の下位の範囲は、動物霊の成長段階で有している認識の程度に相当し、人霊の成長段階(4次元の中位の範囲以上)からみると、成長の退行に相当する低い範囲となります
    • 低い活動性の範囲内でおこなわれる「造化」には様々な制限を受けており、低い活動性の程度は粗雑で、作用を与えても変化させ難いです
    • なお、活動性の程度が高い段階となるほどに、活動性は精妙で、作用を与えると変化させやすくなります
    • 有形界については、2章3節 有形界の構造を参照してください
  • (1000/1000) 無形界は、活動性の程度ごとに区分けされた界層構造で構成されていますが、一方で、有形界では、界層で区分けされることなく、様々な活動性の程度が同じ場に混在しています
    • 無形界では、分霊の成長段階ごとに生活する界層は区分けされていますが、地上では、様々な成長段階の者が同じ場で生活します
    • 様々な成長段階の人が、様々な活動性の程度/性質を有する生き方をしており、活動性の程度/性質に相応する影響を、互いに与え、互いに受けています
    • 同様に、誠実/不誠実の性質を有する様々な活動性の程度が付与された表現/物事も、同じ場に混在しており、付与されている活動性の程度/性質は、人へ影響を与えます
  • (1000/1000) 有形界での物的な生活は、必ず有形体を通しておこなう必要があり、有形体なしには地上で生活できません
    • 有形体には、有形体の活動を統御する物質の心が内在しており、物質の心は、外環境の認識、外環境への表現、有形体の維持、などを担う重要な役割を担う反面、分霊の成長を阻碍する可能性も含んでいます
    • 同時に、物質の心は、分霊の成長を飛躍させる可能性も含んでいます
    • 地上で生活する期間は、物質の心から絶え間なく誘惑の影響を受け続けているために、受ける影響へ「どのように対応していくのか」によって、分霊の成長を阻碍する場合もあれば、成長を飛躍させる場合もあります
    • 有形体については3章5節 有形体、誘惑については5章3節 誘惑を参照してください

有形界での学びの特徴

  • (1000/1000) 有形界での学びは、強い意志を養う切っ掛けへ気づくことに総括されます
    • 意志の強さとは何か? どのようにして強い意志を養うのか? へ気づき、自覚して意志を強めるように努めます
    • 様々な学びを得るためには意志の強さが必須であり、また、様々な学びを通して強い意志が養われます
    • 同様に、強い意志は成長していくうえでの不可欠な土台であり、意志が弱いままでは成長しません
    • 自己を低い活動性の範囲で構成される牢獄(有形界/有形体)へ繋[つな]ぎ入れ、外環境の認識、外環境への表現、痛みの感受、変化の乏しさ、変化の起こし難さ、などの様々な強い制限を受ける中で、人霊に相応する高い活動性の程度や、高い認識の程度(成長)を強い意志で求めていくのです
  • (1000/1000) 無形界/有形界での成長の特徴を大雑把に比較すると、無形界では「誠実な行為を積極的におこなう」ように努めることで成長を促進していくと表現でき、一方で、有形界では「不誠実な行為を積極的におこなわない」ように努めることで成長を促進していくと表現できます
    • 勿論[もちろん]ながら、有形界でも積極的に誠実な行為をおこなうように努めることができます
    • 地上の生活では、有形体の内包する物質の心から絶え間なく誘惑の影響を受け続けており、何時[いつ]でも、何処[どこ]でも、誰でも、誘惑に呑まれて不誠実な行為をおこなってしまいやすいために、不誠実な行為をおこなっても影響を与える範囲が限定されるように、世界の中で最も変化に乏しく、また、変化させ難い有形界で、不誠実な行為をおこなわないように努めさせています
    • もしも、精細で変化しやすく、また、変化させやすい無形界で、不誠実な行為をおこなってしまいやすい状況を造り出すと、影響が即時に拡大して混乱/渾沌を蔓延させてしまいます
    • 下記では、有形界での様々な学びにみられる特徴を記述しています

有形界から受ける特徴

  • (1000/1000) 地上での物事/現象は、粗雑で変化に乏しいために、違いが明確に認識され、二面性/二極性が鮮烈に体験できます
    • 二面性/二極性(二元性)を通して、更に精妙な違いを認識していくことが求められています
    • 精妙な認識を学ぶのは、認識に占める有形的認識の優勢な段階から、無形的認識の優勢な段階へと移行していく過程でもあり、また、個体としての自己から自己以外/他者へ、個体から全体へ認識の範囲を拡げていく過程でもあります
    • 地上では、文字/言語を用いるだけでも、有形的認識が無形的認識よりも優勢に傾くために、有形的へと傾く認識を、常に無形的へと移行するように努めていくことは、成長を実践するうえで重要な点となります
(1000/1000) 精妙な差を学ぶ
(1000/1000) 精妙な差を学ぶ
  • (1000/1000) 地上では、様々な成長段階の者が同じ場で生活するために、幅広く異なる個々の成長の程度が、おこなう行為の程度に大きな差として現れます
    • それぞれがおこなう行為の程度から、相対的に高い成長段階の者を模範として学び、また、相対的に低い成長段階の者への寛容を学ぶことが求められています
    • 寛容(憐[あわ]れみ)を学ぶ対象は、他者のおこなう相対的に低い程度の誠実な行為に対してだけでなく、不誠実な行為に対しても、また、他者が自身の有する固定観念/既成概念に基づいて、相手の行為を非難/批判/糾弾、批評、評価、などをする状況に対しても含まれます
(1000/1000) 行為の程度の違いから学ぶ
(1000/1000) 行為の程度の違いから学ぶ

有形体から受ける特徴

  • (1000/1000) 地上では、困難、逆境、挫折、危機、などを、鮮烈に繰り返し体験しやすく、それらの体験から受ける痛み/苦しみを通して学び成長へとつなげるために、有形体は物的な痛みを感じるように造られています
    • 物的な痛みが、苦しみを生み出しやすくしています
    • 受ける痛み、感じ取る苦しみを乗り越えて、無我/無私による奉仕(愛の行為)をおこなえるようになることが求められており、無我/無私による奉仕は、無形界での仕事を遂行するための基本となります
    • 激動する生活の中で、自己へ痛み/苦しみによる衝撃を与えて、眠っている潜在的な「愛の資質」を目覚めさせる(愛へ気づく)ことで成長へとつながるようになり、怠惰/安逸な生活では目覚めさせることはできません
    • 誠実な生き方へ努めている中で受ける苦しみは、「成長を促すための苦しみ」であり、成長へとつなげることができますが、成長へつなげるのか、あるいは、成長へつなげないのかは、本人の自由意志によって決められます
    • なお、不誠実な生き方をしている中で受ける苦しみ(無形界の地獄層で受ける苦しみを含む)は、「虚栄心を満たすための苦しみ」であり、成長を退行させます
    • 個体であっても、家庭、企業、国家、などの共同体であっても、危機/困難へ直面することで、現状(これまでの状況を含む)を精査/内省する意志の方向性が生まれ、現状を修正していくようになります
  • (1000/1000) 地上では、有形体の内包する物質の心によって造化される誘惑(利己性/自己中心性/欲望)が、個体のおこなう行為へ多大な影響を与えます
    • 物質の心から絶え間なく誘惑の影響を受け続けている地上の生活では、不誠実な性質を有する捉え方/既成概念、利己的/自己中心的な行動/情報(書物/動画などの内容を含む)が社会に拡まりやすく、これらが個体の利己性/自己中心性/欲望を喚起させやすい環境が造り出されています
    • 自己の内面に湧き上がる利己性/自己中心性/欲望に打ち克つ「克己」を通して学ぶことが求められており、この学びは、無形界と比べて、短期間で飛躍的に成長する可能性を有しています
    • その反面、利己性/自己中心性/欲望に呑まれたのならば、成長を退行させるだけでなく、その後に、無形界の地獄層で、自己が地上でおこなってきた行為と地獄層でおこなっている行為へ向き合うまで、成長につながらない苦しみ(虚栄心を満たすための苦しみ)を造り続けるようになります
    • 特に、現在の地上は、情報の増加、情報の拡散の加速、情報の容易な入手が可能となり、成長を促しやすくもなりましたが、同時に、派生した誘惑も増大しており、様々な誘惑を退[しりぞ]けることも求められています
    • 物質の心から受ける影響に対して、どのように対応するのかは、すべて自己の自由意志による選択で決めることができ、自己以外から選択を誘導/強制される状況はなく、自己の成長を促進させるのも、退行させるのも、すべて自己の選択で決まります
  • (1000/1000) 物的な痛みは、意識に占める「物質の心の影響力」を大幅に増大させ、利己的/自己中心的な発言/行動をとらせようと強制してきます
    • 疾病などにみられる物的な痛みの多くは、利己的/自己中心的な生活によって現れており、大霊から生活を省みるように促されているのです
    • そのため、生活を省みることなく、利己的/自己中心的な生活を続けているのならば、更に痛みを強めていく循環を形成します
    • 痛みがあるからと不機嫌になり、感情で発言/行動し、周囲の者へ八つ当たり(責任逃避)していては、何時[いつ]までも痛みが緩和/軽減する状況はなく、また、成長へとつながる状況もありません
    • 痛みによって増大する利己性/自己中心性/欲望に打ち克ち、自己以外/全体へ意識を向けていくように努めることが、痛みを緩和/軽減させ、また、成長へとつながるようになります
    • なお、物的な痛みは、利己的/自己中心的な生活によって現れるだけでなく、自己の成長へとつなげるために、地上で生活を始める前に、痛みを受けやすい誠実な生き方をすると決めている場合もあります
    • 誠実な生き方へ努めているとしても、物的な痛みは、利己的/自己中心的な発言/行動をとらせようと強制するために、痛みへ適切な対応はしても、過度の対応は不誠実な生き方へ陥[おちい]りやすくさせます
    • 責任逃避については、5章2節 幻想を参照してください
  • (1000/1000) 苦しみは、個体の観点から捉えると、自己に都合の悪い状況へ立ち向かう状況で感じ取り、外環境の考察と、自己の内省を促します
    • 全体の観点から捉えると、個体の成長を促進するために、苦しみを感じ取らせています
    • 自己に都合の悪い状況へ勇気をもって立ち向かわずに逃げると、「成長へつながる苦しみ」を感じ取りません
    • 同様に、自己に都合の良くない状況から逃げ回り、都合の良い状況を追い求める「幻想の捉え方に基づく生き方」でも、「成長へつながる苦しみ」を感じ取る状況はありません
    • 幻想の捉え方に基づく生き方でも「苦しみ」を感じ取りますが、この苦しみは利己性/自己中心性/欲望に基づいて、虚栄心を満たすために自身で造り出した不快の感情から感じている「幻想の苦しみ」であり、実在する苦しみではありません
    • なお、実在する苦しみは、理性/気づきの機能特性によって意識が感じ取る感覚であり、表現として造化した不快の感情ではありません
    • 幻想の捉え方については5章2節 幻想、意識の受ける感覚については3章8節 意識を参照してください
(1000/1000) 苦しみを感じ取る状況
(1000/1000) 苦しみを感じ取る状況
  • (1000/1000) 地上の物的な生活で用いる有形体には、使用期限が決められているために、地上で生活できるのは僅かな期間に過ぎません
    • 僅かな期間の中で、多くの学びを得て価値ある人生を送るのも、学びを得ることなく無価値な人生を送るのも、自己の自由意志で選択できます
    • 価値ある人生とは、個体のためではなく、全体のために生活する状況を指しており、自己の成長に努め、他者の成長を促し、社会の成長へ貢献する生活が全体のためになります
    • 自己という個体と、自己に都合の良い範囲(都合の良い他者/物事)のために生活するのは、人生の無価値な浪費であり、自己の成長を退行させ、他者/社会の成長を阻碍しています
    • これは、自己の成長のみを追い求め、他者/社会を顧[かえり]みることのない生活は、利己的/自己中心的であり、結果として、自己/他者/社会の成長を阻碍している状況を表してもいます

有形界での学びの期間

  • (1000/1000) 地上での生活は、離島(地上)へ期間を決めて修行に訪れている状況へ譬[たと]えられ、修行期間を終えれば、元いた場所(無形界)へ帰ります
    • 修行期間の途中で帰る(自殺する)ことも選択できますが、修業期間を満了しなかったために、相応の代償を支払わねばなりません
    • 修行期間の間に、修行をするのも、修行をしないのも、どの程度に修行へ励むのかも、自己が選択できます
    • 修行期間を終えた後に、元いた場所で、修行の成果に相応する生活を送れるようになり、大きな成果を得たのならば喜びに溢れる生活ができ、一方で、成果を得られなかったのならば苦しみ続ける生活をすることになります
  • (1000/1000) 地上は、無形界で学び、成長し続けるために必要な、「最低限の配慮」を習得する場です
    • 様々な成長段階の者が、様々な程度の行為をおこなう「遊戯場」とも表現できる地上では、最低限の配慮である「愛(寛容)へ気づく」のに最適な場といえます
    • 地上/惑星圏無形界を往来(再授肉)して、両界の比較から、愛(寛容)を学んでいきます
    • 世界の中で最も成長段階の低い地上/惑星圏無形界での生活(遊戯場での活動)は、お互いが、お互いへの最低限の配慮を学ぶ過程で、発言/行動/挙措などに幼い(成長段階の低い)が故[ゆえ]の可愛さ、滑稽さ、騒がしさ、が多くみられます
    • 最低限の配慮を習得し、遊戯場での活動を修了する頃には、理知のある落ち着きを有するようになります
    • 再授肉については、4章9節 再授肉を参照してください
  • (1000/1000) 最低限の配慮を習得することで、地上/惑星圏無形界での学びを修了し、宇宙圏無形界で、徐々に高度な内容を学んでいきます
    • 地上/惑星圏無形界での学びの修了資格は、内的成長度で600以上に相当する成長段階で得られ、この段階は、覚醒と呼ばれています
    • 内的成長度については4章3節 内的成長度、覚醒の段階については4章4節 覚醒を参照してください
  • (1000/1000) 成長に関連する知識を貯蔵し、知識の内容をつなぎあわせて様々に考察/論考しても、考察/論考した内容に基づき、自身で実践/実証しないのならば、成長へも、成長への学びにもつながりません
    • 外環境から多くの情報を受け入れ理解し、自己の知識として貯蔵することへ時間/労力を費やしても、成長は促進されていません
    • 貯蔵した知識に基づいておこなう実践/実証こそが、学びへとつながり、地上での成長を促します
    • 地上の社会では様々に考察/論考している場面はみられても、実践/実証されないままに終えている状況が多くみられます
    • 地上で成長へつなげることのできる時間/期間は限られているために、外環境の情報を知識として貯蔵したのならば、知識に基づいて逐次に実践/実証し、成長へつなげていくように努める必要があります
    • 地上で時間/労力を費やして蓄えた知識を、成長へ活用しないままに有形体の使用期限を迎えて後悔することのないように、毎日を浪費せずに存分に成長へつなげていくのです

有形界での目的/役割

  • (1000/1000) 地上では、誰もが例外なく、地上で遂行する何らかの目的/役割を有しています
    • 地上での目的/役割には、誰もが共通して有している目的/役割と、個々が地上で生活する前に、自身で決めた目的、事前に合意した役割があります
    • 誰もが共通して有している目的/役割には、自己の成長を促進する、他者/社会/人類全体の成長を促す、脊椎動物(動物霊)の成長を支援する、惑星の進化を促進させる、があります
    • 個々が自身で決めた目的には、特定の経験/技術/知識などを重点的に得る、特定の学びを得る、特定の固定観念/既成概念を解消する、などがあります
    • 個々が事前に合意して決めた役割は様々ですが、その役割は、自己/他者の成長を促す内容であり、子供を産み育てる(多くは寛容を学ぶための役割)、学問/技術の発展に貢献する、悩み/苦しみの緩和に貢献する、美を表現する、社会/国家の不公平/不正/差別/弾圧/汚職/偏見などを是正する、様々な紛争/対立/分断を解消する、外見には視えない表現の困難な疾病/障碍/内面の状況などを文字/図像で描写する、世界の実相/生命の真相や愛を説く、などがあります
    • 地上での役割は、自己が自己以外(他者/全体)のためにおこないますが、地上での役割を遂行する過程は、必ず自己の成長へつながります
    • 個々が地上で担い遂行する「地上での役割」は、物的な規模、遂行する対象、遂行する内容、などに関わらず、常に愛の行為となり、愛の行為とならない地上での役割はありません
    • 地上での役割には、地上で生活している期間内に遂行する内容だけでなく、死去する(地上で生活する期間を終える)ことで他者/社会へ影響を与え、他者の成長や社会の改革へつなげる内容もあります
    • 地上での目的/役割に優劣はなく、誰もが、自身に必要とする内容の目的と、自身に適切な内容の役割を有しています
    • 愛の行為については、5章6節 愛の行為を参照してください
  • (1000/1000) 地上での役割には、地上社会に対しておこなう内容だけでなく、無形界で遂行する内容もあります
    • 有形体を用いることで、霊としての活動に様々な制限を受けている地上で生活する人が、睡眠中に、人霊界の霊たちには有する活動性の性質/程度が相反するために赴[おもむ]き難い「地獄層の地域」へ赴いて、様々な活動の任務を遂行している場合もあります
    • 地獄層は、地獄者たちが地上で生活していた期間に、物質の心から利己性/自己中心性/欲望の影響を受けて形成された習慣が総合されて造り出されている界層のために、現在に地上で生活している(物質の心から影響を受け続けている)人は、誠実な生き方をしているとしても、また、成長の程度/同調する活動性の程度に関わらず、人霊界の霊たちに比べると地獄層との親和性が高いのです
    • 睡眠中に地獄層で遂行している活動の体験を、睡眠から目覚めた後に、断片を不鮮明に覚えている状況もみられますが、この内容が無形界での体験そのものとは限らず、夢と混同している場合もあります
  • (1000/1000) 地上での目的として、自己の成長/学びのために、地上で体験/遭遇する物事/現象/出来事の方向性は事前に決めていますが、体験/遭遇する物事/現象/出来事の具体的な内容は、自己/他者/家庭/社会/国家などの運命の流れによって決まります
    • 現在に必要とする方向性の学びを得るのに適した方向性を有する物事/現象/出来事へ遭遇すると、地上での生活を始める前に決めています
  • (1000/1000) 地上での目的として決めているのは、無形的な学びの方向性であり、体験/遭遇する物事/現象/出来事の内容ではありません
    • 疾病、怪我、障碍、死の迎え方、などの有形体へ現れる状況、差別、迫害、暴虐/暴力、戦争、紛争、交通事故、強盗、強姦、虐待、拉致、遭難、などの生活環境に現れる出来事、火山の噴火、地震、土砂崩れ/ 山崩れ、台風、竜巻、津波、豪雨/豪雪、雪崩、洪水、干魃[かんばつ]、などの人類からみて災害と呼ばれる現象に遭遇することを、地上での生活を始める前に決めているのではありません
    • 無形的な学びの方向性に適した方向性を有する物的な物事/現象/出来事に遭遇しますが、どのような内容の物的な物事/現象/出来事に遭遇するのかは運命の流れによって決まります
    • 例として、同じ方向性を有する無形的な学びを得るためであったとしても、運命の流れによって、戦争/迫害による避難民として艱難辛苦に遭遇する場合もあれば、地震/洪水での家屋の倒壊による避難生活として艱難辛苦に遭遇する場合もあります
    • 学びを得るために、度々に同じ方向性の物事/現象/出来事への遭遇を必要としていたとしても、自己/他者、家庭、職場、国家、社会、惑星、などの有する運命の流れによって、同じ方向性を有するものの異なる内容の物事/現象/出来事へ遭遇する場合もあります
  • (1000/1000) 地上での目的に、有形体の疾病/怪我を通して成長へとつなげる方向性を決めているのならば、疾病/怪我を通して学びへとつなげる時機が来た際に、物的な機序では起こり得ない方法で疾病/怪我に遭遇する場合もあります
    • 様々な運命の流れによって、地上で適用される物理法則(物的な機序)に基づいて疾病/怪我が起こり得る状況であれば、物的な機序に則して引き起こされます
    • もしも、様々な運命の流れによって、物的な機序で疾病/怪我が起こり得ない状況であるのならば、無形界からの手引きによって物理法則を越える法則に基づいて引き起こされます
    • 事前に決めた生活する地域の状況によっては、ある方向性の無形的な学びが、特定の疾病(難病/重度の後遺障碍を含む)、怪我、などに遭遇しなければ得られず、他の物的な出来事を通して、ある方向性の無形的な学びを得られ難い場合もあります
    • 事前に決めた生活する地域の状況が異なれば(他の地域を選択していたのならば)、同じ方向性を有する無形的な学びを得るために、特定の疾病/怪我などではなく、物的な貧困/搾取/紛争などに遭遇しなければ得られない場合もあります
    • 運命の流れについては、4章6節 自由意志/運命を参照してください
(1000/1000) 学びの方向性と遭遇する内容
(1000/1000) 学びの方向性と遭遇する内容
  • (1000/1000) 地上での生活を始める前に決めた目的/役割は、地上へ帯同する天使たちが、有形体の使用期限を迎えるまでに、地上での目的を達成し、役割が完遂できるように、綿密な計画と周到な準備をおこない指導してくださいます
    • 天使たちは、地上での生活状況や目的/役割の進捗状況にあわせて、適宜に計画を修正しながら支援/援助します
    • 天使については、4章10節 天使を参照してください
  • (1000/1000) ただし、地上で生活する人の誰もが、事前に決めた目的/役割を地上で遂行しているとは限らず、利己的/自己中心的な生活を送り、また、欲望の追求に勤[いそ]しんで、自己の決めた目的/役割を遂行せずに、目的/役割を蔑[ないがし]ろにしている状況も多くみられます
    • 自己が自身の自由意志で、利己性/自己中心性/欲望に基づいて行動すると自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく選択しない限りは、天使たちが地上での目的/役割を遂行できるように導いてくださいます
    • 個々の有する地上での役割は、相互につながり合っており、お互いの遂行する役割が、お互いの遂行する役割を支えています
    • 誰かひとりでも役割を遂行しないのならば、他の多くの者たちが遂行する役割にも支障を与えます
    • 織物は無数の縦糸と横糸が相互に織り込み合って1枚の布地を造り出すように、個々の有する地上での役割が相互につながり合い、支え合い、地上全体の発展へ貢献しているのです
  • (1000/1000) 誠実な生き方へ努めているからこそ、地上での目的/役割を通して、成長への学びを得られる点に留意してください
    • 事前に決めた特定の学びを得るために起きる物事/出来事も、不誠実な生き方をしているのならば、利己性/自己中心性/欲望や虚栄心を満たすために利用し、学びを得られないだけでなく、成長の退行へつながります
    • 地上で生活を始める前に、地上で生活する期間に起こす「成長の学びを得るための出来事」を決めた時点では、本人は誠実な生き方へ努めていますが、地上での生活を始めた後に、不誠実な生き方へ陥[おちい]っても、事前に決めた物事/出来事は起こります
(1000/1000) 有形界で遂行する目的/役割
(1000/1000) 有形界で遂行する目的/役割

至言の紹介

(1000/1000)「瀞沁」
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地上に平穏/安寧を求めても徒労に終わるでしょう
地上という遊戯場は、騒々しく、荒々しく
利己主義と自己中心性に溢れているのですから

その激動する遊戯場から苦痛と困難を通して学ぶのです
あらゆる物事を成長への足掛かりとするのです
日々の生活の荒波に揉まれ乗り越えていく過程で
徐々に自己の内面に静けさが拡がるのです
(1000/1000)「瀞沁」
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地上には
誰もが自身の意志で成長を求めて訪れたのです
誰もが学びを得ると決めて滞在しているのです

しかし
地上に滞在できる期間は僅かしかありません
ただ年老いるだけで僅かな成長もない人生は
自身で学び成長すると決めた意志を
自身で放棄している滑稽[こっけい]な生き方です
眼前に現れる物事のひとつひとつから学びを得て
僅かな滞在期間を存分に成長へ活かすのです

質疑応答

  • それぞれの質問文を押すと、応答文が表示/非表示されます
    • すべての応答文を一括して開くには、「すべての質疑応答を開く」ボタンを押してください
    • すべての応答文を一括して閉じるには、「すべての質疑応答を閉じる」ボタンを押してください

痛み/苦しみ

(1000/1000)

 苦しみとは、自己が表現を造化する際に有している自覚的な(自覚のある/自覚できるものの自覚のない)「表現を造化する目的の方向性」に対して、「異なる方向性を有する表現」が自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく精神で造化された状況を、自覚して認識した際に、不自然感、違和感、矛盾感、などを感じ取る感覚を指しています。苦しみは、必ず、表現を造化する目的の方向性と、造化された表現の方向性が不一致の場合に、不一致の状況を「自覚して」認識することで感じ取ります。方向性が一致している場合や、不一致の状況を自覚できるものの自覚なく認識している状況では、苦しみを感じ取りません。表現を造化する目的については、5章1節 修養の生活 #質疑応答の「行為をおこなう際の「行為の目的」とは何を表しているのですか?」を参照してください。

 表現を造化する工程からみると、精神全体の造化の方向性に対して、並列/並行しておこなわれる「ひとつひとつの表現を造化する工程」の中で、異なる方向性を有する表現が造化された際に苦しみを感じ取ります。ひとつひとつの表現を造化する工程での、ある表現を造化する目的の方向性と、その目的に基づいて造化される表現の方向性は常に一致しているものの、精神全体の造化の方向性と、ある表現を造化する目的の方向性が一致しないために、ある目的に基づいて造化された表現から不自然感、違和感、矛盾感、などとして苦しみを感じ取っているのです。この苦しみとして感じ取る、不自然感、違和感、矛盾感、などは、分霊の心の有する理性、大霊の心の有する気づき、による2つの機能特性の総合によって感じ取ります。ただし、理性/気づきの機能特性によって感じ取る、不自然感、違和感、矛盾感、などの全てが「苦しみ」を表しているのではありません。分霊の心/大霊の心については3章7節 心を参照してください。

(1000/1000) それぞれの方向性と全体の方向性
(1000/1000) それぞれの方向性と全体の方向性

 苦しみを感じ取る例として、現在の成長の程度に相応する誠実な高い程度の目的を強く有している場合には、現在の成長の程度よりも誠実な低い程度の目的に基づいて表現が造化された状況や、不誠実な目的に基づいて表現が造化された状況を自覚して認識すると、苦しみを感じ取るようになります。ただし、現在の成長の程度に関わらず、不誠実な目的を有している場合には、どのような程度の誠実な表現が造化された状況からも苦しみは感じ取らず、同様に、どのような程度の不誠実な表現が造化された状況からも苦しみは感じ取りません。これは、苦しみを感じ取る理性/気づきの機能特性が「誠実さ」を土台としているためです。苦しみを感じ取るのは、常に誠実な目的を有している場合に限ります。

 苦しみとして感じ取る強さは、精神全体の造化の方向性が有する「方向性の向き」と「方向性へ向く強さ」の総合に対して、ある表現を造化する目的の方向性が有する「方向性の向き」と「方向性へ向く強さ」の総合との、不一致の程度(一致しない程度)が決めています。両者の不一致の程度が小さいのならば、感じ取る苦しみは弱く、不一致の程度が大きくなるほどに、感じ取る苦しみは徐々に強くなります。苦しみを感じ取る不一致は、精神全体の造化の方向性が有する誠実な程度/強さに対して、ある表現を造化する目的の方向性が相対的に低い誠実な程度の方向性、方向性へ向く強さが弱い、また、不誠実な方向性でみられます。

 一方で、精神全体の造化の方向性が有する誠実な程度/強さに対して、ある表現を造化する目的の方向性が同等の誠実な程度の方向性、方向性へ向く強さ、また、相対的に高い誠実な程度の方向性では、苦しみを感じ取らず、喜びを感じ取ります。もしも、不誠実な方向性の目的を有している場合には、どのような誠実/不誠実な程度の方向性、方向性の強さからも苦しみは感じ取りませんが、精神全体の造化の方向性が有する不誠実な程度/強さに対して、ある表現を造化する目的の方向性が同等の不誠実な程度の方向性、方向性へ向く強さ、また、相対的に高い不誠実な程度の方向性では、快楽/快感を感じ取ります。

(1000/1000) 方向性の向き/強さと苦しみ
(1000/1000) 方向性の向き/強さと苦しみ

 なお、不快感は感情であり、苦しみには含まれません。外環境の物事/現象/出来事が、瞬間瞬間の自己に都合の良くない場合に不快(不快感)の感情を造化し、都合の良い場合に快(快楽/快感)の感情を造化します。感情(不快/快)の湧き起こる状況が「苦しみ」ではなく、感情を湧き起こらせたくないという誠実な目的の方向性に反して、不誠実な感情が湧き起こってしまう状況へ「苦しみ」を感じ取ります。同様に、湧き起こる誘惑に「苦しみ」を感じ取るのではなく、誘惑に抗[あらが]いながらも誘惑に呑まれてしまい、誘惑に流されてしまう状況へ「苦しみ」を感じ取るのです。湧き起こる感情/不誠実な思考/誘惑などを自覚して制御しようと努めている「誠実な生き方をしている」ために苦しみを感じ取るのであり、感情/不誠実な思考/誘惑などを自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく制御しない「不誠実な生き方をしている」場合には、苦しみを感じ取る状況はありません。

 苦しみが成長へとつながる可能性を有しているのは、感じ取る苦しみに基づいて、自己の行為や行為の目的を内省し、内省を通して習慣を修正することで、成長へとつながるようになるためです。成長へとつながる「実在の苦しみ」は、自己の有する恐れ/怯えに向き合うことによって生まれる勇気ある苦しみといえます。

 一方で、無形界の地獄層での苦しみ、地上で不誠実な生き方をしているために感じ取る苦しみ(不快感)が成長へとつながらず、虚栄心を満たすための行為にしかならないのは、不快の感情を湧き起こらせたくないのに湧き起こってしまう状況へ耐えているようにみえる自己に陶酔しているためです。自己の有する恐れ/怯えに向き合わず、恐れ/怯えから逃げ回っている状況によって生み出されるる「幻想の苦しみ」といえます。自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく虚栄心を満たしたいという不誠実な目的の方向性に対して、不快の感情を湧き起こらせたくないのに湧き起こってしまう状況へ耐えているようにみえるという、「表面的には異なる方向性」を有するようにみえる、「本質的には同じ方向性」を有しているのです。結果として、地獄層での苦しみや不誠実な生き方で感じ取る苦しみは、瞬間瞬間の自己に都合の良いように苦しみと感じたいだけであり、実際には、苦しみではないのです。成長へとつながる「実在の苦しみ」は、地上/惑星圏無形界での生活だけでなく、宇宙圏無形界の生活でも感じ取ります。しかし、「幻想の苦しみ」は、地上/惑星圏無形界の生活のみで感じ取り、幻想の苦しみによって行為の記録(-)の残高が加算されていきます。行為の記録については、4章7節 行為の記録を参照してください。

 ただし、どれほどに不誠実な生き方をしているとしても、実在する苦しみを全く感じ取らないということではありません。分霊の有する生命の活動性は誠実の性質を有しているために、精神全体の造化の方向性と、ある表現を造化する目的の方向性が一致しないことで自覚して苦しみを感じ取る状況はなくても、物質の心に由来し経験の機能特性へ保存されている不誠実性の根源となる「恐れ/怯え」への「自覚できるものの自覚していない(自覚するに至っていない)苦しみ」と呼べるような感覚は常に有しているのです。

(1000/1000)

 物的な痛みとは、単位時間あたりに有形体の感覚器から受け入れる特定の方向性を有する情報の量や、受け入れた情報を処理する負荷の程度が閾値(ある段階の量/負荷)を上回る状況で意識が感じ取る感覚です。閾値は、個々の用いる有形体の体質、有形体の劣化の程度、疾病/怪我の有無/程度、熱/疲労の程度、などの有形体の状況と、固定観念/既成概念の内容/強さ、習慣の内容/強さ、意志の強さ、有形的認識の内容/程度、などの内面の状況によって常に変化しています。有形体の状況は、感覚器を通して外環境から受け入れる情報量に影響を与え、一方で、内面の状況は、受け入れた情報を処理する負荷の程度に影響を与えています。

 様々な方向性を有する情報を受け入れる総量が多く、処理する負荷の総合的な程度は高くても、それぞれの方向性の情報量や情報を処理する負荷の程度が低いのならば、痛みは感じ取りません。

(1000/1000) 閾値と痛み
(1000/1000) 閾値と痛み

 それぞれの方向性を有する情報を受け入れた際に、感じ取る痛みの感覚は、方向性によって異なります。また、同じ方向性の情報から感じ取る痛みの感覚を、情報を受け入れる対象や、受け入れた情報の程度で、感覚を表現する語が使い分けられている場合もあります。

(1000/1000) 受け入れる情報の方向性と感じる痛み
(1000/1000) 受け入れる情報の方向性と感じる痛み

 物的な痛みを、有形体の感覚器から受け入れる情報量の過多によって感じ取る感覚と表現した場合に、精神で単位時間あたりに処理できる許容量を上回る情報量が受け入れられた状況(処理の過多)でみられる思考停止/茫然自失や、精神での様々な表現を造化する工程に秩序が保てず表現の造化を統制できなくなる状況(処理の失調)でみられる混乱/錯乱は、処理の過負荷によって感じ取る「無形的な痛み」ともいえます。

 霊の成長の観点から捉えると、有形体へ直接に与えられる物的な損害(痛み)よりも、その損害を通して内面へ間接に与えられる損害(苦しみ)、また、内面へ直接に与えられる有形的/無形的な損害は深刻/甚大です。地上では肉眼に視える有形体への損害へ意識が向きやすいですが、物的な暴力、虐待[ぎゃくたい]、虐[いじ]め、強姦/性暴力、などによる有形体へ直接に与えられる物的な損害は大きいものの、その損害自体よりも、物的な損害を通して内面へ間接に与えられる損害は遥[はる]かに大きいのです。発言/態度を通して直接に内面へ与えられる損害も大きく、誹謗中傷/陰口/悪口(苛[いじ]め)なども、物的な暴力/虐めと同等以上の損害を与えています。

(1000/1000)

 地上で受ける物的な痛みが成長を促進/退行させる流れは2通りに大別できます。

 1つ目は、有形体を通して物的な痛みを感じ取ると、物質の心は痛みへ対応するために、意識に占める影響力を大幅に増大させて、誘惑(利己性/自己中心性/欲望)の干渉を強め、利己的/自己中心的な行動をとらせようとします。もしも、誘惑による干渉(不誠実な行為の造化)を制御しないのならば、誘惑のままに利己的/自己中心的な行動をおこなうようになり、同調する活動性の程度を下降させ、不誠実な性質の表現を造化する習慣を形成し強め、成長を退行させていきます。一方で、誘惑による干渉(不誠実な行為の造化)を制御するように努めるのならば、克己を造化して誘惑の干渉を防ぎ、利己的/自己中心的な行動をおこなわないようにして不誠実な性質の表現を造化する習慣を弱めるために、成長の促進へとつながります。

 2つ目は、物的な痛みを感じ取ると、経験の機能特性へ保存されている習慣、固定観念/既成概念(囚われ)、などによって、自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく精神へ騒響[ざわめき]を生み出しやすくなります。多くの場合では、騒響は自身が未だ自覚できるものの自覚していない不誠実な性質の表現を造化する習慣/囚われに基づいて造化された表現(不安/怒り/恐れ/怯えなどの感情、感情を土台とする思考)が生み出しています。もしも、物的な痛みによって騒響を生み出している原因となる自己の内面を内省せずに、物的な痛みの原因(騒響を生み出している原因)を自己以外へ責任逃避すると、「幻想の苦しみ」を感じ取るようになり、自覚できるものの自覚のない習慣/囚われを強め、成長を退行させていきます。一方で、物的な痛みによって騒響を生み出している原因となる自己の内面を内省すると、「実在の苦しみ」を感じ取るようになり、自覚できるものの自覚のない習慣/囚われへ気づき修正していく(弱めていく)ことができるために、成長の促進へとつながります。責任逃避については、5章2節 幻想を参照してください。

 物的な痛みは、有形体を通して外環境から受け入れた情報に基づいて感じ取りますが、自己の認識する外環境は自己の内面(習慣/囚われなど)が反映されているために、痛みによって騒響を生み出している状況は外環境に原因があるのではなく、常に自己の内面にあります。痛みを感じ取るのと、痛みによって騒響を生み出すのは、同じではないのです。自己の内面を内省し、騒響を生み出している内面の状況へ立ち向かい乗り越えていくことで、騒響は鎮静され、精神に静けさが拡がるようになります。また、物的な痛みによって騒響を感じ取らせている習慣/囚われへ気づき、習慣/囚われを自覚して弱めていくほどに、物的な痛みを自覚しても騒響は生み出され難くなり、「実在の苦しみ」も感じ取り難くなります。逆に、騒響を生み出している内面の状況から眼を逸らし逃げ回るほどに、精神の騒響も、「幻想の苦しみ」も、強くなっていきます。自己の認識する外環境は自己の内面が反映されていることについては、2章1節 世界全体の構造を参照してください。

(1000/1000) 痛みが生み出す苦しみと成長
(1000/1000) 痛みが生み出す苦しみと成長

 なお、外環境/有形体から受ける物的な痛みを通して感じ取る苦しみが、どれほどに強く耐え難いと捉えたとしても、「成長を求めているのに成長を促進できない苦しみ」よりも強く感じ取る苦しみはありません。修養の生活を実践しているのに何時[いつ]までも成長を促進できない状況、成長を求めているのに成長の仕方が見い出せない(どのようにすれば成長できるのかがわからない)状況、これまでの生き方で加算させた行為の記録(-)の残高の減算によって成長を求めているにも関わらず成長の阻碍される状況、などでは、分霊が存在意義として有している「成長を求める根源的な衝動」に従いたくても従えないために、強い苦しみに苛[さいな]まれます。修養の生活については5章1節 修養の生活、行為の記録については4章7節 行為の記録を参照してください。

 地上の生活で感じ取る強い苦しみの「ほとんど」は、物的な痛みを通してではなく、意思の疎通ができない(会話が成立しない)ことで感じ取ります。自己のおこなった発言/行動の目的が相手へ伝わらずに、相手が自身に都合の良い「発言/行動の目的(幻想/妄想)」に置き替えて、自己のおこなった発言/行動の内容へ応対される状況は、どのような物的に受ける痛みを通してよりも、苦しみを強く感じ取ります。物的な痛みは、物的な規模が大きいほどに強く受けますが、一方で、無形的な苦しみの強さは、物的な規模に関係なく感じ取り、肉眼に視える物事を通して強い苦しみを感じ取る状況よりも、肉眼に視えない物事を通して強い苦しみを感じ取る状況が多くみられます。

 この質疑応答に関連する内容には、5章2節 幻想 #質疑応答の「自己に都合の良くないという都合の良い捉え方とは、自己に都合が悪いということですか?」がありますので参考にしてください。

地上での成長

(1000/1000)

 自己は日々の生活の中で、様々な判断基準に基づいて行為をおこなっていますが、それらの判断基準の中でも、有形体の使用期限(死)を迎えた時点で地上での生活を後悔しないように「現在の行為をおこなう/おこなわない」を判断することが意義のある基準となります。

 有形体の使用期限を迎えた際に、あの行為をしておけばよかった、あの行為をしなければよかった、また、あの習慣を身に着けて(習得/形成して)おけばよかった、あの習慣を辞めておけばよかった、と後悔することのないような生活/生き方を、現在におこなうように努めるのです。ほとんどの場合では、有形体の使用期限を迎えた際に、誠実に自己の生き方を省みて、あの行為をしなければよかった、あの習慣を辞めておけばよかった、と後悔するのは「不誠実な行為/習慣」であり、一方で、あの行為をしておけばよかった、あの習慣を身に着けておけばよかった、と後悔するのは「誠実な行為/習慣」です。

 後悔は、行為をおこなった後からしかできないために、行為をおこなう前に後悔する可能性を判断するには、自己の内面へ誠実に向き合い内省できるように誠実な生き方へ努めている必要があります。有形体の使用期限を迎えた際に、ある内容の欲望/快楽を追求しておけばよかった、もっと楽しんでおけばよかった、などの「幻想の後悔」をするような不誠実な生活/生き方をしていては、その後に無形界で、長期に渡って、また、強い苦しみを通して「実在する後悔」をしなければならなくなります。なお、幻想の後悔は、虚栄心を満たすための感情であり、実在する苦しみを通して表れる「後悔」とは異なります。

 行為をおこなううえでの判断基準に加えて、物事を捉える基点/範囲にも留意する必要があります。自己という個体、有形体を中心とする個人、人の社会、のみを基点に物事を捉え判断していくのではなく、自己/他者、人の社会、自然界、動物界、肉眼に視えるもの、霊眼に視えるもの、肉眼/霊眼に視えないもの、などを含む「現在に自己の認識できる全体」の範囲を総合して物事を捉えるように努めることで、行為をおこなううえでの判断基準が活かせるようになります。物事を捉える範囲が全体の中の一部に偏っているのならば、どのような判断基準であったとしても、物事を適切に捉えることができないのです。

 なお、自己が成長を求め、修養の生活を実践しているのならば、社会の常識は判断基準には成り得ません。外環境の変化する内容(常識など)は成長の促進へつながる場合もありますが、成長を阻碍/退行させる場合も多くあります。自己の成長の程度が向上するほどに、社会の成長の程度との乖離[かいり]は拡がるために、社会の成長の程度に相応する内容/程度で構成されている常識が自己の成長を阻碍するように、はたらくのです。同様に、社会の常識に基づいて制定されている憲法/法律や、執行される司法/裁判も、常識の変遷にともない「裁定の基準」が変化するために、不変ではありません。為政者や政権によっては、自身に都合良く不誠実な目的で憲法/法律/司法制度/裁判官などを置き換える状況も多くみられます。常識/憲法/法律/司法制度などの「変化する物事」を基準として盲信し依存するのではなく、自己の内面を通して現れる「自己の現在の成長段階に相応する愛(誠実さ)」を基準として、自身で物事を考察/判断する必要があります。愛は無限の程度を有していますが、程度に関わらず、愛の本質は不変です。常に、不変の内容を判断基準とすることで、自己の成長の促進へつながるようになります。修養の生活については5章1節 修養の生活、常識については5章4節 固定観念/既成概念を参照してください。

 この質疑応答に関連する内容には、5章1節 修養の生活 #質疑応答の「自己の行為に後悔しないためには、どのようにすればよいでしょうか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 地上の生活で物質の心/有形体を有する必要性は、自覚できるものの自覚していない「自己という主観性」を、自覚のある主観性として認識するためにあります。このことは、地上で生活し、学ぶ、最も基本となる「地上での目的」となります。脊椎動物(動物霊)の成長段階では、霊の集合体として存在しており、個体として存在していないために、自己という主観性のほとんどを自覚しておらず、自覚のある認識は希薄です。集合体としての動物霊から個体としての人霊へ新生し、今後に個体として無限に成長していくための最初の段階として、自覚できるものの自覚していない自己という主観性を、自覚のある主観性として明確に認識する必要があるのです。

 自覚のある主観性を明確に認識するためには、有形体を通した物的な強い痛み、二極性/二面性を鮮明に感じ取りやすい地上での苦しみ/困難/逆境、などを通して、霊へ大きな/激烈な刺激を与える必要があります。これは、眠っている者に、大きな音や激烈な痛みを与えて叩き起こし目覚めさせる状況へ譬[たと]えられます。優しく揺すっても更に微睡[まどろ]むだけであり、目覚めることはないのです。自覚のある主観性を明確に認識させるために、無形界ではなく、有形界でおこなわねばならない理由として、無形界は精妙な/精細な違いを学ぶのに適した場であり、有形界(地上)ほどの大きな/激烈な刺激を霊へ与えるには適していない点が挙げられます。

 加えて、地上での物的な生活に用いる有形体は、活動/維持に大量の磁気的作用力/原素材を必要とします。大量の磁気的作用力/原素材を常に補充する(睡眠/食事など)だけでも生活の中で多大な時間/労力を消費するために、他の物事を遂行/実践するのに時間/労力を分配し難いです。また、精神で造化した表現を、有形体を通して外環境へ表現するのにも多くの煩雑な工程を必要とするうえに、工程の進捗は緩慢/遅鈍です。このように、有形体は効率の極めて低い構造体であり、ある物事をおこないたいのに思うように/円滑におこなえない葛藤を引き起こしますが、葛藤が意志を強めるように「はたらき」かけ、微睡んでいる霊の目を覚まさせ、永遠に成長し続ける過程での初歩の学びに気づきやすくなるのです。

 特に、地上での物的な生活に不可欠な有形体が内包する物質の心から受ける誘惑(利己性/自己中心性/欲望)の影響は、その影響へ抗[あらが]い、超越/克服していくために、強い苦しみを生み出します。この苦しみによって、微睡んでいる霊が目を覚まし、自己という主観性を明確に自覚させ、成長していくことへ覚醒[めざ]めさせるのです。霊が鮮明に目を覚ました段階が覚醒の成長段階であり、地上での生活を修了して、無形界で学び成長していくことができるようになります。物質の心から受ける誘惑に呑まれ、欲望を追求し、快楽/快感へ浸[ひた]り、利己的/自己中心的な生活をする不誠実な生き方は、眠っている霊を、更に深い眠りへと落としていくようになります。深い眠りへと落ちて(墜ちて)いくほどに、目覚めさせるには途轍[とてつ]もなく大きな痛み/苦しみと、長い期間を必要とするようになるのです。苦しみについては、この節の質疑応答の「苦しみとは何ですか?」を参照してください。

 微睡んでいる霊の目を覚まさせるのに加えて、地上社会での有形体に起因する捉え方/囚われに気づき解消していく過程が、霊の成長へ意識を向ける切っ掛けにもなり、今後に無形界で成長を求め実践していくのに役立ちます。有形体に起因する捉え方/囚われは、性別、年齡、体格(身長/体重)、容姿の造形、障碍の有無、人種、民族、生活している国、などで自己/他者を判断する状況を指しており、地上社会では、これらの判断に基づいて様々な取り決め、偏見、差別、序列、格差、などが造り出されています。

 なお、人の内的構造からみた場合に、自覚できるものの自覚していない「自己という主観性」を自覚していくとは、自覚できる意識の領域でおこなわれている活動を、自覚して認識していく状況を指しており、自覚できない意識の領域でおこなわれている活動を自覚していくのではありません。意識の領域については、3章8節 意識を参照してください。

 ほとんどの場合では、意識の自覚できる領域でおこなわれている活動は、自覚できるにも関わらず、自覚できることに気づいていません。このことが、自覚できるものの自覚していない行為を生み出しており、自身の行為を内省しない、物事を考察しない、などの状況へもつながっています。更に、自身の行為を内省しない状況や、物事を考察しない状況が、物質の心から受ける誘惑の影響に基づいておこなわれる利己的/自己中心的な行為を制御しない状況や、経験の機能特性へ保存されている不誠実な性質の表現を造化する習慣に基づいておこなわれる行為を制御しない状況にもつながり、不誠実な生き方を造り出しています。

 地上では、個々のそれぞれが、様々な環境で様々な生き方をしています。同じ環境で生活していたとしても個々によって生き方は様々です。差別/弾圧/迫害を受ける中でも、日々に必要な食物/日用品に困窮[こんきゅう]する物的な貧困の中でも、戦争/紛争に翻弄[ほんろう]される中でも、災害に遭遇した中でも、食物/物品/娯楽が溢れている飽和した社会の中でも、これらは物質の心が誘惑を強めるように「はたらき」かける物的な状況が異なるだけであり、誘惑へ抗い超越/克服していく対応に違いはありません。様々な環境の違いは、物質の心が誘惑を強める要因となる外環境の状況/内容、物的に感じ取る凄惨さ/平穏さ、誘惑に影響を受けて外環境へ求める物的な内容が異なるだけに過ぎないのです。

 凄惨/苛酷/過酷な環境ほどに成長を促進するとは限らず、成長を退行させる場合も多くみられます。同様に、平穏/温和な環境ほどに成長を退行させるとは限らず、成長を促進させることもできます。どのような環境の中でも、どのような状況であったとしても、誘惑に呑まれ自己の利己性/自己中心性/欲望を満たすために他者/社会を狡猾/残忍に利用する者は溢れており、同時に、誘惑に打ち克ち他者/社会のために自己を無我/無私で役立てる者もいます。どのような環境/状況を通して、絶え間なく強まる誘惑へ対応し、成長へつなげるのかは、地上での生活を始める前に自身で決めており、個々のそれぞれが現在に自身の成長に必要とする適切な環境/状況で生活しています。地上での生活を始める前に自身で生活する環境/状況を決めていることについては、4章9節 再授肉を参照してください。

 ただし、個々のそれぞれが自身の生活する環境を、地上での生活を始める前に自身で決めているからといって、差別/弾圧/迫害、暴虐、搾取、物的な貧困、戦争/紛争、などを是正しなくても良いのではありません。これらの「社会に蔓延[まんえん]する不誠実性の皺寄[しわよ]せ」として現れている凄惨/苛酷/過酷な環境(不誠実性の強い環境)で誘惑への対応をしなくても、有形体へ強い痛みを受けない、物的に感じ取る凄惨さの弱い、比較的に平穏/温和な環境(不誠実性の弱い環境)での生活を通して、誘惑への対応をしていくのに越したことはないのです。

 この質疑応答に関連する内容には、5章1節 修養の生活 #質疑応答の「物的な貧困の中では、自己/他者の成長へ意識を向ける余裕などありません。成長を実践する前に、物的な貧困の解消へ努めるべきではありませんか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 現在では未だに、地上の生活で物質の心から強く影響を受けて不誠実な生き方をおこない、有形体の使用期限(死)を迎えた後に地獄者/地縛者となって地上/地獄層を彷徨[さまよ]い、人へ憑依して人を不誠実な生き方へと誘[いざな]い、更に地獄者/地縛者を生み出す循環を形成しており、天使たちが彼らへ誠実な生き方へ努めるように促し更生させるために、地上で生活する人には想像もできないほどの多大な労力を費やしています。人が地上の生活で物質の心を内包する有形体を用いなければ、無形界で、物質の心から影響を受けたための後始末ともいえる活動(地獄者/地縛者の更生)へ多大な労力を費やす必要もなくなります。

 そのうえで、地上の生活で物質の心を内包する有形体を用いるのは、世界の中で最も活動性の程度が低い範囲にある有形界(地上)で、物質の心から受ける誘惑(利己性/自己中心性/欲望)の影響に呑み込まれ、溺れ、不誠実な生き方をしてしまう程度に、意志が薄弱で、自己を内省することもできず、誘惑へ打ち克てないのでは、これから先に、無限の活動性の範囲へ拡がる無形界で、無限に成長していくことなど到底に不可能だからです。

 地上で物質の心から受ける影響に打ち克つことが、成長を求め実践していくうえでの最初の一歩なのです。この一歩目で躓[つまず]いているようでは、無限に歩き続けていくなど出来ようもありません。そのため、一歩目で躓く者(地獄者/地縛者)が多く現れたとしても、彼らを助け起こし、彼らがニ歩目を踏み出せるように手助けしていくことが、全体の成長(世界の進化)を願う大霊の愛なのです。分霊(個体)の総体である大霊(全体)が、一歩目で躓いた地獄者/地縛者たちを落伍者[らくごしゃ]として放置し、切り捨てるような状況は決してありません。全ての分霊が無限に続く成長の道を歩み続けていけるように、僅かに先を歩んでいる者が、僅かに後を歩んでいる者へ手を差し伸べ、先へ進むように促す無限に続く連鎖が、愛の本質なのです。

 世界には愛と輝きが溢れているものの、地上は何時[いつ]までも利己性/自己中心性/欲望と暗闇で覆われています。地上で生活している者が、物質の心から受ける誘惑の影響に呑み込まれ溺れることなく、誘惑へ打ち克ち、誠実な生き方へ努めるのならば、地上を覆う利己性/自己中心性/欲望は消え去り、暗闇は霧散します。地上で生活している者は、ひとりひとりが地上で生活する意義を丁寧に省みて、その意義に相応する生き方を実践する必要があります。

 この質疑応答に関連する内容には、5章1節 修養の生活 #質疑応答の「地上/地獄層で不誠実な生き方をする者たちがいるのは、彼らを反面教師としての見本や更生の手助けを通して、誠実な生き方をする者たちの成長へ活かすためだという捉え方は適切ですか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 有形界/無形界での成長を促進できる速さを比較すると、無形界での速さを各駅停車の電車へ譬[たと]えた場合に、地上では特急/新幹線の速さにすることもでき、加えて、飛行機による飛躍もおこなえるようになります。ただし、誰もが、無形界で成長するよりも、有形界(地上)で速く成長できるとは限りません。

 地上では、有形体の内包する物質の心から強い影響を受け続けているために、物質の心から受ける誘惑に呑まれて、利己的/自己中心的な行為や、欲望/快楽/快感の追求、幻想の捉え方、などをおこなうようになると、成長を停滞/退行させ、これまでの成長で通過してきた停車駅を際限なく逆走していくようにもなります。物質の心から受ける誘惑に打ち克[か]ち、強い意志で成長を求め実践する場合にのみ、無形界よりも速く成長できる可能性があるのです。なお、有形界/無形界に関わらず、成長する/成長しない、また、速く成長する/ゆっくり成長する、などは、自己の自由意志で決めることができます。決して、速く成長するから優れていて、何時[いつ]までも成長しないから劣っているのではありません。

 すべての分霊は、分霊を存在させている「成長を求める静かな衝動(生命の活動性)」を根源に有しているために、現在は成長する意志が全く無くても、いずれは誰もが成長を求めるようになります。成長しないままに、何十年、何百年、何千年、何万年を経たとしても、いずれは内なる衝動に気づき、成長を求めるようになるのです。どれほどに不誠実な生き方をして、成長への大きな遠回りをしていたとしても、いずれ成長を求めるようになれば、長期に渡り受ける強い苦しみと引き換えに、不誠実な生き方をしていた体験から学ぶようにもなるのです。

(1000/1000)

 文字/言語を「用いるのか/用いないのか」ではなく、文字/言語を用いても、用いなくても、常に精妙な物事の差を認識して、無形的認識が優勢な状況へと移行していく必要があるのです。

 物的な物体や、有形的な文字/言語/図像などに囲まれている地上で生活していくには、有形的認識が優勢になるのは避けられません。自己が文字/言語を書かず、話さず、一切の文字/言語を思い浮かべなくても、外環境から文字が眼に入ってくる場合もあれば、他者の話し声が耳に入ってくる場合もあります。また、物体や景色を視るだけでも、音が聴こえるだけでも、香り/匂いを嗅ぐだけでも、自覚できるものの自覚することなく有形的認識を用いているのです。

 そのうえで、自覚できるものの自覚なく「有形的認識に基づいて物事を認識している程度」よりも、自覚して「無形的認識に基づいて物事を認識する程度」を強めるように努め、常に有形的認識が優勢へ傾こうとする状況を、自覚して無形的認識を優勢へと傾けていくようにします。

(1000/1000)

 物事を認識する際の「認識に占める有形的認識/無形的認識」を割合で表した場合に、同調する活動性の程度に相応する割合を上限として、自覚して認識の割合を変えることができます。ただし、自覚して認識の割合を変えられるのは、覚醒中期以降の成長段階からとなり、覚醒未満の段階や、覚醒初期の段階では、自覚できるものの自覚なく有形的認識が優勢に傾く状況はみられても、自覚して有形的認識を優勢にしていく状況はみられません。覚醒の成長段階については、4章4節 覚醒を参照してください。

 地上の生活では、有形体を通して物的な行動をおこなわなければ生活が成り立たず、また、思考などの内容も有形体を通して物的に外環境へ表現する必要があります。認識の割合に、無形的認識が多くを占めたままでは、外環境から無形的に受け入れた内容を認識し、無形的な思考などを造化しているだけであれば支障なく済みますが、一方で、外環境から有形的に受け入れた内容を認識し、有形的な思考などを造化して、物的に外環境へ表現する場合には支障が現れます。

 そのため、眼前の状況に必要とする適切な程度にまで、自覚して適宜に有形的認識の割合を増大させ、相対的に無形的認識の割合を減少させて、外環境を認識し、外環境へ表現するようになります。例として、自己の成長にあわせて意識が拡大し、意識が地上を包み、認識の範囲が地上全体へ行き渡っている成長段階では、無形的認識の割合が認識の大半を占めていますが、この割合のままでは地上で有形体の眼前にある物事に対して適切な対応ができない場合も多くみられ、自覚して有形的認識の割合を増大させて物事へ対応しなければならなくなります。具体的には、肉眼の視界にある景色/物事を視る、文字の読解/記述、会話、映像/音声の視聴、などが挙げられます。そして、有形的認識の割合を増大させ、無形的認識の割合を減少させる必要性がなくなれば、元の割合へ戻すように自覚して努めていきます。もしも、元の割合へ戻すように努めないのならば、同調する活動性の程度を下降させる状況へつながります。

 有形的認識の割合を増大させ無形的認識の割合を減少させなければ地上での生活に支障が現れ、有形的認識の割合を増大させるほどに同調する活動性の程度が下降しやすくなり、同調する活動性の程度に相応する認識の割合へ戻すように自覚して努めなければ減少させた無形的認識の割合を元へ戻せないことは、地上で高い活動性の程度へ同調していくために、絶え間ない強い意志を必要としている要因のひとつとなっています。

 この質疑応答に関連する内容には、3章8節 意識 #質疑応答の「意識に占める物質の心/大霊の心の割合と、意識に占める個体/全体としての認識/感覚の割合は、同じ定義を表しているのですか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000) 活動性の程度と認識に占める割合
(1000/1000) 活動性の程度と認識に占める割合

(1000/1000)

 はじめに、地上では、他者/脊椎動物や周囲の様々な物体/物事/現象などの有する活動性から影響を受けて、自己の同調する活動性の程度が変化することについては、2章3節 有形界の構造 #有形界の進化を参照してください。

 周囲の相対的に低い活動性の程度から受ける、自己の同調している活動性の程度を下降させようとする圧力へ抗[あらが]うためには、成長を求め、同調する活動性の程度を高めようとする誠実/真摯な強い意志(推進力)が必要です。意志の強さは、推進力の中でも、等速ではなく、加速力へ譬[たと]えることができます。等速(加速力ゼロ)では、現在に同調する活動性の程度を維持するだけであり、周囲から受ける圧力へ抗えず、同調する活動性の程度は徐々に下降していきます。一定の加速力、あるいは、加速力を高めていく状況へ表される、常に成長を求め、同調する活動性の程度を高めていく強い意志を抱き続けることだけが、周囲から受ける圧力へ抗い、同調する活動性の程度を高めるように、はたらきます。加えて、自己の同調する高い活動性の程度の影響を周囲へ与えられるようにもなります。

(1000/1000) 意志の強さと同調する活動性の程度
(1000/1000) 意志の強さと同調する活動性の程度

 意識が受ける意志の強さの感覚は、他の様々な感覚と同様に相対的であり、成長していく(加速力を高めていく)ためには、常に、自己が強いと感じ取るだけの意志の強さが必要です。なお、自己と他者の有する意志の強さを比較するのではありません。自己からみて他者の有する意志が弱く感じたとしても、他者にとっては相対的に強い意志を有している場合もあります。自己が自己の有する意志の強さに対して、常に強いと感じる程度の強さを有するように努めるのです。

 また、周囲の活動性の程度が低いほどに、自己の有する活動性の程度と周囲の活動性の程度との差が大きくなり、自己の同調している活動性の程度を下降させようとする圧力は強くなるために、自己が現在に同調している活動性の程度を維持するためだけにでも強い意志を必要とします。そのうえで、同調する活動性の程度を高めていくには、更に強い意志を絶え間なく抱き続ける必要があります。

 この質疑応答に関連する内容には、2章3節 有形界の構造 #質疑応答の「地上で互いの活動性が影響を与え合う状況では、生き方の違いによって与える影響に差がみられますか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 意志の強さや、強さの程度は、意識の受ける感覚では明確に把握できますが、受ける感覚を言語で描写できません。自己の体験を通して実感する必要があります。

 有している意志と、意志の方向性(表現を造化する目的)に基づいて造化される表現の順序を詳細に内省していれば、意識が意志から受ける感覚を把握できるようになります。意志は精神で表現を造化する推進力のために、常に表現が造化されるのに先立って意志の強さを感じ取ります。表現が造化された後に意志の強さを感じ取るのではありません。例として、強い意志が「ある物事を成し遂げよう」という内容の思考を造り出すのであって、「ある物事を成し遂げよう」という内容の思考が強い意志を生み出すのではありません。

 また、意志の強さと、精神の力[りき]み、緊張、興奮、などを混同しないように留意する必要があります。意識の受ける感覚を対比して表現するのならば、精神の力み/緊張/興奮などは、騒響[ざわめき]、騒擾[そうじょう]、猛々しさ、硬さ、などとして感じ取りますが、一方で、意志の強さは、静かで柔らかい力強さとして感じ取ります。意志の強さから受ける感覚は相対的に精細であり、力み/緊張/興奮などから受ける粗雑な感覚に埋もれやすいために、意志の強さから受ける感覚を、騒響、騒擾、猛々しさ、硬さ、などとして誤認する状況が多くみられます。

 意志は、あらゆる行為をおこなう(表現/行為を造化する)「始動」に必要です。地上で生活する人も、無形界で生活する霊も、誠実な生き方をしていても、不誠実な生き方をしていても、また、成長を求め実践するにしても、自己の内面/行為を内省するにしても、利己性/自己中心性/欲望を満たすにしても、快楽を追い求めるにしても、現在の自己の状況に自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく違和感、不自然感、矛盾感、不安定感、欠乏感、不足感、などを意識が感じ取るからこそ、「現在の自己の状況を変化させよう」という意志を有して、行為をおこなうようになります。もしも、これらの感覚を感じ取らなかったのならば、自己は意識/意志を有していない造化された物体と同じであり、今この場に存在しているだけで、何ひとつ行為をおこなおうとはしないでしょう。

 この質疑応答に関連する内容には、5章5節 祈り/瞑想 #質疑応答の「瞑想で意識を拡大させようとすると途端に拡大しなくなるのですが、どうしてでしょうか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 不誠実な目的で習得した技術であったとしても、技術そのものに誠実/不誠実の性質はありません。習得した技術を不誠実な目的で用いることが、成長を阻碍するように、はたらきます。

 習得した様々な技術は、「誠実/不誠実の性質と関係しない習慣」として経験の機能特性へ保存されます。誠実/不誠実の性質と関係しない習慣は、単独で行為の造化へ用いられる状況はなく、誠実な性質の表現/行為を造化する習慣や、不誠実な性質の表現/行為を造化する習慣とともに造化へ用いられます。行為をおこなう目的の誠実/不誠実が、「誠実/不誠実な性質の表現/行為を造化する習慣」を用いて行為を造化し、行為を誠実にも不誠実にもするのです。経験へ保存されている習慣については、3章7節 心 #分霊の心を参照してください。

 不誠実な目的で技術を習得する例として、他者へ自慢し虚栄心を満たすために複数の言語を学び習得したとしても、習得した言語そのものに誠実/不誠実の性質はありません。習得した言語を用いる際の目的で誠実/不誠実の性質が表れるようになります。ただし、言語の習得とともに、他者へ自慢し虚栄心を満たそうとする「不誠実な性質の表現/行為を造化する習慣」も同時に形成され強められていくために、習得した言語を誠実な目的で用いる状況は少なく、強められた不誠実な性質の習慣に基づいて、不誠実な目的で習得した言語を頻繁に用いるようになります。そのため、不誠実な目的で技術を習得しても、習得した技術そのものが成長を阻碍/退行させる状況はありませんが、不誠実な目的によって強められた不誠実な性質の習慣が成長を阻碍/退行させるように、はたらきます。

 全体の成長のために、あらゆる体験から学び、学び得た知識/技術を、自己以外(他者/脊椎動物など)への手助け/支援/援助や、全体の成長へ役立てることが大切です。自己のために知識/技術を得ようとするのならば、得た知識/技術を自己の利己性/自己中心性/欲望を満たすために利用しやすくなります。知識/技術を得ようとする目的が、得た知識/技術を活用する目的へ影響を与えやすくなる点に留意してください。

 目的の誠実/不誠実に関わらず、技術の習得へ努め、ひとつの物事が上手くできるようになったのならば、ある方向性の物事をおこなう物的/有形的な技術に習熟している(習慣が強められた)ために、類似する方向性の物事も、習熟した技術を応用してできるようになります。更に、ある方向性の物事への実践を通して学び得た無形的な内容は、類似する方向性の物事をおこなう際に活用できるだけでなく、あらゆる方向性の物事を実践する際にも活用できます。ただし、無形的な内容の学びを得られるのは誠実な目的で実践した場合のみであり、不誠実な目的で実践しても学びは得られません。特定の技術を用いて同じ物事を実践したとしても、誠実な目的で実践したのならば無形的な学びを得られ、一方で、不誠実な目的で実践したのならば無形的な学びは得られないのです。

 加えて、ある物事を実践していくには、相対的に土台/基礎となる知識/技術があり、これらの知識/技術を理解/修得したうえでなければ適切に実践し難く、また、実践を通して成長への学びも得難いです。土台/基礎となる知識/技術を用いて「ある程度を有する物事」を実践し、物事の実践を通して更に理解/修得した知識/技術が、相対的に「高い程度を有する物事」を実践する土台/基礎となります。例として、ある言語の文字を「意味のある記号」として把握しているからこそ、文字を組み合わせた単語/文章を読解できるようになり、文字を「意味のある記号」として把握していないのならば、単語/文章を読解できず、記述の内容を通して考察/内省し成長への学びへとつなげることができません。辞書や対訳によって文字を把握することで単語/文章の表面的な読解ができるようになり、単語/文章を読解できる程度が向上するほどに、記述の内容を深く/拡く考察できるようになります。

 この質疑応答に関連する内容には、2章3節 有形界の構造 #質疑応答の「惑星の進化のために、地上で生活する人が永続性のある活動をおこなうには、どのようにすればよいのでしょうか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 様々な物事の捉え方の中で、成長を阻碍する物事の捉え方には、眼前の物事を自己の知っている内容に基づいてのみ捉え考察しようとする状況が挙げられます。自己が未だ知らない内容に基づいて考察することはできませんが、眼前のあらゆる物事を自己の知る既存の枠組みへ当てはめて捉えようとし、自己の知っている内容のみに基づく捉え方しか有り得ず、他の捉え方はないと思い込む状況が成長を阻碍するように、はたらきます。

 この捉え方は、日々の中で誰にでもみられますが、社会では各分野の専門職へ就く者に多くみられ、自己の専門とは異なる非専門職の相手が、自己へ伝えた物事/現象/出来事などの「眼前に起きた現実」を捉えようとせずに、自己の有している情報/知識にしがみつき、専門的には有り得ない/起こり得ないと「眼前に起きた現実」を否定して、現実を考察しようと努めません。例として、医者が診察において、患者の伝える「自身が傷害を負った状況/経緯」では該当する傷害が起こり得ないと患者を否定する状況は多くみられ、中には、患者を無知と嘲[あざけ]る場合もみられます。自己の有している情報/知識に患者の負った傷害を適合させようするだけで、患者が実際に傷害を負った状況/経緯に基づいて自己の有している情報/知識を参照し、傷害の機序を考察/推察しないのです。

 自己の知っている内容に基づいてのみ捉え考察しようとする捉え方には、無形的な物事を有形的に捉えようとする状況も含まれます。これは、無形的な物事を文字/図表などで有形的に表現しようと努めている状況を指しているのではなく、有形的認識に囚われ、無形的認識で捉えられない状況を指しており、強く囚われると唯物主義などの地縛を形成する状況へもつながります。個体が既に知っている内容は、世界(全体)という大海の中では1滴にも満たない程度でしかないのであり、あらゆる物事を既存の枠組みへ当てはめて捉えようとする矮小さに気づく必要があります。

 眼前のあらゆる物事を自己の知る既存の枠組みへ当てはめて捉えようとする状況へ自覚できるものの自覚なく陥[おちい]らないためには、下記を自問して、現在に自己は「どのように捉えようとしているのか」を自覚する(内省する)ように努めます。

  • 眼前の物事は既知の枠組みへ当てはめて捉えることができるのか?
  • 既知の枠組みへ当てはめて捉えることができると判断した土台は何か?
  • 眼前の物事の中で、どの程度に、どれくらいの範囲が既知の枠組みへ当てはまるのか?
  • 既知の枠組みへ当てはまらない範囲はあるのか?
  • 既知の枠組みへ当てはまらない範囲へは、どのように対応するのか?

 自己の有している様々な既知の捉え方(認識の方向性)は、自己がこれまでに獲得してきた現在の認識の程度以下での捉え方となり、自己の個性の方向性と密接に関連しています。一方で、未知の捉え方には、現在の認識の程度による捉え方よりも高い程度での捉え方と、現在の認識の程度で未だ獲得していない捉え方、これまでに獲得しなかった現在の認識の程度よりも低い程度での捉え方が含まれます。なお、現在の認識の程度で、これまでに獲得しなかった「現在の認識の程度よりも低い程度での捉え方」を獲得することはできません。加えて、成長の程度(認識の程度)が退行した場合には、以前の高い認識の程度での捉え方は知っているものの、高い認識の程度での捉え方はできなくなります。認識の方向性については、3章7節 心 #分霊の心を参照してください。

(1000/1000) 認識の程度と既知/未知の捉え方
(1000/1000) 認識の程度と既知/未知の捉え方

 自己の成長を阻碍しないように努めるのと同時に、他者の成長も阻碍しないように努める必要があります。他者のおこなった行為に対して、自己が他者へ何らかの発言/行動をおこなう内容は、非難/批判/糾弾と提案/助言に大別され、非難/批判/糾弾は他者の成長を阻碍する可能性を有していますが、一方で、提案/助言は他者の成長を促進する可能性を有しています。

 他者への非難/批判/糾弾は、自己が正しく他者が誤っているという捉え方を土台として、他者が自由意志で選択する選択肢や選択肢の幅を制限しようとする行為です。非難/批判/糾弾を受けて、他者が「どのような選択肢」を選択するのかを、あるいは、他者が特定の選択肢を選択しないように、自己が誘導/強制しています。一方で、他者への提案/助言は、自己の有する認識の程度や、自由意志で選択する選択肢の幅から捉えた際に、他者の有する認識の程度や固定観念/既成概念の囚われによって、他者の選択する選択肢の幅が狭く捉えられる、あるいは、選択した選択肢の程度が低く捉えられるために、他者が自由意志で選択できる選択肢の幅を拡大しようとする行為です。提案/助言を受けて、他者が「どのような選択肢」を選択するのかは他者に委ねられており、自己が他者へ特定の選択肢を選択するように、あるいは、特定の選択肢を選択しないように誘導/強制しません。提案/助言によって、他者が高い程度の選択肢に気づき、選択する切っ掛けとなる可能性があります。

 この質疑応答に関連する内容には、3章3節 分霊 #質疑応答の「自己の属する次元と、つながりのある次元は、どのような違いがあるのですか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 自己が、困難/苦難/逆境などを外環境へ追い求める必要はなく、また、積極的に苦しみを造り出す必要もありません。地上での成長は、困難や苦しみに立ち向かう状況で得やすくなりますが、自身で困難/苦しみを追い求めなくても、常に、眼前には無数の困難/苦しみがあります。眼前にある無数の困難/苦しみから眼を逸らさずに、逃げ回らずに、勇気をもって立ち向かい、乗り越えていくことへ集中する中に、成長へとつながる学びを得られる機会があるのです。

 眼前に現れる困難/苦しみとは、自己の内面にある、利己性/自己中心性/欲望、恐れ/怯え、固定観念/既成概念(囚われ)、相対的に低い程度の習慣、などの、現在の成長段階よりも高い段階への成長を阻碍している要因が外環境の出来事によって喚起/誘発され、成長を阻碍している要因を自覚のある気づきとして認識する状況を指しています。自己が外環境にある困難/苦しみに遭遇するのではないのです。そのため、同じ時に、同じ場で、同じ出来事に遭遇しても、その出来事を困難/苦しみと捉える者もいれば、困難/苦しみと捉えない者もいます。多くの場合では、眼前にある無数の困難/苦しみを自覚できるものの自覚なく認識しているのですが、自覚して認識しない(気づかない)ために、自覚できるものの自覚しないままに困難/苦しみから逃げ回っているのです。眼前にある無数の困難/苦しみを自覚できるものの自覚していないために、自己の生活は平穏/安寧、あるいは、退屈だと感じている状況も多くみられます。

 困難/苦しみを通して学びを得るのに加えて、様々な物事から自己が感じている苦手感を払拭/克服していく過程にも、成長への学びがあります。様々な物事を体験する際に、物事を試して上手[うま]くいかないと、物事に対して苦手感(固定観念)を形成する状況は多くみられます。同じ物事を数度に繰り返し試しても上手くいかないと、苦手感が強められ、その物事を自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく忌避/嫌悪するようにもなり、この苦手感/忌避/嫌悪が現在の成長段階では成長を阻碍していなくても、いずれは成長を阻碍するように、はたらきます。物事に対して感じている苦手感は、物事そのものではなく、自己の内面に原因があるために、度々[たびたび]に苦手感を感じている物事へ挑戦して、「物事の何に苦手感を感じているのか?」を把握することで、自己の内面にある原因(多くの場合では利己性/自己中心性/欲望や固定観念/既成概念)へ気づく切っ掛けとなり、物事そのものが上手くできる/上手くできないに関わらず、苦手感を払拭/克服(固定観念の解消)できるようになります。同時に、度々に挑戦することで、以前に自覚のある、あるいは、自覚できるものの自覚のない固定観念/既成概念(先入観/偏見を含む)によって上手くできずに苦手感を感じている物事や、解決できずに忌避している課題も、今回/今後には固定観念/既成概念に気づき、上手くできる/解決できる場合もあります。

 なお、ある物事を試した際に、上手くできないために苦手感を感じるのと、物事の有する方向性と自己の有する個性の方向性との親和性が低いために感じる違和感は異なります。苦手感は、物事が上手くできると感じませんが、一方で、物事の有する方向性と自己の有する個性の方向性との親和性が低いために感じる違和感は、物事を試して上手くできたとしても感じ取ります。

 この質疑応答に関連する内容には、4章1節 分霊の成長 #質疑応答の「自己の体験を通して考察することに難しさを感じるのですが、そんなにも難しいものなのでしょうか?」がありますので参考にしてください。

地上での目的/役割

(1000/1000)

 地上で誠実な生き方へ努めているのならば、地上での生活を始める前に決めた地上での目的/役割の全てを正確に遂行できているとは限りませんが、おおよそは遂行できています。自己が地上での目的/役割を遂行している自覚の有無に関わらず、地上での目的/役割を遂行できるように帯同する天使たちが常に導き支援/援助してくれているのです。

 地上での目的/役割は個々によって異なり、その内容は様々ですが、総括すると世界の進化を促進する/成長を促進する誠実な内容のみであり、不誠実な内容は含まれていません。多くの場合では、目的/役割には並列/並行して遂行する複数の内容を決めており、更に、ある内容を遂行した後に次の内容を順序に遂行していく段階的な目的/役割も有しています。これらの目的/役割を地上での生活の間に遂行できるように生活の計画(筋道)を建て、再授肉にあたって地上へ帯同する天使たちが計画に基づいて自己を絶え間なく指導し、適宜に適切な支援/援助をおこなってくれています。再授肉については、4章9節 再授肉を参照してください。

 自己が地上で誠実な生き方へ努めているのならば、天使たちと疏通しやすくなり、天使たちが計画に基づく支援/援助を存分におこなえるようになります。ただし、自己の自覚的な(自覚のある/自覚できるものの自覚のない)自由意志による選択でおこなった様々な行為や他者の運命の流れ、社会の情勢(個体よりも大きな運命の流れ)、などによって、地上で生活を始めてから辿[たど]った道筋が計画(筋道)の通りとはいかなくなりますが、都度に天使たちが筋道へ戻そうと「はたらきかけ」てくれているために、筋道と似通った道筋を辿るようになります。これは、荒れ狂う高波の海を船で航行する際に、事前に決めた経路を進もうとしながらも様々な方向へ押し流されて思うように進めないものの、事前に決めた経路を常に確認しながら進もうとしているために、似通った経路で進行している状況へ譬[たと]えられます。運命の流れについては、4章6節 自由意志/運命を参照してください。

 一方で、地上で不誠実な生き方へ陥[おちい]ると、天使たちと疏通できなくなり、天使たちが計画に基づいて懸命に支援/援助しようとしていても自己に届かなく(自己が受け入れなく)なります。そして、地上で生活を始めてから辿った道筋が事前に決めた計画(筋道)から大きく外れてしまい、地上での目的/役割を遂行できないままに有形体の使用期限を迎えるようになります。これは、荒れ狂う高波の海を船で航行する際に、事前に決めた経路を確認することなく、様々な方向へ押し流されるままに漂流しているうちに、事前に決めた経路を見失っている状況へ譬えられます。天使たちとの同調については、4章10節 天使を参照してください。

 地上では有形体の内包する物質の心から絶え間なく誘惑の影響を受け続けているために、誠実な生き方へ努めているとしても、何時[いつ]でも不誠実な生き方へ陥[おちい]る可能性はあり、また、不誠実な生き方へ陥っているとしても、何時でも誠実な生き方へ方向性を転換することができます。どのような生き方をするのも、常に自己の自由意志で選択した結果であり、選択する生き方を変えれば、生き方へ相応するように道筋も変化していくのです。

(1000/1000) 誠実/不誠実な生き方による道筋の違い
(1000/1000) 誠実/不誠実な生き方による道筋の違い

 地上での役割の遂行には、遂行に必要とする複数の「最低限の条件」と、遂行に必要とする「最低限の手順」があり、条件を満たし手順が整うことで最低限に役割を遂行できるようになります。ただし、この状況は地上での役割を最低限に遂行できるようになるだけであり、高い効率で遂行できるのではなく、完遂できるとも限りません。役割の遂行に「適切な条件」を追加し、役割を遂行する手順を拡大していくことで、高い効率で遂行できるようになり、完遂しやすくもなります。地上での生活を始めた後に、天使たちが、事前に決めた計画(筋道)に沿って、役割の遂行に必要とする複数の「最低限の条件」を満たせるように、同時に、遂行に必要とする「最低限の手順」を整えられるように、地上での生活を指導してくれます。そして、条件を満たし手順を整え役割を遂行し始めた後に、役割の遂行に「適切な条件」を追加し、役割を遂行する手順を拡大できるように指導してくれます。

 役割の遂行に必要とする複数の「最低限の条件」と、遂行に必要とする「最低限の手順」は入れ子構造を成しており、長期的(数百年以上の単位)に捉えるのならば、今回以降の地上での生活や無形界で担う役割/仕事を遂行するために、今回の地上の生活で、今後の役割/仕事の遂行に必要とする最低限の条件を満たし、手順を整えようとしているともいえます。

 加えて、ある内容の役割を遂行するのに、特定の方法/手段のみでしか遂行できないとは限らず、様々な方法/手段を用いて遂行できます。同じ内容の役割を遂行するのに、あるひとつの方法/手段で上手くできなかったとしても、他の方法/手段ならば上手くできる場合もあります。同様に、同じ内容の役割を遂行するのに、ある状況では特定の方法/手段で上手くできなくても、他の状況では特定の方法/手段で上手くできる場合もあります。役割の内容は無形的であり、無形的な役割の内容を遂行する物的/有形的な方法/手段は無数にあるのです。

(1000/1000) 役割を遂行する条件/手順
(1000/1000) 役割を遂行する条件/手順

 地上でも、無形界でも、自己の担う役割/任務/職務を上手くできるように努めようともせずに、ミス/間違いを恐れ/怯え、上手くできそうにないからと様々に理由をつけて逃げ回っていては、何時[いつ]までも上手くできるようにはなりません。勇気をもって自己の恐れ/怯えに立ち向かい、意識を集中して誠実に役割/任務/職務を遂行するからこそ、徐々に上手くできるようになるのです。勇気をもって自己の恐れ/怯えに立ち向かう者だけが、役割/任務/職務を適切に遂行して社会の発展へ寄与/貢献でき、また、自己の成長を促進できるようにもなります。

 学生だから、アルバイト(社員ではない)だから、新入社員だから、専門外だから、新参者だから、高齢/老齢だから、などと自己に都合の良い理由で、手を抜く、丁寧におこなわない、利己的/自己中心的におこなう、怠惰、観察/考察しない、などを正当化しているのならば、社会の退廃/衰退へつながり、また、自己の成長を阻碍/退行させるようにもなります。それらの理由は、自己の虚勢/見栄を張りたいだけに過ぎず、自己以外には全く関係しないのです。

(1000/1000)

 地上で拡く認知されているだけでも、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア、マハトマ・ガンジー、エイブラハム・リンカーン、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ、らのように誠実な生き方へ努めながらも暗殺された者たちは、社会/民衆を誠実な愛のある方向性へと導く役割を担っていましたが、暗殺される(有形体の使用期限を迎える)までに、事前に計画された役割を遂行し終えています。肉眼には志半[こころざしなか]ば(計画途中)で終えたように捉えられても、実際には、事前に決めた地上での役割を遂行し終えることなく暗殺されたのではありません。加えて、他者に殺される場合だけでなく、事故や疾病で急逝[きゅうせつ]した場合でも、事前に計画された役割を遂行し終えています。

 地上での生活状況、社会の情勢、役割の内容、役割の進捗状況、などによっては、有形体の使用期限を迎える時期よりも早く、事前に計画された役割を遂行し終える場合もあります。この場合には、有形体の使用期限を迎えるまでの期間に、事前に計画された役割を更に発展させていく状況もあります。

 個体の担う事前に計画した地上での役割は、過去から未来へ連綿と続く「他者の成長/社会の成長/惑星の進化を促進する」という内容の僅かな一部/僅かな期間でしかありません。連綿と続く他者の成長/社会の成長/惑星の進化を促進するという計画は、無数の方向性を有する入れ子構造を成しており、それぞれの方向性には無限の段階があります。地上で生活する人は、誰もが何らかの方向性での、ある段階の計画を受け持っており、特定の方向性で計画されている僅かな段階/期間を、自己の担う地上での役割として遂行しているのです。

(1000/1000) 計画の入れ子構造
(1000/1000) 計画の入れ子構造

 そのため、自己が事前に決めた地上での役割(特定の方向性で計画されている僅かな段階)を遂行し終えたのならば、計画の次の段階を遂行していく場合もあります。もしも、自己が地上での役割として決めた計画の段階のみを遂行し、計画の次の段階を遂行しなかったとしても、次の段階を地上での役割として遂行する者が現れます。

(1000/1000) 連綿と続く計画と個体の担う役割
(1000/1000) 連綿と続く計画と個体の担う役割

 ただし、誰もが事前に決めた計画の段階(地上での役割)を有形体の使用期限までに遂行し終えるとは限りません。誠実な生き方へ努めているのならば、事前に決めた地上での役割の内容は有形体の使用期限までに、おおよそ遂行し終えるのに対して、不誠実な生き方へ陥[おちい]り利己的/自己中心的な生活をしているのならば、ほとんどの役割を遂行しないままに有形体の使用期限を迎えることになります。

 なお、このサイトには、2024年5月時点で、事前に計画された「サイトへ掲載する必要のある内容」の全てが著者を通して掲載されていますが、今後も継続してサイトに掲載されている内容の追記/修正はおこなわれます。サイトの読者から受けた質問への応答も、サイトへ適宜に追加されます。

(1000/1000)

 修養の生活を実践する強い意志と、修養の生活への専心/献身が、地上での目的/役割を思い出せるように、はたらきます。修養の生活については、5章1節 修養の生活を参照してください。

 地上での目的/役割を思い出せるのが優れていて、思い出せないのが劣っている、などの自覚のある、あるいは、自覚できるものの自覚のない認識(囚われ)や、思い出そうとする焦り、急ぎ、力[りき]み、などを有していると、何時[いつ]までも自覚して思い出せません。加えて、地上での目的/役割に「不誠実な生き方をおこなう」という内容は決してないために、目的/役割から逸脱している不誠実な生き方をしていても思い出せません。目的/役割を思い出せないからといって、忘れ去っているのではなく、自覚できるものの自覚なくは認識しています。ただし、自覚できるものの自覚のない認識では目的/役割の遂行に受動的/消極的であり、天使たちのおこなう支援/援助にも大きな制限を受けるようになります。自覚して思い出すことによって、積極的に目的/役割を遂行できるようになり、天使たちの支援/援助も円滑に受け入れられるようになります。

 そして、地上での目的/役割を自覚して思い出すということは、思い出した以降の「地上での生活/人生の全て」を目的/役割の遂行へ捧げる状況や、生活のすべてを全体の成長へ役立てる意志を有し続ける状況を表してもいます。生活/人生の全てを目的/役割の遂行へ捧げる強い意志(覚悟)や、目的/役割を遂行していけるだけの専心/献身を修得し、目的/役割の遂行へ必要な経験/知識を習得/貯蔵した段階へ到達したのならば、天使たちが自覚して思い出せるように取り計らってくださいます。目的/役割の内容は個々によって異なるために、自覚して思い出すには、どの程度の意志の強さ、どれくらいの専心/献身の程度、どのような内容/どの程度の経験/知識の習得/貯蔵を必要とするのかも、個々によって異なります。目的/役割の内容によっては、地上での学びの修了を表す覚醒の成長段階へ移行し、更に数十年を経て経験/知識を習得/貯蔵した後に思い出せるようになる場合もみられます。また、子供を出産したその時に、雷へ撃たれたような突然の衝撃をもって思い出す場合もみられ、個々によって様々です。

 なお、個々によっては、地上での複数の目的/役割を段階的に有している場合もあります。その場合では、現在の目的/役割は思い出せますが、次の段階の目的/役割は不鮮明にしか思い出せず、現在の目的/役割が「ある程度」に達成された時点で、次の段階の目的/役割を明確に思い出せるようになります。

(1000/1000)

 様々な障碍をもって産まれてくる者たちは、地上での生活を始める前に「障碍を有した生活を通して成長につなげる」と決めていますが、彼らの生活を支援する愛の行為は、彼らの成長を促進するように、はたらきます。愛の行為については、5章6節 愛の行為を参照してください。

 障碍をもって産まれ、地上で生活するには、他者の支援を多く必要とします。障碍をもって産まれるのは自己の成長のためでもあり、同時に、自己の地上での積極的な生活を犠牲とし、他者が自己ヘの支援を通して、「他者へ愛の行為を喚起する」ための愛の行為でもあるのです。

 なお、障碍は有形体に有するのであり、霊が障碍を有しているのではありません。有形体の障碍によって、精神で造化した表現を外環境へ表現する、外環境の表現を精神へ受け入れ認識する、外環境へ物的な活動をおこなう、などが適切に機能しないだけなのです。有形体が適切に機能していなくても霊が障碍を受ける状況はなく、また、霊の成長を阻碍する状況もありません。外環境の認識/外環境への表現については、3章6節 内的構造を参照してください。

(1000/1000)

 圧政や差別のある地域を選択して再授肉するのは、多くの場合では、圧政や差別へ立ち向かい、地域の状況を改善するためです。この改善へ向けた奮闘が自己/他者の成長や、社会の成長へとつながるのです。再授肉については、4章9節 再授肉を参照してください。

 圧政や差別のある地域で生活している者の多くは、地域にみられる圧政や差別へ立ち向かい、地域の状況を改善するという内容を、地上での目的/役割として有しています。恐れ/怯えに基づく圧政/差別/搾取/暴虐/迫害などの不誠実な行為へ、愛をもって対抗することを学び実践する過程が成長へつながります。愛をもって対抗する具体的な手段は様々にあるために、どのような手段を用いて、何へ/何処[どこ]へ対抗するのかは個々によって異なりますが、対抗する手段/内容の方向性は、地上での生活を始める前に、地上での目的/役割を遂行する計画として決めています。

 制度や法律として地域全体へ強制されている不誠実な行為へ、愛をもって対抗するのは容易ではなく、内的(霊的/精神的)にも、物的にも大きな困難/苦難/苦痛をともないますが、遂行することで成長を大きく飛躍させる可能性も有しています。圧政/差別/搾取/暴虐/迫害などの不誠実な行為へ耐え忍び、我慢し、辛抱していても成長へつながらず、社会の変革へもつながりません。また、これらの不誠実な行為へ加担しているのならば、成長の加速的な退行へつながり、社会の腐敗/退廃/衰退へもつながります。

 社会に拡くみられる、性別の違い/障碍の有無による格差/軽視、信教する宗教団体の違いによる差別/迫害/暴力/虐遇(宗教的不寛容)、国家間の政策/政治体制の違いによる軋轢[あつれき]/衝突/紛争などは、自己/自己の所属する共同体/自国が最も優れているという「◯◯至上主義」と呼ばれる固定観念/既成概念へ自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく囚われているために生み出されています。社会で表面的には「◯◯至上主義」と名付けられていないものの、本質的には「◯◯至上主義」を表す固定観念/既成概念は多くみられます。この固定観念/既成概念は、幻想の捉え方に基づいて造り出された「順序付け」に囚われているのであり、不誠実な性質を有しています。固定観念/既成概念については5章4節 固定観念/既成概念、幻想の捉え方については5章2節 幻想を参照してください。

 相手の生き方/文化/風習などの理解に努め、相手へ寛容をもって応対するのならば、「◯◯至上主義」と呼ばれる固定観念/既成概念は形成されず、また、形成されていたとしても徐々に解消されます。そして、自己が「◯◯至上主義」と呼ばれる固定観念/既成概念を有さずに相手へ応対することで、相手も自己の理解に努め、自己へ寛容をもって応対するようになり、融和/協調が育[はぐく]まれます。序列/優劣で判断する順序付けと不寛容が、地域社会や地上全体に分断/対立を造り出しているのです。

 貧困/差別/迫害/虐待/不公平などの「社会に蔓延[まんえん]する不誠実性の皺寄[しわよ]せ」として現れている凄惨/苛酷/過酷な環境は、家庭、親族、学校、企業、自治会/町内会、クラブ/部活動、組織/団体、国家、民族社会、地上全体、などの様々な規模の共同体内でみられます。それぞれの共同体に属する個々が有している「幻想の順序付け」が総合されて、総合された順序付けの下位ほどに大きな皺寄[しわよ]せを受けるようになります。個々の有している「幻想の順序付け」が全く同じ順序を示す状況はありませんが、順序付けの下位では、おおよそ類似した/似通った順序を示す場合も多くみられます。地上の歴史でも、現在でも、順序付けの下位には、年齢では成人よりも子供/高齢、性別では男性よりも女性、有形体の状況では健常者よりも心身に障碍を有する者、生き方では不誠実な生き方をしている者よりも誠実な生き方をしている者、などが位置づけられる傾向を強く有しています。

 なお、人の社会へ災害を引き起こす現象として認識されている、地震、噴火、台風、津波、などは社会(惑星)に蔓延する不誠実性の皺寄せによって起きているのではありません。これらの自然の諸現象は、惑星の進化の過程における、ある種の浄化作用として起きています。ただし、伝染性疾患の発生/流行(パンデミック)、難民の増加/流出/流入、などは社会(惑星)に蔓延する不誠実性の皺寄せによって起きています。自然の諸現象については、2章3節 有形界の構造を参照してください。

 この質疑応答に関連する内容には、5章6節 愛の行為 #質疑応答の「暴力/残虐な手段そのものが不誠実なのであれば、差別/暴虐をおこなう者へ、どのように対抗すればよいのですか?」がありますので参考にしてください。

成長への学び

(1000/1000)

 無形界では得らず、有形界でのみ得られる唯一の学びには、様々な上限へ到達した際にのみ感じ取る認識/感覚と、それらの認識/感覚を通して学び得た内容があります。

 あらゆる分霊(人)は、誰もがいずれは成長を求め実践し、それぞれの成長段階で様々な体験を通して学びを得ていきますが、無形界では、あらゆる物事が無限で構成されており、上限へ到達する状況がありません。一方で、有形界は有限です。上限があるのは有形界の特性であり、様々な上限へ到達できる体験は有形界でのみできます。有形界での上限とは、地上社会の様々な物事で1位/優勝/制覇などを獲る状況や、物的な前人未到/前人未踏を達する状況ではなく、世界/人の構造からみて、有形界の有する無形的な制限の上端へ達する状況を指しています。

 無形的な制限の上端へ到達する例として、内的成長度の最高値、内的成長度の同調値(同調する活動性の程度)、成長の程度で有するおおよその活動性の程度、の3つが地上で有することのできる活動性の程度の上限となる1000に到達する状況があります。筋反射検査での数値による測定では、1000を有形界で同調/保有可能な上限となる活動性の程度として規定しているために、1000よりも高い活動性の程度へ同調/保有する状況はみられません。筋反射検査については1章3節 筋反射検査、活動性の程度の規定については4章3節 内的成長度を参照してください。

 内的成長度の最高値のみや、内的成長度の最高値/同調値の2つが、上限となる1000へ到達した際にも、相応する学びを得られます。加えて、内的成長度の最高値のみや、内的成長度の最高値/同調値の2つが、上限となる1000へ到達した際には感じ取らず、内的成長度の最高値/同調値と成長の程度で有するおおよその活動性の程度の3つが同時に上限へ到達した際に感じ取る(感じ取り続ける)認識/感覚は、高い活動性の程度へ同調して感じる一切の高揚感/浮遊感を感じ取らなくなるものの、高揚感/浮遊感を感じ取っていた際とは全く異なる精細感/明晰感を明確な現実感とともに感じ取るようになります。この精細感/明晰感をともなう認識/感覚を通して得られる無形的な学びは、有形界の構造的な上限へ到達した際にのみ得られる「地上でしか体験できない極めて貴重な内容」のひとつです。ただし、学びの内容は経験へと保存される無形的な習慣であり、本人は学びの内容を造化される表現を通して自覚しているものの、学びの内容そのものを外環境へ表現することができません。

 無形界では、有形界での上限となる1000の活動性の程度へ、内的成長度の最高値/同調値と成長の程度で有するおおよその活動性の程度の3つが同時に揃[そろ]ったとしても、1000は無形界での上限ではないために、活動性の程度1000に相応する認識/感覚は感じ取っても、上限へ到達した際の認識/感覚は感じ取らず、上限への到達を通した学びも得られないのです。地上で生活するすべての人には、成長する機会が平等に与えられているのと同様に、有形界の様々な上限へ到達できる可能性も平等に有しています。有形界の様々な上限への到達は、成長を求め実践する過程にみられるためです。本人の意志と、意志に基づく実践が上限へ到達する/到達しないを決めているだけであり、一部の人が到達すると事前に決められているのではない点に留意してください。

 なお、学びの内容ではなく、学びを得る手段からみると、「有形界のみ」でみられるのには下記があります。

  • 物的な痛みを通して学べます
    • 物的な痛みを受け入れる有形体は有形界でのみ有しています
  • 睡眠中に地獄層で生活している者たちを主観的に観察できます
    • 有形体は地獄層での不誠実な生き方を生み出す根源となる物質の心を内包しており、地獄層で生活している者たちとの親和性が高いために、有形体を有している有形界からは、客観的な観察に加えて、主観的な観察も可能とします

 この節の質疑応答に関連する内容には、4章3節 内的成長度 #質疑応答の「地上で、内的成長度1000に相当する成長の程度へ到達すれば、その程度よりも更に成長することはできないのですか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 はじめに、地上での成長の上限(同調できる活動性の程度の上限)となる1000の数値については、4章3節 内的成長度を参照してください。

 日常の生活では、地上での上限となる1000を目標とする必要はありません。1000のような低い程度ではなく、更に先へ目標を置いて様々に学び、成長を実践していくことが大切です。数値は現在の状況を確認/考察するために用いるのであり、数値を目標にして数値での変化を追い求めても学びへはつながり難くなります。同調する活動性の程度1000や、おおよそ1000に相当する成長の程度は、世界の中で最も程度の低い有形界(地上)での上限に過ぎません。世界からみれば、地上での上限となる1000も、下限となる1も、僅かにも満たない差でしかないのです。そのような狭小な数値の差に囚われ拘[こだわ]るために周囲の絶え間なく変化する状況へ盲目的となり、地上での学びを得る機会が失われないようにする必要があります。

 成長は、無限に向上し続けることができます。地上での上限となる1000を目指すのではなく、更に先を見据えたうえで、地上の生活で眼前の学びへ意識を集中する必要があります。この状況を譬[たと]えると、遥[はる]か彼方[かなた]の山頂へ辿り着く道程を見据えて、眼前にある急流の谷川を渡る一歩一歩へ意識を集中するといえます。山頂へ辿り着く道程を確認することなく、谷川の対岸へ揚がることのみへ囚われていると、対岸へ着いた際に、対岸へ着いた地点が山頂への道程から大きく離れてしまっている可能性もあるのです。

 加えて、有形体の使用期限を学びの終着点と捉えていると、僅かな苦難/苦境にも挫[くじ]け、周囲の状況に流され、利己性/自己中心性/欲望に呑まれやすくなります。現在の眼前にある状況から得る学びは、現在の地上での生活や成長へ活かせる場合もあれば、無形界へ戻った後の生活や成長へ活かせる場合もあり、その後に再授肉した地上での生活や成長へ活かせる場合もあります。学びに終着点はなく、上限も制限もありません。地上での生活や生活する期間に囚われることなく、眼前のあらゆる状況から積極的に学びを得るように努めているのならば、苦難/苦境も、痛みも苦しみも、疾病も怪我も障碍も、困苦も貧困も、不誠実な生き方をしている者たちから受ける差別/迫害/暴虐も妨害も、すべては学びを得るための貴重な機会となります。

 ただし、地上での上限となる1000を日常の成長での目標にはしないものの、上限へ到達する体験は地上でしかできず、その体験を通して得られる学びは極めて貴重です。

 修養の生活を実践する過程で用いる、真実度、活動性の程度、内的成長度、などの数値で表される測定値は、物事を考察する際や、自己の内面/行為を内省する際の参考であり、数値へ囚われしがみつくために測定するのではありません。高い測定値を追い求めるのではなく、物事を捉える程度や考察/内省の程度(認識の程度)を高める、習慣を修正する、囚われを解消する、相対的に高い活動性の程度から受ける感覚へ同調する、などへ意識を向けて修養の生活を実践するように努めます。修養の生活については、5章1節 修養の生活を参照してください。

(1000/1000)

 「寛容を有する」とは、自己の成長段階(認識の程度)に基づき他者の行為を観察/考察して、他者の行為を相対的に誠実の程度が低い行為、あるいは、不誠実な行為と判断するものの、その行為に反応して、自己は一切の不誠実な行為(不誠実な感情/思考)を造化せずに精神へ静けさを維持すると同時に、他者の成長を願う状況を指しています。なお、自己よりも相対的に低い成長段階の者へ「寛容を有する」のは、傲慢、自惚[うぬぼ]れ、軽蔑、侮辱、優劣、などではありません。自己よりも高い成長段階の者からは、自己のおこなう行為へも寛容をもって応対されている点に留意してください。自己の成長を向上させるとともに、他者の成長を願い手助けするのです。

 ある状況で特定の他者がおこなう特定の行為へ「寛容を有する」ように努めていると、ある状況で特定の他者がおこなう特定の行為へ寛容を有する習慣が形成され、この習慣は、類似する状況で不特定の他者がおこなう類似する行為へ寛容を有することへつながります。更に、様々な状況で多くの他者がおこなう様々な行為へ寛容を有するように逐一に努め形成される習慣が総合されて、どのような状況でも、誰に対しても、どのような行為にも、寛容を有するようになり、社会全体へ寛容を有することへつながります。

 寛容は、現在の状況で他者のおこなう誠実の程度が低い行為や、不誠実な行為を容認しているのではなく、今後の状況で、誠実の程度が低い行為や、不誠実な行為をおこなわないようになるのを「待つ」ことを表しています。自己が成長を求め、他者よりも相対的に高い程度の誠実な行為をおこなうように努めているからこそ、他者も自己と同様に、高い程度の誠実な行為をおこなえるようになるのを「待つ」、あるいは、「待たない(寛容を有さない/不寛容)」が選択できるようになるのです。自己が他者よりも相対的に高い程度の誠実な行為をおこなうように努めていないのならば、他者を「待つ(寛容を有する)」選択はできないという点に留意してください。

 この質疑応答に関連する内容には、5章6節 愛の行為 #質疑応答の「暴力/残虐な手段そのものが不誠実なのであれば、差別/暴虐をおこなう者へ、どのように対抗すればよいのですか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 用語の定義は、語を用いる者によって様々であり、全く同じ定義という状況はないために、「寛容」と「赦し」の語が有する定義の違いも個々によって異なります。下記では、このサイトの定義に基づいて記述しています。

 「寛容」と「赦し」は双方ともに、自己の成長の程度(認識の程度)からみて、対象(自己あるいは自己以外)のおこなった利己的/自己中心的で不誠実な行為や、相対的に低い程度の誠実な行為に対して、対象へ愛をもって応対する行為を指していますが、寛容/赦しでは、用いる対象の方向性が異なります。

 寛容は、自己以外に用い、自己には用いません。寛容を有するのは、自己以外の者が自身でおこなった行為を内省しない状況に対して許容することを指しています。自己以外の者がおこなった行為を内省する/内省しないは、行為をおこなった本人のみが選択でき、自己が選択を強制することはできません。そして、選択を強制してはなりません。もしも、自己が「自己に寛容を有する」のならば、自己のおこなった行為を内省しない状況を許容していることになります。自己のおこなった行為を内省する/内省しないは、自己が選択できるために、自己のおこなった行為を内省しない選択は、成長を退行させると選択した状況を表しています。

 なお、寛容を有しない状況を表す「不寛容」には、自己の利己性/自己中心性(恐れ/怯え)に基づいて、自己以外の者が自身でおこなった行為を内省しない状況に対して許容しない、許容したくない、許容できない、などを指すだけでなく、自己以外が自己に都合の良い選択肢を選択すると期待するものの、あるいは、自己ならば選択する選択肢を選択してもらいたいと期待するものの、それらの選択肢が選択されないために、苛立ち、落胆、悲しみ、などの不快の感情を造化する状況も含まれます。この期待の行動は、幻想の捉え方に基づいておこなわれています。幻想の捉え方については、5章2節 幻想を参照してください。

 一方で、赦しは、自己に用い、自己以外には用いません。赦しを有するのは、自己のおこなった不誠実な行為の原因、あるいは、自己の成長の程度よりも相対的に低い程度の誠実な行為をおこなった原因は自己にあると受け入れる(受容する)ことを指しています。自己の成長の程度に相応しない行為(多くの場合は不誠実な行為)をおこなった土台となる、低い程度の習慣、利己性/自己中心性/欲望、恐れ/怯え、などの習慣/囚われを有している現状を認める(受容する)ことによって、これらの習慣/囚われから眼を逸らさずに向き合い、修正していくように努められます。もしも、自己が「自己以外へ赦しを有する」のならば、自己のおこなった行為の原因は自己以外の者へあると責任逃避していることになります。自己のおこなった行為の原因は自己にあると受け入れられない(受容できない)ために、自己が、低い程度の習慣、利己性/自己中心性/欲望、恐れ/怯え、などの習慣/囚われを有している現状を認めらずに眼を逸らしているだけでなく、虚勢を張り、虚栄心を満たすために自己以外を利用している状況を表しています。責任逃避については、5章2節 幻想を参照してください。

(1000/1000) 寛容と赦しの違い
(1000/1000) 寛容と赦しの違い

 寛容/赦しを有する状況は、同時におこなわれる場合が多くみられ、他者へ寛容を有するためには自己を赦す必要があり、自己を赦せば、他者へ寛容を有することができるようになります。自己を赦し、自己の内面へ向き合うには、表現へ付与された活動性の程度が200以上で表れる「勇気」を必要とします。勇気を有することで自己の内面と向き合えるようになり、そして、自己以外へも勇気をもって寛容を有することができるようになるのです。「寛容」は、表現へ付与された活動性の程度が350以上でみられる特性という点に留意してください。寛容は下位の特性である勇気を土台として(350未満でみられるすべての特性を土台として)おり、勇気がなくては寛容を有することもできないのです。表現へ付与された活動性の程度にみられる特性については、3章9節 精神 #表現の活動性を参照してください。

 なお、成長の程度や同調する活動性の程度に関わらず、寛容を有するように努めることはできますが、「寛容とは何か?」を自己の体験を通して明確に実感するのは、同調する活動性の程度が350以上になり、造化する表現へ350以上の活動性の程度を付与する(表現へ寛容の特性がみられる)ようになってからとなります。例として、他者の不誠実な行為に対して自己が怒りを抱いた場合に、他者がどのような行為をおこなったのだとしても、他者がおこなう行為の原因は他者にあり、他者以外に原因はなく、同様に、自己が怒りを抱いた原因は自己にあり、自己以外に原因はありません。自己が怒りを抱いた状況を内省し、怒りの感情を造化する土台となった利己性/自己中心性/欲望の囚われを有している現状を自覚して受け入れる(赦す)のならば、積極的に囚われを解消できるようになります。そして、他者も自己と同様に利己性/自己中心性/欲望の囚われを有しており、他者が自身のおこなった不誠実な行為を内省しないために、未だ囚われから眼を逸らし続けている、あるいは、囚われを自覚するには至っていないのだと気づくようになり、他者が自身のおこなった不誠実な行為を内省するのを待つ(寛容を有する)ことができるようになります。

 この質疑応答に関連する内容には、5章6節 愛の行為 #質疑応答の「慈悲/憐れみとは何ですか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 無我、無私、加えて、滅私、亡我、没我、無心、虚心、などと呼ばれている状況は、意識の感じ取る認識/感覚の中で、個体としての認識/感覚へ意識が向かなくなり、全体としての認識/感覚へ意識が向くことを指しています。個体/全体としての認識/感覚ついては、3章8節 意識を参照してください。

 これらの語には、「無/滅/亡/没」などが含まれていますが、自己が無くなる、自己を消滅させる、などの状況を表しているのではありません。自己という主観性そのものである意識が消え去る状況は決してありません。また、「我/私/心」は個体としての認識/感覚を表しています。

 無我、無私、滅私、亡我、没我、無心、虚心、などは、同じ内容の定義を土台とする類義語ですが、それぞれの語によって、利己性/自己中心性/欲望を消し去る、全体の認識/感覚を強く感じる、個体の認識/感覚を感じなくなる、意識が行為の一点へ強く集中している、などの感覚の僅かな方向性/方向性の強さの違いと、外環境の状況によって、用いる語が使い分けられています。

(1000/1000)

 相手の内面を観ようとしても観えるようにはなりません。自己が相手への先入観/偏見などの固定観念/既成概念を有さずに、相手へ自己に都合の良い行為を期待せずに、相手の内面を観たいという意志も有さずに、相手を特定の方向性から捉えようともせずに、相手を「あるがまま」に捉えようと努める過程で自然に観えるようになります。あるがままに捉えることについては、5章1節 修養の生活 #質疑応答の「物事をあるがままに捉えるには、どのようにすればよいのでしょうか?」を参照してください。

 相手の内面が観えるのは特殊な事柄ではなく、霊として自然です。霊に観えない/感じ取れない物事は何ひとつなく、同時に、霊に偽装/隠蔽[いんぺい]できる物事は何ひとつないのです。地上では、肉眼に視える物的な物事へ意識を偏重して向けやすいために、相手の用いている有形体の状況を視て「相手を観ている/捉えている」と思い込んでいる状況が頻繁にみられます。有形体を自動車へ譬[たと]えた場合に、地上では、自動車の生産国、自動車の使用年数、外観の形状/色彩/凹[へこ]み/傷、部品の欠損/故障、燃費、エンジン音、などで自動車を運転している者を判断しているといえます。自動車の運転の仕方(運転する際の周囲の状況確認を含む)で、運転している者を観る必要があります。

 相手が精神で造化している思考/感情、自覚的な(自覚のある/自覚できるものの自覚のない)行為の目的、保存している固定観念/既成概念の内容/強さ、習慣の内容/強さ、貯蔵している知識の内容/程度、などが観える、また、憑依している地獄者/地縛者の有無や動向、自己に向けられた善意(愛)/悪意(利己性/自己中心性/欲望)、などが観えるのは、眼前にある「物体としての物品」が有形体の肉眼を通して視えているのと同様に、眼前にある「有形的/無形的なもの」が無形体を通して観えているに過ぎません。無形体を通した認識は、自己の成長段階で有している認識の程度や、自己の内面に有している習慣、固定観念/既成概念、情報/知識、などが制限しているだけであり、本来は無限の範囲/程度を認識できます。自己が自身で造り出している制限を消し去っていくだけで、認識できる範囲は拡大し、認識できる程度も向上していくのです。

 なお、眼前に観えているにも関わらず、観えないように振る舞うのは誠実ではありません。同様に、眼前に観えている「もの」を、観えていると喧伝するのも誠実ではありません。これらを詳細に考察したのならば、「あるがまま」に捉える誠実さとは何か? に気づき、「あるがまま」に捉えるように努めることができます。

 この質疑応答に関連する内容には、2章1節 世界全体の構造 #質疑応答の「自己の内面が外環境へ反映されて、自己にとっての世界を造り出していることは、成長を実践するうえで、どのような意味がありますか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 成長へつながる学びは、我慢、忍耐、辛抱、などではなく、寛容/赦しによって得られるようになります。寛容/赦しについては、この節の質疑応答の「寛容と赦しは類似しているようにみえますが、どのような違いがあるのですか?」を参照してください。

 我慢、忍耐、辛抱、などの「自己への抑圧」は、自己の有する利己性/自己中心性/欲望を抑え込もうとしているだけであり、利己性/自己中心性/欲望から受ける影響を消し去っているのではありません。寧[むし]ろ、我慢/忍耐/辛抱へ意識が向くことで、利己性/自己中心性/欲望にも意識が向きやすくなっており、利己性/自己中心性/欲望を増大させるようになります。同時に、我慢/忍耐/辛抱などの抑圧は、直接的に抑圧を生み出している物事への固定観念を形成して強めやすく、また、有形体の均衡/調和を崩して様々な疾病/不調を引き起こすように、はたらきます。痛み/苦しみ/困難/逆境などは、外環境にあるのではなく、自己の内面にある利己性/自己中心性/欲望が外環境の出来事に誘発されて、外環境の出来事を、痛み/苦しみ/困難/逆境などとして捉えさせているのです。痛み/苦しみ/困難/逆境などに反発(我慢/忍耐/辛抱)しようとしても、自己の利己性/自己中心性/欲望を強めるだけであり、痛み/苦しみ/困難/逆境などが更に強く大きく自己へ乗し掛かって来るだけになります。固定観念については、5章4節 固定観念/既成概念を参照してください。

 一方で、寛容、赦[ゆる]し、などは、抑え込むのではなく、受け入れる状況を表しています。先[ま]ずは、痛み、苦しみ、困難、逆境、などを捉えさせる利己性/自己中心性/欲望を自己が有しているという現状を、寛容/赦しをもって受け入れるのです。痛み、苦しみ、困難、逆境、などを受け入れることによって、現在の自己の状況を落ち着いて見渡せるようになり、その後に、外環境の出来事/物事/現象や自己の内面を詳細に考察/内省していくことができるようにもなるのです。八方塞がりと呼ばれる「事態の打開に適切な解決策が見当たらないようにみえる状況」は、現在の状況に我慢しているだけで、現在の状況を受け入れようとしないために、現在に有している「自由意志によって選択できる選択肢の幅」を俯瞰[ふかん]してみることができていないのです。現在の状況を受け入れたのならば、途端に、多くの選択肢に気づくようになります。自己/他者へ寛容/赦しを持続して有するのと、自己/他者/外環境の状況へ我慢/忍耐/辛抱し続けるのは異なる点に留意してください。

 なお、我慢/忍耐/辛抱しない状況が、自己の有する利己性/自己中心性/欲望を「制御しない」ことを表しているのではありません。精神で我慢/忍耐/辛抱を造化するのではなく、克己を造化して誘惑(利己性/自己中心性/欲望)から受ける影響を制御するのです。克己も、我慢/忍耐/辛抱も、双方ともに無形的な形状の表現(印象)です。我慢/忍耐/辛抱は無形的な思考であり利己性/自己中心性/欲望から受ける影響を相殺できませんが、一方で、克己は利己性/自己中心性/欲望から受ける影響を相殺できます。表現の形状については、3章9節 精神を参照してください。

 日常の中では、自覚して寛容に努めているものの、自覚できるものの自覚しないままに我慢/忍耐/辛抱などによって感情を溜め込んでいる状況も多くみられます。自覚しないままに溜め込んでいる感情は、何らかの状況を切っ掛けとして一気に噴き出し、精神を埋め尽くしてしまうために克己で制御し難くなり(感情で埋め尽くされた精神では克己を造化する余地が少ない)、感情のままに利己的/自己中心的な行為をおこないやすくなります。常に自己の内面を内省し、内面に現れる僅かな変化(感情を自覚できるものの自覚なく溜め込んでいる兆候)へ気づくように努める必要があります。

 この質疑応答に関連する内容には、5章3節 誘惑 #質疑応答の「克己による誘惑の相殺は、誘惑によって湧き起こる思考/感情を我慢/忍耐/辛抱することですか?」がありますので参考にしてください。

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 「ゲーム」という語の定義は、広い範囲を有しているために、ビデオゲーム、将棋/囲碁/麻雀などを含むボード/カードゲーム、ダーツ/ビリヤード/ボーリングなどを含む各種スポーツの試合、仕合、競技、各種のコンテスト、コンクール、ギャンブル(賭け事)、などを総合した定義として下記を記述します。

 ゲームと呼ばれている物事の本質/構造は、競争、争奪、戦い、優劣、序列、などの、不誠実性、あるいは、誠実の程度が低い性質を有している点に留意してください。これらの性質は、成長を阻碍させるように、はたらきます。なお、ゲームの本質/構造と、各種ゲーム、スポーツ、武術、などの有する技術に関係性はありません。技術は、分霊の心が有する経験の機能特性へ保存される「誠実/不誠実の性質と関係しない習慣」に相当します。技術を研鑽するのと、技術を用いて競い合うのは別なのです。経験の機能特性については、3章7節 心を参照してください。

 ゲームの中でも、特にビデオゲームには、暴力を用いて相手を打ち負かす、相手から簒奪[さんだつ]する、などの表現が多くみられ、これらの表現を通して、達成感、爽快感、快楽、快感、などを得るように仕組まれています。また、明確に暴力と捉える表現にはみえなくても、巧妙に隠されながら暴力を用いるような表現も多くみられます。これらの暴力表現は、自覚の有無に関わらず、大義名分があれば暴力を用いて良いという捉え方を刷り込みます。加えて、競争、争奪、戦い、優劣、序列、などのゲームの有する性質は自覚のある、あるいは、自覚できるものの自覚のない囚われとして機能し、経験へと保存され、恐れ/怯えを隠して、虚勢を張らせ、欲望を煽[あお]り、感情を正当化し、利己的/自己中心的な行動を推進するように促され、日常の行為へ影響を与えるようになります。

 このことは、ゲームだけでなく、小説、漫画、映画、演劇/ドラマ、音曲(歌詞)、などの内容にも当てはまり、中には、殺傷、掠奪(盗み)、騙[だま]す、欺[あざむ]く(裏切り)、約束事の反故[ほご]、恐喝/脅迫、建築物/物品の破壊、放火、暴動、拷問、特定の人種/民族至上主義、選民志向、身分/階級制度、などを奨励して積極的におこなわせる内容もみられ、これらの不誠実な内容から、自己の日々におこなう行為へ自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく影響を受けています。ただし、影響を受けて日常の生活で、殺傷、掠奪、騙す、欺く、約束事の反故、恐喝/脅迫、建築物/物品の破壊、放火、暴動、拷問、などをおこなうようになるとは限りませんが、物事の捉え方(捉える方向性)や習慣/固定観念の形成/強化へ影響を受けています。一方で、分かち合い、支え合い、協調、思いやり、などを奨励する誠実な内容からは、自己のおこなう行為へ自覚して影響を受ける状況はみられても、自覚できるものの自覚なく影響を受ける状況はみられません。

 ただし、各種のゲームをしてはならないということではありません。どのような物事/内容から、何を学ぶのかは本人次第なのです。ゲームの有する性質を認識したうえで、学びを得ようとする意志があるのならば、必ず何らかの内容を学び取れます。また、ゲームへ熱中し、ゲームの内容へ意識を向けて学ぼうとするよりも、ゲームという本質、構造、枠組み、などへ意識を向け、ゲームの内容を含む、ゲームの全体を俯瞰[ふかん]することで、学びへとつながる気づきを得やすくなります。

 この質疑応答に関連する内容には、5章6節 愛の行為 #質疑応答の「意識の集中と、物事への熱中は同じですか?」がありますので参考にしてください。

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 社会の発展/成長に、必ずしも「競争」が必要ではありません。競争は、他者、他の共同体、他の企業、他の国家、などに負けたくない、勝ちたい、という思いに基づく行動です。その行動の結果として、優越感、敗北感、劣等感、などを感じるようになりますが、これらは、恐れ/怯えを土台としています。そのため、競争は、自身と相手の利己性/自己中心性/欲望を際限なく強めていくように、はたらきます。

 競争によって形成されている社会は、恐れ/怯えに基づいているために、搾取、奪い合い、出し抜き合い、物的な生活の格差、などを生み出しており、個体、企業、国家、社会、などの利己性/自己中心性/欲望を強めていく結果として、表面的に発展しているようにみえるだけなのです。例として、国会議員、大統領/首相、各地域の議会議員、などの為政者の選出を選挙戦と呼び、当選を「勝った」、落選を「敗れた」と捉える「物事を勝敗で捉える競争の捉え方」は、選出されたとしても、政党/派閥の勢力争い、競争を煽[あお]る法整備、相手を非難/批判/糾弾し貶[おとし]めて牽制する議会、他国との優劣を競う外交、などの「物事を勝敗/優劣で捉える政治」をおこなうようになります。

 同様に、科学技術、宇宙/深海の探査、軍事力、経済力、天然資源の採掘、などで他国/他企業と競争/対抗するのは、他国/他企業よりも常に優位にありたいという恐れ/怯えに基づいています。もしも、他国/他企業よりも優位になったのならば、次は、他国/他企業から追いつかれ引き摺[ず]り降ろされることに恐れ/怯えるようになります。何時[いつ]までも順序付けによる「優劣」の捉え方にしがみつき、他国/他企業よりも優れていなければならないと思い込み、恐れ/怯えに突き動かされて「優劣」の捉え方を強める循環を形成しているのです。地上では当然のようにおこなわれている競争という捉え方/行動も、無形界では、成長の程度が地上と同等な最下層付近の低い界層を除けば、他の界層ではみられません。様々な「優劣」の捉え方の中でも、軍事力を増強させる国家は、軍事力に依存する強い恐れ/怯えのために、国家や国家の設置されている地域の発展を阻碍しています。恐れ/怯えと向き合い、恐れ/怯えを消し去っていくことで、国家や国家の設置されている地域の発展へつながります。軍事力への依存については、5章3節 誘惑 #質疑応答の「国家が軍隊を保有することは、不誠実な行為となるのでしょうか?」も参考にしてください。

 そして、競争ではなく、協調があるのならば、社会は愛に基づいて発展していきます。寧[むし]ろ、愛に基づいていない限り、社会が発展する状況はありません。協調とは、相手を牽制することでも、足並みを揃[そろ]えることでもありません。協調は、相手を受け入れ、お互いに支え合うことを表しています。現在の地上社会では、様々な技術の発展には、競争が不可欠だと信じられていますが、決してそのようなことはありません。個々や、それぞれの企業/国家で開発された技術を、秘匿、特許、などによって堅守しようとせずに、必要とする者へ積極的に公開し提供していくことで、お互いの技術をお互いの開発へ活かし、更に技術を発展できるようになります。競争は、対立/分断/分裂/不和を生み出しやすいですが、一方で、協調は、融合/統合/調和を生み出します。

 この質疑応答に関連する内容には、サイト利用に関する各種取扱 #質疑応答の「知識は個体ではなく全体のものとは、自身で考え出した内容も自身の知識ではないということですか?」がありますので参考にしてください。

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 はじめに、技術を研鑽するのと、研鑽した技術を用いて競い合うのは無関係であり、両者につながりはないという内容については、この節の質疑応答の「ゲームを通して成長への学びを得ることはできますか?」を参照してください。

 スポーツ、語学学習、絵画、作曲、各種の職業技術、などの様々な技術の研鑽に共通してみられる内容には、意識を一点へと集中し、集中を持続させる強い意志を養成することが挙げられます。技術は経験の機能特性へと保存される習慣のために、容易に習得することはできず、片手間で習得できるものでもありません。強い意志で技術の習得/研鑽へ意識を集中する必要があります。成長という観点から捉えると、意識を一点へ集中し、集中を持続させることは、活動性から受ける感覚を把握し、高い活動性の程度へ同調していくために必須であり、加えて、外環境/他者を高い程度で詳細に観察/考察する際にも、行為へ高い活動性の程度を付与する際にも必要です。

 技術の研鑽において、精神で理想とする技術の在り方を明確に思い描き、現在の技術を、その理想へ近づけるように意識を集中して修練/改良していく過程は、今後に無形界で適切な造化をおこなうためにも役立ちます。強い意志で意識を一点へ集中することは、無形界での生活において、あらゆる行為/あらゆるものを正確に造化するための土台であり、もしも、意識が散漫であれば、外環境を適切に認識するのは困難となり、また、精神で思い描いた内容を外環境へと適切に表現するのも困難となります。地上では、精神で有形的/無形的に思い描いた内容を、有形体を通して物的に修練/改良していく場合が多いですが、一方で、無形界では、強い意志で意識を集中して、有形的/無形的に思い描いた内容が明確であるほどに、鮮明であるほどに、思い描いた内容そのままを外環境へ造化できるようになります。

 加えて、技術の研鑽は、意識を一点へ集中する強い意志を養成するだけでなく、高い程度の技術を他者のために役立てられるようになります。地上の生活で研鑽した様々な技術は、有形体の使用期限(死)とともに失われてしまう状況はなく、無形界で更に研鑽していくことも、愛の行為として他者へ役立てることもできるのです。

 なお、研鑽した技術を用いておこなわれる競技の成績と、成長の程度に、関係性はありません。スポーツに限らず、芸事と呼ばれている表現で優れた成績を残すためには努力が不可欠ですが、何に対して努力しているのか? という「努力する目的」によって、成長へつながる場合もあれば、成長へつながらない場合もあります。食事、睡眠、挙措、思考、などの日常の生き方(生活習慣)を詳細に考察/内省して逐一に見直し、競技技術を高めていくことへ専心/献身した結果として、記録/順位などが向上して優れた成績を残し、同時に、自己の成長へとつながる場合もあります。一方で、競争という捉え方に囚われ、記録/順位などを上げたいという目的だけでは、優れた成績を残したとしても、成長へつながる状況はみられません。優れた成績を残していたとしても、成長することなく、不誠実な生き方をしている者は多くみられます。

 スポーツの成績は、本人の努力だけでなく、個々の用いている有形体の体質にも大きな影響を受けています。必ずしも努力のみで成績が向上するのではありません。自己がスポーツで競うのは同じ競技をおこなっている相手ではなく、自身の有している恐れ/怯えや利己性/自己中心性/欲望と、固定観念/既成概念を含む習慣です。もしも、日常の生活を修正し続け競技技術の研鑽に努めているにも関わらず、競技成績が伸び悩んでいたとしても、恐れ/怯えに打ち克ち、利己性/自己中心性/欲望を超越し、固定観念/既成概念を解消して、習慣の修正ができているのならば、霊の成長は促進されています。スポーツという物的な活動を、無形的に価値のある「霊の成長」へ活かせたのです。

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 機械/電子機器などを使用すること自体と、成長の促進/阻碍は関係ありません。機械/電子機器などを、必要な時に、必要とする程度で使用するのであれば、成長を阻碍しません。一方で、機械/電子機器などへ依存し、必要としていなくても(最低限に必要とするよりも多く)使用する習慣/生き方が成長を阻碍するようになります。物的な物品(機械/電子機器など)ではなく、自身の有する無形的な意志の方向性、囚われ、習慣、などの内面の状況が、成長を促進もすれば、阻碍もするのです。

 現在の地上社会では、機械/電子機器が生活の中に溢れおり、日常生活を様々な側面から支えていますが、それらの中でも依存しやすい品目には、パソコン、携帯端末、自動車、テレビ、エアコン、などが挙げられます。依存の例として、身体が不自由でもないのに僅かな距離の目的地へも自動車に乗っていく、視聴したい番組もないのにテレビを映したままにしている、歩きながら/交通機関に乗りながら常に携帯端末を操作している、などがあります。

 日常の生活では、目的を遂行するために、また、効率を高めるために造り出した人工的な時間の尺度、暦(日/週/月/年)、規則、規範、戒律、規格、形式、様式、手段、方法、仕組み/機構/システム、などへ自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく囚われ、縛られ、しがみついている状況は頻繁にみられます。これらの造り出した「もの」は、計画の立案、構想、観察/考察、行動の補助、指針、などに利用して生活の効率を高めるために造り出したものの、何時[いつ]の間にか造り出した「もの」に囚われ、縛られ、しがみついて生活の効率を低下させているのです。これらの「もの」を、生活の効率を高めるために利用するのならば、成長の促進へつながる場合もありますが、一方で、生活の効率を低下させるために囚われ縛られているのならば、成長を阻碍しています。

 なお、機械/電子機器などを使用しないことに固執して、機械/電子機器などを使用すれば短時間で容易にできる作業へ、手作業で長い期間と労力を費やしておこなう必要もありません。同様に、囚われ、縛られ、しがみついている状況が成長を阻碍するからといって、造り出した「もの」を利己的/自己中心的に破壊/破棄/逸脱するのではありません。使用するのに適切な状況で、必要とする程度に使用することが大切なのです。

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 成長へつながる学びを得られるのか/得られないのか、また、どの程度の学びを得られるのかは、本人の成長を求め学びを得ようとする意志の強さと、物事を通して考察する程度、考察した内容に基づいて自己を内省する程度、によって決まるために、物事の有する誠実/不誠実の性質や、誠実/不誠実の程度は、学びを得るのには関係ありません。どのような物事を通してでも学びを得ることはできます。

 不誠実な性質を有する物事からは、物事の有する不誠実な性質の活動性や、極めて低い誠実な性質の活動性の程度によって、自己の同調する活動性の程度を下降させようとする圧力(影響力)を強く受けるようになります。加えて、不誠実な物事の内容から影響を受けて、自己の自覚できるものの自覚のないままに、不誠実な性質を有する囚われが形成される状況もみられる点に留意する必要があります。これらを認識したうえで、真摯に学びを得るように努めるのならば、不誠実な物事からでも、必ず何らかの学びを得られるようになります。

 ただし、不誠実な物事を通してしか得られない学びの内容というものはありません。また、誠実な物事よりも、不誠実な物事を通して学ぶほうが、成長を飛躍させやすいという状況もありません。運命の流れによって眼前に現れる「避けることのできない不誠実な物事」からは積極的に学びを得るように努めても、成長を阻碍する可能性が高い不誠実な物事を積極的に求めて、「避けることのできる不誠実な物事」へ関わる必要性はないのです。なお、利己的/自己中心的で不誠実な目的/意志に基づいて、誠実/不誠実な物事を通して学びを得ることはできません。成長へつながる学びは、常に、成長を求める誠実な目的/意志に基づいてのみ得られます。

 地上では、社会の成長の程度に相応する誠実な内容の物事と、物質の心に由来する不誠実な内容の物事が、社会で人気を博し、社会へ拡散しやすい特徴がみられます。加えて、内容の誠実/不誠実に関わらず、物事の内容が示す方向性(主題/テーマ)は、社会の情勢、地域の流行、などに影響を受けやすい特徴がみられます。社会の成長の程度よりも高い程度を有する誠実な物事の内容は理解し難く難解に感じるために人気がなく拡散し難いです。同様に、社会の成長の程度よりも低い程度を有する誠実な物事の内容は容易に感じるために人気がなく拡散し難いです。一方で、地上では有形体の内包する物質の心から絶え間なく誘惑の影響を受け続けているために、不誠実な物事の内容(利己性/自己中心性/欲望を喚起/増大させる内容)は拡散しやすく人気を得やすいですが、社会の成長の程度が向上するほどに、不誠実の程度が高い物事は徐々に人気がなくなり拡散し難くなります。誘惑については、5章3節 誘惑を参照してください。

(1000/1000) 社会の成長の程度と拡散しやすい内容
(1000/1000) 社会の成長の程度と拡散しやすい内容

 現在の地上は、電子端末やインターネットなどの普及により、入手できる情報量は日々に増大し、情報の拡散する速度も日々に加速しています。誠実/不誠実な情報、様々な程度の情報(様々な真実度を示す情報)、誤情報、偽情報、などが混在して溢れ、内容の移り変わりが速く、眼前に現れる無数の情報のひとつひとつを考察するには膨大な時間を必要としてしまうために、入手する情報を自身で詳細に考察することなく安易に盲信しやすい状況を造り出していますが、眼前に現れる無数の情報を包括して考察するように努めることで、それぞれの情報へ意識が分散しなくなり、意識が散漫となるために起きる「安易に盲信する状況」を防げるようになります。

 同様に、テレビ番組の内容、報道/ニュースの内容、インターネットで検索する情報、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス) で拡散される情報、などが、ある物事/現象/出来事の全体像を表している状況はなく、特定の方向性から偏重して捉えています。特に、ある物事/現象/出来事について、突飛/奇抜にみえる側面/部分、肉眼で劇的な変化の視える側面/部分、利己性/自己中心性/欲望を喚起しやすい側面/部分、などの「視聴者/読者の興味/関心を惹[ひ]き付けやすい方向性」から偏向して捉えている状況が多くみられます。例として、ある地域で地震が起きた際に、被害を受けて大きく傾いた「ひとつの高層ビル」が集中して報道され、地震による破壊の規模が伝えられるものの、実際には、他の家屋/建造物/ビルや交通機関/店舗には被害がみられないか、軽微な損傷の場合もあります。しかし、報道を視聴した者には、地域の全体で無数の家屋/建造物/ビルが倒壊して生活が麻痺/崩壊しているかのように誤認しやすいです。

 世論に迎合するマスメディアや、世論に追随するSNSの利用者は、犯罪と呼ばれる行動をおこなった容疑で公安に検挙された者がいれば、検挙されるまでの生活で、どれほどに不正/不良な行動をおこなってきたのかに偏向して報道/情報を拡散し、極悪人に仕立て上げて世論の槍玉に挙げようとする状況は頻繁にみられます。状況によっては、検挙された者の家族/親族/友人も槍玉に挙げようとします。そして、もしも検挙された者が冤罪[えんざい]であったのならば、途端に擁護するような報道/情報の拡散をおこないます。勿論[もちろん]ながら、全てのマスメディアが世論に迎合し、全てのSNSの利用者が世論に追随しているのではありません。世論に迎合せずに公正な報道をおこなうマスメディアや、世論に追随せずに公平な情報を発信するSNSの利用者もいますが、地上社会の全体からみると少数です。

 また、ある情報の内容を「嘘か?/本当か?」と他者へ真偽を尋ねるのではなく、自己が自身で情報の内容を調査/検証/考察することで、自己に適した方向性/程度での理解を促し、学びへとつながります。他者(マスメディアを含む)は、他者の有する捉え方の方向性/程度に基づいて物事を考察しているのであり、自己の有する捉え方の方向性/程度に基づいて物事を考察しているのではない点に留意してください。他者の有する様々な捉え方の方向性/程度に基づいて考察された内容を参考にしながらも、自己が適切に理解するには、自己の有する捉え方の方向性/程度に基づいて考察する必要があるのです。現在の地上社会では未だに、相手を騙[だま]し、欺[あざむ]き、愚弄[ぐろう]する生き方が蔓延しているために、相手の伝える内容を「嘘か?/本当か?」と判断する固定観念/既成概念が形成/強化されています。これらの生き方が蔓延していないのならば、相手の伝える内容を「嘘か?/本当か?」で判断する状況はなく、相手の伝える内容は「どれくらいの正しさの程度か?」で判断するようになります。

 この質疑応答に関連する内容には、3章3節 分霊 #質疑応答の「自己の属する次元と、つながりのある次元は、どのような違いがあるのですか?」がありますので参考にしてください。

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 はじめに、地上/無形界では、「成功」の捉え方が異なります。地上での成功とは、ある者にとっての物的な成功の状況が他の者にとっての失敗の状況の場合もあり、逆に、ある者にとっての物的な失敗の状況が他の者にとっての成功の状況の場合もある、相対的な物事の捉え方を表しています。一方で、無形界での成功とは、自己/他者/全体の「霊としての成長を促進し続けている」という絶対的な物事の捉え方を表しています。また、成功の本質は、ある段階へ到達することではなく、ある段階を越えたのならば、次の段階を目指し続ける状況を指しています。

 地上社会での「成功」と呼ばれている物的な状況は、必ずしも霊の成長へつながっているとは限りません。寧[むし]ろ、物的な成功が、霊の成長を阻碍/退行させている場合も多くみられます。地上では、有形体の内包する物質の心から絶え間なく誘惑の影響を受け続けている点に留意してください。成功と呼ばれる状況や、地位/権力/称賛/物的な資産(お金を含む)などを得ることで利己性/自己中心性/欲望に呑まれ、誠実な生き方から不誠実な生き方へ反転する者は多くいます。

 地上での成功とは、ある観点(特定の方向性)から捉えた際に、特定の体験で自己にとって都合の良い状況が得られたことを指しており、ほとんどの場合では、肉眼に視える物的な状況で成功したのか? 成功しなかったのか? を判断しています。もしも、特定の体験で自己にとって都合の悪い状況が起きれば「失敗」と判断しています。そのため、ある観点からみれば特定の体験を成功と判断していても、他の観点からみると失敗といえる場合もあります。特に、物的な成功が霊的には失敗の場合もあり、物的な成功によって、世界の進化を停滞させる、あるいは、成長を阻碍/退行させるような生き方をしている状況もみられます。

 例として、アスリートの競技成績の向上は物的には成功といえますが、日常を利己的/自己中心的に生活しているのならば霊的には失敗となります。逆に、日常の些細な行為も内省し、生活習慣を修正し続けた結果として競技成績が向上したのであれば、物的にも霊的にも成功となります。別の例として、物品の販売による売上の増加は個体/企業の経済という観点からは成功と判断されますが、売上を伸ばす目的で物品を販売しているのであれば利己的/自己中心的であり、霊の成長という観点からは失敗といえます。逆に、相手のために役立つ物品を提供したいという目的で販売した結果として売上が増加したのであれば愛の行為となり、霊の成長という観点からも成功といえます。愛の行為については、5章6節 愛の行為を参照してください。

 なお、個々のおこなう「自由意志による様々な選択」に成功/失敗はありません。眼前の状況に適切/不適切、あるいは、必要/不必要な選択があるのみです。ある選択肢を選択することが眼前の状況へ適切であったとしても、物的には失敗の場合もあります。眼前の状況へ適切な選択肢を選択し続ける状況が、必ずしも物的な成功へつながっているとは限りませんが、成長を促進するという霊的な成功へはつながっています。適切/不適切や必要/不必要の定義については1章1節 サイトを読むにあたって #質疑応答の「適切と必要は、どのように違うのですか?」、また、自由意志については4章6節 自由意志/運命を参照してください。

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 日常に用いる言語とは別に、他言語を習得すれば、他言語を用いる地域、他言語を話す人々、他言語で記述された書物、などとの直接的な接触を可能とするために、多くの広範な体験が得られる機会を増加させてくれます。多くの広範な体験は、様々に考察/内省させ、自覚できるものの自覚していない囚われや習慣へ気づく切っ掛けとなり、成長へもつなげやすくなります。他言語を学べる状況であるのならば、積極的に習得していくことが様々な知識の貯蔵や成長へも役立つといえます。

 言語は物的/有形的な伝達手段のひとつに過ぎませんが、社会では、言語は様々な活動をおこなう土台となっており、言語を用いなくても活動できるものの、言語を用いることで、他者と連携した細[こま]やかな活動をおこないやすくなります。また、文字は発言/思考の内容を相手へ明確に伝えやすくし、時間差を置いて伝える(記録しておける)ことを可能とします。言語を構成する、単語、単語の定義、単語の語源、文法、発音、などには、言語が造り出され発達してきた地域の文化、歴史、既成概念(常識)、風土、これらの変遷する状況、などが表れており、言語を詳細に考察するだけでも多くの気づきを得られます。言語の習得に限らず、様々な技術の習得は、今回の地上での生活だけでなく、今後の地上/無形界での生活において、いずれ役立つ可能性があります。習得しても決して無駄にはなりません。なお、技術の習得と、資格/免許の取得は同じではありません。資格/免許は、地上で主に特定の職業/職務を遂行するための基準/最低要件を表しているだけであり、資格/免許の取得が技術を習得している状況を表しているのではないのです。

 ただし、今回の地上生活で必ず他言語を習得しなければならないのではありません。言語や様々な技術の習得には多大な時間/労力を必要とするために、今回の地上生活で多大な時間/労力を費やしてでも習得する必要があるのか? 習得する必要はないのか? は、個々の有する地上での目的/役割によって異なります。地上で生活している者は、地上の発展という大きな役割の中で、それぞれが小さな役割を分担しています。自身の担う役割に基づき、今回の地上生活で多大な時間/労力を費やしてでも他言語や特定の技術を習得する必要があるのならば、他言語や特定の技術へ触れ、学び、習得する生活の方向性へ天使たちが導いてくれています。落ち着いて自身の内面へ誠実に向き合えば、天使たちの導きによって、他言語や特定の技術(言語を含む)を習得する必要性へ自然に気づきます。天使については、4章10節 天使を参照してください。

 もしも、他言語を習得することが今回の地上での役割に含まれていないのならば、他言語からの翻訳/通訳や、他言語への翻訳/通訳は、それらを地上での役割としている者へ任せ、自己は自身の地上での目的/役割を遂行する状況へ意識を集中する必要もあります。自身の地上での目的/役割を遂行することが、今回の地上での自己/他者/地上全体の成長へと最もつながるのです。ある内容が地上での役割なのか? 役割ではないのか? を判断するひとつとして、本人が地上での役割を遂行している際には、周囲の者は、本人から力強さ、輝き、勢い、などと表現される感覚を感じ取ります。

 他言語の習得だけでなく、国内/国外に関わらず、旅行、留学、出張、移住、などで、これまでに生活していた地域と異なる地域へ赴[おもむ]き生活するのも、多くの広範な体験が得られる機会を増加させます。特に、赴いた地域社会の有する常識(既成概念)を学ぶのに役立ち、自己の有する固定観念/既成概念に気づき解消する切っ掛けとなります。加えて、これまでに生活していた地域とは異なる他の地域社会での生活/常識に基づいて、以前に生活していた地域社会を捉え考察するのも、自己の有している固定観念/既成概念に気づくだけでなく、様々な学びへとつながります。固定観念/既成概念については、5章4節 固定観念/既成概念を参照してください。

 それぞれの地域社会には、常識として「暗黙の通念事項/了解事項」を形成している物事が多くあり、中でも、自己の生活している国と他の国では大きく異なる場合もみられます。身近な例として、電車に乗る際の切符を購入する手順、路線バスへ乗車した際の乗車停留所と降車停留所での差額運賃の支払い方、自動販売機で飲料を購入する方法、などが挙げられます。自動券売機/販売機の場合では、お金を投入した後に該当する金額/商品のボタンを押す地域もあれば、該当する金額/商品のボタンを押した後にお金を投入する地域もあり、暗黙の通念事項/了解事項のために手順が記載されている状況は少なく、該当する地域で生活している者には当然に把握している内容ですが、他の地域社会から訪[おとず]れた者には当惑の原因となります。

 また、地域社会ごとだけでなく、職業/学問などの専門分野ごとにも暗黙の通念事項/了解事項が多くみられます。自己が日常に接する機会のない専門分野に関連する書物を読む、日常的に立ち寄らない場所/施設へ訪れる、なども、自己の有する固定観念/既成概念に気づき解消する切っ掛けとなります。例として、美術館、図書館、動物園、博物館、卸売市場、漁港、酪農公園、各種スポーツ施設、劇場、歌舞伎座、音楽堂、見学可能な企業の工場/職場、などが挙げられます。

地上での生活

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 地上で有形体を用いて生活している者の人口の増加は、現在での「地球の進化の程度(惑星の進化の程度)」が、お互いが必要とする物事を分け合い、与え合い、共有することを、個々だけでなく、地上の各共同体/各国家/各地域だけでもなく、地上全体として学ぶための段階にある状況を示しています。有形界に適応される法則に基づき、地上の様々なものを分け合い/与え合い/共有できる範囲でのみ人口は増加し、それ以上に人口が増加する状況はありません。土地、水、森林、鉱物、食物、物品、などの、地上で肉眼に視える物的な物事を、「奪い合い、所有/独占し、搾取する」利己的/自己中心的な現状を辞め、「分け合い、共有し、与え合う」愛の行為を通して個々の成長を促し、そして、個々の成長が総合されて、各共同体、各国家、各地域、などの成長となり、地球の進化へとつながります。惑星の進化の程度については、2章3節 有形界の構造 #有形界の進化を参照してください。

 地上での人口の増加そのものが、土地、水、森林、鉱物、食物、物品、などの涸渇/不足を生む状況はありません。地上人口の少数が極度に浪費しているために、涸渇/不足を心配しているだけです。個々が必要とする最低限よりも多い部分へしがみついて蓄え、欲望のままに掻き集め、所有/独占しようとせずに、他者へ分け与えるのならば、決して涸渇/不足するような状況はないのです。大霊が、涸渇/不足することのないように配慮してくれているのです。ただし、地上人口の少数が極度の浪費を継続し、地上全体へ分配しないのならば、涸渇/不足は生み出されます。

 地上の環境は、有形体を用いる分霊(人/脊椎動物)が生活できるように、無形界の担当者たちによって造化/整備されていますが、水、大気、大地、植物、鉱物、無脊椎動物、(場合によっては、脊椎動物を含む)、などの地上で人が「天然資源」と呼んでいる自然環境は、人の所有物でも、共有財産でもありません。自然環境は、有形体と同様に、これらを通して様々に学び成長へ活かすために大霊より貸し与えられているだけです。自然環境を所有物/共有財産と捉えているために、我先[われさき]にと専有/占有/占用に駆け回り、奪い合うようになるのです。貸し与えられている自然環境を適宜に譲り合って共用し、公平な分かち合いを通して「愛」を学ぶことが成長へつながります。

 なお、地上には、有形体を用いて生活している者(人)の人口よりも、地上へ滞在している天使たちや、地上を彷徨[さまよ]う地獄者/地縛者たちのような「有形体を有していない者」の人口が遥[はる]かに多いです。そして、地上で肉眼に視える物的な物事/現象は、地上全体にみられる物事/現象の中での僅かな部分に過ぎず、ほとんどの物事/現象は肉眼に視えない霊的に現れています。肉眼に視える物的な物事を所有することへ囚われている生き方が、どれほどに矮小[わいしょう]なのかに気づき、肉眼に視える物的な物事のみで考察するのは、物事の本質を捉えられないだけでなく、誤認/誤解を多く生み出し、更なる物事の所有、奪い合い、などへつながっていることを理解する必要があります。

 現在の地上全体では、現行人類の歴史において最も人口が増加しているにも関わらず、複数の国に切迫した少子化の課題が生み出されているのは、自国/他国を区別して捉えているためです。民族、国籍、人種、などに囚われて、国内への移民/難民の受け入れを制限して国内の人口が増加しないものの、自国民の人口は減少するために社会活動が減衰していくようになるのです。少子化は、自国民の子供の人数にのみ囚われているともいえます。移民/難民には、大人だけでなく子供も多くいます。また、移民/難民たちが移住した後に結婚し子を成せば、国内の子供の人数も増加します。

 国外からの人口流入が増加すると、自国民は移民/難民/国外からの出稼ぎ労働者に職を奪われるという恐れ/怯えを抱く場合や、犯罪が増加すると訴える場合も多くみられますが、これらは自国民/自国民以外に区別をつけて「自国民を優遇するのは当然」と思い込む序列/優劣の捉え方に起因しています。企業は、移民/難民/国外からの出稼ぎ労働者が拒否できない状況を狡猾に利用して、自社の利益を増大させるために、自国民/自国民以外に給与/待遇などで格差をつけようとし、また、日常生活の様々な自国民との応対の中で忌避感/拒否感/不公平感を示される積み重ねが不満/不服を感じ取らせ、犯罪へとつながるようにもなります。自国民/自国民以外で区別することなく公平な待遇や応対を受け、不満/不服を感じていないのであれば、無用に犯罪は起こりません。自国民であったとしても、移民/難民であったとしても、自己の利己性/自己中心性/欲望を満たすために犯罪と呼ばれる行動をおこなう者はいます。自国民/自国民以外の区別で犯罪の有無/多さが決まるのではなく、個々のおこなう自由意志の選択で犯罪の有無が決まるのです。自由意志については、4章6節 自由意志/運命を参照してください。

 同時に、移民/難民/国外からの出稼ぎ労働者は、元いた国/地域の文化/生活様式/風習などで行動するのは当然と捉えずに、元いた国/地域の文化/生活様式/風習などによる行動と移住先の文化/生活様式/風習などを比較して考察し、自身の行動で周囲の者たちとの無用な軋轢[あつれき]を生み出さないように努める必要もあります。これは、自己の有している固定観念/既成概念へ気づき修正していくことを指しています。自国民も、移民/難民/国外からの出稼ぎ労働者も、相互に寛容と協調のある生活をおこなうように努める必要があるのです。固定観念/既成概念については、5章4節 固定観念/既成概念を参照してください。

 自己/自国/自社が、地震/洪水/火事の被災、大量の移民/難民の流入、化石燃料/レアアースの埋蔵量の減少、などの眼前に現れる「自己/自国/自社に都合の良くない物的な変化」を拒否/拒絶しても、物的な物事は絶え間なく変化します。変化を受け入れ、眼前の状況を自己/他者/全体(自国/自社を含む)の成長へ積極的につなげていくほうが物的にも有形的/無形的にも建設的であり、自然です。自然な流れの中で愛の行為がおこなわれ拡大/進展していくのです。不自然な流れの中には利己性/自己中心性/欲望や恐れ/怯えが潜んでいます。大量の移民/難民の流入を例とした場合では、自国への流入の阻止や、元いた地域/国への送還は不自然といえます。移民/難民は自国への侵略者/簒奪[さんだつ]者ではありません。ひとつの国家で流入への対応が困難であるのならば、他国も協力/協調して支援/援助し、国家ごとの枠組みとして対応するのではなく、地上で生活する人類全体として対応するのが自然といえます。

 なお、少子化/高齢化/出生率低下を課題としている地域は、地域にみられる現在の社会構造や生産性の多くが過剰です。現在の過剰な状況にしがみつき維持したいがために、少子化/高齢化/出生率低下を悲観しているのです。自己(自国/自地域)に都合が良くないと感じ取る変化を恐れ/怯えているために、課題として持ち挙がるともいえます。逆に、出生率の高い地域では、現在の社会構造や生産性の多くに不足がみられます。個体でも、企業/国家などの共同体でも、現在の自己/自企業/自国に都合の良くない変化を課題/問題/障壁/逆境/試練として感じ取ります。現在の自己/自企業/自国に都合の良くない変化からは苦しみを感じ取りますが、成長の観点から捉えると、苦しみを感じ取る変化へ立ち向かい、変化(課題/問題/障壁/逆境/試練)へ誠実に取り組む過程が学びへとつながり、自己/自企業/自国/社会の成長を促します。一方で、現在の自己/自企業/自国に都合の良い変化からは苦しみを感じ取らず、怠惰/安逸/怠慢を生み出しやすく、自己/自企業/自国/社会の成長を阻碍/退行させやすいです。

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 多数決という採決の方法は、社会の様々な場面で用いられ、民主主義/民主政治と呼ばれる統治/運営の方向性を決定する中核を成していますが、集団の中で採決する内容へ賛同する者が多い/少ない状況を表しているだけであり、採決される内容の誠実/不誠実とは関係なく、採択された内容の誠実/不誠実とも関係ありません。

 多数決による採決の方法では、集団の中に、誠実な生き方をしている者が多くを占めているのならば誠実な内容が採択されやすくなり、逆に、不誠実な生き方をしている者が多くを占めているのならば不誠実な内容が採択されやすくなります。同様に、集団の中に、高い成長の程度を有する者が多くを占めているのならば高い正しさの程度(真実度)を示す内容が採択されやすくなり、逆に、低い成長の程度を有する者が多くを占めているのならば低い正しさの程度を示す内容が採択されやすくなります。これは、社会に占める誠実/不誠実な生き方をしている者の割合や、社会に占める個々の成長段階の割合によって、民意/世論と呼ばれている内容が、必ずしも誠実な性質を示すとは限らず不誠実な性質を示す場合も多くみられ、また、必ずしも正しさの程度が高いとは限らず低い場合も多くみられる状況を表してもいます。正しさの程度(真実度)については、1章2節 真実度を参照してください。

 地上社会の様々な状況で用いられている採決の方法は、全会一致/満場一致、多数決、独裁、の3つに大別されます。国家の運営から捉えた場合では、全会一致/満場一致の採決方法は合議制、多数決の採決方法は民主政治、独裁の採決方法は王制/封建制/専制政治、などにみられます。決して、特定の政治体制/政治制度が優れていて、他の政治体制/政治制度が劣っているのではありません。様々な政治体制/政治制度には「正しさの程度」の違いはみられますが、優劣はないのです。例として、高い成長の程度を有する者が独りで採決(独裁)して社会を牽引するほうが、多数決で採決するよりも早急/迅速に生活しやすい社会を構築でき、社会の成長の程度を向上させる場合もあります。ただし、地上では有形体の内包する物質の心から絶え間なく誘惑の影響を受け続けているために、独裁による採決や、独裁者/首長/独裁(一党)政党への権力の集中は不誠実な生き方へ陥[おちい]りやすくさせ、不誠実な内容が採択される方向性へ強く傾倒しやすいです。

 なお、無形界の仕事で用いられている採決方法は、地上でおこなわれる全会一致/満場一致や独裁の採決方法と類似しています。地上では様々な成長の程度や誠実/不誠実な生き方の者が混在しているために、必ずしも誠実な内容や、高い正しさの程度を有する内容が採択されるとは限りませんが、無形界では、常に「相対的に高い正しさの程度を有する内容」が採択されます。無形界の仕事において、成長段階の異なる者たちで構成される集団の場合では、高い成長段階の者ほどに「正しさの程度が高く広範囲を包括した内容」を案出できるために、相対的に高い成長段階の者が内容を採択して、相対的に低い成長段階の者を指導します。一方で、同等の成長段階の者たちで構成される集団の場合では、案出された複数の内容が有する正しさの程度は同等であり、内容の方向性が異なるだけのために、全員が納得する内容を採択します。どちらの場合であっても、一部の者が納得しないままの状況を造り出しません。無形界の仕事については、2章7節 無形界の仕事を参照してください。

 多数決による採決は、対立/分断/分裂/不和を生み出しやすい特徴を有しています。無形界(地獄層を除く)では、個体/集団が、愛に基づいて発言/行動し、利己性/自己中心性/欲望を土台とする思惑に基づいて発言/行動しないために、多数決では裁決しません。愛は常に秩序を有していますが、利己性/自己中心性/欲望は渾沌(無秩序)です。秩序は、多数のみを容認して少数を排除/無視/放置する状況がなく、必ず全体を包括します。

 この質疑応答に関連する内容には、1章5節 宗教/スピリチュアリズム #質疑応答の「宗教は政治に関わるべきではないのでしょうか?」がありますので参考にしてください。

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 物的な戦争、闘争、死刑、暗殺、襲殺、虐殺、などによって相手を殺害する行動の有する目的の誠実/不誠実や倫理的な是非に関係なく、相手を殺して解決する状況は何ひとつありません。どのような目的であったとしても、相手を殺害する意義は、個体にも社会にも全くないのです。地上では肉眼に視える物事(有形体を含む)へ強く囚われているために、自己/団体/地域社会/国家などに都合の良くない相手を殺せば現状が解決する/事態が変化するという既成概念が何時[いつ]の時代にも形成されています。実際には、相手を殺害する行動によって「肉眼に視える道具」としての有形体が活動を停止しただけであり、相手は無形体で活動しています。相手が物的に肉眼で視えなくなっただけに過ぎないのです。既成概念については、5章4節 固定観念/既成概念を参照してください。

 寧[むし]ろ、相手は殺され有形体を用いなくなることで、自身の活動が有形体に制限を受けなくなり、有形体を有していた頃よりも周囲へ強大な/深刻な影響を与えられるようになります。有形体を用いなければ肉眼に視える物的な影響を周囲へ与えることはできませんが、物的に与えられる影響は、肉眼に視えない有形的/無形的に与えられる影響に比べると弱く小さく僅かでしかありません。肉眼に視える有形体/物体へ与える影響力よりも、肉眼に視えない意識/精神/無形体などへ与える影響力は、人へ強く「はたらきかけ」ます。もしも、不誠実な生き方をしている人を死刑で殺害したのならば、その人は地獄者/地縛者となって、復讐や物的な欲望を満たすために地上で生活する人々へ憑依し、人々を利己的/自己中心的な生き方へと誘い込み、社会を荒廃させていくようになります。地上の生活環境を改善するために相手を殺害する(死刑に処す)ことで、更に地上の生活環境を悪化させている状況へ気づく必要があります。

 同様に、社会/民衆を誠実な愛のある方向性へと導く指導者を暗殺することで、社会の成長を促進しようとする情勢が停滞/後退する状況もありません。地上で拡く認知されている、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア、マハトマ・ガンジー、エイブラハム・リンカーン、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ、たちは暗殺され有形体を捨て去った後も、天使として地上で生活する人々の意識/精神へ愛をはたらきかけ、誠実な生き方へと導いています。

 この質疑応答に関連する内容には、5章3節 誘惑 #質疑応答の「国家が軍隊を保有することは、不誠実な行為となるのでしょうか?」がありますので参考にしてください。

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 ミス/間違いは、誰にでも起こり得ます。どれほどに成長していても、また、地上で生活する人だけでなく、無形界で生活する霊にも起こり得ます。

 ミス/間違いをしないに越したことはありませんが、ミス/間違いをすること自体は、自己の成長の程度に相応する「自由意志で選択できる選択肢の範囲内」にあります。自己が自由意志で選択できる範囲内の選択肢は、大霊より選択することが許容されている状況を表しており、起こり得るミス/間違いは、世界から捉えると許容範囲内にあります。選択肢の範囲以外から選択肢を選択する状況はないために、無形的には、決して取り返しのつかないミス/間違いを選択してしまう状況はないのです。自由意志については、4章6節 自由意志/運命を参照してください。

 そして、ミス/間違いをした後の対応に、個々の生き方が鮮明に表れます。ミス/間違いをした状況へ、慌[あわ]て混乱して対応する場合もあれば、落ち着き冷静に対応する場合もあり、また、幻想による責任逃避/理由付けなどをおこなう場合もあります。対応に表れる生き方は、発言/行動の内容だけでなく、発言/行動そのもの、挙措、態度、などの肉眼/霊眼に視える表現を通して、平常では明確に観察し難い、思考、感情、言動/思考などの目的、固定観念/既成概念(囚われ)、幻想による捉え方、などの肉眼/霊眼に視えない様々な方向性や方向性の強さが鮮明に観えるようになります。他者がミス/間違いをした時には、自己が他者に対して何らかの思考/感情を抱き他者へぶつけるのではなく、他者がミス/間違いをした状況で表れる他者の生き方を落ち着いて観察/考察し、自己がミス/間違いをした際に自己がおこなう対応と比較して、自己の生き方を省みる良い機会として用いることができます。

 なお、地上でおこなわれている裁判/審議などは、肉眼に視える物的な証拠/根拠に基づいて判断しているために、肉眼に視えない有形的/無形的な観点から捉えると、誤った判決/判断(正しさの程度の低い判決/判断)が為されている状況も多くみられます。肉眼に視える物事を偏重して捉えている現在の地上社会では、肉眼に視えない証拠/根拠に基づいて判断することはできません。もしも、肉眼に視えない証拠/根拠に基づいて判断したとしても、社会に受け入れられないのです。自己/他者/社会の成長を求めるのならば、裁判/審議などの結果や、日々にマスメディアで報道される内容を安易に盲目的に信じ込むのではなく、自己が自身で観察/考察して、自身で判断していくように努める必要があります。

 この質疑応答に関連する内容には、2章3節 有形界の構造 #質疑応答の「惑星の進化のために、地上で生活する人が永続性のある活動をおこなうには、どのようにすればよいのでしょうか?」がありますので参考にしてください。

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 経済の活性は、地域社会の物的な発展につながっている場合はみられますが、地域社会で生活する人々の成長の程度や、地域社会の有する成長の程度を向上させているとは限りません。寧[むし]ろ、物的な経済の活性が、人々の利己性/自己中心性/欲望を喚起/増大して、個々の成長の程度を退行させ、個々が日常的に行為へ付与する活動性の程度の総合として表される「社会の成長の程度」も下降させている場合が多くみられます。

 地上で、経済と呼ばれている物的な価値(価格/値段/金額)は、地上で生活している人々の思惑が造り出しており、経済という「もの」が存在しているのではありません。物的な経済は、連綿と続く思惑の総合なのです。主に利己性/自己中心性/欲望を土台とする思惑が、様々な「もの」へ物的な価値(価格/値段/金額)を設定しており、思惑で様々な「もの」の価格/値段/金額は変動します。各種の先物取引、為替相場、不動産価格(家賃/テナント賃貸料を含む)、などは、思惑で大きく変動する典型的な例といえます。なお、思惑に含まれる内容の全てが利己性/自己中心性/欲望に基づく不誠実な性質を有しているとは限らず、誠実な性質を有している内容もあります。

 本来では、植物、鉱物、大気、大海/水、大地(土地)、景観/景色、などの自然環境や、動物に値段はありません。個々の有している知識/技術にも値段はありません。思惑に基づいて物的な価値(価格/値段/金額)を設定し、思惑に基づいて物的な価値に差をつけて、商品として扱っているだけなのです。そして、この思惑の総合が、利己的/自己中心的に物的な利益を追い求めさせ、自然環境の破壊や動物の大量搾取を拡大させており、また、地域社会/地上全体での物的な貧富の格差を生み出している大きな原因にもなっています。自己の経済的な利益を得るために、他者/脊椎動物を利用している者(搾取/差別/虐待などを含む)は決して成長しません。自社の利益を追い求めるために、他社を牽制/脅迫する、自然環境を汚染/破壊する、飢餓/貧困/差別/対立/欲望を助長する、公害/疾病を蔓延させる、近隣住民への立ち退きを強要する、不正/改竄[かいざん]をおこなう、などの企業も決して成長しません。領土の拡大、軍事力の増強、経済的な優位性、などの覇権を追い求めている国家も決して成長しません。

 物的な物事へ意識を偏重して向け、どれほどに人々の物的な生活が豊かになり地域社会が物的に発展したとしても、有形的/無形的な物事へ意識を向けない、あるいは、軽視しているのならば、地域社会で生活する人々の成長の程度は徐々に退行し、地域社会の有する成長の程度も下降していきます。経済の活性や、物的な裕福/発展を得てはいけないのではなく、物的な物事と有形的/無形的な物事の片方へ偏重せずに包括して均等に意識を向け、物的な物事の発展も、有形的/無形的な物事の発達も、均衡を保ちながらおこなう必要があるのです。物的な物事の発展と有形的/無形的な物事の発達に均衡が保たれているのならば、物的に裕福な環境で人々は成長を促進し、地域社会の成長の程度も向上していくようになります。

 この質疑応答に関連する内容には、1章4節 概要 #質疑応答の「日本は欧米の文化を採り入れたことが、霊/精神/物質の不均衡を生み出す原因となったのですか?」がありますので参考にしてください。

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 物的なスラム街(物的貧困地域)で生活している者たちが、必ずしも成長の程度が低いとは限りません。寧[むし]ろ、物的には裕福にみえる地域、あるいは、貧困とは無縁にみえる地域に、成長の程度が低い者たちや、不誠実な生き方をする者たちの集まる無形的なスラム街(霊的貧困地域)が多くみられます。肉眼で視える物的な物事で判断しようとせずに、霊眼で視ようと(感じ取ろうと)すれば、それぞれの地域から、愛/誠実さによって溢れる輝きや、不誠実さによって漂う暗闇へ気づくようになります。

 物的な貧困の中では、助け合い、分け合い、支え合い、などの愛の行為が自然に生み出される場合も多くみられますが、一方で、物的な裕福の中では、独り占め、他者への無関心/無配慮、などを生み出しやすくなります。物的な裕福の中で、助け合い、分け合い、支え合い、などをおこなうには、恐れ/怯えに基づく利己性/自己中心性/欲望を、自覚して弱め消し去っていく必要があります。特に、現在の日本では、物的に裕福な者は優れていて、物的に貧困な者は劣っていると決めつける「幻想の順序付け」が既成概念を形成しています。この既成概念が、物品/情報/金銭を掻[か]き集めさせ、物的な豪華さ/絢爛[けんらん]さを求めさせ、様々な物事(美食/衣服/住居など)へ拘[こだわ]るように駆き立てさせています。

 ただし、成長を求め実践するために、物的に貧困な生活を推奨しているのではありません。貧困ではなく、日常の生活に必要とするものは手に入れても、必要よりも多くを手に入れようとしない、質素/簡素な生活であることが必要なのです。また、物的な所有物を減らしていく状況が質素/簡素な生活になるのではありません。自己の内面にある、恐れ/怯え、利己性/自己中心性/欲望、固定観念/既成概念、などの無形的な「余分/余剰のもの」を弱め消し去っていくほどに、自[おの]ずと物的な生活は質素/簡素になっていくのです。

 この質疑応答に関連する内容には、5章3節 誘惑 #質疑応答の「最低限の必要を満たすよりも多い部分が、利己的/自己中心的な行為や欲望の追求として現れると本編に記載されていますが、服装、化粧、体形、髪型、容姿、などは、本人の美しさを際立たせるために整える必要があるのではありませんか?」がありますので参考にしてください。

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 結婚/婚姻は地上の生活の中では大きな転機/節目のひとつであり、地上で生活する多数の人にとっては、結婚生活が重要な成長への学びの場となります。ただし、結婚は成長するために必須ではありません。結婚の必要性は、個々が地上での生活を始める前に自身で決めています。

 結婚生活は、日常の身近な状況から愛を学ぶのに適していますが、結婚生活そのものを維持するために多大な時間/労力を消費する特徴があります。多くの場合では、伴侶/子供への寛容、自己への赦[ゆる]し、家族を護る勇気、家族への公平/公正な応対、支え合い、相互扶助、などを学ぶために結婚することを、今回の「地上での目的/役割」として事前に決めています。なお、伴侶へ誰を選ぶのかは事前に決まっておらず、地上での生活を始めてからの運命の流れによって決まります。加えて、一度の結婚から学ぶと決めている場合もあれば、結婚/離婚を繰り返す過程から学ぶと決めている場合もあり、更に、結婚直前や結婚後まもない伴侶との死別、伴侶の事故/疾病による介護、子供へ恵まれない状況への苦悩、子供との死別、伴侶との不和/仲違[なかたが]い、伴侶の親族とのつながり、などを通して学ぶと決めている場合もみられ、結婚という行動を通した学び方は様々です。

 しかし、実際には、今回の地上での目的/役割へ結婚が含まれていないにも関わらず、恐れ/怯え、虚勢、利己性/自己中心性/欲望、などの不誠実な目的に基づいて結婚する場合もあります。地上での目的/役割へ結婚が含まれている場合であっても、成長への学びを得ることなく、虚栄心を満たすために結婚生活を自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく利用している状況も多くみられます。この中には、恐れ/怯えを土台として形成された固定観念/既成概念に基づく、結婚しなければならない、結婚して家庭をもつのは当然、という自覚のある、あるいは、自覚できるものの自覚のない焦燥感/脅迫感も含まれています。逆に、地上での生活を始める前に「結婚を通して学ぶ」と決めていたものの、地上での生活を始めた後に、利己的/自己中心的な自己の都合/思惑で結婚しない者もみられます。

 地上での生活を始める前に決めた有形体の使用期限が地上で生活する社会での結婚適齢期へ到達しない場合や、今回以前の地上の生活で結婚生活を通して得られる学びを既に修了しており結婚する必要性がない場合にも、今回の地上での目的/役割へ結婚を含めていない場合があります。また、結婚生活を通して得られる学びを修了していなくても、今回の地上での目的/役割を遂行するのに結婚生活が障碍となる/遅滞させる可能性がある場合にも結婚しないと事前に決めています。

 なお、結婚する伴侶には、類似する性質をもつ者は引き合う法則に基づいて、自己と類似する成長の程度、個性の方向性/方向性の強さ、囚われの内容/強さ、習慣、生き方、などの性質を有する者を自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく選ぶ場合が多くみられます。類似する性質をもつ者は引き合う法則については、2章2節 大霊 #質疑応答の「類似する性質をもつ物事/人は互いに引き寄せ集まるという法則は、どのような法則ですか?」を参照してください。

 ただし、必ず自己の有している性質と類似する者を選ぶとは限りません。自己の有している性質と類似する者を選ばない状況として、地上での目的/役割に基づき自覚できるものの自覚なく自己/相手の成長へつながるように選んでいる場合もあれば、一方で、打算(利己的/自己中心的な目的)で自覚して選んでいる場合もみられます。これらは、類似する性質をもつ物事/人は互いに引き寄せ集まる(類は類を呼ぶ)不変/普遍の法則に反しているのではありません。法則の観点から捉えると、自己の有する性質と類似する性質をもつ者ではなく、自己の有する地上での目的/役割の内容や、自己の打算の内容に沿う者を引き寄せていることになります。

 結婚にともない、夫婦の「どちらの姓」へ統一するのか?、あるいは、夫婦別姓とするのか? は個体間でも、社会でも、行政でも議論となる状況がみられるものの、氏族名(本姓/ファミリーネーム)は家族/親族ごとの区分に拘[こだわ]るために議題/課題として挙がっているだけに過ぎません。あらゆる分霊は対等であり、物的に面識のない他人、知人、友人、親族、家族、などと区分しているのは固定観念/既成概念に基づいているのだと理解したのならば、自己が家族/親族に区分される者たちと同じ氏族名であっても、異なる氏族名であっても、氏族名がなくても構わないことへ気づくようになります。

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 一夫多妻、多夫一妻、多夫多妻、一夫一婦、などで表される単対単、単対多、多対多の婚姻形態に程度の違いはなく、優劣、善い/悪い、誠実/不誠実もありません。どのような婚姻形態であったとしても、すべて有形体に起因した捉え方に過ぎません。婚姻形態は、社会の成長の程度ではなく、地上での生活環境(風土)に影響を受けており、有形体を用いて生活する風土に適した行動を模索しておこなう過程で、それらの行動が総合されて各地域の文化/慣習を造り出しています。社会の成長の程度が低いから単対多/多対多の婚姻をおこない、社会の成長の程度が高くなるから単対単の婚姻をおこなうようになるのではないのです。

 物的な行動そのものではなく、行動の目的が行動の性質(誠実/不誠実)や程度を決定する点に留意してください。単対単、単対多、多対多の物的な婚姻形態に善い/悪い(誠実/不誠実)があるのではなく、婚姻を結ぶ目的に誠実/不誠実があります。同じ単対多の婚姻を結んでいても、ある地域社会では厳しい風土での生活を円滑におこなうための相互扶助(誠実な目的)となり、一方で、他の地域社会では浮気/不倫などと呼ばれる欲望を満たすため、あるいは、恐れ/怯えを隠すための利己的/自己中心的な行動(不誠実な目的)となるのです。成長の程度が高くなるほどに有形体に起因する捉え方は減少していきます。肉眼に視える物的な物事/行動ではなく、肉眼に視えない無形的な物事の本質(行動の目的)へと意識が向くようになります。

 上述の内容は複婚/重婚などを推奨しているのではなく、同様に、婚姻の必要性を示唆しているのでもありません。婚姻の形態は風土/文化によって決まり、また、婚姻するのか/婚姻しないのか(婚姻の必要性)は、地上の生活での不誠実な目的に基づく場合を除けば、地上での目的/役割によって決まります。

 加えて、同性婚、異性婚、男女の不妊症、などに関わらず、婚姻するのと、子を成す/成さない、子を成せる/成せない、子を養育する/養育しないは関係がありません。同性婚であっても、異性婚であっても、不妊症であっても、婚姻したのならば、子を成し養育しなければならない、あるいは、子を成し養育するのは当然と捉えている状況がみられます。同性婚の場合では、有形体の構造的に、配偶者との間で子を成すことはできません。そのうえで、子を養育したいと求めるのはなぜか? を内省する必要があります。異性婚の場合でも不妊症などによって、体外受精をしてでも子を成したい、代理出産を依頼してでも子を養育したいと求めるのはなぜか? を内省する必要があります。子を成したい/養育したいと求めてはならない、あるいは、体外受精/代理出産などを依頼してはならないということではなく、「子供を成したい」「子供を養育したい」と求める目的を明確に自覚する必要があるのです。

 誠実な目的であった(恐れ/怯えに基づく不誠実な目的ではない)としても、自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく固定観念/既成概念に囚われて求めている場合もあります。固定観念/既成概念に基づいて、体外受精、代理出産、養子縁組、などをおこなうのは、両親となる者の成長を阻碍するように、はたらきます。社会の中では、自覚できるものの自覚していない固定観念/既成概念に基づいて、自己が自由意志で選択する選択肢を自身に強制しているものの、自己は強制されているのではなく、消極的/受動的でもなく、「積極的/自発的に選択している(求めている)」と思い込んでいる状況は多くみられます。

 地上の各地域では、現在でも、歴史上でも、様々な程度で「男性優位/女性劣位(男尊女卑)と呼ばれる社会構造」がほとんどを占めています。この社会構造は、物的な暴力をおこなえる強さ(腕力の強さ)で優劣が決まると思い込んでいる既成概念が連綿と続いているためであり、それぞれの地域にみられる家庭/学校/企業/社会での活動/風習へ大きな影響を与えているだけでなく、婚姻形態にも影響を与えています。物的な暴力をおこなえる強さで決めている優劣は「幻想の順位付け」のひとつであり、年齢/性別から捉えた場合には、上位には成人男性、そして、男児、成人女性、女児の順序で位置づけられている状況が多くみられます。幻想の順位付けについては、5章2節 幻想を参照してください。

 この質疑応答に関連する内容には、5章2節 幻想 #質疑応答の「序列が幻想に基づく捉え方であるのならば、会社の役職も幻想に基づいて造り出されているのですか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 人種の違いそのものが、思考の方向性、考察の経路、造化しやすい感情の種類、恐れ/怯えの強さ、利己性/自己中心性/欲望の強さ、などの内面へ表れる生き方の方向性に直接的な影響を与えてはいません。

 人種の違いは有形体の有する無数の体質のひとつであり、罹患しやすい疾病の方向性/種類、気温/湿度への適応性、などとの関連はあります。そのため、人種ごとにみられる性質の違いが生活する地域の気候/風土と組み合わさり、特定の思考の方向性や考察の経路、造化しやすい感情の種類、恐れ/怯えの強さ、利己性/自己中心性/欲望の強さ、狡猾さ/残忍さ、序列/優劣の順序付け、協調性/相互扶助、などの習慣を形成し、習慣が総合されて生き方の方向性を造り出すようになります。人種の違いによって生き方の方向性が決まっているのではなく、人種にみられる性質が生活する地域の性質と組み合わさることで、生き方の方向性が造り出される点に留意してください。そして、個々の生き方にみられる方向性が総合され、用いる言語、単語の特徴と単語の定義、発音方法、常識、礼儀/行儀作法、衣服/建築/物品などの様式、他者への応対方法、商売/交渉の流儀、などの地域社会に特有の生き方の方向性(多くは固定観念/既成概念に含まれる)を造り出しています。固定観念/既成概念については、5章4節 固定観念/既成概念を参照してください。

 なお、同じ地域で生活し、同じ人種の有形体を用いている分霊全員が、同じ方向性の生き方をするようになるのではありません。人種の性質も、生活する地域の性質も、短い期間を生活する地上でのみ関連する内容です。これらは、個々それぞれが自身の自由意志に基づいておこなう行為の積み重ねによって「自身の生き方」を造り出す際に、生き方の方向性を選択する僅かな切っ掛けに過ぎません。人種の性質も、地上で生活する地域の性質も、地上での生活を始める前に、自己の成長へ必要とする性質を自身で決めており、再授肉するごとに人種/地域を変更する場合もあれば、同じ人種/地域を選択する場合もあります。再授肉については、4章9節 再授肉を参照してください。

 人種にみられる性質が生活する地域の性質と組み合わさり「生き方の方向性」が造り出されることは、ある人種が多く集まる地域で造り出された地域社会に特有の生き方の方向性の中で生活している者たちが、他の人種が多く集まる地域(地域社会に特有の生き方の方向性が異なる)へ移動した際に、元いた地域社会での生き方の方向性に基づいて行動し、様々な差別/暴虐などを造り出す原因にもなっています。例として、植民地の増産/支配、人種隔離/根絶政策、土着人種の奴隷化/売買、現地の鉱物/植物/動物などの搾取/輸出、土地/金品の強奪、などがあり、近年では、南アフリカのアパルトヘイト、アメリカインディアンへの迫害、ナチズム(ナチス)によるユダヤ民族の迫害/虐殺、各地域での土着民族への偏見/差別、などに代表されます。

 これらの差別/暴虐などをおこなう根底には、自身たちとは異なる他の人種への強い恐れ/怯えがあり、恐れ/怯えを土台とする幻想の捉え方が、元いた地域社会に特有の生き方の方向性と組み合わさり、差別/暴虐などの虚勢の行動として表れているのです。相手の生き方へ恐れ/怯えているのではなく、相手(分霊)の用いている有形体という道具の表面的な肌/眼/髪の色などの違いに恐れ/怯えているのは滑稽[こっけい]であり、地上の肉眼に視える物的な物事へ強く囚われ、拘[こだわ]り、しがみついている典型といえます。加えて、相手を、◯◯(国家の名称)人、◯◯民族、などの属している共同体で判断しているのも、幻想の捉え方に基づいています。個々の相手を「あるがまま」に観ていないのです。幻想の捉え方については、5章2節 幻想を参照してください。

 ◯◯人種、◯◯人、◯◯民族、などの定義を詳細に考察したのならば、◯◯人、△△人、◇◇人、などに区分する根拠は曖昧[あいまい]であり、明確な区分は存在しないことへ気づくようになります。自己の国籍、両親の国籍、生誕地、生活している国/地域、話している言語、出身国/出身地、などによる区分は、物的に捉えた表面的な側面に基づいて区分しているだけであり、本質的には、相手が自己の同類にみえる、自己の同類にみえない、という思い込みに基づいて区分しているだけに過ぎません。もしも、自己が特定の人種/民族を嫌悪/忌避している、あるいは、苦手感を感じているのならば、これまでの地上/無形界での生活において、相手を、◯◯(国家の名称)人、◯◯民族、などの属している共同体で判断することへ囚われていたために、今回に地上へ再授肉するにあたって、囚われに気づき修正すると「地上での目的」として決めている場合もみられます。

 そして、領土、領有権、国境、などで物事を区分して捉えようとするのも、肉眼に視える物的な物事を基点とした矮小な捉え方に過ぎません。国家間で「歴史的に自国の領土」と主張して地域の領有権を争う状況は頻繁にみられますが、僅か1万年を遡[さかのぼ]ったのならば、「歴史的に自国の領土」という捉え方はありもせず、また、1万年を遡ったのならば、自国と呼んでいる地域も現在とは全く異なっています。自国に都合の良い余りにも僅かな期間(数百年-数千年)を遡って「歴史的に」と表現しているだけであり、そのような利己的/自己中心的で矮小な捉え方に基づいて紛争、戦争、暴虐、迫害、覇権争い(覇権そのものが幻想の捉え方に基づいている)、などをおこなっている状況へ気づく必要があります。国家だけでなく、個体でも、集団でも、現在の利益を得るために、過去を都合良く利用するのは、利己性/自己中心性/欲望と恐れ/怯えに基づいています。

(1000/1000)

 個々が就いている職業と、個々の誠実/不誠実な生き方や生き方の程度には、関係性がありません。例として、政治家、教員、公安、医師、弁護士、僧侶、などの「誠実さ」が成り立たせているような職に就いている者にでも、不誠実な生き方をしている者は多くいます。同様に、無職、ホームレス、と呼ばれている者にも、誠実な生き方をしている者は多くいます。誠実な生き方をしている者が就く職業、不誠実な生き方をしている者が就く職業というものは全くみられません。

 加えて、学歴と生き方にも関係はありません。学歴は、情報を貯蔵している量に違いがみられる場合もありますが、貯蔵している知識の量には全く影響を与えていません。同様に、情報/知識を活用して表現/行為を造化する程度は、分霊の成長の程度によって決まり、職業、学歴、貯蔵する情報/知識の量は影響を与えていません。情報と知識の違いについては、1章4節 概要 #知識/情報の違いを参照してください。

 成長の程度が高くなるほどに、地位/肩書き、権力、権威、称号/勲章、お金、優勝/1位、前人未到/前人未踏、などの物的な物事への関心は弱くなっていくために、地上での目的/役割の遂行に必要としない限りは、富豪、企業の取締役、物的な社会の指導者、などを求めない/就かない傾向がみられるようになります。逆に、自己の内面や生き方への関心が強くなっていくために、自己啓発、霊的/精神的な成長への指導者/先導者、様々な慈善事業の活動家、などを求める/就く傾向がみられるようになります。

(1000/1000)

 ひとつの職業へ長期間に渡って就き続けることで成長への学びへとつながる場合もあれば、いくつもの職業を短期間で渡り歩くことで成長への学びへとつながる場合もあります。どちらの場合が自己の成長にとって適しているのかは、個々の有する個性の方向性、地上での目的によって異なります。社会で、ひとつの職業へ長く就き続ける状況が立派で優れていて、転職を繰り返す状況が根性なしで劣っている、また、正規雇用や正社員としての登用が優れていて、非正規雇用やパート/アルバイトでの登用が劣っていると捉えられている場合もみられるのは、虚勢を張り虚栄心を満たすための既成概念に過ぎない点へ留意してください。

 地上での生活を始める前に、地上で生活する目的として、ひとつの職業を長く続け、ある方向性への個性を強く養成すると決めている場合もあれば、一方で、多くの職業を渡り歩いて、いくつもの細かな個性の方向性が有する強さを調整し、個性全体の方向性を確立すると決めている場合もあります。勿論[もちろん]ながら、職業を通してのみ個性が養成されるのではなく、日々の生活の中でおこなう些細な行為の積み重ねによって個性は養成されていきます。

 どのような内容の職業を通してでも、学びを得ようとする意志があるのならば、成長への学びへとつながります。職務の内容から学ぶ場合もあれば、職務を遂行する過程で学ぶ場合もあり、職場の状況から学ぶ場合もあります。自己の成長にとって、現在の職業から更に学びを得られるのか、あるいは、現在の職業から必要とする学びを終えて既に得る内容がなくなったのかは、自己に帯同し教導してくれている天使たちが随時に閃き(印象)として伝えてくださいます。ただし、成長への学びを得ようとする意志がないのならば、天使たちから送信されている印象を受け取ることができません。ひとつの職業を惰性で続けている、また、瞬間瞬間の自己に都合が良くないから転職を繰り返しているのでは、何時[いつ]までも成長への学びを得られないだけでなく、単に金銭収入が得られるだけの時間と労力の無価値な浪費にしかならないのです。

 地上社会で就いている職務でも、成果を挙げようとせずに漫然とおこない物的に給与(金銭収入)を得ている状況では、社会へ何ひとつ貢献/寄与していないだけでなく、社会の腐敗/退廃/衰退を助長し、成長への学びも得られず、成長の程度も退行していきます。職務を通して、不正/横領/詐欺/搾取などの不誠実な行為をおこなっていなくても、成果を挙げようと自覚して積極的に努めていないのならば、その職務は不誠実な行為となっているのです。なお、職務での成果とは、金銭的な収益を増加させる、経済効果を高める、などを指しているのではなく、職務の手間/無駄を除き効率を高め、誰もが職務を遂行しやすい環境を整備し、協調/協力して職務をおこなえるように改善することを指しています。金銭的な収益を増加させる、経済効果を高める、などの物的な結果は企業/社会の情勢に影響を受けるために、成果を挙げることで物的な結果を得られる場合もあれば、得られない場合もあり、また、成果を挙げなくても物的な結果を得られる場合もあります。

(1000/1000)

 社会では、不祥事/不振などを起こせば役職を辞任する、あるいは、辞職する状況が多くみられます。同様に、辞任/辞職(国家/行政の場合では内閣/議会の解散も含む)を強要する状況も多くみられます。しかし、現在に地上社会の有する成長の程度では、辞任/辞職は、自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく不祥事/不振から世間、国民、企業の株主、などの眼を逸らすためにおこなわれています。

 物的な経済の観点から捉えると、現在の状況を改善/刷新するために、他者へ置き換えることで、外見的/外聞的な体裁を保ち、後任に就く者の指揮/手腕へ任せているようにみえますが、これは、責任逃避に相当する場合もみられます。自己が辞任/辞職して後任へ引き継ぐことが、必ずしも国家/企業などの共同体の成長へつながるとは限りません。寧[むし]ろ、自己が辞任/辞職して後任へ引き継ぐことで、共同体の成長を遅延させている場合もあります。共同体の成長の程度は、共同体を構成する者たちの成長段階の総合で表される点に留意してください。共同体を構成する者たちが成長するように努める過程が、共同体の成長へつながるのです。責任逃避については、5章2節 幻想 #幻想による特徴ある行動を参照してください。

 無形的な成長の観点から捉えると、安易に辞任/辞職して現在の状況から自己の眼を逸らそうとせずに、周囲の者たちへ威厳という名目の虚勢を張ろうとせずに、同時に、現在の状況から他者の眼を逸らさせようとせずに、自身で現在の状況を改善/解決するように努める必要があります。自己が不祥事/不振などを起こした後に、自己が現在の状況を改善/解決しようと奮闘する過程は、自己の内面や生き方を内省する大切な切っ掛けとなります。安易に辞任/辞職していたのでは、何時[いつ]までも自己の内面や生き方を内省しないままになります。自己が辞任/辞職しても、辞任/辞職しなくても、不誠実な目的に基づいて不祥事/不振などを起こしたのならば行為の記録(-)の残高へ加算され、成長の退行として自己へ必ず還元されます。行為の記録については、4章7節 行為の記録を参照してください。

 自己が不祥事/不振/ミス/間違い/不備などを起こした場合でも自己は責任逃避せず、また、他者が起こした場合でも他者に責任逃避を強要/勧告/煽動せず(他者へ責任逃避させず)に、不祥事/不振/ミス/間違い/不備などを起こした本人が現在の状況へ向き合い、状況を改善/解決していくように周囲の者たちは支援/援助する必要があります。周囲の者たちがおこなう支援/援助は、周囲の者たち自身の成長を促し、結果として、国家/企業などの共同体の成長へつながるようになります。

(1000/1000)

 「核分裂反応にともなう莫大な熱の放出」の発見/研究そのものは誠実な目的で探究されており、無形界から支援/援助がおこなわれていました。この支援/援助は、電気、電波、重力、などの発見/研究と同様に、肉眼に視える3次元の側面だけでなく、肉眼に視えない4次元の側面へ意識を向けるように促す目的でおこなわれており、その延長線上として、地上で生活する人たちへ「肉眼に視えない霊の存在」を再認識させ、霊としての成長を求めるように、はたらきかけています。

 現在の地上社会では、放射性物質に限らず、利用した大量のプラスチック製品、ゴム製品(タイヤなど)、金属機械、電子機器、衣料品、などを適切に再利用/処理できずに、ほとんどを「使用した者たちの肉眼に視えない(視界に入らない)」遠くの地域/他国や土中/海中へ廃棄/投棄するだけであり、現行人類に、これらを扱うのは時機尚早にもみえます。しかし、社会の成長の程度/地球の進化の程度が、放射性物質/核エネルギー、化石燃料、石油化学製品、金属機械製品、などを扱うには相応しないほどに低いために時機尚早なのではなく、地上で生活している人たちが何時[いつ]までも誘惑(利己性/自己中心性/欲望)に呑み込まれ続けているために時機尚早にみえているのです。地上社会の成長の程度が、放射性物質/核エネルギー、化石燃料、石油化学製品、金属機械製品、などを扱うには相応しないほどに低いのならば、これらの発見/研究や開発/改良を無形界から地上へ支援/援助するのは大霊より許可されていません。大霊より許可されているからこそ、無形界から地上へ支援/援助してくださるのです。誘惑については、5章3節 誘惑を参照してください。

 何時[いつ]の時代に、何処[どこ]の地域でも、誠実な目的で発見/研究された内容を、利己性/自己中心性/欲望を満たすために、恐れ/怯えから眼を逸らすために、不誠実な目的で悪用する者たち(個体だけでなく企業/国家などの共同体を含む)はいます。同様に、眼前の刹那的/短期的(数年-百年)な利益を得るために、持続的/長期的(数百年-数千年)な影響を俯瞰[ふかん]して考察/考慮せずに用いる者たちも多くいます。自己が何らかの発言/行動をおこなうのならば、その影響が拡がる/適用される範囲、影響を与える程度、影響の持続する期間、影響を受けて造り出される他者の行為/物事、などを「発言/行動をおこなう」前に、できる限り包括して考察/考慮するように努める必要があるのです。

 無形界の研究成果が地上へ伝えられ、放射性物質/核エネルギーを発電などへ利用する方法が地上で研究/実施され始めたものの、利用後に、放射性廃棄物を処理する方法は未だ研究が進展していません。発電などへの利用によって現在に得られる利益のみへ意識が向いてしまい、日々に増え続ける放射性廃棄物の処理のような「利用する前に考慮/対策しておく必要のある課題」を後回しにして利用し続けている状況は、地上社会の有する運命の流れを「後回しにしている状況」に相応する方向性へ向くように流れさせており、地上社会として今後に大きな障碍へ遭遇することになります。現在に試行されている、放射性廃棄物を地中深くへ埋設する方法は「処理」しているのではなく、肉眼に視えない場所へ隠しているだけに過ぎません。そのため、無形界から地上へ伝えられた研究成果に基づき、誠実な目的で造り出された技術/製品であったとしても、「利用する前に考慮/対策しておく必要のある課題」を解決しないままに利用するのは、ある観点から捉えると時期尚早ともいえます。放射性物質に加えて、レアメタルと呼ばれるような希少金属を必要とする電子機器、化石燃料、合成洗剤/殺虫剤/除草剤、化学肥料、プラスチック製品、金属/ゴム/プラスチックの複合製品、などの利用や、宇宙空間の利用(宇宙ゴミ/スペースデブリの発生、ロケットの残骸の落下、人工衛星の廃棄方法)も、時期尚早ともいえる側面がみられます。

 地上では、有形体の内包する物質の心から絶え間なく誘惑の影響を受け続けているために、放射性物質/核エネルギーだけでなく、インターネット、人工知能、人工衛星、各種の保険/助成/支援金、金融取引(電子マネー/電子端末を用いた決済を含む)、日々に開発される新技術/新製品、なども、あらかじめに使い方や規制などを考慮/整備したうえで用いなければ、当初は誠実な目的で用いていたとしても、利己性/自己中心性/欲望に基づいて不誠実な目的で利用するように傾倒しやすくなります。

 加えて、地上社会での喫緊の課題である、気候変動、海水温の上昇、潮流の変化、砂漠化、などへ対応するために、化石燃料の削減、原子力エネルギーの利用、再生可能エネルギーの拡大、自然環境の破壊/搾取の軽減、などを推進するものの、根幹にある「日々の生活で電気/ガスなどの使用量を削減する」ことには意識の向けられていない状況がほとんどです。ひとりひとりが、水、電気、ガソリン、天然ガス、電化製品、電子機器、自動車、バイク、飛行機、冷暖房機器、食物、衣類、様々な物品、娯楽、インターネット/SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などを含む情報通信、などの「日々に必要とするよりも多くの過剰な使用/消費」を辞めていく必要があります。

 過剰な利用/消費のほとんどは利己性/自己中心性/欲望に基づいており、ひとりひとりが「日々に必要とするよりも多くの過剰な使用/消費」を辞めていくのならば、企業のおこなう大量搾取、過剰生産、大量販売、大量廃棄、なども減少していくようになります。機械化、物品の増大、物的な利便性の向上、経済成長、などが社会の発展を表すのではないのだと気づかねばなりません。支え合い、思いやり、協調、融和、などの拡大が社会の発展であり、それらの拡大する過程に、機械化、物品の増大、物的な利便性の向上、経済成長、などがみられる場合もあるだけです。

 肉眼に視える物的な側面のみで捉えると、「核分裂反応にともなう莫大な熱の放出」を利用した核兵器は甚大な規模の破壊/汚染を引き起こすようにみえますが、核兵器を用いることで生じる物的な破壊/汚染の影響は、有形体を捨て去ることで周囲へ与えられるようになる有形的/無形的な影響に比べると、取るに足らない小さな規模に過ぎません。常に、物的に現れる影響よりも、有形的/無形的に与える影響のほうが遥かに強大なのだと理解したのならば、自己に都合の良くない者/都合の悪い者を殺害し(殺害された者は有形体を捨て去るために有形的/無形的な影響を周囲へ強く与えられるようになる)、核兵器/武力/経済制裁などの物的な暴力で脅迫/威嚇[いかく]する行動が、どれほどに滑稽なのかへ気づくようになります。これらの行動は、社会に不誠実な生き方をおこなう者を増加させ、自己/自国/自民族/自集団を衰退/破滅/滅亡へ誘[いざな]うようになります。

 この質疑応答に関連する内容には、2章3節 有形界の構造 #質疑応答の「地球温暖化は人類の生活の変化によって起きているのですか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 人工知能(AI)と呼ばれるコンピュータープログラムそのものは、人類の成長と関係がありません。人工知能を用いる目的や、人工知能を活用する方法が、人類の成長/社会の発展へ役立つ場合もあれば、一方で、人類の成長を退行させ、社会を衰退/退廃させる場合もあるのです。

 誠実な目的に基づいて人工知能を用いたとしても、人工知能を利用した演説の原稿、記事、画像、動画、ウェブサイト、などの作成は、伝えようとする主題はあるものの、伝えている内容に本質的な意義/価値がみられない特徴を有しています。人工知能の作成する内容は、地上社会に表現されている既存の情報を組み合わせて加工しただけであり、人工知能を利用した著者/制作者の個性は、人工知能の作成した内容には表れていません。

 地上社会から捉えると、人工知能を利用することで、物的な時間/労力を節約し、作業の効率を高めるという「物的な意義/価値」はみられても、一方で、世界の進化から捉えると、著者/制作者の個性が反映されていない表現/情報を造り出す「有形的/無形的な意義/価値」はないのです。世界の進化は、個々の有する個性で造り出された多様性のある「無形的な意義/価値(影響力)」によって推進される点に留意してください。多様性が世界の進化を推進させることについては、2章2節 大霊 #質疑応答の「世界の進化とは、何を表しているのですか?」を参照してください。

 人工知能の作成した内容は、本質的な意義/価値がないために、作成された内容が誠実な性質を有しているとしても、現在よりも更に世界の進化を促進させる(多様性を発展させる)ような影響を与えていません。これは、自己が人工知能を利用して造り出した誠実な表現は世界の進化へ貢献/寄与していないことを表しており、自己が世界に存在している意義/価値を示していないともいえます。逆に、自己が人工知能を利用して造り出した表現が虚偽(不誠実な性質を有している)であったのならば、世界へ進化を停滞させるような影響を与えています。

 上述の内容は、人工知能を利用してはならないということを示しているのではありません。人工知能の開発者も、人工知能の利用者も、人工知能を何に利用するのか? どのように活用するのか? を詳細に考察したうえで用いる必要があるのです。人工知能は、原子力/放射性物質と呼ばれる物体や核分裂熱を利用するのと同様に、綿密な計画に基づいて慎重に用いる必要がある点に留意してください。自己/他者の「物事を観察/考察しない怠惰」を助長するためや、利己性/自己中心性/欲望を満たすために用いるのではなく、自己/他者の成長へつなげる目的で用いるようにします。安易な利用や、興味本位での利用、悪意ある利用は、成長を停滞/退行させる習慣の形成/強化、行為の記録(-)の加算、などとして、今後に重い代償を負うことになります。行為の記録については、4章7節 行為の記録を参照してください。

 人工知能は、物的な文字/言語/図像などを通して有形的な情報を認識できますが、無形的な情報は認識できません。熟練者の勘所[かんどころ]と呼ばれるような判断は、本人の自覚の有無に関わらず、無形的な情報を把握しておこなわれている側面が大きいために、人工知能が、膨大な量の有形的な情報の学習を通して、熟練者の勘所と呼ばれるような判断に近似する行動をおこなえるようになる可能性は有していますが、同じ判断をおこなえるようにはなりません。しかし、熟練者と同等の判断がおこなえるようにはならなくても、人のおこなう作業を補佐し、負担を軽減し、時間を節約し、作業の効率を高められる場合も多くあります。

 人工知能の開発/利用が社会に拡大し始めた現在では、人工知能を用いて、ある画像/動画/文章に基づいて生成された「模倣/偽造(ディープフェイク)」とも呼べる画像/動画/文章が溢れており、元となった画像/動画/文章は埋もれてしまい、画像/動画/文章の真偽/真贋[しんがん](本物/偽物)の見分けができなくなっています。また、不誠実な目的で人工知能を用いて生成した画像/動画/文章が、殺人/拷問/迫害/脅迫などの凄惨な事件を引き起こしている状況や、政治宣伝(プロパガンダ)の拡散、世論の操作/誘導、他国の内政/外交への干渉、対立/紛争の助長、などに利用されている状況も増大しています。インターネットに氾濫する画像/動画/文章などの真偽は、これらを先入観/偏見を有することなく「あるがまま」に捉えるように努めているのならば、理性の発する警鐘によって模倣/偽造の可能性を察知した際に、詳細な観察/考察や、裏付け/根拠を確認するようになります。不誠実な目的で人工知能を用いる者が、地上での生活を終えた後に重い代償を長期に渡って支払わねばならないのは勿論[もちろん]のことながら、閲覧者も画像/動画/文章などの真偽を判別せずに盲目的に信用して操作/誘導されているのならば、行為の記録(-)の残高を加算させている可能性があるのだと気づく必要があります。

 加えて、筋反射検査で「この画像/動画/文章は人工知能によって生成されました」という宣言文を用いて、画像/動画/文章などの真偽を判別することもできます。正しさの程度から捉えると、書物の原著/翻訳書のつながりと同様に、人工知能を用いて、ある画像/動画/文章に基づいて生成された画像/動画/文章は、元となった画像/動画/文章よりも低い真実度を示し、元となった画像/動画/文章よりも高い真実度を示す状況はみられません。筋反射検査については1章3節 筋反射検査、また、書物の原著/翻訳書のつながりについては6章2節 書物を読む際の留意点を参照してください。

 この質疑応答に関連する内容には、2章3節 有形界の構造 #質疑応答の「惑星の進化のために、地上で生活する人が永続性のある活動をおこなうには、どのようにすればよいのでしょうか?」がありますので参考にしてください。

子供への教育

(1000/1000)

 有形界へ誕生した者(子供)の成長を促すためには、自己の挙措、態度、行動、発言、などの行為と、これらの行為の目的が手本/模範となるように、自己を常に内省し、自己を成長させ続けることが、子供たちの成長を促す最良の方法となります。子供は周囲の大人の行為と行為の目的を模倣することで学ぶためです。そのうえで、有形界で生活するための知識/技術、自己は霊であり成長のために有形界へ訪[おとず]れているという現実、霊として成長するための知識と知識の実践方法を伝えていくことが推奨されます。

 地上の生活では、子供は親/大人を模倣して様々な生き方を学び、いずれは模倣を越えて自身の生き方を自身で模索し始めるようになります。どれくらいの有形体の使用年数で自身の生き方を模索し始めるようになるのかは個々によって異なり、8歳ほどで自身の生き方を模索し始める者もいれば、一方で、何時[いつ]までも考察/内省しないために、親/大人と呼ばれる年齢となっても自身の生き方を模索していない者は多くいます。

 子供が大人を模倣するのは物的な言動だけでなく、大人自身が言動をおこなっている自覚的な(自覚のある/自覚できるものの自覚していない)目的も模倣している点に留意してください。子供は、親/大人と類似する目的で、類似する発言、行動、態度、思考、などをおこなうようになります。子供が大人を模倣する具体的な例として挨拶を挙げます。

 親や学校/地域社会では、「出会う人へ挨拶をしましょう」と教えます。しかし、何のための挨拶なのか? どのように挨拶をおこなうのか? という、挨拶の目的については教えず、挨拶と呼ばれる物的な行動のみをおこなわせています。これは、大人たち自身が、挨拶をおこなう誠実な目的に気づいていないために、自覚できるものの自覚なく自己の虚栄心を満たすための不誠実な目的で挨拶という行動をおこなっている状況に起因しています。大人が虚栄心を満たすためという自身の挨拶をおこなう不誠実な目的へ気づいていなくても、子供たちは大人の自覚できるものの自覚していない目的をそのままに模倣し、行動します。そのため、親に強要されたから相手へ挨拶する、単に「こんにちは」と発言しているだけで意識は挨拶をする相手へ向いていない、などがみられ、加えて、相手が挨拶を返してくれなければ、拗[す]ねる、悪態をつく、相手を嘲[あざけ]る、などの行動をおこなうようになります。これらの行動は、すべて親/大人が、挨拶だけでなく、挨拶に付随しておこなう行動も自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく虚栄心を満たす目的でおこなっているために、子供も模倣しておこなうようになるのです。

 子供は親/大人の思惑の通りには行動しません。親/大人が自身の思惑に基づいて相手の行動を誘導/強要しようとする目的を模倣するのです。親/大人が、自身の言動の目的を明確に自覚し、愛に基づく誠実な目的でおこなうようになれば、子供たちも、自[おの]ずと愛に基づく誠実な目的を自覚したうえで言動をおこなうようになります。

 子供への手本/模範となるように「親/大人自身の生き方」を内省/修正していくのに加えて、親/大人に都合良く選別した情報(書物など)を子供へ提供するのではなく、子供自身で情報を選別する判断方法/考察の仕方を教える必要もあります。自身で「情報を選別する判断方法/考察の仕方」のひとつとして、このサイトでは情報の有する真実度の測定、誠実/不誠実の性質の検査、などを紹介しています。詳しくは、6章2節 書物を読む際の留意点を参照してください。

 子供自身が情報を選別/考察できるようになることで、物事を「あるがまま」に捉えるように努めやすくなります。小学校/中学校/高校などの教育機関で用いる教科書の内容は盲目的に信じ込みやすく、その後の生活でも長期に渡って教科書の内容を信じ込んだままになりやすいために、様々な調査/研究により教科書へ記載されていた内容が覆[くつがえ]される状況も多くありますが、本人は当時に教科書へ記載されていた内容で今後も物事を捉えやすくなります。教科書へ記載されている内容は、必ずしも「正しさの程度(真実度)」が高く、誠実な内容のみとは限らない点に留意してください。極めて低い真実度を示す内容や、不誠実な内容も記載されている場合があります。特に、歴史の内容には、過去の出来事を国家/為政者に都合良く記述している場合や、政治宣伝(プロパガンダ)を刷り込むための記述もみられ、これらが固定観念/既成概念を形成させて、今回の地上生活だけでなく、今後の地上/無形界の生活で物事を「あるがまま」に捉えられなくする原因にもなっています。

 この質疑応答に関連する内容には、5章1節 修養の生活 #質疑応答の「物事をあるがままに捉えるには、どのようにすればよいのでしょうか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 脊椎動物(動物霊)も分霊であり、相対的に成長段階の高い人(人霊)の生き方を観察して、自身の学びへとつなげています。自然界で生活している脊椎動物の多くは人と同じ場で生活していませんが、人の生き方を様々に観察して、自身の学びへ活かしています。例として、人が利己的/自己中心的に動物を攻撃し追い回しているのならば、動物は人の行動に表れている恐れ/怯えから学び、人を恐れ/怯え、人を視れば警戒し逃げるようになります。一方で、人が愛をもって動物へ接しているのならば、動物は人の行動に表れている愛から学び、人へ懐[なつ]くようになります。

 人と同じ場で生活している家畜や愛玩動物は、子供が親/大人の生き方を模倣するのと同様に、飼い主の生き方を模倣して、今後に個体(人)として地上で生活していくための在り方を学ぼうとしています。そのため、特に愛玩動物では、飼い主が様々な目的に基づいておこなう行動と類似する行動をおこなうようになります。飼い主が他者へ思いやりのある行動をおこなっているのならば、愛玩動物も周囲の人へ思いやりのある行動をおこなうようになります。逆に、飼い主が利己的/自己中心的な行動をおこなっているのならば、愛玩動物も利己的/自己中心的に行動するようになります。これは、ある観点から捉えると、愛玩動物の行動を観察することで、愛玩動物の行動にみられる方向性(行動の特徴)を通して、飼い主の生き方が把握できるともいえます。

 そして、地上で脊椎動物たちが人から観察/模倣して学んだ内容は、無形界へ戻った後に、種族の集合精神で他の分霊たちと共有されます。恐れ/怯えを学んだのであれば恐れ/怯えること(人を視れば威嚇[いかく]する、逃げる、など)が共有され、愛を学んだのであれば愛すること(人や他種族の動物を思いやる、寄り添う、など)が共有されます。共有されて学んだ内容は、種族全体の行動に現れる傾向としてみられるようになります。

 人の親子/兄弟姉妹/親族の間柄に優劣や支配/隷属の関係がないのと同様に、人と脊椎動物にも優劣や支配/隷属の関係はありません。前者は有形体の使用年数が異なるだけであり、後者は霊の成長段階が異なるだけです。人の親子/兄弟姉妹/親族にも、他者にも、脊椎動物にも、自己と対等に、また、公平に応対することが、自己/他者/脊椎動物の成長を促すようになります。

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 地上へ再授肉した時点で、至誠な程度の生き方をおこなう成長の程度であったとしても、また、誠実/未誠実な程度の生き方をおこなう成長の程度であったとしても、子供が不誠実な生き方をしている親/大人を模倣して、不誠実な生き方をおこなうようになる可能性は常にあります。ただし、必ず不誠実な生き方をおこなうようになるとは限りません。至誠/誠実/未誠実な程度の生き方については、2章5節 無形界の住人を参照してください。

 先[ま]ず、再授肉する前に、地上での目的/役割を遂行するための適切な環境を選定した結果として、不誠実な生き方をおこなっている親を選択しています。この選択は、自己が不誠実な生き方をおこなっている親の行為/行為の目的を模倣して不誠実な生き方へ陥[おちい]ってしまう可能性がある状況を考慮したうえで、不誠実な生き方をおこなっている親の行為/行為の目的を反面教師として学び、自己の成長へつなげると決めておこなわれています。再授肉してしばらくの期間(おおよそ幼児期-青年期前半)は、周囲の親/大人、あるいは、同年代の者たちの不誠実な行為/行為の目的を自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく模倣して学ぼうと努めるのですが、模倣しようとする不誠実な行為に対して、明確に表現できない不鮮明な違和感、不自然感、矛盾感、などを感じている場合が多くみられます。この感覚は、理性/気づきの機能特性によって発せられている警鐘であり、未誠実の程度よりも誠実の程度、誠実の程度よりも至誠の程度になるほどに、不誠実の程度との乖離[かいり]が大きくなるために、強く感じ取るようになります。

 そして、自己が体験する何らかの出来事を切っ掛けとして、自己を内省する勇気を自覚して有し、自己の生き方を省みるようになり、同時に、周囲の親/大人たちの行為/行為の目的を積極的に観察/考察して、自己の生き方を模索するようになります。切っ掛けとなる何らかの出来事は、天使たちによって適切な時機におこなわれていますが、出来事を切っ掛けとして自己を内省するのか/内省しないのか(勇気をもつのか/勇気をもたないのか)は、自己の自由意志による選択に委ねられています。

 もしも、出来事を切っ掛けとして自己を内省しないままであるのならば、徐々に理性/気づきの機能特性が正常に「はたらかなく」なり、発せられる警鐘も弱まって消え去っていくために、模倣しようとした不誠実な行為を制御しなくなり、不誠実な生き方として強めていく可能性が高くなります。ただし、自己を内省する切っ掛けとなる出来事は人生で一度ではなく、内省するようになるまでは、切っ掛けと成り得る様々な内容の出来事を、天使たちは何度も適切な時機に体験させ、自己を内省するように促してくれています。

 しかし、現状では、切っ掛けと成り得る出来事を通して、自身を内省する(内省する勇気をもつ)選択をする者は僅かです。多くの者は、不誠実な生き方を反面教師として学ぶために来た地上で、不誠実な生き方に呑み込まれ陥り、現在の地上に蔓延[まんえん]する不誠実な生き方を更に拡大させています。なお、再授肉した時点で至誠の成長の程度であったとしても、地上で不誠実な生き方をしているのならば、成長の程度は加速的に退行していきます。

 地上社会の成長の程度が未だ低い現在では、幼児が砂場で自己に都合良く、時には他の幼児と仲良く遊び、時には喧嘩しているのと何らの変わりもない「進歩のない発言/行動」が、大人と呼ばれる個体のおこなっている生活にみられるだけでなく、国家の内政/外交や、企業/組織の運営にも多くみられます。親/大人と呼ばれる1人1人が「進歩のある行為」をおこなうように努めることで、子供の模範となり子供の成長を促進するのに加えて、社会の成長も促進するようになります。

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はじめに、子供と親/大人についての、いくつかの留意点を列挙します。

  • 子供は、有形体が未熟なために、外環境の認識、外環境への表現が、霊の成長段階に相応する程度でおこなえていないだけであり、霊の成長の程度が低いのではありません
  • 親/大人の霊の成長段階は、子供の霊の成長段階よりも高いとは限らず、親/大人のほうが大幅に低い場合も多くみられます
  • 親/大人は、子供よりも、有形体が成長している(使用年数が多い)だけであり、それ以外の優位性は一切なく、親/大人も、子供も、分霊としては対等/平等な存在です
  • 親/大人は、自身が子供を所有しており、あるいは、自身に帰属しており、自身の思う通りに育てる必要があると自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく信じている場合が多くみられます
  • 子供は、地上で生活するために、親/大人の庇護[ひご]を必要としていますが、親/大人が所有しているのではなく、子供への世話を通して子供の成長を手助けし、同時に、親/大人自身が寛容を学び成長へとつなげるために、大霊より預けられているだけです
  • 親/大人が、子供を叱る、諭[さと]す、怒る/怒鳴[どな]りつける、などをおこなわなければならないと決めた理由(目的)は、子供ではなく、親/大人自身にあります
  • 子供は、親/大人が自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく有している、物事の捉え方、固定観念/既成概念などの囚われ、習慣、行為をおこなう目的、などを模倣して行為をおこなうのであり、親/大人の思惑の通りに行為をおこなうことはありません

 子供を叱るという行動が、子供の霊としての成長を阻碍するのか、阻碍しないのか、促進するのか、は状況によって様々です。子供を叱る、諭す、怒る/怒鳴りつける、などの行動に共通するのは、子供のおこなう行為が、親/大人の有する、物事の捉え方、固定観念/既成概念、習慣、などへ沿わない(当てはまらない)ために、子供を沿わせよう(当てはめよう)とする目的に基づいておこなわれているということです。ただし、子供は、親/大人のおこなう行為、行為の目的、などを模倣しているのであり、親/大人は自身を模倣している子供を叱ろうとしている、つまり、親/大人は自身を叱ろうとしているのだという点へ留意してください。親/大人は、自身が叱らねばならないと認識するような行為を、自身が自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なくおこなっているのです。親/大人は、子供のおこなう行為への考察を通して、子供に対する手本/模範と成り得ていない親/大人たち自身の自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なくおこなっている行為や、行為の目的を省みるように努め、自身の有する物事の捉え方、固定観念/既成概念、様々な習慣、などへ気づき、手本/模範となるように修正していく必要があります。

 これは、子供が、どのような行為をおこなっていても、無関心に放任しておくということではありません。近視眼的に、眼前で子供のおこなう「ひとつひとつの行為」のみへ意識を向けずに、数十年、数百年の期間を見越して、子供の成長(分霊としての成長)へとつながるように、現在に適切な助言/支援/援助をおこなう必要があります。適切な助言/支援/援助の中核となる内容は、子供たちが自身のおこなった行為を通して、自身を内省できるようにすることです。そのうえで、叱るという行動が内省を促すために適切だと判断したのならば、子供を叱る状況も必要です。長期を俯瞰[ふかん]して捉えると、親/大人たち自身が、自身の行為を通して内省する習慣を身に着けたのならば、子供たちも自身の行為を通して内省する習慣を模倣するようになります。

 親/大人たち自身の虚栄心を満たすために、叱る、諭す、怒る/怒鳴りつける、などの行動を安易におこなうことによって、子供たちから、自身の自由意志に基づいて物事/行為などを考察するという「霊として成長していくための基礎」を奪い去るような行動は、決しておこなってはなりません。

 なお、親/大人が子供を叱る際に、「◯◯したら怒られるよ」という表現を用いる状況は頻繁にみられますが、この表現は、親/大人自身が直接に子供を叱っているのではないのだと自身と子供へ思い込ませるための責任逃避に過ぎません。そして、この表現を用いる親/大人から、子供は責任逃避する生き方を摸倣し、自身の発言/行動に責任をもたず、虚勢を張って逃げ回るだけの親/大人を造り出すようになるのです。責任逃避については、5章2節 幻想を参照してください。

 子供は、親/大人の行為と行為の目的を模倣するために、子供の喫煙、飲酒、深夜徘徊、性行為、欲望/快感を満たすための遊び、虐[いじ]め/苛[いじ]め、その他の様々な行動を不良行為(非行)と捉え辞めさせようとするのならば、親/大人が喫煙、飲酒、深夜の外出、快楽を得るための性行為、欲望を満たすための買物/娯楽、快感を得るためのテレビ番組/ドラマ/映画/スポーツ観戦/賭け事/カラオケ/ビデオゲームへの熱中/熱狂、陰口/誹謗中傷、などを辞める必要があります。特定の行動が年齢(有形体の成長の程度)によって有形体へ悪影響を与える/与えないに関わらず、どのような理由であったとしても、大人が行動をおこなうのは良くて、子供が同じ行動をおこなうのは良くない(あるいは、悪い)と捉えるのは、大人が優越感を得て虚栄心を満たしたいだけに過ぎません。

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 はじめに、下記の内容を通して、体罰という捉え方について考察する必要があります。考察する必要があるのは、社会で用いられている体罰という「語の定義」ではなく、体罰という「行動の目的」です。この質疑応答は下記の内容を考察したうえで、お読みください。

  • 「罰」とは何か?
  • 罰とあわせて用いられる「罪」とは何か?
  • 罰と罪には、つながりがあるのか? つながりはないのか?
  • 罰は、自己が他者へ与える、あるいは、自己が他者から受けるものなのか?
  • 体罰とは何を指しているのか?
  • 体罰を与える目的、また、体罰を受ける理由は何か?

 体罰という行動は、有形体を通しておこなわれる物的な制裁行為といえます。「体罰をすべきではない/体罰をしてもよい」という安易な判断をする以前に、体罰を与える者は体罰を受ける者のためではなく、自己のために他者(大人/子供など)へ体罰を与えていることへ気づく必要があります。

 体罰は、自己よりも順序付けが下位へ位置づけられている者に対しておこなわれ、上位へ位置づけている者へはおこなわれない特徴があります。同様に、動物へ体罰を与えて思い通りに行動させようとするのも順序付けに基づいておこなわれています。この順序付けは幻想の捉え方に基づいて造り出されており、個々によって上位/下位へ位置づける順序は異なり、自己/他者で類似した順序付けを有している場合もあれば、全く異なる順序付けを有している場合もあります。なお、自己よりも順序付けを上位へ位置づけている者とは、自己の有する「幻想の順序付け」で自己よりも上位へ位置づけている者ではなく、自己よりも上位へ位置づけていると捉えるほうが自己に都合が良いために、自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく上位へ位置づけている者を指しています。個々の有する「幻想の順序付け」では、自身が常に最も上位へ位置づけられており、自身以外を自身よりも高く位置づける状況はありません。幻想の順序付けについては、5章2節 幻想 #質疑応答の「自己/他者が、お互いに有している幻想に基づく順序付けで、自己/他者の位置づけが衝突する状況はないのですか?」を参照してください。

 体罰を与える者は、自身の有する「幻想の順序付け」に基づいて、下位に位置づけた者たちを盲目的に侮[あなど]り、相手の行為が瞬間瞬間の自己に都合の良くなかった状況を「相手の罪」として断定し、殴る、叩く、蹴る、などの物的な痛みへの恐れ/怯えを通して自己が相手よりも序列の優位にあるという認識を植え付け、相手を自己の思い通りに行動させようとしています。体罰を受ける者は、多くの場合では、自身のおこなった行為を自身の判断基準に基づいて内省することなく、物的な痛みへの恐れ/怯え(体罰を与える者の思惑)に基づいて、「行為をおこなう/行為をおこなわない」を選択するようになります。これは、自身の自由意志による「行為をおこなう/行為をおこなわない」の選択が、自身を基準としてではなく、体罰を与える者の思惑を基準として選択する状況を指しています。

 もしも、体罰を受ける者が幻想の捉え方へ陥[おちい]っているのならば、相手から受けた物的な痛みを通して自身のおこなった行為を、自身の判断基準に基づいて内省することはできません。内面では反感を抱きながらも表面的には体罰を与える者へ従うようになります。一方で、体罰を受ける者が幻想の捉え方へ陥っていないのならば、相手から受けた物的な痛みを通して自身のおこなった行為を自身の判断基準に基づいて内省することもできます。相手にとって自身の行為が罪となるのはなぜか? 自身の判断基準に基づいて自身の行為は罪といえるのか? どうして自身の行為に対して相手から罰を受けなければならないのか? 相手から罰を受ける必要性があるのか? 自身が自身へ罰を与える必要性はあるのか? を考察し、自身の成長へとつなげるようになります。

 体罰が幻想の捉え方に基づいておこなわれている状況からみると、体罰は容認される行動ではありません。しかし、未だ社会の成長の程度が低い現在の地上では、子供だけでなく大人でも、言語は伝わっていても言葉の伝わらない者が大勢います。言語(発言の内容)は伝わっていても言葉(発言の目的)が伝わらないために、発言の目的を物的な痛みを通して伝えざるを得ない場合もあります。譬[たと]えると、火傷をするからストーブへ触れてはいけないと伝えられていても、実際に熱いストーブへ触れて火傷をしてみなければ、伝えられていた目的へ気づかない場合もあるのです。

 物的な痛みを通して伝えざるを得ないという観点からみると、体罰は武力/軍隊と同様に、相手の不誠実な行為へ不誠実な行為で対応し再発を防ぐ抑止力ともいえます。個々の成長の程度が高くなり、相応して社会の成長の程度も向上すれば、体罰(罪に対する罰ではなく、言葉が伝わらないために暴力を用いて発言の目的を伝達する行動)は、必要ではなくなります。

 親/大人からみて子供が利己的/自己中心的な行為をおこなっていると認識した場合には、子供の行為を罪と断定して罰を与える前に、「子供は親/大人の生き方(行為と行為の目的)を詳細に観察し模倣している」という点に留意し、親/大人自身の生き方を省みて修正する必要があります。そのうえで、親/大人からみた利己的/自己中心的な行為(子供からみて利己的/自己中心的な行為とは限りません)をなぜおこなったのか? を子供自身に考え(内省)させ、行為の目的を自覚するように促します。なお、「その行為をしたかったから」は行為の目的ではありません。その行為をしたかったのはなぜか? を更に内省するように促す必要があります。

 この質疑応答に関連する内容には、5章3節 誘惑 #質疑応答の「国家が軍隊を保有することは、不誠実な行為となるのでしょうか?」がありますので参考にしてください。

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 子供から受けた質問へは、大人の事情/都合に関わらず、子供の理解できる語/文法/話し方を用いて、ありのままに伝えることが子供の成長へとつながります。言い換えると、ありのままに伝えないのであれば、子供の成長を阻碍します。

 大人の事情とは、親/大人の都合でしかなく、子供には関係ありません。ほとんどの場合では、親/大人が子供よりも優れているという幻想の思い込み(序列/優劣)に基づいて、親/大人に都合の良くない内容を、ありのままに子供へ伝えたくないという親/大人の利己的/自己中心的な虚勢に過ぎないのです。親/大人の虚勢(虚栄心を満たす行為)へ子供を利用することは、子供の成長を阻碍するだけでなく、親/大人も「成長の退行」という重い代償を支払わなければならないのだと気づく必要があります。親/大人に都合良く伝えている例として、赤ちゃんはどのようにして産まれるの? という質問に対して「鴻鳥[こうのとり]が運んできてくれる」と答える、良い子にしていればクリスマスにはサンタクロースがプレゼントを運んできてくれる、悪い子は夜に悪魔が攫[さら]いに来る、などがあります。更に、赤ちゃんことば、幼児ことば、などと呼ばれるような話し方で親/大人が子供へ接するのも、子供を侮[あなど]り自身とは対等でないと思い込んでいる親/大人の虚勢です。

 また、親/大人の知らない物事について子供から質問された際に、親/大人が自身で調べ理解してから子供へ伝えようとせずに、あるいは、親/大人が子供と一緒に調べようとせずに、何でも知っているように見せかけ誤魔化して返答する、御伽噺[おとぎばなし]のような返答をする、子供にはまだ早いと取り合わない、故意に難しく説明して理解できないのは当然と思い込ませる、などをおこなうのならば、子供は「親/大人の誤魔化し騙[だま]そうとする行為」と行為の目的を模倣するようになる点にも留意してください。親/大人が自身の虚栄心を満たすためではなく、子供の「霊としての成長」を願うのならば、親/大人の成長の程度に相応する範囲で、ありのままの現実を誠実に子供へ伝えるように努めることが、子供の成長へとつながります。同時に、子供は「誠実に自身へ向き合ってくれる親/大人の生き方」を模倣するようになります。

 加えて、子供に関する内容は、親/大人だけで話し合うのではなく、当事者である子供を交えて話し合うようにすることで、子供は自身のおこなう行為を他者の意見/指示へ依存せずに、自身の自由意志で自身の行為を決定できるようになります。自身の自由意志で自身の行為を決定することは、霊の成長という観点からみると、成長し続けていくうえでの基本であり、あらゆる考察/内省をおこなうために必須でもあります。

 この質疑応答に関連する内容には、5章6節 愛の行為 #質疑応答の「子供が重い病を患い、親が子供を心配して、子供へ病名を偽って伝えるのは愛の行為になりますか?」がありますので参考にしてください。

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 親/大人の思惑や社会の常識によって、子供たちは、思考の方向性(思考の経路)が固定され、自由意志による選択肢の幅が限定され、相手からの指示/命令を待ち受けている、あるいは、相手の顔色/反応を窺[うかが]って自身の発言/行動を決めようとしています。これは、自身の自由意志で自身の発言/行動を決めていない状況を表しており、子供たちが親/大人や社会の操り人形になっているという譬[たと]えは適切な表現といえます。

 自身の自由意志で自身の発言/行動を決めない状況は、自身で物事を観察/考察しない生き方を造り出します。常に自身(分霊の心)で自覚して物事を観察/考察していないのならば、物質の心から受ける誘惑の影響が観察/考察することに取って代わり、利己的/自己中心的な捉え方や、発言/行動の目的を自覚しようとせずに習慣のままに発言/行動するようになります。そして、これらの生き方をおこなうままに大人となり、職に就いて、物事を観察/考察せずに慣例/慣習に囚われた無計画で刹那的な社会を造り出しています。加えて、結婚して子供を成した後に、親は「自身の自由意志で自身の発言/行動を決められない生き方」の見本を子供たちへ示し、子供たちへ生き方を模倣させています。

 子供たちが自身の自由意志で自身の発言/行動を決めていない状況から抜け出せるように応対していくには、親/大人が様々な場面で子供たちに発言/行動の選択肢を数多く提案して、子供が自身のおこなう発言/行動の選択肢を自身で選択するように促す必要があります。親/大人が、1-2つなどの少ない選択肢を提案したり、親/大人に都合の良い選択肢だけを提示したり、子供の選択する選択肢を誘導/強制するようなことは決しておこなってはなりません。提案する選択肢は、親/大人が現在の場面で実行可能と想定し得る限りの選択肢を提案するように努めます。なお、子供が、どのような発言/行動の選択肢を選択し、その選択肢の内容が親/大人にとって都合の良くない内容だった、あるいは、都合が悪い内容だったとしても、表情、態度、口調、発言/行動の内容、などへ表してはなりません。

 そして、子供が自身で選択した選択肢に対して、親/大人は一切の思惑/感情や利己性/自己中心性/欲望を有することなく、子供へ数多くある選択肢の中から特定の選択肢を選択した理由/根拠(発言/行動の目的)を尋ねるようにします。始めは、子供は自身のおこなう発言/行動の目的を内省できず(自己の内面を観察/考察できず)、幻想の捉え方に基づく利己的/自己中心的な内容で「理由付け」をする状況も多くみられますが、様々な場面で数多くの選択肢の提供と特定の選択肢を選択した理由/根拠を尋ねるように継続していく過程で、子供は徐々に自己のおこなう発言/行動の目的を内省するようになります。いずれは、親/大人が子供へ選択肢を提案しなくても、子供は自身がおこなう発言/行動の目的を自覚したうえで、誰にも強制されることなく、誰かの指示を待ち受けることもなく、自身で選択した発言/行動をおこなうようになります。同時に、自身で選択した発言/行動に責任をもち、自身以外に責任逃避しなくなります。理由付け/責任逃避については、5章2節 幻想を参照してください。

 ただし、様々な場面で子供に発言/行動の選択肢を数多く提案して、子供が自身のおこなう発言/行動の選択肢を自身で選択するように促していくには、親/大人たちが自身の内面の状況や行為などを常に内省し、自身の生き方を誠実に修正していく修養の生活へ努めている必要があります。親/大人たちが自身の生き方を修正し続けていくように努めているからこそ、子供たちも自身の生き方を修正するようになる点へ留意してください。修養の生活については、5章1節 修養の生活を参照してください。

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 子供たちが学校教育などを修了し、その後に地上社会で活動していくためには、「社会で、どのような職業へ就くのか?」ではなく、「どのようにして自己を他者/社会/全体へ役立てられるのか?」に基づいて、現在の状況から様々に学ぶ必要があります。

 現在の地上社会では、どのような職業へ就くことを目指すのか? へ意識の向いている状況が多くみられますが、職業は今回の地上生活でのみ通用し、不変ではありません。一方で、自己を他者/社会/全体へ役立てようとする意志の方向性は地上/無形界で継続して通用し、愛の行為をおこなううえでの不変の指針となり、永続的な霊の成長へとつながります。もしも、自己を他者/社会/全体へ役立てるために、特定の職業へ就く必要性があるのならば、特定の職業を選択しますが、必ずしも特定の職業へ就く必要はなく、また、特定の職業へ就き続けなければならないのでもありません。自己を適切に他者/社会/全体へ役立てられる状況に価値があるのであって、特定の職業へ固執する状況には価値がないのです。

 自己を他者/社会/全体へ役立てる方向性は、地上での生活を始める前に自身で決めており、地上での目的/役割に含まれています。誠実な生き方へ努めているのであれば、自己へ帯同する天使たちが、自己の地上での目的/役割に基づいて、自己を他者/社会/全体へ適切に役立てる方法を常に指し示してくださいます。自己を適切に役立てる方法は常に同じ内容とは限らず、他者/社会/全体の状況によって変遷していくために、特定の職業へ固執していると自己を役立てられなくなる場合もあります。物的に定義された職業へ囚われずに、自己を他者/社会/全体へ役立てるという無形的な意志の方向性へ突き進めていくことが、自己/他者/社会/全体の成長へもつながります。

 自己が自身で事前に決めた地上での目的/役割は、何時[いつ]でも自覚して思い出せるのではないために、具体的に自己を他者/社会/全体へ役立てる方法が解らずに不安を感じる状況もありますが、精神へ騒響[ざわめき]を起こすことなく静けさを保つように努めているのならば、天使たちが具体的な方法を「閃き」として思い浮かばせてくださいます。加えて、周囲の大人たちが社会で活動する様子の観察/考察や、先人の活動を記した伝記(自伝/評伝)などを読むことで、自己の有する地上での目的/役割を自覚して思い出す切っ掛けにもなります。

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 教育機関で学生の「霊としての成長」を促すのに、どのような授業をおこなうのが適しているのか? は一概には言えませんが、霊としての成長を促すひとつの方向性として、教員が教えるのではなく学生自身で考える授業が、「自身で積極的に物事を観察/考察する」という霊の成長へ不可欠な条件を養います。それぞれの学生が取り組む学びの課題は、教員から与えられるものではなく、学生が自身で造り出すものです。自身で造り出した課題は、他者から押し付けられた課題のように嫌々におこなう状況がなく、自身の自由意志で積極的に遂行でき、課題を通して多くの学びを愉[たの]しめます。

 小学校/中学校/高校などの教育機関では、授業で伝えられた特定の内容(情報)を憶[おぼ]えているのか? 憶えていないのか? で教員から評価される状況が多くみられます。この評価方法は、学生が「自身で積極的に物事を観察/考察する」のを育成し難く、何時[いつ]までも自身で観察/考察することができないままに教育機関を卒業して職へ就き、自身で観察/考察しない状況に相応する社会を造り出していくようになります。勿論[もちろん]ながら、自身で観察/考察しないのならば、霊としての成長も促進されません。

 学生が自身で積極的に物事を観察/考察するのならば、教員から伝えられる授業の内容には自己(学生自身)に「どのような」意義があるのか? 自己ならば授業の内容を「どのように」相手へ伝えるのか? を考察します。そして、授業の「内容を伝える目的」を明確に自覚したうえで、自己が相手へ伝える実践(学生が他の学生へ伝える授業)を通して、伝える内容、伝え方、などを試行錯誤し、自己が自身を評価します。

 具体的には、教員は授業で、特定の内容を伝える目的/主題を提示して、伝える内容や伝え方の「ひとつの見本(手本ではありません)」を学生へ示し、その後は、学生の伝える内容/伝え方などを訂正/矯正/評価せずに、学生自身で伝える内容/伝え方などを考察するように促し続けます。授業の目的/主題が同じであったとしても、学生ごとに伝える内容や伝え方は異なるために、自己とは異なる「他の学生の伝える内容や伝え方」を考察して、自己の「伝える内容や伝え方」を省みることができ、それぞれの学生ごとに異なる「伝える内容や伝え方」を総合して、授業の目的/主題を更に考察します。この授業の方法に、教科書や指導要綱が必要とは限らず、授業の目的/主題が明確であるのならば、どのような内容を、どのように伝えてもよいのです。

 例として、物品の大量生産と大量消費/大量廃棄による環境汚染について学ぶのならば、歴史的な背景や汚染の状況を文章/画像/グラフなどで説明するよりも、実際に海岸へ赴[おもむ]いて浜辺に打ち上げられた大量の様々な物品(ゴミ)を観察/考察するほうが実感とともに学べます。その後に、学生自身で様々な情報を検索し考察することで、環境汚染を中核として、企業の利益を追い求める経営姿勢、自国の経済政策、他国からの資源の大量搾取、経済格差を土台とする外交政策、野生動物への影響、自然環境(大気/海洋潮流など)の循環、環境汚染が有形体へ与える影響、などについても広範に理解するようになります。教員は、学生自身が様々な情報を検索する際に、教員の選定した情報を与えるのではなく、検索の方法(情報の探し方)を助言/提案します。

 この質疑応答に関連する内容には、1章4節 概要 #質疑応答の「地上で成長を求める者が少ないのはどうしてですか?」がありますので参考にしてください。

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