宗教 / スピリチュアリズム

1章 はじめに - 5節 宗教/スピリチュアリズム

個々の記述の真実度: 999.2-1000
節全体の真実度: 1000
節全体の活動性: 1000

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宗教とは

  • (1000/1000) 宗教とは、人が地上で成長していくために必要な知識と、知識を実践する方法の総称です
    • 文字、言語、図表、絵画、音曲、造形物、などの外環境にある情報ではなく、様々な情報を考察/理解したうえで自己の実証を通して自己の内面へ「宗[あつ]め」られた、成長のための「教え」が、「宗教の知識」です
    • そして、知識に基づく修養の生活をおこない、自己が生きた宗教として模範を示すことが、「宗教の実践」です
    • 書物/講演/対話などを通して外環境から情報を取り入れただけでは、成長は促進されません
    • 同様に、宗教の知識を有しているだけでも、成長は促進されません
    • 知識の実践を通してのみ、成長が促進されます
    • 情報と知識の違いについては前節の1章4節 概要 #知識/情報の違い、修養の生活については5章1節 修養の生活を参照してください
  • (1000/1000) 宗教の知識/実践は、愛に気づき、愛を学び、愛をおこない、愛を拡げることに要約されます
    • 愛とは、自己を自己以外/全体のために役立てたいという強い思い(意志の方向性)を指しています
    • 「愛とは何か?」を学び、学んだ愛を実践していくのです
(1000/1000) 宗教の知識/実践
(1000/1000) 宗教の知識/実践
  • (1000/1000) 宗教は、地上での生活から困難/痛み/苦しみを取り除き、楽しく、安逸、安寧、平穏、快適に暮らすための指針ではありません
    • 地上は、逆境/困難/物的な痛みから受ける「苦しみ」を通して学び、成長へとつなげる場です
    • 快楽/快適を求め、怠惰/安逸に暮らしても、成長は促進されません
    • 地上での成長については、4章2節 有形界での成長を参照してください

宗教と”宗教”団体

  • (1000/1000) 宗教は、教義、教理、儀礼、儀式、などではありません
    • 宗教は、自己の外部(外環境)にある情報ではありません
    • 宗教は、自己の内面にある知識のために、外環境から特定の情報に規定されることも、特定の情報を強制されることもありません
    • 宗教は、一切の形式を必要としていません
    • 宗教は、特定の人物、特定の行動、特定の文言、特定の書物、特定の文様、特定の建築物、特定の服装、特定の物品、などの「物的なもの」を必要としていません
    • これらの物的な内容は、愛を喚起しない限り全く不要であり、逆に、成長を阻碍する原因にもなります
  • (1000/1000) 宗教は、他者から一切の強制/強要/指図/命令を受けません
    • 自己が他者へ強制/強要/指図/命令することもありません
    • 宗教は自己の内面にある知識のために、自己の自由意志に基づいておこなった行為を通してのみ貯蔵され、養われ、育[はぐく]まれます
    • 他者から強制/強要/指図/命令を受けても、知識は貯蔵されず、養われも育まれもしません
    • 同様に、他者から強制/強要/指図/命令を受けても、成長は促進されません
    • 自由意志については、4章6節 自由意志/運命を参照してください
  • (1000/1000) 宗教と、”宗教”団体は、同じではありません
    • 宗教は知識ですが、”宗教”団体は組織であり、宗教を有している組織が”宗教”団体ではありません
    • 宗教は、特定の団体が有するものではなく、有することもできません
    • 宗教には、対立、分裂、派閥、などはありません
    • 宗教は、政治、経済、勢力闘争、派閥争い、事業経営、組織運営、商売(物品の販売を含む)、観光名所、美術品の収蔵/展覧、遺体の埋葬、墓の管理、武装勢力/兵力/武力、などではなく、これらと関係をもつこともありません
    • 宗教と”宗教”は、同じ「宗教」という語であっても、全く異なる定義である点に留意する必要があります
  • (1000/1000) 宗教と”宗教”団体の違いは、蟹[かに]と蟹蒲鉾[かにかまぼこ]の関係に譬[たと]えられます
    • 蟹身(宗教)も蟹蒲鉾(”宗教”団体)も外見は同じにみえます
    • 蟹身の多く含まれている蒲鉾もあれば、蟹身が僅かに含まれている蒲鉾もあり、中には、品名にだけ蟹という名称が含まれている蒲鉾もみられます
    • しかし、蟹身だけで造られている蒲鉾はありません
    • 宗教は、知識のみで構成されており、生き方そのものです
    • “宗教”団体は、知識を含んでいる場合もありますが、構成の多くが、経営、儀式、祭典、規律、などの、知識以外の内容で占められています
(1000/1000) 宗教と”宗教”団体の比較
(1000/1000) 宗教と"宗教"団体の比較
  • (1000/1000) 現在に地上社会で「宗教」と呼ばれているほとんどは、”宗教”団体を表しており、宗教を指しているのではありません
    • 「〇〇教」「〇〇宗」「〇〇派」などと呼ばれているものは、すべて”宗教”団体を表しており、宗教ではありません
    • 同じ「宗教」という語を用いていれば、同じ定義を表しているとは限らないのです
    • 現在では、宗教は、スピリチュアリズムとして認知されている中にみられます

スピリチュアリズムとは

  • (1000/1000) スピリチュアリズムとは、無形界から直接的におこなわれている、地球人類の成長を促すための活動の総称です
    • 無形界の仕事の中で、無形的宇宙の調和/協調を担う分野の、太陽系の管轄において、地球人類の成長を重点的におこなうために結成された組織系統による活動です
    • 地球の地上で生活する人類の成長を促すことが、地球という惑星の進化を促進します
    • 太陽系内に存在する無数の惑星の中で、進化の程度が最も低い段階にある地球の進化を促して、太陽系全体の調和を高めることが目的であり、太陽系の調和が高くなれば、天の川銀河の調和も向上し、更に、銀河群/銀河団と続く宇宙全体の調和へとつながります
    • 無形界の仕事については、2章7節 無形界の仕事を参照してください
  • (1000/1000) スピリチュアリズムとして、無形界からおこなわれている「はたらきかけ」は、人は霊であり成長するために地上へ一時的に滞在しているのだと、思い出させることに要約されます
    • そして、地上で忘れ去られていた、成長のための知識を無形界から伝え直し、成長の実践を促しています
  • (1000/1000) 宗教/スピリチュアリズムは、双方ともに、無形界から地上へ伝えられた知識であり、用語の表現が異なるだけで、同じ定義を有しています
    • 宗教は、主に、ある成長段階を越えた者(覚醒者)を通じて、地上へ間接的に伝えられています
    • スピリチュアリズムは、特定の資質を有する霊媒を通して、地上へ直接的に伝えられています
  • (1000/1000) 現在の地上では、スピリチュアリズムとは異なる、”スピリチュアリズム”も見受けられます
    • 価値あるものには、外見を模倣しただけの贋作[がんさく]が常に現れるのです
    • 本物と贋作を識別する知性/理性を磨き、自身で内容を判断していく必要があります
    • 内容の判断には、筋反射検査を用いて、真実度、活動性の程度、表現の有する誠実/不誠実の性質、などの測定をするのも、有効な識別方法のひとつとなります
    • 筋反射検査については、1章3節 筋反射検査を参照してください
(1000/1000) 宗教とスピリチュアリズムの関係
(1000/1000) 宗教とスピリチュアリズムの関係

至言の紹介

(1000/1000)「シルバーバーチ」
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真の宗教とは
⼤霊の⼦らへ奉仕することによって
⼤霊に奉仕することです
教会も司祭も牧師も聖なる書も
それによって奉仕の意志が芽生え
同胞への愛を更に強くすることへ
つながらない限り必要ではありません
何時[いつ]、何処[どこ]であっても
⼈のために役⽴つことを⼼がけるのです
(1000/1000)「瀞沁」
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不自然で腑に落ちないから信じ込もうとするのです
不自然に馴染むように努力することになるのです
自然で、あるがままなら
信じようとする意志すらありません
自然そのものに矛盾感はないのですから
(1000/1000)「瀞沁」
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知識も宗教も自己の外には存在しません
自己の内にのみ存在しているのです
外にあるのは情報だけです
他者の有する研鑽された知識/宗教も
自己にとっては単なる情報に過ぎないのです
そして
情報は手に入れただけでは情報のままです
手に入れた情報から学び気づき理解し
実証を通して自己の内で宗教の知識となり
宗教の知識を日々に実践することによって
自己が「生きた宗教そのもの」となるのです

質疑応答

  • それぞれの質問文を押すと、応答文が表示/非表示されます
    • すべての応答文を一括して開くには、「すべての質疑応答を開く」ボタンを押してください
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宗教

(1000/1000)

 日本語で「宗教」と訳されている英語の「Religion」も成長のための知識を表しています。Religionの本質的な定義には、全体/集合(ligion)へ回帰/再帰(re-)するという意味があります。人(霊)は、全体(大霊)から個体(分霊)として分割された存在であり、個体としての意識を有しています。この個体の意識で、全体の意識を再現していくことが成長のひとつの側面であり、成長の過程を示しています。成長の過程については、4章1節 分霊の成長を参照してください。

 宗教の定義は、成長のための教え(知識)を宗[あつ]めたものとしての側面が強調されている表現ですが、一方で、Religionの定義は、成長の過程を表す側面が強調されているといえます。宗教もReligionも、本質においては、成長のための知識と知識の実践を示しているのです。

(1000/1000)

 宗教家と呼ばれている、僧侶、神主、司祭、牧師、神父、修道士/修道女、宣教師、などは宗教団体の中での役割(職業名)であり、本人の生き方とは関係ありません。同様に、主教、枢機卿、大僧正、大司祭、大神官、などの位階も宗教団体の中での役職であり、本人の霊としての成長段階を表しているのではありません。そのため、宗教団体内で規定されている一定の条件を満たせば、これらの職業/役職へ就くことができるようになります。これらの職業/役職へ就いている多くの者は、それぞれの宗教団体の有する内容に則[のっと]り、成長を求め修養の生活を実践していますが、これらの職業/役職へ就いている誰もが必ずしも成長を求め実践し模範となるような生き方をしているとは限らず、中には、利己的/自己中心的な生き方をしている者もみられます。修養の生活については、5章1節 修養の生活を参照してください。

 成長を求め、成長を実践する修養の生活は、誰にでも、何時[いつ]でも、何処[どこ]でも、どのような状況であったとしてもおこなえます。必要なのは、成長を求める強い意志のみです。自己が修養の生活をおこなうのに、年齢、性別、学歴、職業、肩書き/役職、他者、教義/教理、経典/聖典、儀礼/儀式、規則/戒律、運営方針、生活環境、地域社会、などの外環境(自己以外)から制限を受ける状況はありません。また、自己の用いる有形体での行動が思うようにできず、病弱であったり、車椅子での移動や寝たきりのような状況であったとしても、それらは修養の生活を実践するうえでの障碍にはなりません。自己が自身で制限を造り出そうとしない限りは、何ひとつ制限となるものは存在していないのです。

 修養の生活とは、誠実な生き方へ努め、現在の段階よりも更に誠実の程度が高い生活を実践していくことであり、この絶え間ない実践の過程が他者への模範となります。利己的/自己中心的な生き方が模範とならないのは当然ですが、現在の段階へ留まり更に高い段階を目指そうとしない状況も模範にはならないのです。

 宗教団体での位階/役職は、自己の成長(実際に成長しているとは限りません)を他者に認定してもらうことで授与されますが、自己の成長を誰かに認定してもらう必要はなく、誰かに認定してもらわなければ自己が成長しないのでもありません。自己の成長段階は、肩書き(位階/役職)で外環境へ現すのではなく、生き方に現れるという点に留意してください。同様に、他者の成長段階も、肩書きに現れているのではなく、ひとつひとつの発言/行動/挙措などに現れています。

(1000/1000)

 はじめに、宗教は政治に関わるべきではないと捉え、政教分離として用いられている「教」とは、宗教ではなく、特定の宗教団体や、宗教団体へ所属している人を指している点へ留意してください。宗教は、組織/団体ではなく、人でもありません。

 宗教は、人が地上で成長していくために必要な知識と知識を実践する方法であり、その根幹は「愛」です。愛は、利己性/自己中心性/欲望、思惑、利益、権力、などとは全くの無関係であり、協調、調和、相互扶助、公平、公正、などによって表されます。地上で生活する「すべての人」は、地上での体験を通して成長するために無形界から地上へ来ており、地上の各地域/各国家の政治/政策が成長を促進させるように「はたらいて」いない、あるいは、成長を阻碍/退行させているのならば、その政治/政策は無価値です。もしも、宗教が政治の土台となれば、誰もが成長を求め修養の生活を実践する環境が整備され、環境を維持するための政策がおこなわれるようになります。現在の政治に関連してみられる、開発/振興という名目での自然環境の破壊、経済の活性化という建前での国民への利己性/自己中心性/欲望の喚起、自国の利益を追い求め堅守するための外交、肩書きに自惚[うぬぼ]れ権力へしがみつき派閥争い/他者の攻撃をしているだけの政治家(政治屋と呼ばれている)、自身に都合の良い利益/思惑に基づいた多数決による決議/採決、強権統治/政治による強制/圧政/弾圧、などは無くなります。

 地上では、有形体の内包する物質の心から絶え間なく誘惑の影響を受け続けているために、誰もが利己性/自己中心性/欲望に基づいて行動する可能性を常に有しています。これは、特定の者たちが決めた方針に基づく政治は、現在には誠実な政策がおこなわれていたとしても、何時[いつ]の間にか利己的/自己中心的な政策へと陥[おちい]り、社会へ不誠実性を拡め、個体/国家/社会の成長の程度を退行させていく可能性があることを表しています。憲法は、利己的/自己中心的な政策へと陥らないようにする最低限の方向性を規定していますが、憲法そのものは不変ではなく、社会の情勢によって変化するために、不誠実性によって改変される(方向性が捻じ曲げられる)状況もみられます。宗教のように不変の内容を政治の土台/方向性とするのならば、利己的/自己中心的な政策へと陥らず、個体/国家/社会の成長を促進していくことができるようになるのです。

 宗教のように不変の内容を土台とすることで、特定の者たちによる方針、社会の情勢、現在の社会/国家の成長段階に相応する正しさ、などに基づいて眼前の状況を判断しなくなります。世界全体から捉えた正しさの程度に基づいて眼前の状況を判断し、現在の社会/国家の成長段階に相応する正しさの程度を向上させていく政治をおこなうようになります。現在の社会/国家の成長段階で正しいと捉える物事は、社会/国家の成長にともない変化しますが、世界から捉えた正しさの程度は不変の尺度です。常に不変の尺度へ照らし合わせて、不変の内容を行動の指針とすることで、価値のある政治/政策をおこなえるようになります。世界については、2章1節 世界全体の構造を参照してください。

 現在の地上でみられる政治体制/政治制度は様々にあり、民主主義、共和制、社会主義、立憲制、君主制、王制、封建制、神権政治、共産主義、独裁制、結束主義、議院内閣制、大統領制、などの政治に関連する体制/制度/主義は多くみられます。それぞれの体制/制度/主義が有する正しさの程度は異なりますが、特定の者たちによる方針/決定に基づいている点は共通しています。なお、神権政治とは、神託に基づいて方針/政策を決定する体制を指していますが、神託(と呼ばれている内容)を受け取るために、特定の”宗教”団体に所属する司祭/神官/巫女などの人が仲介しており、仲介人なしにおこなわれているのではありません。地上で生活する仲介人の生き方、成長の程度、有している習慣/囚われ、などが、天使たちからの指導を受けているのか?、あるいは、地獄者/地縛者たちから唆[そそのか]されているのか? を決定しています。神権政治は宗教を土台とする政治ではありません。

 この質疑応答に関連する内容には、2章3節 有形界の構造 #質疑応答の「惑星の進化のために、地上で生活する人が永続性のある活動をおこなうには、どのようにすればよいのでしょうか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 成長のための知識/知識の実践に、秘義、奥義、極意、秘伝、などはありません。全ては秘匿[ひとく]されることなく、誰の眼前にも明らかにされています。成長のための知識や知識の実践方法は、特定の文言、特定の図形/文様、特定の旋律/発音、特定の動作、などではないために、一部の者たちが秘匿できるものではなく、秘匿することもできません。

 成長のための知識の本質とは、世界に不変/普遍/敷衍[ふえん]する無数の法則の「はたらき」そのものであり、また、知識の実践方法とは、自己の生き方を法則の「はたらき」へ適応させていくことを指しています。無数の法則は外環境を構成する骨格であり、土台であり、誰の眼前にも拡がっているのですが、自己が現在の成長の程度では法則の「はたらき」を認識できない、あるいは、自覚して認識しようとしていないために気づかないだけなのです。世界の法則については、2章2節 大霊を参照してください。

 先人の教え、様々な書物、このサイトで紹介している内容、などは、無数の法則の「はたらき」へ気づくための切っ掛けでしかなく、文字/図表などで記述されている内容を理解しても、理解した内容に基づき自己の体験を通して法則の「はたらき」を実証しなければ、成長へつながる状況はありません。自己が自身の体験を通してのみ法則の「はたらき」を実証でき、実証を通してのみ自己の成長へとつなげることができます。

 秘義/奥義/極意/秘伝などと呼ばれている内容が、無数の法則の「はたらき」へ気づくための切っ掛けとなるのか? 切っ掛けとならないのか? は、伝授された者が自身の体験を通して実証するのか? 実証しないのか? によって決まり、秘義/奥義/極意/秘伝などが法則の「はたらき」へ気づかせ、成長を促進するのではないのです。寧[むし]ろ、成長のための秘義/奥義/極意/秘伝などは秘匿されていて、一部の者たちにだけ明かされる/伝えられると思い込むことで、伝える者も、伝えられる者も、優越感に浸[ひた]り虚栄心を満たそうとしている場合が多くみられます。この状況が成長を促進することはなく、成長を退行させるように、はたらきます。

 特定の内容が秘義/奥義/極意/秘伝として伝えられている、また、特定の単語/数字/図形/色彩などが特別な影響を与えると信じられているのは、これらの「地上へ表現されている物事」に無形的な意義/価値/影響力があると信じ込む固定観念/既成概念を形成することで、自己が固定観念/既成概念に基づき、精神で無形的な意義(印象)を造り出して、地上へ表現されている物事と結びつけて捉えているのです。「地上へ表現されている物事」そのものに無形的な意義/価値/影響力はありません。外環境へ影響を与えているのは、特定の単語、数字、図形、色彩、などではなく、自己が精神で造化して外環境へ表現した印象(無形的な表現)に付与している活動性の性質と程度です。固定観念/既成概念については、5章4節 固定観念/既成概念を参照してください。

 地上へ表現されている物事に無形的な意義/価値/影響力があると信じ込む例として、数字の場合では、日本では「4/四」を「死」と関連づけ、「9/九」を「苦しみ」と関連づけて不吉と忌避しています。中国では「8/八」を「末広がりの発展/繁栄」と関連づけ、「9/九」を「久しい」と関連づけて末永く続く縁起の良さを願っています。キリスト教圏では、「4」を「四福音書」と関連づけて幸運を呼ぶとしており、一方で、「13」を「イエスを裏切ったユダ」と関連づけ、「666」を「悪魔の数字(獣の数字)」と関連づけて不吉とみなしています。自己が自身の有する固定観念/既成概念に基づいて、それぞれの数字へ自己の造化した印象で意義/価値/影響力を付け加え、付け加えた通りに印象で自己/他者へ影響を与えているのです。

 この質疑応答に関連する内容には、1章4節 概要 #質疑応答の「地上で成長を求める者が少ないのはどうしてですか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 僧院/修道院での生活が、僧院/修道院で生活しない状況(俗世と呼ばれる環境での生活)に比べて、必ずしも成長を促進しやすいとは限りません。僧院/修道院での生活の状況によっては、成長を阻碍している場合もみられます。どのような場所で、何を学び、どれくらいに成長へつなげるのかは、すべて本人の自由意志によって決めることができ、特定の場所での生活が成長を促進しやすい、あるいは、特定の場所での生活によって成長が阻碍され退行しやすくなるという状況はみられません。宗教団体に所属し僧院/修道院で生活しているから所属していない者(俗世の人々)よりも成長の程度が高いとは限らず、宗教団体に所属すれば成長の程度が高くなるとも限らず、宗教団体の内部で規定されている階級/位階が高いほどに成長の程度も高いとも限らないのです。

 そのうえで、僧院/修道院では、生活する者たちが自身の修養を求めるという類似する方向性の目的をもって集まっているために、周囲の者たちを成長への手本/模範としやすい側面があります。反面として、物事の捉え方、行動の内容、入手できる情報、などが、僧院/修道院の有している規則/約束事/戒律によって制約を受け、自由意志による「選択の自由」が制限されやすい側面もみられます。顕著な例として、夜間の決まった時間に就寝より起きて礼拝をする、特定の儀式/儀礼/修業を課される、などがあります。なお、僧院/修道院で生活する者たちの多くは、地上で生活する目的のひとつとして、今回の地上での生活において僧院/修道院での生活を通して学び成長していくと、地上での生活を始める前に決めている点へ留意してください。自由意志については4章6節 自由意志/運命、地上で生活する目的については4章2節 有形界での成長を参照してください。

 地上で生活する者は、誰ひとりとして例外なく、現在に生活している場所が、現在の時点での成長へつなげることのできる最も適した場なのです。現在に生活している場所から必要な学びを終えて成長へとつなげたのならば、更なる成長へ適した次の場所へと天使たちが導いてくださいます。ただし、現在に生活している場所から何を学び得て、どれくらいに成長へつなげるのかは本人次第です。天使については、4章10節 天使を参照してください。

 加えて、 日常の中でも頻繁にみられる、写経/読経などの行動そのものに成長へ役立つ価値はありません。どのような目的で、どのような内容を書き写している/唱えているのか? 書き写している/唱えている内容から何を学んだのか? に価値が表れます写経/読経などには、自己が現在に書き写している/唱えている内容を自覚しやすくする特徴があります。これは、黙読よりも音読が内容を理解しやすく「はたらく」場合もあるのと同様です。そのため、これまでに自覚できるものの自覚していなかった経典の著者/編纂者が伝えようとしている目的へ気づき、内容の考察を深め、理解を促進しやすくなります。ただし、自己が理解していない文字/単語/文章の羅列を書き写している/唱えているだけ、あるいは、現在に書き写している/唱えている目的を明確に自覚していない状況では時間/労力の浪費です

 また、読経/祝詞などは唱えている本人のためではなく、相手へ内容を伝える目的でおこなわれる場合も多いですが、相手が人/霊に関わらず、読経/祝詞によって相手へ伝えるのは文言の内容ではなく、読経/祝詞などをおこなう明確な目的と意志の強さによって造化する印象の内容です。明確な目的と強い意志で印象を造化するほどに、同調する活動性の程度に相応する活動性の程度を印象へ付与しやすくなり、その活動性の程度が相手/世界へ影響を与えるのです。地上では、経文、経典、聖典、などの読んでいる/書き写している/唱えている内容に「有難味[ありがたみ]」があると思い込んでいる状況も多くみられますが、これらの内容に有難味があるのではなく、これらの内容を理解し、理解した内容に基づいて自己が実践した結果として、実践(体験)を通して得た学びに有難味が表れ、成長へと役立つようになるのです。

 この質疑応答に関連する内容には、5章1節 修養の生活 #質疑応答の「成長の模範となる師(グル/先達)が自己の傍にいると、成長を飛躍させることへつながりますか?」がありますので参考にしてください。

宗教団体

(1000/1000)

 宗教団体の有する教義/教理の内容そのもの以前に、自身で様々な物事を考察しようとせずに盲目的に信じてしまう生き方が、成長を阻碍させています。例として、テレビ番組で、ある食品が肝臓に良いと放送されたのならば、内容の正確性を自身で調査し、自身の知性/理性で判断することなく、その食品を買い集めに行く行動が挙げられます。

 あらゆる物事/現象/情報や他者を疑ってかかるのではなく、また、良い(善い)/悪いの二者択一でもなく、自身の考察と証明を通して、常に総合的な判断/捉え方をおこなえる生き方が必要なのです。この総合的な判断/捉え方は、非二元性による捉え方とも関連しています。非二元性による捉え方については、4章4節 覚醒 #質疑応答の「覚醒者が認識の表現に用いる非二元性とは何ですか?」を参照してください。

 学びを得ようとする強い意志を有し、自身の知性/理性を活用して総合的に判断できるのであれば、教義/教理の内容を知ることは、成長のための何らかの気づきを得るのにつながる場合もあります。教義/教理から学びを得るためには、教義/教理の内容について自己が外環境/他者から強制されないこと、教義/教理の内容を自己が自身へ強制しない(盲信しない)こと、の2点へ留意したうえで自由に考察する必要があります。

 加えて、儀礼や儀式をおこなうことそのものにも、成長につながる状況はみられません。成長につながるのは、肉眼に視える外的な行動そのものではなく、行動をおこなう内的な目的(行動の目的)です。手を合わせ祈るという単純な儀式の行動であったとしても、自己の欲望を叶えてもらいたいためにおこなうのと、他者のために自己を役立てたいと願いおこなうのでは、祈る目的に大きな違いがあります。自己の欲望を叶えてもらいたいためにおこなうのは、利己性/自己中心性/欲望に基づく不誠実な祈りであり、世界の進化に不調和な影響を与え、その結果として、自己の成長を停滞/退行させます。一方で、他者のために自己を役立てたいと願いおこなうのは、無我/無私の愛に基づく誠実な祈りであり、世界の進化への調和を高め、その結果として、自己/他者の成長を促すように、はたらきます。儀礼/儀式という物的な行動そのものが、必要、あるいは、不要という判断ではなく、どのような目的でおこなうのかを明確にする(目的を自覚したうえでおこなう)ことが必要なのであり、目的を自覚しないままに漫然に盲目的におこなう状況を改める必要があるのです。

 教義/教理、戒律/規則、儀礼/儀式、などを遵守するのではなく、これらが造り出される土台となった内容を考察し、考察を通して自己の理解した内容を実践していく過程が成長へとつながるようになります。考察した内容そのものが、自己の理解した内容ではない点に留意してください。

 地上社会には、歴史上でも、現在でも、何処[どこ]の地域でも、宗教団体/宗派に由来する軋轢[あつれき]、対立、弾圧、排斥、迫害、差別、紛争、などが溢れています。宗教団体/宗派の教義/教理/戒律や、これらに基づく風習に囚われた偏狭な物事の捉え方が、他の宗教団体/宗派に所属/信教する者への理解をさせず、また、寛容をもって応対しないようにさせているのです。理解できない/寛容をもてないのではなく、自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく理解したくない/寛容をもちたくないのだという点に留意してください。勿論[もちろん]ながら、宗教団体/宗派に所属/信教する誰もが、教義/教理/戒律や、これらに基づく風習に囚われて偏狭な物事の捉え方へ陥[おちい]っているのではありません。

 肉眼に視える物的な物事に囚われ拘[こだわ]っているために、自己/他者の属する宗教団体、宗派、教義/教理、戒律/風習、(加えて、人種、民族、部族、氏族、生活している地域/国家)、などの「表面的な違い」に自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく恐れ/怯え、自己に都合の良い偏狭な物事の捉え方をするようになるのです。肉眼に視えない有形的/無形的な物事へ意識を向けるのならば、自己/他者の属する宗教団体、宗派、教義/教理、戒律/風習、などの「本質的な共通点」に気づき、融和/協調/配慮するようになります。

 宗教団体に所属している者たちの中には、教義/教理や団体内の伝統/慣習/規則/戒律に固執して、教義/教理や伝統/慣習/規則/戒律の有する「成長を阻碍/退行させている偏狭な捉え方」からの解放/改革を先導する同僚を、不敬/不遜[ふそん]で冒涜[ぼうとく]的と非難/批判/糾弾し、迫害/侮辱/追放することで、自身の恐れ/怯えから眼を逸らし虚栄心を満たそうとする者も多くみられます。同様の者は、家庭、自治会/町内会、企業、教育機関、研究機関、国家/行政機関、政党、クラブ/部活動、などの様々な共同体でも多くみられます。

 地上で生活している人、あるいは、地上で生活したことのある人霊は、有形体の内包する物質の心から誘惑の影響を受けて、「狡猾さ」が経験の機能特性へ保存されている点に留意してください。狡猾さは、あらゆる物事を自己に都合良く利用させるように「はたらき」かけ、自己は誠実に物事を捉え行動していると自覚しているものの、自覚できるものの自覚なく不誠実に物事を捉え行動させている状況も多くみられます。教義/教理に条文/教条として記載されている、教祖/開祖/指導者/他者が発言した、マスメディアで報道された、書物へ掲載されている、などの理由で、自己がおこなう行動を盲目的に狡猾に正当化することなく、自己のおこなう行動は、自身で考察/内省したうえでおこなうように努める必要があります。教義/教理、教祖/開祖/指導者/他者、マスメディア、書物、などは、自己のおこなった行動の責任/代償を肩代わりしてくれません。自己のおこなった行動の責任/代償の重さは、必ず自己の有する「行為の記録」へ加算され、行為の記録から自己へ成長の促進/退行として必ず還元されます。行為の記録については、4章7節 行為の記録を参照してください。

 なお、個体でも、企業/組織/国家などの共同体でも、様々な宗教団体へ信教/支持していながら、刀剣/銃/スタンガン/催涙スプレーなどを含む武器/兵器/軍隊を保有して武装/護身するのは、本質的には「信教/支持していない」状況を表しています。誠実な性質を有する「どのような宗教団体」の教義/教理、聖典/聖書、などにも、武力/物的な暴力を用いることは是認されていません。

 この質疑応答に関連する内容には、5章2節 幻想 #質疑応答の「幻想の捉え方によって、物事を誠実に捉えていると思い込んでいる場合もみられますか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 単純/素朴な内容は劣っていて、複雑/難解な内容ほどに優れており高尚で権威/価値/有難味[ありがたみ]があるという自覚のある、あるいは、自覚できるものの自覚していない思い込み(固定観念/既成概念)が、難解な教義/教理を造り出しています。譬[たと]えると、庭や道端に自生している蓬[よもぎ]、魚腥草[ぎょせいそう](どくだみ草)、などは雑草と捉えて軽視/侮蔑[ぶべつ]しているのに、これらが乾燥させて袋/箱へ詰められ店頭で販売されていると、薬効のある茶として重視/重宝し購入している状況といえます。固定観念/既成概念については、5章4節 固定観念/既成概念を参照してください。

 また、本来は単純/素朴な内容であったにも関わらず、教義/教理の編纂者たちが故意に複雑/難解な内容へ改変している場合もみられ、複雑/難解な内容を理解できるほどに優れているという優越感を与え、複雑/難解な内容を理解する程度によって序列/順序付けをおこない虚栄心を満たさせようとしています。複雑/難解な内容は様々な解釈を生み出す原因にもなっており、本来の単純さ/素朴さを見失わせ、閉鎖した思考経路の円環の中で語の定義を置き換えるだけの論考(ことば遊び)をさせやすくしています。複雑/難解な内容ほどに優れているという思い込みは、教義/教理に限らず、社会の中での儀式/儀礼、祭典、規則、各種の手続き、他者/他社との応対、日常の生活、学問の探求/探究、論文/学術書、論評、法律/条例、などの様々な物事でみられ、幻想の捉え方に基づいておこなわれる行動/思考の手間を増やす状況や、無用に工程を増やす状況にも密接に関連しています。幻想の捉え方については、5章2節 幻想を参照してください。

 加えて、教祖/開祖に同行する周囲の者たちや、後世の者たちが自身に都合良く教祖/開祖を祀[まつ]り上げて、教祖/開祖のおこなった発言/行動の記録を編纂[へんさん]/改竄[かいざん]/創作しているために、現在に伝わる教義/教理が難解になっている状況も多くみられます。この状況には、教祖/開祖を神格化/超人化した記述をおこなう、殊更[ことさら]に尊敬語/謙譲語を多用する、教祖/開祖となった結果から遡[さかのぼ]って教祖/開祖となるまでの逸話を創作する、などがあります。

 なお、自然界の様々な物事/現象の互いにつながりあう状況が複雑にみえるのは有形的認識に基づいて捉えようとしているためであり、無形的認識に基づいて捉えれば単純です。有形的認識に基づいて捉えることは、無数の枝葉の中で、ある枝葉が、どの枝葉と直接につながりを有し、どの枝葉とは直接的なつながりを有していない(間接的にはつながりを有している)のかを把握しようとしている状況へ譬えられます。一方で、無形的認識に基づいて捉えることは、それぞれの枝葉をみるのではなく、無数の枝葉が伸びる土台となる根/幹を把握する状況へ譬えられ、それぞれの枝葉が相互に「どのようなつながりを有しているのか」が理解できるようになります。

(1000/1000)

 様々な宗教団体の教義にみられる一神教/多神教の違いは、大霊の捉え方が異なるためです。一神教では、神は全体としての大霊を表しているものの、大霊(神)は人格を有する個体と誤認している場合が多くみられます。一方で、多神教では、それぞれの神は個体としての分霊(精霊や地獄者/地縛者を含む場合もある)を表しており、個体の総合を全体としての大霊と認識しています。ただし、宗教団体によっては、個体の総合を全体としての大霊と認識するには未だ至っていない場合もみられます。大霊については2章2節 大霊、分霊/精霊/地獄者/地縛者については2章5節 無形界の住人を参照してください。

 多くの宗教団体では、一神教/多神教による大霊の捉え方が異なるのに加えて、大霊を捉える側面にも違いがみられます。大霊の特定の側面のみから捉えている教義もあれば、複数の側面から捉えている教義もあり、また、大霊の側面を捉える程度(真実度)も様々です。加えて、大霊を捉える側面/捉える程度の違いが、物質の心から受ける誘惑(利己性/自己中心性/欲望)の影響と組み合わさり、宗教論争/戦争、宗派の分裂/対立、他教徒の差別/迫害/軋轢[あつれき]、などを生み出す原因にもなっています。例として、宗教団体Aでは大霊の側面Aを捉えており、宗教団体Bでは大霊の側面Bを捉えていると、宗教団体A/Bでは捉える側面が異なるために、相手を相互に誤りと非難し合っているのです。相手を非難する行動は、恐れ/怯えを土台とする幻想の捉え方に基づいています。自己と異なる信条/信教/風習などを有する者を自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく恐れ/怯えており、内面の恐れ/怯えから眼を逸らし続けるために、自己の所属/信教する宗教団体の教義/教理を自己に都合良く利用して、相手を排除/排斥/迫害/差別したいのです。幻想の捉え方をしていないのであれば、自己と異なる信条/信教/風習などを有する者と共生/融和しようと努めます。幻想の捉え方については、5章2節 幻想を参照してください。

 なお、このサイトでは不完全ながらも、世界、摂理、法則、原素材、生命、実体、霊、の7つの側面から大霊を捉えて記述しています。

 宗教団体の教義にみられる一神教/多神教の違いに関わらず、宗教団体での信教が、結果として「大霊への信仰」へつながっているのか、あるいは、「特定の人物への崇拝」へつながっているのか、が宗教団体で信教している者たちの生き方に大きな違いとして表れるようになります。前者は個体の成長を促す可能性があり、後者は個体の成長を阻碍/退行させる可能性があります。

(1000/1000)

 宗教団体の宣教/布教/伝道/広報活動によって、個体や社会の成長を促している場合もみられますが、固定観念/既成概念を形成させて成長を阻碍している状況や、利己性/自己中心性/欲望を喚起/増大させて成長を退行させている状況もみられます。宗教団体へ所属している/所属していないに関わらず、自己の成長を求め、修養の生活(成長を促進する生き方)を実践している者にのみ、他者や社会の成長を促すことができます。先[ま]ずは、他者へ宣教する前に、自己の成長へ努める必要があります。修養の生活については、5章1節 修養の生活を参照してください。

 社会の中では、自己は僅かにも成長へ努めていないものの、所属する宗教団体から要請されて、あるいは、作業目標(ノルマ)を達成するために、宣教と呼ばれる「物的な行動」をおこなっている者も多くみられます。行動の土台となる「無形的な目的」に、他者の成長を願う誠実で明確な内容を有していないのならば、どれほどに宣教と呼ばれる「物的な行動」へ時間/労力を費やしたとしても、自己/他者/社会の成長へつながらないだけでなく、成長を退行させるように、はたらきます。加えて、個々の住居を1軒ごとに訪[たず]ね歩く、定期的に集会/勉強会を開催する、などの物的な行動をおこなうことで、宣教活動が進展しているように思い込み、自己満足に陥[おちい]りやすい傾向もみられます。これは、宗教団体で宣教活動をおこなう者だけでなく、スピリチュアリズムの普及活動へ携[たずさ]わる者にも当てはまります。

 他者へ宣教するのならば、自己が他者へ宣教する内容は何を目的としているのか? 誰のために宣教しているのか? 自己は宣教することで他者へ何を願っている/何を求めているのか? などを内省し、他者の成長を促す内容や、他者が自身の生き方へ気づき内省する切っ掛けとなる内容を伝える必要があります。多くの宗教団体では、悩み/苦しみのない生き方、地上での快適/平穏な生活、来世志向(今回の地上生活が貧困などの苦しみに溢れているために次回は安楽に生活できるように望む)、などを求めるように説く状況もみられますが、これらは認識の程度が低いために眼前の物的な物事のみへ意識を向けている、あるいは、誘惑の影響を受けて利己的/自己中心的に捉えているために造り出された内容です。成長とは無関係の内容や、成長を退行させる可能性のある内容を他者へ宣教しても、他者の成長へはつながらないのです。

 なお、自己の所属する宗教団体の団員/信者を増加させるために他者へ宣教(勧誘)をおこなうのと、他者の成長を願い宣教するのは異なります。他者へ宣教した結果として、他者が自身の所属する宗教団体へ参加したものの何時[いつ]までも成長が促進されない、あるいは、成長を阻碍/退行させているのであれば、宣教は無価値だったといえます。一方で、他者へ宣教した結果として、他者が自身の所属する宗教団体へ参加しなかったものの、宣教後に他者の成長へつながったのならば、宣教は価値があったといえます。

 宣教活動は、他者の成長を促すために必ずしも必要な行動ではないという点に留意してください。宗教団体に所属する者の中には、宣教活動をおこなわなくても、自己の生き方が他者への模範となり、自然に他者の成長を促進させている者たちもいます。名の知られている人物の例としては、マザー・テレサ、ガストン・ダヤナンド、たちが挙げられます。マザー・テレサの活動については、多くの書物などが出版されていますので、それらを参照してください。ガストン・ダヤナンドの活動については、5章6節 愛の行為 #質疑応答の「愛の行為をおこなううえで、参考になる書物はありますか?」に書物を紹介していますので参考にしてください。

 この質疑応答に関連する内容には、5章2節 幻想 #質疑応答の「不誠実な生き方をしているのに、自身は誠実な生き方をしていると思い込んでいる状況はみられますか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 教祖/開祖の中には、天使から受けた啓示に従って宗教団体を創設した者もいます。ただし、すべての教祖/開祖が、天使から啓示を受けて創設したのではありません。地獄者/地縛者に唆[そそのか]されて創設した者もいれば、自己の利己的/自己中心的な目的で創設した者もいます。決して、誠実な生き方をしている者だけが教祖/開祖とは限らないのです。これは、宗教団体の教祖/開祖だけでなく、スピリチュアリズムの普及を推進している者たちも同様です。天使については、4章10節 天使を参照してください。

 天使から啓示を受けて創設した教祖/開祖は、誠実な生き方をしており、地上での目的/役割に「知識を拡める」という内容を有していたのです。そのため、天使たちの計画に基づき、適切な時機に天使たちの支援/援助を受けて創設し、宗教団体を通して知識を拡めています。自己(教祖/開祖)は団体に所属する者(信者)たちのための道具であると理解しており、書物/物品などを販売することもなく、金品を要求することもなく、権威をもつこともなく、質素な服装/建物で教えを説き、愛の行為を拡めるために専心/献身しています。一方で、地獄者/地縛者に唆[そそのか]されて創設した者、自己の利己的/自己中心的な目的で創設した者は、不誠実な生き方をしており、その生き方に同調する地獄者/地縛者たちを引き寄せ集め、憑依され、思うがままに操られて創設したのです。そのため、自己(教祖/開祖)の威厳を保つために様々な策謀を用い、書物/物品などの販売や布施/献金などの名目で金品を掻き集め、団体内に序列の階級をつくり、豪華絢爛/荘厳な建物を建て、団体に所属する者(信者)たちのためではなく自己のために団体に所属する者たちを利用/搾取しています。

 地上の多くの地域へ拡大している宗教団体や、拡く認知されている宗教団体の教祖/開祖の中にも、加えて、宗教団体の運営に携[たずさ]わる者たちの中にも、地獄者/地縛者に憑依され、思うがままに操られている者たちが多くいます。地上の社会は未だ成長の程度が低いために、成長の程度が極めて低く不誠実な生き方をしている多くの者たちが、自身と同等の不誠実な生き方をしている教祖/開祖に引き寄せられているのです。そして、地獄者/地縛者に憑依され、思うがままに操られている不誠実な生き方をしている者たちは、宗教団体の教祖/開祖に限らず、為政者、医師、弁護士、裁判官、警官、学校教員、僧侶、牧師、圧政を敷く国家に対してデモや革命を先導する指導者、などの「誠実/公平/公正である」ことが土台でなければ成り立たないような職業/立場に就いている者の中にも多くみられます。

 誠実な生き方をしている教祖/開祖と、地獄者/地縛者に憑依されている教祖/開祖を含む不誠実な生き方をしている教祖/開祖を、彼らの発言、著書、行動、容姿、外見、などから判別するのは困難です。地獄者、地縛者、利己的/自己中心的な生き方をしている者たちを造り出す源となった物質の心は狡猾/残忍で、巧妙に自身の利己性/自己中心性/欲望を隠しながら他者へ接するために、彼らが憑依されて思うがままに操られている状況にも、不誠実な生き方をしている状況にも、傍からは気づくことができません。ただし、成長の程度が高く誠実な生き方をしている者が、彼らの挙措、態度、言動、著書、などを詳細に観察/考察すると気づくこともできます。また、彼らが不誠実な生き方によって造化し、彼らの周囲に漂わせている暗闇を霊眼で視るのは誰にでもできます。なお、天使の支援/援助を受け、誠実な生き方をしている教祖/開祖は、肉眼では威厳もなく貧相で弱々しく視えたとしても、自身の誠実な生き方によって造化した輝きを周囲へ放っている様子が霊眼で視えます。物質の心については、3章7節 心を参照してください。

 もしも、教祖/開祖たちの記述した著書などを読む場合には、内容を読む前に、書物の内容が有する真実度、活動性の程度、誠実/不誠実の性質、を測定することを推奨します。内容を読む前に測定するのは、不誠実な生き方をしている教祖/開祖たちは巧妙に利己性/自己中心性/欲望や恐れ/怯えに囚われさせるような記述の仕方をしている場合が多くみられ、内容を読んでしまうと、読者は自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく囚われを形成する可能性があり、真実度/活動性の程度などを測定する筋反射検査の要件を満たせなくなる場合もあるためです。同様に、学者/研究者/各分野の専門家が、自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく不誠実な目的で論文や学術書を記述している状況も多くみられます。この状況でも、論文/学術書は不誠実な性質を示し、巧妙に利己性/自己中心性/欲望や恐れ/怯えに囚われさせるように記述されているために、著者の学歴/職歴/肩書や研究分野/専門分野に先入観を有して記述の内容を盲信しないように留意する必要があります。真実度/活動性の程度の測定については、1章3節 筋反射検査を参照してください。

 不誠実な生き方をしている教祖/開祖たちの巧妙に囚われさせようとするのと同様の発言/行動は、物的な社会へ比較的に影響を与えやすい政治に携[たずさ]わる者、企業/団体を統括する者、著名なスポーツ選手/芸能人、たちの中にもみられます。彼らのおこなう発言/行動は、表面的には筋の通った尤[もっと]もらしい内容にみえるものの、本質的には利己性/自己中心性/欲望に基づいて自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく他者/世論を誘導/操作/煽動しています。

(1000/1000)

 宗教団体の教祖/開祖や霊的指導者に限らず、もしも、自己が今回以前の地上生活でおこなっていた物的な生活の内容を思い出し、それが歴史上で名の知られている人物であったとしても、現在に誠実な生き方をしている者が、歴史上で名の知られている人物の生まれ変わりだと喧伝[けんでん]することは決してありません。誠実な生き方をしている者が歴史上で名の知られている人物の生まれ変わりだと喧伝する状況がみられないのは、過去(今回以前)におこなっていた地上での物的な生活の内容は、現在(今回)の地上での物的な生活や、現在の地上での成長には関係がないことを理解しているためです。

 今回以前におこなっていた地上での物的な生活を通して学んだ無形的な内容のみが、今回の地上での物的な生活に役立っているのであり、今回以前におこなっていた地上での物的な生活の内容が、今回の地上での物的な生活を通した成長へ役立つ状況はありません。そのため、地上で生活している間は、今回の地上での生活へ意識を集中して成長へと努めるように、今回の地上での生活に必要としない「今回以前の地上での物的な生活の内容」を思い出せないように、大霊によって配慮されているのです。その配慮のうえで、地上での目的/役割や、成長の程度によっては、今回の地上での生活において、今回以前の地上での物的な生活の内容を思い出す場合もありますが、思い出すのは自己/他者の成長へ役立てるためであり、歴史上で名の知られている人物であったという肩書きを付け、周囲へ虚勢を張り、自己の虚栄心を満たすためではありません。

 現在の地上において、歴史上で名の知られている人物の生まれ変わりだと喧伝している者たちの中に、誠実な生き方をしている者は1人もいません。この者たちは、「虎の威を借る狐」の故事成句へ譬[たと]えられ、自己の利己的/自己中心的な権威付け/利益/自己顕示欲のために、歴史上で名の知られている人物の生まれ変わりであると自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく騙[かた]っているだけなのです。なお、自覚して騙っている者たちは、自己の利己的/自己中心的な目的/欲望のために詐称[さしょう]していますが、一方で、自覚できるものの自覚なく騙っている者たちは、自身の不誠実な生き方によって大勢の地獄者/地縛者たちを引き寄せ集め憑依させているために、自己は歴史上で名の知られている人物の生まれ変わりであると彼らに唆[そそのか]され思い込まされているのです。

 自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく騙っている状況には、宗教団体の教祖/開祖や霊的指導者に限らず、「自己は神の使い」「自己は神に選ばれた人間」「自己は神から権威/権力を与えられた」などと喧伝することも含まれます。宗教団体で用いられている「神」という存在を自己に都合良く利用して、他者から自己は特別なのだと認めてもらい、自己の不誠実な行為/生き方を正当化したいだけに過ぎません。勿論[もちろん]ながら、現在の地上において、「自己は神の使い」「自己は神に選ばれた者」「自己は神から権威/権力を与えられた」などと喧伝している者たちの中に、誠実な生き方をしている者は1人もいません。

 もしも、他者へ成長の模範を示す立場にある宗教団体の教祖/開祖や霊的指導者が、自身は歴史上で名の知られている人物の生まれ変わりだと喧伝しているのであれば、成長の模範(誠実な生き方の手本)ではなく、不誠実な生き方の見本を示していることになります。喧伝の有無は、外見的には判別し難い開祖/教祖/霊的指導者の真贋[しんがん](本物/偽物、誠実/不誠実な生き方)を判別する材料のひとつとして用いることもできます。

(1000/1000)

 はじめに、このサイトの管理をおこなっている瀞沁庵[せいしんあん](大勢の天使たち/著者を含む)は、これまでの歴史の中で宗教団体/組織へ所属して成長の模範となる生き方を実践してきた数多くの先人たちへ敬愛を有しています。ただし、宗教団体そのものや、宗教団体/組織へ所属する全ての者たちへ敬愛を有しているのではありません。なお、敬意/敬愛を有するのは全体である大霊に対してであり、特定の個体(人物)へ敬意/敬愛を有するのではありません。大霊を構成する個体へ敬意/敬愛を示すのは、現在の成長段階に関わらず、自己の成長を求め修養の生活を実践し、他者の成長を手助けしている者たちに対してのみとなります。瀞沁庵についてはサイト管理者、非難/批判/糾弾が不誠実な行為となることについては5章2節 幻想を参照してください。

 この「宗教/スピリチュアリズム」の節は、地上社会で混同されている「宗教」と「宗教団体」を区別して認識し、両者のつながりを把握するために記述しているのであり、宗教団体の是非について記述しているのではありません。宗教と宗教団体を混同して認識しているために、宗教団体が非難されているように捉えてしまうのです。逆に、このサイトに記載されているような「宗教の内容(地上で成長していくために必要な知識と知識を実践する方法)」へ反感を抱き、非難/批判/糾弾するのは、自身の所属する宗教団体が一切の宗教を含んでいない、あるいは、自身の所属する宗教団体以外を排他/排外的に捉えているのです(自身の所属する宗教団体至上主義)。宗教は成長を促進する内容のみで構成されています。成長を求め実践する個々の成長の程度に相応する内容が常に大霊より与えられ、成長の程度に相応しない内容が与えられることはありません。個々の成長の程度に関わらず、成長を停滞/阻碍する内容が与えられる状況はみられないのです。

 一方で、宗教団体は、団体へ所属する個々の成長の程度に相応する内容が常に与えられるとは限りません。ある段階の成長の程度では宗教団体の有する内容が成長を促進するものの、他の段階では成長を阻碍する内容も含まれており、中には、成長を退行させる内容が含まれている場合もみられます。宗教団体は共同体のために、共同体としての成長の程度を有しています。それぞれの宗教団体が有している教義/教理、経典/聖典、儀礼/儀式、規則/戒律、運営方針、所属する者たちの生き方、などの総合が共同体としての成長の程度を決定しており、それぞれの宗教団体ごと、団体内の宗派ごと、宗派内の寺院/教会ごと、などによって成長の程度は様々です。自己の成長の程度が自己の所属する宗教団体(宗派/寺院/教会)の成長の程度よりも高くなったのであれば、以前は成長を促進するように「はたらいて」いた宗教団体の有する様々な内容が、以降は成長を阻碍するように「はたらく」という点へ留意する必要があるのです。

(1000/1000) 宗教と宗教団体
(1000/1000) 宗教と宗教団体

 宗教(地上で成長していくために必要な知識と知識を実践する方法)と、宗教団体が有している教義/教理、経典/聖典、儀礼/儀式、規則/戒律、などとの「つながり(関係性/関連性)」は、記述で違いを示されたのならば把握できるものの、理解し難い(腑に落ちない/納得できない)ですが、自己の体験を通して観察/考察することで理解/実感できるようになります。

 加えて、地上社会では、企業/国家/団体/部族の最高責任者、最高指導者、代表取締役、首長、などの「地上で就いている役職」へ盲目的に敬意を示して応対する状況は頻繁にみられますが、相手の役職に対して敬意を示すのではなく、相手の生き方を観たうえで、必要であれば生き方へ敬意を示すようにします。就いている役職と生き方には関係性がないのです。同様に、敬意を払うのは生き方に対してであり、年齢、身分/階級、経歴(学歴/職歴を含む)、勤続年数、学年、保有する資産の量、知名度、権力、などに対してでもありません。自己が価値ある生き方へ努めているのならば、年齢、身分/階級、経歴、勤続年数、学年、保有する資産の量、知名度、権力、などの物的な物事には「本質的な価値」がないことへ気づきます。そして、これらの物的な物事へ拘[こだわ]り囚われている「恐れ/怯えに基づく生き方をしている者」たちに憐[あわ]れみを感じ取るようになります。

 このサイトで宗教団体を非難しているのではないのと同様に、サイトの中で「不誠実な生き方をしているのならば今後に長期に渡って苦しまなければならない」「地獄者/地縛者に憑依され操られている」「不誠実な行為をおこなう者からは暗闇が噴き出している」などの表現を用いていますが、これらの表現は、恐れ/怯えを喚起させるために脅迫しているのではなく、揶揄[やゆ]して嘲[あざけ]っているのでもなく、眼前に観えている現実を伝えているだけに過ぎません。そして、誠実さに基づいて、成長を求めている者(サイトの読者)へ、眼前に観えている現実を伝えない(隠蔽[いんぺい]する)、あるいは、偽[いつわ]って伝える(偽装する)ことはできないのです。

 この質疑応答に関連する内容には、6章3節 質疑応答 #質疑応答の「サイトへ掲載されている内容を読んでいると、死後に長く苦しみたくないのならば、地上で誠実な生き方へ努めなければならないと強迫されているように感じるのですが?」も参考にしてください。

スピリチュアリズム

(1000/1000)

 地上でスピリチュアリズムと呼ばれている、無形界から地上への「はたらきかけ」の活動全体を把握しているのは、無形界で活動の指揮を統括している部門だけであり、また、現在に地上社会の有する成長の程度では、地上へ伝えることが許可されている活動内容も限定されているために、下記には「はたらきかけ」の一部を紹介します。なお、下記に記載されている「はたらきかけ」の様々な現象/通信方法については、このサイトでは名称のみを紹介し、具体的な内容は記述していません。それぞれの現象/通信方法の具体的な内容については、他のウェブサイト、書物、文献、などを参照してください。

 先[ま]ず、重要なのは、無形界から地上へ「はたらきかける」には、無形界からの通信を中継するための道具(霊媒)が、地上に必要だという点です。地上の霊媒なしには、直接通信/間接通信に関わらず、無形界から地上へ通信することができないためです。綿密な計画に基づいて、適切な時機に、適切な地域で、道具(霊媒)が役立つように細心の配慮が為されており、地上全体で観ると、常に地上から道具が途絶えてしまう状況の無いように計画されています。そして、はたらきかけの開始当初から現在に至るまでも、地上の道具が途絶えて、無形界からの直接的/間接的な通信の途切れた期間はありません。直接/間接の通信方法については2章7節 無形界の仕事 #質疑応答の「スピリチュアリズムと呼ばれているはたらきかけは、地上へ帯同しておこなわれているのですか?」、また、霊媒については3章1節 人全体の構造 #質疑応答の「霊媒と呼ばれている人たちは、特殊な人体構造や能力を有しているのでしょうか?」を参照してください。

霊の存在を思い出させる段階 (1840年代後半-)

 最初の「はたらきかけ」の段階として、地上で忘れ去られていた、肉眼に視えない霊という存在を思い出させるために、地上で検証できる物的(物理的/物質的)な法則以外に、物的に検証できない法則があることを認識させ、物的に検証できない法則によって、「物的な法則を超える現象(霊的現象)」が顕現できる状況を示しました。

肉眼に視える霊的現象

 物的な法則では起こり得ない、肉眼に視える現象を顕現させます。

 ラップ(叩音)、ポルターガイスト、物体移動、空中浮遊、遠隔瞬間移動、心霊写真、念写、物質化、聖痕、耐火、直接書記、直接談話、などがあります。

 ただし、地上で確認されている、これらの現象の全てが「はたらきかけ」によるものではなく、計画とは無関係に、不誠実な霊たちが悪戯[いたずら]としておこなっている場合もあります。

肉眼に視えない霊的現象

 物的な法則では起こり得ない、肉眼に視えない現象を顕現させます。

 霊視、霊聴、透視、未来予知、精神伝達、物体感応、サイコメトリー、などがあります。

 ただし、地上で確認されている、これらの現象の全てが「はたらきかけ」によるものではなく、はたらきかけとは無関係に、地上の個体(人)が、無形体の活動として発現させている場合もあります。

霊的診療現象

 物的な法則では起こり得ない、治療/治癒の現象を顕現させます。

 スピリチュアルヒーリング/心霊治療とも呼ばれており、遠隔治療、生体エネルギー治療、心霊手術、霊示治療、除霊治療、などがあります。

 ただし、肉眼に視えない霊的現象と同様に、はたらきかけとは無関係に、地上の個体(人)が無形体の活動として発現させている場合もあります。

知識を伝える段階 (1850年代後半-)

 霊の存在を思い出させる段階を通して、霊の存在が再び認識されたことにより、次の「はたらきかけ」の段階として、地上で忘れ去られていた宗教の知識を、無形界から直接的な通信によって伝え直しました。

 通信方法には、自動書記、霊媒霊言、直接談話、などがあります。通信内容を纏[まと]めた書物には、下記が認知されており、これらの書物の一部は、6章1節 推薦書物で紹介しています。

  • シルバーバーチの霊訓
  • ステイトン・モーゼス編纂の「霊訓、インペレーターの霊訓」
  • ジョージ・オーウェン編纂の「ベールの彼方の生活」
  • ホワイトイーグルの通信「霊性進化の道、自己を癒す道、神への帰還、天使と精霊、など」
  • フレデリック・マイヤースの通信「人間個性を超えて、不滅への道、など」
  • アラン・カルデック編纂の書物「霊の書、霊媒の書、スピリティズムによる福音、天国と地獄、など」
  • 浅野和三郎編纂の書物「小桜姫物語、新樹の通信、心霊講座、など」
成長の実践を示す (現代-)

 知識を伝える段階を通して、地上へ知識が普及し始めたことにより、次の「はたらきかけ」の段階として、計画に基づいて地上へ再授肉した者たちが、知識を実践する生活の模範を示しています。

 模範を示す中には、霊的診療や知識を拡めることも含まれています。また、既に地上で生活している者たちへ、模範を示すように、はたらきかけている場合もあります。

 再授肉については、4章9節 再授肉を参照してください。

 スピリチュアリズムと呼ばれている無形界から地上へのはたらきかけは、地上への「はたらきかけ」を開始した当初から現在に至っても絶え間なくおこなわれていますが、はたらきかけは地上の様々な地域で並列しておこなわれており、日本でも開始当初からおこなわれていました。

 はたらきかけの開始当初に日本でおこなわれていた活動へ従事していた名の知られている人物には、浅野和三郎、中村天風、西勝造、たちがいました。加えて、彼らの活動を引き継いだ人物として、桑原啓善(山波言太郎)、近藤千雄、甲田光雄、たちも拡く認知されています。なお、スピリチュアリズムの活動へ従事しているとしても、現在に地上で存命している人物は記載していません。勿論[もちろん]ながら、活動へ従事していた名の知られていない者も多くいました。スピリチュアリズムの活動を含む「地上での役割」を適切に遂行できているから、地上で名が知られるようになるのではありません。役割の遂行状況/成果は、地上社会での知名度とは関係なく、物的な内容の役割を遂行する際に、地上で名が知られるようになる場合もみられるだけです。地上での役割については、4章2節 有形界での成長 #有形界での目的/役割を参照してください。

 また、活動へ従事していた本人たちが、必ずしも無形界からの「はたらきかけ」を自覚していたとは限らない点に留意してください。彼らはそれぞれが、活動する分野も、活動の方向性/手段も異なっていましたが、他者/全体の霊としての成長を促すという目的を共通して有していました。上記に紹介の人物たちは著書も豊富にあり、現在でも比較的に入手しやすいために、彼らの著書を相互に参照しながら考察することで、世界の実相/生命の真相への理解を深めやすくなります。著書を相互に参照する際には、6章2節 書物を読む際の留意点を参考にしていただくことを推奨します。

 2023年5月末時点での、スピリチュアリズムの活動を「地上での役割」として担い地上で生活している人は、おおよそ1300人です。この人数には、既に活動へ従事している者と、今後に活動へ従事する予定の者が含まれています。これらの人を通してスピリチュアリズムの活動へ直接に携[たずさ]わっている天使たちの人数は、5兆1億500万人以上となります。

 この質疑応答に関連する内容には、2章7節 無形界の仕事 #質疑応答の「スピリチュアリズムと呼ばれているはたらきかけは、地上へ帯同しておこなわれているのですか?」、また、4章4節 覚醒 #質疑応答の「覚醒者は、無形界から、どのように道具として用いられるのですか?」がありますので参考にしてください。

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 スピリチュアリズムによる「はたらきかけ」の成果のひとつとして、内的成長度の段階による人口の比較と、地球の進化の程度を、下記に掲載します。

(1000/1000) 内的成長度による人口の比較
(1000/1000) 内的成長度による人口の比較

 内的成長度は最高値で測定されており、測定された年に同調した最も高い活動性の程度を表しています。内的成長度そのものは、分霊の同調する活動性の程度を示しており、直接的に分霊の成長の程度を示しているのではありませんが、成長の程度を間接的に把握する指標として用いることもできます。内的成長度については、4章3節 内的成長度を参照してください。

 惑星の進化の程度は、地上で生活する個々の分霊(人)が、日常的に表現へ付与している活動性の程度を総合したものとして表されます。個々の分霊が、日常的に造化している表現には、それぞれの成長の程度に相応する活動性の程度を付与している場合が多くみられるために、惑星の進化の程度は、地上で生活する分霊の成長の程度が総合されたものといえます。惑星の進化については、2章3節 有形界の構造 #有形界の進化を参照してください。

 はたらきかけの開始当初と、現在(2023年の時点)の人口を比べると、大雑把には、内的成長度200未満の割合が減少し、200以上の割合が増加しており、また、地球の進化の程度も上昇がみられます。現在に地上で生活している者たちの人口は、はたらきかけの開始当初よりも遥[はる]かに多い点に留意してください。内的成長度の段階による割合では僅かな増加/減少の推移であったとしても、実人数には大きな差がみられます。

 この質疑応答に関連する内容には、2章3節 有形界の構造 #質疑応答の「日本は、どれくらいの成長の程度にあるのですか?」がありますので参考にしてください。

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 無形界から地上への「はたらきかけ」を開始した当初に、無形界からは地上の各地域で同時に「はたらきかけ」をおこなっており、フォックス家のみが「はたらきかけ」をおこなうために選択されたのではありません。フォックス家での出来事が、無形界から地上への「はたらきかけ」を開始したスピリチュアリズムのはじまりといわれていますが、これは、同じ時期に地上の各地域において「はたらきかけ」をおこなった中で、フォックス家での「はたらきかけ」によって人の応答を得られたためであり、他の地域での「はたらきかけ」では人からの適切な応答を得られなかっただけです。

 無形界からおこなわれた当初の「はたらきかけ」の目的は、霊という存在と意思の疎通ができることへ人に気づいてもらうためであり、単に、怪奇現象として人から怖がられ逃げられているだけでは、その後に続く高度な「はたらきかけ」をおこなうことができないのです。無形界から地上へおこなわれている「はたらきかけ」は、開始当初から現在に至っても、人の有する認識の程度では理解できないほどの綿密/緻密な計画に基づいておこなわれています。ひとつの「はたらきかけ」による成果が芳[かんば]しくなくても、地上全体で同時におこなわれている「はたらきかけ」で補えるように幾重にも配慮されています。

 フォックス家での出来事については、近藤千雄[こんどう かずお]の翻訳による「コナン・ドイルの心霊学」の中で端的にまとめられているために、下記へ引用します。

  • (395/395) The New Revelation [1918] Arthur Conan Doyle
  • (395/395) The Vital Message [1919] Arthur Conan Doyle
    • (385/380) コナン・ドイルの心霊学 [1992] 近藤千雄翻訳 新潮社
    • 原著の2冊が翻訳書の1冊へまとめられている

 フォックス家事件

 スピリチュアリズム勃興の発端となった。米国で起きた有名な怪奇現象。一八四七年末にハイズビルの一軒家に引っ越してきたフォックス家は空中から聞こえる原因不明の音に悩まされていた。しかしそれは二人の娘のいる場所に限って聞かれるので、二人は始めのうち怖がっていたが、明けた一八四八年三月三十一日に、娘の一人が思い切ってその音のする方向へ「あたしのすることと同じようにしてごらん」と言って、両手でパン、パン、パンと叩いてみた。

 すると空中から同じ数だけ音が返ってきた。そこで今度は、質問の通りだったらいくつ、違っていたらいくつ、という符牒を決めて、いろいろと訊ねていったところ、その音の主は生前その地方を回っていた行商人で、五年前にこの家に行商に来た時に当時の住人に殺されて金を奪われ、死体をこの家の地下室に埋められた、というショッキングなストーリーが出来上がってしまった。

 死体の発掘作業は、大量の水が出たりして長びいたが、その間にフォックス姉妹は調査委員会による調査を受けた。これが心霊実験の始まりで、その後も科学者による研究の対象とされそれがきっかけとなって、異常能力を持ったいわゆる霊能者が全米で学問的調査の対象とされるようになった。こうして心霊研究というものが盛んになっていった。

 現象的に見れば大したものではなかったにもかかわらず、ハイズビル事件がスピリチュアリズムにおける重大事件とされているのは、この現象をきっかけとして、科学・文化・法曹界といった知識人層が本格的な調査・研究に参加するようになったからである。

「コナン・ドイルの心霊学 [1992] Arthur Conan Doyle著 近藤千雄翻訳」より引用

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 はじめに、用語の定義は、語を用いる個々によって異なるために、誰もが同じ語に同じ定義を用いているのではない点へ留意してください。

 スピリチュアリズムとは、無形界で計画され、無形界から地上へ向けておこなわれている無形的な活動を指しており、この中には、無形界から地上で生活する人を通しておこなわれている様々な活動も含まれています。活動は、世界の実相/生命の真相を伝え、地上で生活する人の成長を促すための内容で構成されています。地上での生活から苦難を取り除くためではなく、苦難へと立ち向かい、霊の成長へとつなげるための内容です。

 一方で、スピリチュアルとは、無形界から地上へ向けておこなわれている活動ではなく、地上で生活する人が、無形界の計画とは無関係におこなっている活動を指しています。活動は、肉眼に視えない有形的/無形的な内容を、肉眼に視える文字/図表などを用いて物的に表現することにあり、世界の実相/生命の真相を表現しているとは限らず、幻想(妄想)、固定観念/既成概念、などで構成されている場合もあり、必ずしも地上で生活する人の成長を促す内容ではなく、成長を阻碍するように「はたらいて」いる内容も多くあります。地上での生活から、苦難、悩み、などを取り除き、楽しく快適に暮らせるように促す内容が多くみられます。また、これらの中には、恐れ/怯えを喚起させ、恐れ/怯えを増大させるような内容もみられ、利己的/自己中心的な生き方を促しています。

 なお、スピリチュアリズム/スピリチュアルの両者で区別することに意義はありません。どちらの用語も肉眼に視えない内容を分類するために、地上で名付けられただけに過ぎないためです。名称の違いに意義があるのではなく、内容の違いに意義があるのです。世界の実相/生命の真相を表現しているのか? どの程度に表現しているのか? 人の成長を促進する内容なのか? などで内容を判別する必要があります。

 この質疑応答に関連する内容には、6章1節 推薦書物 #質疑応答の「本編で紹介されている書物以外にも無形界からの通信を集めた書物は多くありますが、これらの書物を本編で紹介されていないのには何か理由があるのですか?」がありますので参考にしてください。

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 スピリチュアリズム/宗教などとして認知されている「成長のための知識」についての議論に価値はなく、時間/労力/原素材の浪費にしかなりません。原素材については、2章2節 大霊を参照してください。

 議論をおこなっている者たちは、自己の体験を通して実証すれば明確に把握できる内容、また、自己の体験を通して実証すれば一切の違和感/不自然感を感じることなく納得できる内容に対して、自己が自身で体験/実証せずに、体験した際に把握できると「推測される内容」を互いに述べ合っているのです。そして、お互いが、お互いの推測する内容に納得できないために、更なる推測を掛け合い、議論が際限なく白熱していくのです。そして、議論をおこなうことで自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく虚栄心を満たそうとしているために、議論を辞めて虚栄心を満たせなくなる状況への恐れ/怯えが議論を続けさせ、何時[いつ]までも虚栄心を満たし続けようと画策しています。

 真摯に成長を求め、修養の生活を実践することへ専心/献身している者たちは、自己の体験を通して実証した内容と、他者が体験を通して実証した内容とを比較し、自己/他者が実証した内容を総合して考察するために、相手へ質問する状況はありますが、相手と議論をする状況はありません。修養の生活を実践することは、自己の体験を通して成長を模索し、成長のための知識や様々な物事/現象などを実証していく生き方そのものなのです。修養の生活については5章1節 修養の生活、自己の体験を通して実証した内容については4章1節 分霊の成長#体験を通した学びを参照してください。

 そのため、相手への質問は、自己の体験を通して実証した内容に対して、相手が類似する体験を通して、どのような内容を実証したのか? について問います。自己の体験を通して実証していない内容を、相手へ問う状況はありません。自己の体験を通して実証していない内容は、相手へ質問し、返答されても内容を理解できず、考察もできないためです。加えて、成長のための知識が記載されている書物などからは、記載されている内容と、自己が体験を通して実証した内容とを照らし合わせて考察します。もしも、自己が未だ体験を通して実証していない内容が記載されているのならば、自己の体験を通して実証するように努めます。なお、正確には、自己の体験を通して実証した内容は、自己は自覚できないために、直接的に他者へ伝えることもできません。体験を通して実証した内容を基に、精神で思考(印象)を造化し、更に、無形的な印象の内容を文字/言語/図表などで有形的に変換し外環境へ表現して、他者へ伝えることができるようになります。詳細な造化の経路については、3章6節 内的構造を参照してください。

(1000/1000) 他者へ伝えられる内容/伝えられない内容
(1000/1000) 他者へ伝えられる内容/伝えられない内容

(1000/1000)

 スピリチュアリズムや霊媒が、地上社会で詐欺/詐偽と非難されている状況もみられるのは、無形界から地上へおこなわれているスピリチュアリズムの活動を、地上で生活している自身の利己性/自己中心性/欲望を満たすために悪用する者が多く現れたためです。無形界から地上へおこなわれているスピリチュアリズムの活動や、無形界から送られてくる通信を中継する霊媒が詐欺/詐偽なのではありません。スピリチュアリズムの活動に限らず、あらゆる物事の中で、価値ある本物には常に偽物/贋作[がんさく]が付き纏[まと]い、本物を貶[おとし]め誤解させている点に留意してください。価値ある本物だからこそ、利己性/自己中心性/欲望を満たすための偽物/贋作が次から次にと現れるのです。価値のない物事には、偽物/贋作は現れません。霊媒については、3章1節 人全体の構造 #質疑応答の「霊媒と呼ばれている人たちは、特殊な人体構造や能力を有しているのでしょうか?」を参照してください。

 地上へスピリチュアリズムの活動が開始された当初だけでなく、現在の地上社会でも、事前に決めた地上での役割として「霊媒」と呼ばれる活動をおこなっている者は多くいます。同時に、活動が開始された当初も、現在でも、自身の利己性/自己中心性/欲望を満たすために「霊媒」と詐称して周囲の者を騙[だま]している偽物も溢れています。そして、地上での役割として「霊媒」の活動をおこなっている者の中にも、地上で生活を始めた後に有形体の内包する物質の心から受ける誘惑(利己性/自己中心性/欲望)の影響に呑まれて、様々な偽装をおこなうようになった者もいます。地上での役割については4章2節 有形界での成長、物質の心から受ける誘惑については5章3節 誘惑を参照してください。

 偽装は、肉眼に視える、肉耳に聴こえる、手で触れることのできる物的な物事への錯覚/思い込み(既成概念)などを利用しておこなわれており、偽物の霊媒だけでなく、占い師、教祖/開祖、司祭、牧師、僧侶、スピリチュアリズムの活動家、様々な分野の研究者、などにも偽装をおこなっている者は多くみられます。重要なのは、偽物が偽装できるのは「物的に視える/聴こえる/触れる/嗅げる/味わえる物事」のみであり、霊眼に視える物事は決して偽装できないという点にあります。物事の物的な側面のみを捉えているために騙されるのだという点に留意してください。物的には偽装できたとしても、霊眼には偽装している状況が明確に視えています。

 本物と、物的な偽装/偽物を見分けるには、社会で拡く知られている情報、過去の調査報告、科学的な研究結果、他者の意見/判断、などを盲信せずに、また、自己が先入観/偏見などへ囚われずに、自身で真偽を判別する必要があります。物事を「あるがまま」に捉えるように努めているのならば、真偽を判別できるようになります。筋反射検査を用いた真実度の測定や誠実/不誠実の性質の検査も、真偽を判別するのに有効な手段です。加えて、自身で真偽を判別するように努める必要があるのは、報道されているニュース、ウェブサイトに掲載されている内容、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で拡散されている内容、科学研究の論文、政治家/実業家たちの演説、などを読み/聴く際や、詐偽の訪問販売/詐欺メール/詐偽電話の判別、模造/粗悪な商品の判別、も同様です。地上社会では、「科学的」と呼ばれ、当然のように信じられている思い込み/誤解も多くみられます。あるがままに物事を捉えることについては、5章1節 修養の生活 #質疑応答の「物事をあるがままに捉えるには、どのようにすればよいのでしょうか?」を参照してください。

 他者の判断/意見を盲目的に信じる状況や、自己が先入観/偏見などに囚われている状況は、物事を「あるがまま」に捉えられなくさせていますが、同時に、自己は不正/詐偽/偽装などを見抜けるという慢心も固定観念を形成して囚われとなり、物事を「あるがまま」に捉えられなくさせます。慢心については、5章1節 修養の生活 #質疑応答の「自己の成長の程度が、周囲の者たちよりも高くなることで、留意する点はありますか?」も参考にしてください。

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