修養の生活

5章 成長の実践 - 1節 修養の生活

個々の記述の真実度: 999.3-1000
節全体の真実度: 1000
節全体の活動性: 1000

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修養の生活とは

  • (1000/1000) 修養の生活とは、日常的におこなう「ひとつひとつの些細な行為」を通して、自覚して成長へ努めることです
    • 非日常的に特殊な行為をおこなうのではなく、特定の場所でおこなうのでもなく、特定の期間だけおこなうのでもなく、これらの行為/場所/期間が必要でもありません
    • 日々の些細な行為の積み重ねによって形成される習慣が、成長へとつながるのです
    • 成長は、物的な貧困/富裕、役職/地位、権力、保有する物的な資産/お金、性別、年齢、疾病/障碍の有無、学歴、職歴、職業/住居の有無/内容、地上での知名度、生活する地域/社会、生活環境、親族/友人の生き方、迫害/弾圧/虐待/暴力/差別/搾取を受ける有無、などに一切の関係なく、強い意志で成長を求め修養の生活を実践し続けているのならば、必ず促進されます
  • (1000/1000) 修養の生活を実践するために、複雑で難しい内容は何ひとつありません
    • 素朴で単純な内容を、常に自覚しておこなうだけです
    • 今この瞬間から、何処[どこ]であったとしても、どのような状況であったとしても、修養の生活を始めることができ、修養の生活をおこなうのに必要とする物品や環境はありません
    • 修養の生活に必要とするのは、成長を求める強い意志のみです

生活の実践

  • (1000/1000) 日常生活の中で実践する内容は、現在の生活/生き方を構成している習慣に気づき、修正していくことだけです
    • 自己の有している無数の習慣の中で、自覚している習慣は比較的に修正しやすいですが、一方で、自覚できるものの未だ自覚していない習慣は、先[ま]ず気づき自覚しなければ修正していくことができません
    • 習慣の修正は、現在の生活から分離する習慣と、現在の生活へ統合する習慣、の2つに大別されます
    • 現在の生活から分離する習慣には、幻想からの脱却、誘惑の超越、囚われの解消、の3つがあり、これらの習慣が形成されないようにするとともに、既に形成されている習慣を弱めていくようにします
    • 現在の生活へ統合する習慣には、活動性を高める、愛の拡大、の2つがあり、これらの習慣を形成するとともに、既に形成されている習慣を強めていくようにします
    • 誠実な性質の習慣は、自覚して形成され強められますが、一方で、不誠実な性質の習慣は、自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく形成され強められ、習慣が強くなるほどに、その習慣が日々の生活をおこなう土台の大部分を占めるようになります
    • 既に形成している習慣を弱めるには、自覚して弱める必要があり、自覚できるものの自覚なく弱めることはできず、また、何時[いつ]の間にか弱くなる状況もありません
    • 地上では、有形体の内包する物質の心から誘惑の影響を絶え間なく受け続けているために、どれほどに成長の程度が高くなったとしても、分離する習慣が途絶える状況はなく、常に分離し続ける必要があります
(1000/1000) 生活の実践
(1000/1000) 生活の実践
  • (1000/1000) 習慣は修正へ努めるほどに、習慣を修正する循環を形成します
    • ある誠実な習慣を強めていくほどに、他の誠実な習慣も強めるように日々の生活が徐々に変化し、同様に、ある不誠実な習慣を弱めていくほどに、他の不誠実な習慣も弱めるように日々の生活が変化していきます
    • なお、習慣を修正する循環の形成は、修養の生活へ努めているのならば、成長を促進する方向性へ形成されますが、一方で、利己的/自己中心的な生活をしているのならば、成長を退行させる方向性へ形成される点に留意してください
    • 習慣を修正する循環の形成は河川に譬[たと]えられ、野山の水は、流れる道筋が形成されると小川となり、徐々に流れる量を増大させながら川幅を拡大し、いずれは大河を造り出します
    • そして、小川が形成された当初は水の流れを頼りなく感じられたものの、水の流れを増大させるほどに、河川が存在しているのを自然/当然に感じるようになります
(1000/1000) 習慣を形成/強化する循環
(1000/1000) 習慣を形成/強化する循環
  • (1000/1000) 分離する習慣を弱め、また、習慣が形成されないようにしていくには、習慣に基づいておこなわれる不誠実な行為や、固定観念/既成概念に基づく行為へ自覚して意識を向けないように努め、一方で、統合する習慣を形成し強めていくには、誠実な行為へ自覚して意識を向けるように努めます
    • 自覚できるものの自覚しないままにおこなっている、不誠実な行為、固定観念/既成概念に基づく行為は、自覚なくおこなっている行為を自覚したうえで、自覚して意識を向けないようにします
    • 地上では絶え間なく物質の心から誘惑の影響を受け続けているために、不誠実な行為へ自覚して意識が向いていなくても、不誠実な行為の土台となっている不誠実な習慣は自覚できるものの自覚なく形成され強められやすくなります
    • 行為は造化するほどに、行為の土台となっている習慣が形成され強められていくために、誠実な行為は誠実な習慣を形成し強め、不誠実な行為は不誠実な習慣を形成し強めます
    • 行為は造化されないほどに、行為の土台となっている習慣は弱められていきます
    • 「意識を向けない」とは、行為へ意識を向けている状況から眼を逸らすことではありません
    • なお、意識を向ける/向けない/逸らすの「意識」とは、内的構造としての意識の定義ではなく、「自己が注意する/焦点を合わせる」という定義を表しています
意識を向けない/意識を逸らすの違い
  • (1000/1000) 「意識を向けない」とは、対象とする表現/行為へ意識が囚われていないために、表現/行為への活動性の付与を途絶えさせることになり、対象とする表現/行為は消え去っていきます
    • 表現/行為へ自覚して意識を向けない状況が、表現/行為を「辞める」状況となり、継続して辞め続ける過程で徐々に習慣が弱く修正されていきます
    • 意識を向けないことは、自己への赦[ゆる]し、自己以外への寛容とも関連しています
  • (1000/1000) 「意識を逸らす」とは、対象とする表現/行為へ意識が囚われており、表現/行為への活動性の付与を継続しながらも、自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく「気づかないふり」をして自己を騙[だま]しています
    • 表現/行為へ活動性の付与を継続しているために、表現/行為は消え去らずに維持されています
    • 現在の成長段階に相応する程度の誠実な行為から意識を逸らす状況はみられず、常に、現在の成長段階よりも相対的に低い程度の誠実な行為、あるいは、不誠実な行為から意識を逸らそうとします
    • 意識を逸らすことは、自己/自己以外からの逃避、自己以外への我慢/忍耐/辛抱とも関連しています
  • (1000/1000) 精神で造化される表現は、自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく意識を向けていれば造化した表現が維持され、自覚して意識を向けなくなれば造化した表現は消え去ります
    • ただし、造化した表現から、自覚できるものの自覚なく意識を逸らすことはできますが、自覚できるものの自覚なく意識を向けないようにすることはできません
    • 精神での表現の維持/消去については、3章9節 精神を参照してください
(1000/1000) 自覚の有無と意識を向ける/向けない
(1000/1000) 自覚の有無と意識を向ける/向けない

生活を実践する指針

  • (1000/1000) 自己の有している習慣に気づき、習慣を修正していくために、指針となる4つの内容があります
    • これらの指針が、常に、成長を促進する方向性を指し示してくれます
    • 修養の生活を実践していくうえでの具体的な方法/手段は個々によって異なるために、このサイトでは指針/方向性を示し、具体的な方法/手段は最低限のみを記載しています
    • 個々の実践を通して、自己の個性や現在の状況に適切な方法/手段を模索するようにしてください

成長へ専心/献身する

  • (1000/1000) 常に、成長を求める勇気を懐[いだ]き続けます
    • 現在の地上で成長を求める者は未だ少数であり、成長を望まない者たちへ迎合していては、何時[いつ]までも成長することはなく、寧[むし]ろ、成長の退行へとつながり、地上での限りある生活の時間を浪費するだけに留まらず、今後の無形界での成長を遅延させるようにもなります
    • 現在の地上で成長を促進していくには、独りで成長の道を歩み続ける強い意志と、周囲に惑わされることのない勇気が必要です
  • (1000/1000) 習慣を修正するとは、現状の生活を破壊し、新しい生活を絶え間なく構築し続けることを表しています
    • 外的(物的)な生活の現状を破壊するのではなく、内的(霊的/精神的)な生活の現状を破壊します
    • 現状の生活を破壊するには、苦しみ/困難をともなう場合も多くあり、安寧/平穏な生活にはなりません
    • 習慣は、激流に流されている状況へ譬[たと]えられ、激流の流れに乗って、加速して流されていく(習慣のままに行為をおこなう)のは容易ですが、激流の流れに逆らう(習慣を修正する)には、強い意志で絶え間なく踏ん張り続ける必要があり、僅かにでも気を抜けば、あっという間に激流へ押し流されてしまいます
    • 成長を求める強い意志と、苦難へと突き進む勇気、不断の努力があってこそ、習慣の修正が徐々に成されるのであり、片手間で安易に成される状況は決してないのです
  • (1000/1000) 習慣の修正に完了はなく、常に修正し続ける過程が成長へとつながります
    • 習慣が修正できたと認識し、更に修正するのを辞めた時点から、成長の退行が始まります
    • あらゆる習慣を修正し続ける積み重ねが、僅かずつ成長を促進していくのです
    • 大きな物事は、小さな物事の積み重ねによって成されるのであり、始めから大きな物事を成せるのではない点に留意し、日々に僅かずつ習慣を修正していくように努めます

現在の成長段階を確認する

  • (1000/1000) 現在の自己が属している成長段階を適宜に確認することで、現在に「重点的に修正する習慣」が把握できるようになります
    • 成長を阻碍している程度の高い習慣から重点的に修正していくことで、成長の促進を加速させていきます
    • 祈り/瞑想で高い活動性の程度へ同調し、おこなう愛の行為へ高い活動性の程度を付与して「成長の促進へつながる習慣」を形成していたとしても、誘惑からの干渉、幻想の捉え方、固定観念/既成概念を有したままでは、「成長の退行へつながる習慣」も形成しているために、成長は停滞します
    • 成長を促進する習慣を形成し強めても、成長を阻碍する習慣が強いままでは、成長へつながり難くなるのです
    • これは、車のブレーキを踏んだままでは、同時にアクセルを踏んでも、進む速度は速くならず、ブレーキを踏むのを辞めれば、加速していく状況に譬[たと]えられます
  • (1000/1000) 自己の成長の程度は直接に把握できませんが、内的成長度が、おおよその成長の程度を示す指標となります
    • 内的成長度は、筋反射検査を用いて数値で測定ができるために、数値の変遷が現在の成長への課題を省みる明確な指標となります
    • 内的成長度については4章3節 内的成長度、筋反射検査については、1章3節 筋反射検査を参照してください

比較を通して自己を内省する

  • (1000/1000) 過去の自己がおこなっていた行為や、他者の行為と、現在の自己がおこなう行為を比較し、自己の行為を省みて、習慣の修正へ活かします
    • 自己の有する習慣は直接に自覚できませんが、習慣を修正するためには、自己のおこなう行為を通して、行為の土台となっている習慣に気づく必要があります
    • 自己のおこなう行為の多くは、自覚できるものの自覚していない行為であり、自覚していない行為を自覚するために、過去の自己がおこなった行為や、他者のおこなう行為と比較します
    • 比較する対象があるからこそ、自己の行為を自覚して省みることができ、もしも、比較する対象がないのならば、自己の行為を何時[いつ]までも自覚する状況はなく、習慣の修正へつながりません
  • (1000/1000) 過去のそれぞれの時期におこなっていた自己の行為や、様々な成長段階に基づいておこなわれる他者の行為を、相互に比較して考察し、更に、現在の自己と比較して、自己を内省します
    • それぞれの行為が、どのような目的に基づいておこなわれているのか? どのような習慣を土台としているのか? そして、どのような目的でおこなわれている行為が、成長を促進するのか、あるいは、退行するのか、を考察し、現在の自己の習慣を「どのように修正していく」ことが成長を促進するのかを内省します
    • 比較は、自己の行為を基準として、他者の行為を評価するのではない点に留意してください
    • 比較は、自己の行為を省みるために、他者の行為/過去の自己の行為を参考とするのです
    • なお、内省とは、始めに、自己のおこなう行為に対して、理性/気づきの機能特性によって、違和感、不自然感、矛盾感、などの感覚として感じ取り、その後に、思考/閃き/直観を総合して考察することを指しています
(1000/1000) 比較と内省
(1000/1000) 比較と内省

あらゆる体験から学ぶ

  • (1000/1000) あらゆる物事/現象/出来事からは、必ず何らかの学びを得ることができます
    • 日々の生活の中で眼前に遭遇する「あらゆる物事/現象/出来事」を観察/考察し、考察した内容を、自己の体験を通して実証することで学びを得られ、成長へつながるようになります
    • 物事/現象/出来事へ遭遇したから、学びを得られるのではない点に留意してください
    • 特定の体験や、書物/講演などだけでなく、学ぶ意志があるのならば、日常の繰り返される些細な体験の中からも、多くの学びを得られます
    • どのような体験を通して、何を学び、どのように成長へと活かすのかは、すべて自己の自由意志に委ねられており、体験を通して学ぶのも/学ばないのも、どの程度に学ぶのかも、自由意志で選択できます
  • (1000/1000) 遭遇する眼前の物事/現象/出来事から「今この状況を通して得られる学びは何か?」を常に考察/内省することで、ひとつひとつの状況/行為が学びへとつながるようになります
    • 眼前の状況は、自己に都合の良い状況、都合の良くも悪くもない状況、都合の悪い状況、に分類されますが、一方で、眼前の状況を通して得られる学びには、自己に都合の良い内容、都合の良くない内容、都合の悪い内容、の分類がありません
    • 自己の都合に関係なく、どのような状況からでも学びを得ることができ、得た学びは、どのような状況へも活かせます
    • なお、眼前の状況とは、肉眼に視える/肉耳に聴こえる/肉鼻に嗅げる/肉舌に味わえる/肉肌に触れる「今この瞬間の外環境」の状況を指しているだけでなく、肉眼に視えない「今この瞬間の内面」の状況も指しており、「今この瞬間の内面」の状況には、精神で造化している思考/感情、過去の物事/現象/出来事を思い出す、未来の物事を推測する、なども含まれます
  • (1000/1000) 同じ物事/現象/出来事であっても、個々の有している習慣/知識や、現在の内面の状況によって、学び得る内容は変化します
    • 誰もが同じ物事/現象/出来事から同じ内容を学び得るとは限らず、個々の有している習慣の内容/強さや、知識の内容/程度によって、学び得る内容は様々です
    • ある者が同じ物事/現象/出来事を複数回に渡り体験した際に、毎回に同じ内容を学び得るとは限らず、その時その時の内面の状況によって、学び得る内容は様々です
    • 日々に繰り返して現れる物事/現象/出来事や、日々に繰り返しておこなう同じ行為の中にも、常に学びがあります
    • なお、現在の内面の状況には、成長の程度、同調する活動性の程度(認識の程度)、貯蔵している情報/知識の内容/程度、固定観念/既成概念の内容/強さ、習慣の内容/強さ、生き方の性質/程度、精神での騒響[ざわめき]の有無/程度、などが含まれます
(1000/1000) 学び得る内容の変化
(1000/1000) 学び得る内容の変化

生活の留意点

  • (1000/1000) 修養の生活を通した成長の実践は、常に模索です
    • 他者の示す実践の方法は参考でしかなく、自己に適した実践の方法を、自身で探求/探究していくのです
    • 目的地へ向かうのに、どの道順を、どのようにして歩むのかは、個々が決めるのであり、他者の通った道順を追随せねばならない状況はなく、追随を強制もされません
    • 自己の有する理性/気づきの機能特性から受ける感覚や、天使たちの導きで構成される「内なる声」へ誠実に従うことが、探求/探究を推し進めてくれます
    • 内なる声も、誘惑も、自己の内面から湧き起こりますが、内なる声からは、静謐で精細な感覚を受け、内容は提案/助言/促しであり、自己の行為を強制しませんが、一方で、物質の心から受ける誘惑は、騒擾[そうじょう]で粗雑な感覚を受け、外環境から何かを求めさせようとする内容であり、自己へ行為を強制します
    • 自己が様々に模索し実践するのに、他者の許可/同意/支持は不要であり、他者へ質問して、他者から返答(許可/同意/支持)を得たうえで実践しようとするのは、自己の意志や、自己の現在の状況が未だ実践する段階にはありません
    • 模索や探求/探究には、どのような状況に遭遇しても諦めない強い意志の持続と、失敗を恐れ/怯えない勇気を、常に必要とする点に留意してください
  • (1000/1000) 日常の些細な行為のひとつひとつを丁寧に確認しておこなうことが、様々な物事/他者の行為への観察/考察、意識が受ける感覚の僅かな違いの把握、自己の有する自覚のある、あるいは、自覚できるものの自覚のない習慣への気づき/修正へとつながります
    • 自己の内面を常に内省するのと、自己が外環境へおこなう行為を逐一に確認するのは、表裏一体であり、不可分です
    • 日常の行為にみられる「あらゆる不注意/確認不足」は、適切に制御されていない内面の状況が反映されており、修養の生活を停滞させます
    • 加えて、疲労のある状況、高熱のある状況、痛みのある状況、暑さ/寒さを感じる状況、などの様々な状況で習慣に基づいて造化される行為を内省し、それぞれの状況で、どのような思考/感情が造化されやすくなるのか? どのような行動/態度が現れやすくなるのか? どのような体験の思い出が浮かび上がりやすくなるのか? 浮かび上がってくる特定の体験の思い出と現在の状況には、どのようなつながりがあるのか? などを詳細に考察します
  • (1000/1000) 焦り、急ぎ、力[りき]み、などは、適切な観察/考察を妨[さまた]げ、詳細な内省を疎[おろそ]かにします
    • 焦り/急ぎ/力みは、自己が発言/行動をおこなう際にも、他者や物事/現象を観察/考察する際にも、自己の行為や内面を内省する際にも、粗雑、浅慮、狭小、偏重、短絡的、不整合、となるように、はたらきます
    • 常に、自己の内面に静けさを保ち、あらゆる出来事を「ありのまま」に受け入れ、物事/現象の表面ではなく、物事/現象の本質を観るように努めることで、徐々に適切な考察ができるようになり、また、緻密で詳細な内省をおこなえるようになります
  • (1000/1000) 自己のおこなった「どのような行為」からも眼を逸らさずに、逃げ回らずに、誠実に受け入れることで、適切な観察/考察や、詳細な内省を可能とします
    • 自己のおこなう「あらゆる行為」の責任は自己にあり、行為をおこなった自覚の有無に関わらず、また、どのような状況であったとしても、自己の思考、感情、発言、行動、などの行為は、全てが自己の自由意志による自覚的な(自覚のある/自覚できるものの自覚のない)選択の結果として造化した表現/行為です
    • 自己が自覚できるものの自覚なくおこなった言動だから、他者が利己的/自己中心的な言動をしてきたのに反応して、などで、自己のおこなった行為を自己以外の責任にすることは決してできません
    • 例として、もしも、災害や事故に見舞われたとしても、それらに対して自己が、どのように反応するのか(どのような行為を造化するのか)は、自己の自由意志で決めることができ、災難に遭遇した状況を嘆き悲しむのも、悪態をついて怒り狂うのも、勇気を奮い立たせてこれからの生活に考えを巡らせるのも、これらの体験から自己の成長へつながる学びを得ようと努めるのも、すべて自己が決めるのです
  • (1000/1000) 至福(真の幸福)とは、現在の段階よりも、僅かにでも高い段階を目指して努力する過程そのものにあります
    • 成長した先や、何らかを手に入れる状況が、幸福なのではありません
    • また、成長という目的地があるのではなく、専心/献身する修養の過程が成長であり、成長し続けていくことが「至福の状況」となります
    • 現在の成長に適切な課題への気づき、気づきに基づく成長の実践への専心と献身、実践による内的な変容が、更に先へ進む原動力となります
  • (1000/1000) 成長を求め、修養の生活を実践していくうえで、有形的な記述では、留意する内容や、努める必要のある内容が多くあるようにみえますが、無形的な印象の内容は単純です
    • 単純な印象の内容を、それぞれの記述の主題にあわせて、できる限り理解しやすい記述で表現すると、多くあるようにみえてしまうのです
    • それぞれの記述の内容を通して、記述の土台となる印象の内容へ意識を向けているのならば、内容の単純さに気づくようになります
    • ただし、単純な内容が、容易に短期間で実践できるとは限りません

至言の紹介

(1000/1000)「瀞沁」
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
自己が実践しない言い訳に
「できない」と言ってはなりません
実践しない者には
「できる」も「できない」もないのです

実践する者にのみ
「できる」や「できない」があり
実践していく過程で徐々に
「できない」が「できる」ようになるのです
(1000/1000)「瀞沁」
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
自己の行為を省みようとしない者は
決して成長しません
自己を省みる勇気をもつことこそが
成長するための最初の一歩だからです
自己と向き合う勇気をもって初めて
自己の行為を省みることができます
それから後に
成長を求めるのか、求めないのか
を選択するようになるのです
(1000/1000)「瀞沁」
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
困難から逃げてはなりません
逃げれば困難が追いかけてくるだけです
勇気をもって困難に立ち向かうのです
立ち向かう「その先」にのみ
困難を克服する機会があるのですから

質疑応答

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修養の生活全般について

(1000/1000)

 行為の土台となる「行為をおこなう目的」とは、ある行為を造化する工程に関与した様々なものを表しています。造化の工程については、3章6節 内的構造を参照してください。

 造化の工程に関与する様々なものには、既に造化した行為/表現の内容、外環境から受け入れた情報の内容/程度(物事/現象の内容、他者の発言/行動の内容、などを含む)、記録へ貯蔵されている情報/知識の内容/程度、経験へ保存されている習慣/囚われ/技術などの内容/強さ、有形的/無形的認識の内容/程度、幻想の捉え方の内容/強さ、物質の心から受ける誘惑の強さ、意図の内容、意志の方向性/強さ、自由意志で選択した選択肢の内容、などがあり、これらの総合が「行為の目的」となります。

 行為の目的を構成する「多くのもの」は直接的に自覚できますが、記録へ貯蔵されている実証した知識の内容や、経験へ保存されている習慣/囚われ/技術の内容/強さ、有形的/無形的認識の内容/程度、幻想の捉え方の内容/強さ、などは直接的に自覚することはできず、造化された行為の内容/程度から間接的に把握します。なお、意図の内容は、直接的に自覚することも間接的に把握することもできませんが、行為の目的の根幹を成しています。意図については、3章7節 心 #分霊の心を参照してください。

 行為の目的の中で、直接的に自覚できるものも、間接的に把握できるものも、多くの場合では自覚/把握しようとしていないために自覚できるものの自覚/把握していません。これらを自覚/把握していくことが自己を内省する主軸となり、また、自覚/把握していくことが修養の生活を実践していくうえで必須となります。

(1000/1000) 行為の目的を構成するもの
(1000/1000) 行為の目的を構成するもの

 構造の観点から捉えると、行為の目的は、自覚的/無自覚的な複数の目的が階層構造を成しています。自覚的/無自覚的な目的は、自覚の有無と、自覚の強さによって表層から深層の階層へ区分されるようになります。表層の目的ほどに明確に自覚しており(自覚の程度が強い)、深層へ向かうほどに徐々に不明確な自覚となります(自覚の程度が弱い)。自覚して工程へ加えた内容ほどに表層に近く位置づけられ、中層から深層は、自覚できるものの自覚してない目的、また、無自覚的な(自覚している状況を自覚できない)目的で構成されます。ただし、行為によっては、自覚的な(自覚のある/自覚できるものの自覚のない)目的を有しておらず、無自覚的な(自覚のない)目的のみの場合もあります。また、階層構造を成す自覚的/無自覚的な複数の目的は、それぞれの目的の方向性が一致している場合もあれば、一部の目的が一致している場合もあり、それぞれの目的が一致していない場合もみられます。

(1000/1000) 行為の目的の階層構造
(1000/1000) 行為の目的の階層構造

 内省する際には、表層から深層へ向けて順次に目的の内容を自覚するように努め、それぞれの内容と、それぞれの内容が有する方向性の一致/不一致を把握していきます。更に、それぞれの内容にみられる一致/不一致の区別を考察していくことで、行為の目的を構成する様々な内容の中で、中核を成している内容へ気づくようになります。中核を成している内容は、ひとつの場合もありますが、複数の場合が多くみられます。どれくらいに深層へ向けて自覚できるのかは、内省をおこなう意志の強さと、成長の程度によって決まります。内省を通して、表層の「自覚している目的」から中層付近の「自覚できるものの自覚していない目的」までは自覚できるようになりますが、一方で、深層の「無自覚的な目的」は、どれほどに内省へ努めても自覚している状況を自覚できるようにはなりません。

 なお、おこなった行為を内省しようとして浮かび上がる「ある行為(発言/行動/思考など)をしたかったから」は、行為の目的ではありません。これは、自己の内面を誠実に内省しない状況への理由付けに過ぎないのです。「ある行為を、どうしてしたかったのか?」を詳細に内省することで行為の目的へ気づくようになります。理由付けについては、次節の5章2節 幻想を参照してください。

 行為をおこなう誠実な目的には、創造/破壊の均衡/調和があり、行為の目的に創造/破壊の均衡/調和があるからこそ、目的に基づいて造化される表現/行為にも創造/破壊の均衡/調和が表れ、自己/他者/社会の成長や世界の進化を促進するようになります。一方で、不誠実な目的には、創造/破壊の不均衡/不調和がみられ、行為の目的に創造/破壊の不均衡/不調和があるために、目的に基づいて造化される表現/行為にも創造/破壊の不均衡/不調和が表れ、自己/他者/社会の成長や世界の進化を阻碍/停滞させるようになります。世界の進化と創造/破壊については、2章2節 大霊 #質疑応答の「進化は、世界という広大な範囲でおこなわれているものなのですか?」を参照してください。

 この質疑応答に関連する内容には、この節の質疑応答の「行為へ意識を向ける/向けないは、実際に修養の生活を実践する中で、どのように判断していくのですか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 行為をおこなう目的の誠実/不誠実の性質とは別に、手段の有する誠実/不誠実の性質は、不誠実な手段、誠実/不誠実のどちらでもない手段、の2つに分類され、誠実な手段はありません。行為をおこなう/表現する手段には、暴力表現(暴言/罵倒を含む)のような不誠実な性質を示す手段もあれば、性的な表現のように誠実/不誠実の性質を有していない手段もあります。人身攻撃/個人攻撃/人格攻撃などと呼ばれる様々な論法も、直接的には暴力表現にみえなかったとしても不誠実な手段に含まれます。

 行為をおこなう際に用いる手段は、記録へ貯蔵されている情報/理解した知識であり、経験へ保存されている習慣ではありません。習慣の内容は直接に認識できませんが、情報/理解した知識の内容は直接に認識できます。手段を用いる者は、用いる手段の内容を自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく認識して用いている点に留意してください。ただし、手段を用いる技術(手段を用いる熟練度)は、経験へ保存されている誠実/不誠実の性質と関係しない習慣となります。記録/経験については、3章7節 心を参照してください。

 不誠実な性質を示す手段には、相手/対象を攻撃、威圧、制圧、牽制、屈服、隷属、服従、排斥、脅迫、強制、強要、利己性/自己中心性/欲望の増大、などをさせようとする手段が相当します。逆に捉えると、不誠実な性質を示す手段を用いて、相手/対象を攻撃、威圧、制圧、牽制、屈服、隷属、服従、排斥、脅迫、強制、強要、利己性/自己中心性/欲望の増大、などをさせる「以外」の表現ができないことを表しています。

 誠実/不誠実の性質を有していない手段は、不誠実な性質を示す手段以外が該当します。誠実な性質を示す手段がないのは、本質的には、誠実な目的を表現するために無数の手段があり、手段が誠実/不誠実の性質を有している必要性がないためです。しかし、地上で有形体の内包する物質の心から誘惑の影響を受けて形成された「恐れ/怯えを土台とする習慣」に基づいて表現するには、誠実/不誠実の性質を有していない手段だけでは不足し、明確に恐れ/怯えを表現するために、不誠実な性質を示す手段が出現するようになりました。

 結果として、不誠実な目的で不誠実な性質を示す手段を用いる場合には、目的と手段の性質は一致していますが、一方で、行為をおこなう目的は誠実であったとしても、行為をおこなう手段が不誠実な性質を示すような不一致を生じさせる状況もみられるようになりました。行為をおこなう目的が誠実なために、行為の内容は誠実な性質を示すものの、用いる手段が不誠実な性質を示すために「不誠実な性質の表現を造化する習慣」が形成され強められる状況を造り出すようになっています。この状況は、「誠実な性質の表現を造化する習慣」が形成され強められていくと同時に、「不誠実な性質の表現を造化する習慣」も形成され強められていくために、誠実な行為をおこなっているにも関わらず、成長が促進されない(成長が停滞する)ことを表しています。目的と手段の性質の不一致については、6章2節 書物を読む際の留意点 #質疑応答の「暴力/残虐な手段そのものが不誠実なのであれば、誠実な目的で暴力/残虐な内容を用いていても、読者は何らかの不誠実な影響を受けるのでしょうか?」を参照してください。

(1000/1000) 行為をおこなう手段の分類
(1000/1000) 行為をおこなう手段の分類

 加えて、地上社会で民主主義、共産主義、個人主義、全体主義、自由主義、保守/伝統主義、などと呼ばれる生活/生き方の指針を示す手段が、個体/社会の活動する方向性として用いられている場合は誠実/不誠実の性質を有していないとしても、国家/企業/団体の統治/運営方法として用いられた場合には不誠実な性質を有する状況もみられます。同じ方向性を有する手段であったとしても、手段の用いられる状況によっては、手段の有する性質が常に同じとは限らないのです。

 生活/生き方の指針を示す手段が個体の活動する方向性として用いられている場合は、これらの手段が個体の自由意志による選択を偏重させるように「はたらく」ものの、個体が自身に強制しているだけであり、自身以外から強制されていないために、不誠実な性質を示す手段とは成り難いです。社会の活動する方向性は、個体の用いる手段の方向性が総合されて造り出されています。一方で、生活/生き方の指針を示す手段が国家/企業/団体の統治/運営方法として用いられた場合には、国民/従業員/団体に所属する者たちの個々がおこなう自由意志による選択を誘導/強制/強要するように「はたらき」かけ、個体が自身以外から誘導/強制/強要されるために、不誠実な性質を示す手段と成りやすいです。

 地上では、有形体の内包する物質の心から絶え間なく誘惑の影響を受け続けているために、常に「行為/活動をおこなう目的」を内省し、強い意志で自覚して誠実な目的を維持し続けていないのならば、何時[いつ]の間にか自覚できるものの自覚なく不誠実な目的に取って代わりやすいです。政治家、宗教家、デモ活動に参加する者、様々な支援活動に携わる者、差別/格差を是正する活動に携わる者、環境保護/動物保護の活動に携わる者、スピリチュアリズムの普及に携わる者、国家の圧政へ抵抗する者、などにも、活動を開始した当初は誠実な目的で活動していたものの、周囲から受ける称賛、地上での知名度(名声)、物的な収入の増加、活動が促進されない焦り、などによって自覚できるものの自覚なく不誠実な目的で活動するようになる者が多くみられます。そして、不誠実な目的で、不誠実な手段や強硬な手段を用いて活動をおこなうようになり、結果として、これまでに自身が誠実な目的でおこなってきた活動を、自身で阻碍/停滞させています。

 この質疑応答に関連する内容には、5章4節 固定観念/既成概念 #質疑応答の「主義は、個体や社会の成長/進歩する方向性を決めるのに役立っていませんか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 行為をおこなう目的と、行為をおこなう手段は、両者はともに「表現する」ことに関連していますが、両者では「表現する」のに関連する工程が異なります。

 行為の目的とは、外環境へ表現する際の土台となる表現を、精神で造化する工程に関与した様々なものを指しています。外環境へ表現するには、先[ま]ず、精神で表現を造化する必要があり、精神で表現を造化せずに外環境へ表現する状況はありません。発言/行動などを通して外環境へ表現する内容は、精神で造化した表現の内容に基づいているために、外環境へ表現する目的は、精神で表現を造化した目的と同じです。

 行為をおこなう手段とは、精神で造化した表現に基づいて、有形体/無形体を通して外環境へ表現する際の工程に関与した様々なものを指しています。精神で造化した表現そのものは、精神伝達で直接に外環境へ表現する状況を除けば、有形体/無形体の動作(発話/記述/行動など)を通して外環境へ表現する必要があります。行為をおこなう手段は、精神で造化した表現を、有形体/無形体の動作を組み合わせて外環境へ表現する媒介として、はたらきます。

 ある内容を外環境へ表現する際には、始めに、自由意志で無数の選択肢の中から「表現する内容の方向性」を選択します。この選択した方向性が、精神で表現を造化する目的(行為をおこなう目的)の方向性となり、方向性に基づいて表現を造化します。行為をおこなう目的には、自覚の有無に関わらず、多くの方向性が内包されており、「多くの方向性」のひとつひとつを自覚的/無自覚的に自由意志で選択し、ひとつひとつの方向性と、ひとつひとつの方向性の有する強さが総合されて、ひとつの大きな「行為をおこなう目的」としての方向性と方向性の強さを生み出しています。

 次に、自由意志で無数の選択肢の中から「表現する手段の方向性」を選択します。この選択した方向性が、外環境へ表現する手段(行為をおこなう手段)の方向性となり、方向性に基づいて精神で造化した表現を外環境へ表現します。行為をおこなう手段にも、自覚の有無に関わらず、多くの方向性が内包されており、「多くの方向性」のひとつひとつを自覚的/無自覚的に自由意志で選択し、ひとつひとつの方向性と、ひとつひとつの方向性の有する強さが総合されて、ひとつの大きな「行為をおこなう手段」としての方向性と方向性の強さを生み出しています。

 あるひとつの内容を外環境へ表現する過程だけでも、自由意志で無数の選択をおこなっている点に留意してください。無数の選択の多くは自覚できるものの自覚なくおこなっており、この無数の選択を、できる限り自覚しておこなうように努めることが「内省」のひとつの側面となります。内省については、この節の質疑応答の「考察/内省は、どのようにおこなうのですか?」も参考にしてください。

(1000/1000) 行為の目的/手段と自由意志による選択
(1000/1000) 行為の目的/手段と自由意志による選択

 なお、このサイトで用いている「行為をおこなう手段」と類似する語には、「表現媒体/表現技法」がありますが、両者は同じ定義ではありません。両者に類似しているのは、行為をおこなう手段も、表現媒体/表現技法も、手段/媒体/技法の内容は記録に貯蔵されている情報/知識であり、手段/技法の熟練度は経験へ保存されている習慣となる点です。表現媒体に熟練度はありません。両者で異なるのは、行為をおこなう手段は、精神で造化した表現に基づき有形体/無形体を通して外環境へ表現する際に用いますが、一方で、表現媒体/表現技法は、精神で無形的な表現から有形的な表現へ「表現の形状」を変換する際に用いる点となります。表現を造化する際の表現媒体/表現技法については、1章2節 真実度 #質疑応答の「無形的な表現は、どのようにして有形的な表現へと変換されるのですか?」を参照してください。

(1000/1000) 行為の手段と表現媒体/表現技法
(1000/1000) 行為の手段と表現媒体/表現技法

(1000/1000)

 ある行為の内容を、誠実な行為へ区分するのか、あるいは、不誠実な行為へ区分するのかは、絶対的な側面だけでなく、相対的な側面もあわせもっています。

 絶対的な側面としては、あらゆる成長の程度からみて誠実な行為へ区分される内容、あるいは、不誠実な行為へ区分される内容があります。これは、世界全体から捉えた際に、誠実な行為と不誠実な行為には明確な違いがあることを表しています。

 相対的な側面としては、自己の現在の成長段階では誠実な行為をおこなっていると確信していたとしても、相対的に高い成長段階の者から自己のおこなっている行為をみると、多くの場合は誠実の程度が低い行為として捉えますが、中には、不誠実な行為と捉えられる内容もあります。これは、個々の成長段階から捉えた際に、成長の程度(認識の程度)によって、同じ内容の行為に対して誠実/不誠実と認識する境界線が異なり、成長にともない境界線が変動することを表しています。

 どのような行為が誠実で、どのような行為が不誠実なのかは、自己が他者の行為を観察/考察し、また、先人の遺[のこ]した言葉を参考にして、自身で判断する必要があります。自己以外の誰かが行為の誠実/不誠実を決めるのではなく、誰かに決めてもらうのでもありません。そして、自己の判断した基準は、自己の現在の成長段階に基づく判断であり、判断基準は不変ではなく、同調する活動性の程度や成長の程度に相応して変化します。成長の程度が向上/下降するのにともない、判断基準も変化していくのです。

 なお、自己が他者の行為を観察/考察する際には、他者が過去におこなった業績、人助け、善行、不正、悪事、犯罪、などの行為/生き方で「現在の他者」を判断するのではなく、他者が現在におこなっている行為や努めている生き方を観るようにします。現在におこなっている行為/生き方を考察するために、過去におこなった行為/生き方を参考にする場合はありますが、過去の生き方と現在の生き方は必ずしも同様/同等とは限りません。

 過去/現在の生き方にみられる推移には下記が例に挙げられます。

  • 過去に誠実な生き方へ努めており、現在では、過去よりも高い程度の誠実な生き方をしている者もいます
  • 過去に誠実な生き方へ努めていたものの、現在では、過去よりも低い程度の誠実な生き方をしている者もいます
  • 過去に誠実な生き方へ努めていたものの、現在では、不誠実な生き方をしている者もいます
  • 過去に不誠実な生き方をしていたものの、現在では、誠実な生き方へ努めている者もいます
  • 過去に不誠実な生き方をしており、現在では、過去よりも高い程度の不誠実な生き方をしている者もいます

 誰であっても、過去におこなった行為や生き方は変えられませんが、現在におこなう行為や生き方は変えられます。他者が過去におこなった行為や生き方に囚われ、偏見/先入観で他者を観察/考察せずに、「あるがまま」に捉えるように努める必要があります。「あるがまま」に捉えることについては、この節の質疑応答の「物事をあるがままに捉えるには、どのようにすればよいのでしょうか?」を参照してください。

(1000/1000)

 はじめに、「習慣のままに行為をおこなう」とは、行為をおこなう目的を自覚できるものの自覚しないままに、習慣や固定観念/既成概念に基づいて自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく行為をおこなう状況を指しています。行為をおこなう目的を自覚したうえで、習慣のままに行為をおこなう状況はみられません。行為をおこなう目的を自覚している/自覚していないと、行為そのものを自覚しておこなう/自覚なくおこなう、は異なる点に留意してください。日常の中では、行為をおこなう目的は自覚していないものの、行為そのものは自覚しておこなう状況が頻繁にみられます。

 不誠実な性質の表現を造化する習慣に基づいて、習慣のままに、不誠実な行為を自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なくおこなう(不誠実な行為をおこなう目的を自覚できるものの自覚していない)状況はみられますが、一方で、誠実な性質の表現を造化する習慣に基づいて、習慣のままに、自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく誠実な行為をおこなう(誠実な行為をおこなう目的を自覚できるものの自覚していない)状況はみられません。誠実な行為は常に、行為をおこなう目的を自覚したうえで、行為そのものも自覚しておこなわれます。

 ただし、誠実な行為が、誠実な性質の表現を造化する習慣に基づいて「おこなわれない」ということではありません。習慣のままに(行為をおこなう目的を自覚しないままに)行為をおこなうのではなく、習慣に基づいて自覚して(行為をおこなう目的を自覚したうえで)自然に誠実な行為をおこなう状況はみられます。自然におこなうとは、努めなくてもおこなえる状況を指しています。誠実な性質の表現を造化する習慣を形成し、習慣を強めていくには、自覚して誠実な行為をおこなうように強い意志で絶え間なく努める必要があります。強い意志で努める過程で、形成された習慣は徐々に強くなり、努めなくても自覚して同等の強い意志で行為をおこなえるようになりますが、どれほどに習慣が強くなったとしても、行為をおこなう目的を自覚したうえで、自覚して行為をおこないます。

 一方で、不誠実な性質の表現を造化する習慣は、行為をおこなう目的を自覚したうえで不誠実な行為を自覚しておこなう場合だけでなく、行為をおこなう目的を自覚できるものの自覚しないままに不誠実な行為を自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なくおこなった場合でも、形成され強められていきます。行為そのものを自覚しておこなったとしても、自覚できるものの自覚なくおこなったとしても、行為そのものがおこなわれたのならば、不誠実な性質の表現を造化する習慣は強められていくのです。

(1000/1000)

 真の幸福とは、言語、文字、図像、身体動作、などでは表現できない、自己の内奥にある根源的な渇望が満たされる状況を指しています。

 自覚の有無に関わらず、根源的な渇望は、分霊の有する生命の活動性が成長を求めるように絶え間なく「はたらきかけ」ているために感じ取っており、成長を求め実践し、僅かにでも成長を促進する都度に一時[ひととき]の渇望が満たされ、真の幸福を感じるようになります。そして、感じ取る真の幸福が、更なる成長への原動力として、渇望を満たし続けるように促します。

 真の幸福は、物的な物事、物品、資産/お金、豪華な住居、絢爛な装飾品/衣服、広大な土地/領土、情報、地位、権力、美食、利己性/自己中心性/欲望、などを、どれほどに追求/所有したとしても決して満たされることのない渇望が満たされ、深い安らぎ、止めどなく湧き溢れる喜び、内面に拡がる静けさ、平和、調和、などとして感じる愛の表現です。

(1000/1000)

 平和とは、外環境で物的/有形的におこなわれる戦争、紛争、対立、諍[いさか]い、暴動、迫害、などのない状況を指しているのではありません。これらを生み出す土台となる「精神に騒響[ざわめき]のない状況」を指しています。物的/有形的に対立して争わなくても、精神へ騒響があるのならば、平和ではないのです。精神に生じる騒響のほとんどは、造化される不誠実な表現によって引き起こされるために、不誠実な表現を造化しなくなることで、騒響のない「静けさのある状況」を維持できるようになります。表現の種類/性質によって引き起こされる騒響の程度については、3章9節 精神 #質疑応答の「精神に起きる騒響の強さは、どのようにして決まりますか?」を参照してください。

 物的/有形的な戦争、紛争、対立、諍[いさか]い、暴動、迫害、などは、内面の恐れ/怯え(利己性/自己中心性/欲望)に基づいて精神で造化する不誠実な表現が、有形体の行動を通して外環境へ表現されています。精神で不誠実な表現を造化しなくなれば騒響の状況(不和)は起きないために、戦争、紛争、対立、諍[いさか]い、暴動、迫害、などとして外環境へ表現する状況もなくなります。

 平和の特性は、表現に付与された活動性の程度が600台で、表現へ表れるようになる点へ留意してください。600台は、おおよそ覚醒の初期の成長段階で日常的に造化する表現へ付与される活動性の程度であり、覚醒者の精神では日常的に騒響が起こり難いだけでなく、あるいは、騒響が起きても即時に鎮静できるだけでなく、高い程度を有する静謐(誠実な活動性の性質の表現)が絶え間なく造化されています。静けさに加えて静謐で満たされている精神の状況を維持する意志の強さが、造化する表現に平和の特性としてみられのです。なお、同調する活動性の程度が600未満であっても、精神の騒響を鎮静し静けさ(平和な状況)を保つことはできますが、実際に「平和とは何か?」を実感するのは、同調する活動性の程度が600以上となり、造化する表現へ平和の特性がみられるようになってからとなります。表現にみられる特性については、3章9節 精神 #表現の活動性を参照してください。

 日々の生活の中では、どのような内面の状況の際に精神で騒響が起こるのか? 騒響が起きることで、どのような行為をおこなおうとするのか? を詳細に内省する積み重ねが平和を得る状況へつながります。内面の状況は、習慣/囚われ/誘惑などから影響を受けるだけでなく、有形体の状況(熱/疲労/怪我/疾病など)や、外環境の状況(気温/湿度/騒音/風圧/他者の行為など)からも影響を受けて絶え間なく変化しています。多くの場合では、固定観念/既成概念、恐れ/怯え、利己性/自己中心性/欲望、に由来して、特定の内面の状況で、類似する内容の行為を、類似する手段を用いておこなおうとします。この一連のつながりを把握することで、騒響を起こしている原因へ気づき対応が可能となり、精神の騒響を鎮静し、「静けさのある状況(平和)」を実感できるようになります。

(1000/1000)

 修養の生活には、快楽/快感を得る「楽しみ」はありませんが、知識を貯蔵する愉[たの]しみ、学びを得る愉しみ、成長する愉しみがあります。

 楽しみは、物質の心に由来する利己的/自己中心的な「快」の感情であり、虚栄心を満たす、欲望を追求する、などの行為によって造化され、騒擾[そうじょう]をともないます。

 一方で、愉しみは、感情ではなく、大霊の心に由来する愛であり、自己/他者/全体の成長へつながる行為によって感じ取り、静謐をともないます。愉しみは、喜び/幸福を感じるのと僅かに方向性が異なるだけで、土台となる内容は喜び/幸福と同じです。

 愉しみによって感じる、広大な爽快感、軽快感、静かな高揚感、新鮮さ、などを実感したのならば、快楽/快感を得る楽しみが、どれほどに狭小で、騒々しく、腐敗した重苦しさなのかを理解するようになります。特に、自己の内面を内省していく過程は、尽きることのない愉しみを得られます。自己が現在に自覚できる自己の内面は、無限ともいえる広大な範囲の僅かな部分に過ぎません。自己の内面を常に内省して、未だ「自覚できるものの自覚していない内容(習慣、固定観念/既成概念、物事の捉え方、など)」を探索して自覚するのは、苦しみをともなう場合も多くみられますが、愉しみに溢れています。

(1000/1000)

 自尊心とは、自己の自由意志による選択を尊重することを指しており、自己が行為をおこなう選択を外環境の物事や他者へ求め依存せずに、自己のおこなう行為は自身で選択する自立/自律の状況を表しています。

 自己の自由意志による選択を尊重するとは、外環境の状況、他者の意見、などを考慮/配慮しない状況を表しているのではありません。自己の自由意志による選択を尊重するとともに、他者の自由意志による選択も尊重するのです。自己のおこなう行為は自己が選択し、他者へ選択を依存せずに、また、他者から誘導/強制されないようにします。同時に、他者のおこなう行為は他者が選択するのであり、自己へ選択を依存させずに、自己が他者へ選択を誘導/強制しません。自尊心を有する状況は、自己の内面へ向き合う勇気をもつ状況や、自己以外へ寛容をもつ状況とも密接なつながりがあります。

 自尊心を有するには、自己のおこなう行為の責任は自己にあり、自己以外(外環境の物事/他者など)に責任はないと自覚する必要があります。自己のおこなう行為/おこなった行為の責任を、自己以外へ責任逃避しないともいえます。幻想の捉え方(責任逃避を含む)や、利己性/自己中心性/欲望に基づく行為は、自己が他者へ一方的に依存している、あるいは、自己/他者の両者が互いに依存しているだけであり、決して自立/自律していないという点に留意してください。両者が互いに依存している状況(共依存)は、一見すると両者のそれぞれが自立/自律しているようにみえるものの、両者が互いに相手へ凭[もた]れ掛かっているだけに過ぎず、独りで立つことはできません。インターネットや電子機器の普及している現在では、共依存の状況がSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス) で強く現れています。このサイトで用いている「共依存」の定義は、地上社会で認知されている「特定の状況を示す共依存の定義」を含め、生き方にみられる広範な状況を包括しています。責任逃避については、次節の5章2節 幻想を参照してください。

(1000/1000) 自立/自律と依存
(1000/1000) 自立/自律と依存

 なお、自尊心と自己愛は異なります。自己愛(ナルシズムとも呼ばれている)は、幻想に基づく我儘[わがまま]の行動に含まれ、自己は自己以外/他者よりも優れている、あるいは、自己よりも自己以外/他者は劣っていると捉える「自尊他卑」を表しています。自己愛には、愛という語が含まれていますが、利己性/自己中心性/欲望を土台としており、「愛」ではありません。ただし、自己愛を有さずに、自尊心を有する状況が、自己は自己以外/他者よりも劣っている、あるいは、自己よりも自己以外/他者は優れていると捉える「自卑他尊(自己卑下)」を表しているのではありません。自己卑下も、利己性/自己中心性/欲望を土台としています。

 自尊心を有する状況とは、自己も、自己以外/他者も、対等/平等な存在として捉え応対することを表しています。分霊という存在そのものに高い/低い、優れている/劣っている、等級、格付け、特別、などはなく、自己/他者、人/脊椎動物、男性/女性、高齢者/大人/子供、人霊/天霊、天使と地獄者/地縛者、などの区別を包括する「あらゆる分霊」は対等/平等に存在しています。分霊には、成長の道程、成長の程度、生き方、に違いがみられるだけに過ぎないのです。

 地上社会では、宗教団体、企業、研究機関、教育機関、国家、などの共同体が、個体の実績/功績を、共同体の権威付けに利用する状況は多くみられます。同様に、個体が、共同体から認定を得ることで、共同体の権威を利用する状況も多くみられます。両者の状況はともに、相手を自身のために利用すると自覚している場合もあれば、自覚できるものの自覚していない場合もありますが、どちらも物質の心から受ける誘惑に由来して経験へ保存された「狡猾性」に基づいておこなわれており、「虎の威を借る狐」の故事成句へ譬[たと]えられます。共同体が個体を、あるいは、個体が共同体を、自身の存在する拠[よ]り所として依存し、自尊心を有していないといえるために、前者は共同体の発展を阻害し、後者は個体の成長を阻害するように、はたらきます。

 この質疑応答に関連する内容には、4章2節 有形界での成長 #質疑応答の「寛容と赦しは類似しているようにみえますが、どのような違いがあるのですか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 修養の生活を実践する方法は無数にあり、特定の方法が正解で、他の方法が不正解という状況はなく、あらゆる方法が正解であり、同時に不正解でもあります。現在の自己の成長段階や自己の状況へ適した方法が「現在の正解」であり、方法そのものに正解/不正解はありません。正解の方法とは、現在に適切な方法を指しているのです。そして、現在に正解の(適切な)方法であったとしても、自己の成長段階や自己の状況が変化したのならば、その方法は不正解(不適切)となります。現在の状況は絶え間なく変化するために、現在に適切な方法を常に模索する必要があります。

 現在の自己の成長段階や自己の状況へ適した方法(現在の正解)を模索する切っ掛けのひとつとして、真実度が活用できます。成長を求め修養の生活を実践する「それぞれの方法」は、方法の内容ごとに真実度を有しており、この真実度と、現在の自己の成長段階を比較して、実践する方法を考察します。真実度については、1章2節 真実度を参照してください。

 現在の自己の成長段階で有する認識の程度に相応する「印象の内容を変換する程度(同調する活動性の程度がおおよその目安)」よりも、高い真実度を示す方法は成長を促進しやすくなります。両者の有する程度(認識の程度/真実度)が乖離[かいり]するほどに、成長を加速的に促進しやすくなりますが、方法を実践する難度を高く感じ取るようにもなります。難度が高くなるほどに、実践する方法ヘ習熟するのに長期間を必要とする可能性もあります。ただし、難度を高く感じ取るだけで、実践できないのではありません。どれほどに難度を高く感じたとしても、始めは思うように実践できない場合もありますが、実践し続けている過程で徐々に実践できるようになります。

 一方で、現在の自己が有する認識の程度に相応する「印象の内容を変換する程度」よりも、低い真実度を示す方法は成長を促進し難くなります。両者の程度(認識の程度/真実度)が乖離[かいり]するほどに、成長を促進しなくなり、成長を阻碍するように、はたらきます。これは、他者には成長を促す内容の方法であったとしても、同じ内容が自己には成長を阻碍する場合もある状況を表しています。

(1000/1000) 認識の程度と実践する方法の真実度
(1000/1000) 認識の程度と実践する方法の真実度

 同等の真実度を示す方法は無数にあり、同等の真実度を示す方法の中でも、自己の有する個性の方向性に類似する方向性の方法は実践しやすく感じ取り、逆に、方法の有する方向性が個性の方向性と離れるほどに実践し難く感じ取るようになります。特定の方法へ囚われずに、様々な方法を自己の体験を通して考察し、自己に適した方法を模索(考案/創案)することが成長へつながる点にも留意してください。例として、このサイトで紹介している「自己の意識が受ける感覚のみで有形的認識に基づいておこなう祈り/瞑想の方法(本編に紹介の方法)」を実践する際の、祈り/瞑想の方法が有する真実度は997となります。本編の方法に加えて、質疑応答に記載されている「祈り/瞑想の方法を現在の状況にあわせて調整する方法」を組み合わせた場合の、祈り/瞑想の方法全体が有する真実度は999となります。なお、無形的認識に基づく瞑想の方法を実践する際の、祈り/瞑想の方法が有する真実度は測定できません。真実度は有形的な内容の方法のみが有しています。本編に紹介の方法については5章5節 祈り/瞑想 #祈り/瞑想の方法、現在の状況にあわせて調整する方法については5章5節 祈り/瞑想 #質疑応答の「同じ瞑想の方法を土台として状況にあわせて調整する方法には、具体的にどのような内容がありますか?」、無形的認識に基づく瞑想の方法については5章5節 祈り/瞑想 #質疑応答の「本編で紹介されている瞑想の方法は有形的認識に基づいていますが、無形的認識に基づく瞑想の方法も紹介してもらえませんか?」を参照してください。

 祈り/瞑想の節に記載されている項目の真実度は、記述の内容に対してであり、記述されている内容に基づいて実際に実践する際の真実度とは定義が異なる点に留意してください。記述の内容が示す真実度は、印象の内容が文字を用いて記述の内容へ変換された程度(本来の真実度の定義)を表しており、一方で、実際に実践する際の真実度は、実践する内容が、実践を通して実践者の内面へ与える影響の程度(成長を促進する程度/難易度など)を表しています。実際に実践する際の真実度には、筋反射検査の検査方法そのものが示す真実度も含まれます。筋反射検査の検査方法そのものが示す真実度については、1章3節 筋反射検査 #質疑応答の「筋反射検査の検査方法が示す真実度は何を表しているのですか?」を参照してください。

 修養の生活を通して、幻想の脱却、誘惑の超越、囚われの解消を実践する過程で、また、祈り/瞑想や、愛の行為をおこなう際に、以前は上手くできていた/把握できていたものの、現在に上手くできない/把握し難い物事がみられる場合もあります。模索する過程で気づき自覚した内容を常に留意して実践しているうちに物事が上手くできる/把握できるようになり、そして、自然に上手くできる/把握できるうちに徐々に留意しなくなることで、何時[いつ]の間にか、気づき自覚した内容が自覚できるものの自覚しなくなる状況へ戻ってしまい、現在に物事を上手くできない/把握し難い状況がみられるようになるのです。ただし、以前に気づき自覚した内容を即時に思い出せないだけであり、忘れ去ってしまったのではないために、以前は上手くできていた/把握できていたと違和感/不自然感を感じ取っています。

 これまでに気づき自覚した内容は膨大であり、すべての内容を常に留意し続けるのは困難です。もしも、以前は上手くできていた/把握できていたものの、現在に上手くできない/把握し難い物事がみられるのならば、様々に模索し続ける過程で、これまでに自覚できるものの自覚していなかった内容を新たに自覚するとともに、一旦は自覚したものの自覚しなくなった内容を再度に何度でも自覚し直すように努めます。自己の状況も、周囲の者たちの状況も、有形体/外環境の状況も絶え間なく変化しています。変化に適応するように、現在に必要とする内容(眼前の課題を解決する内容)へ気づき自覚していく、あるいは、自覚し直していけばよいのです。

成長を求める

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 地上で修養の生活を実践する過程では、物質の心から受ける誘惑の影響は、成長を促進する大きな要因であると同時に、成長を阻碍する大きな要因にもなりますが、更に、物質の心から受ける誘惑の影響以外にみられる成長を阻碍する大きな要因には、怠惰、安逸、安楽、安寧、現状への自己満足、などによって、自己の行為を内省しない、物事/現象を考察しない、成長する意志がない(向上心がない)状況が挙げられます。これらは、内面の無形的な状況を表しており、内面の状況が外環境へ反映され、物的な行動として現れるようになります。

 現在の自己の状況を改善していこうとする意志の方向性が、自己のおこなう行為を内省させ、物事/現象を考察するように促します。地上では、絶え間なく物質の心から誘惑の影響を受け続けているために、現在の自己の状況を変化(向上/改善)させようとしないのならば、これは成長の程度を維持しているのではなく、物質の心から受ける影響の「重し」によって、成長の退行を示すようになります。自己の行為を内省する、物事/現象を考察する、成長を求め続ける、などは、意識の集中と多くの労力を必要とするために、「現在の自己の状況を改善していこうとする意志の方向性」を常に強く持続する必要があります。そのため、意志の方向性を持続できなくなったのならば、冷静な考察/判断をせずに、外環境/他者へ感情で反応するようにもなり、発言/行動/挙措/態度や、物品の使い方/片付け/整理、などの物的な生活の全体にも怠惰が反映されるようになります。内面において内省/考察せずに感情で反応する「肉眼に視えない怠惰」の状況が、外環境へ「肉眼に視える怠惰」として造化されるのです。

 大霊の法則として、自己の求めに相応する支援/援助が大霊(天使たち)から与えられます。自己の求める内容に相応する内容が与えられ、異なる内容が与えられる状況はありません。同様に、自己の求める程度に対して、高くも低くもなく、多くも少なくもない、求めに相応する程度が与えられます。もしも、自己が求めていないのならば大霊から与えられる状況は決してなく、大霊から与えたくても自己が求めていないないために与えることができません。もしも、自己が成長を求めないのならば、大霊が成長を促進するように支援/援助してくれる状況もないのです。逆に、強い意志で成長を求めれば求めるほどに、意志の強さに相応する程度の支援/援助と、成長の程度に相応する内容の支援/援助が与えられます。

 この質疑応答に関連する内容には、4章2節 有形界での成長 #質疑応答の「周囲の低い活動性から受ける影響へ屈することなく、同調する活動性を高めていくには、どうすればよいのですか?」がありますので参考にしてください。

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 禁欲の生活ではなく、欲望/快楽/快感を追求する生活が、必要のない苦しみ(幻想の苦しみ)を際限なく生み出しているのです。幻想の苦しみは実在する苦しみではなく、恐れ/怯えに基づく不快感を表しています。苦しみについては、4章2節 有形界での成長 #質疑応答の「苦しみとは何ですか?」を参照してください。

 禁欲とは、膨れ上がる欲望を抑え込み我慢/忍耐/辛抱することではなく、最低限に必要とするよりも多くを求めない状況を指しています。最低限に必要とするものは、個々の状況や生活する環境によって異なります。多くの物品や高価な物品を用いることが不要(必要とする最低限よりも多い)とは限らない点に留意してください。例として、温暖な地域では防寒具を必要としませんが、寒冷な地域では必要です。肢体が不自由ならば電動の車椅子やベッドを必要とする場合もあります。最低限の必要を満たしているのならば、それよりも多くを求めようとしないために、求め続ける苦しみも、求めても手に入らない苦しみも、手に入れたものを失う苦しみもありません。そして、欲望を求め続ける状況は、精神に騒響[ざわめき]を造り続けるために、騒響が恐れ/怯えを増大させ、更に苦しみを生み出すようになります。禁欲は、精神に騒響が起きないようにするために、無用な苦しみを感じ取ることがありません。

 成長へつながる苦しみ(実在の苦しみ)は、どのような生活をしていたとしても不可避ですが、成長へつながらない苦しみ(幻想の苦しみ)は避けることができます。なお、修養の生活は、我慢/忍耐/辛抱する生活ではなく、自己に禁欲を無理強いする生活でもありません。修養の生活を実践する過程で、自然に禁欲(減欲/滅欲)されていくのです。

 成長の程度が高くなるほどに、物的な物事への関心が弱くなり、無形的な物事への関心が強くなるために、物的な「もの」は必要とする最低限のみを求め、必要とするよりも多くを求めなくなっていきます。逆に、無形的な「もの」を求めるようになりますが、欲望に基づいて追い求めるのではなく、愛に基づいて願い求めます。無形的な「もの」を願い求める例として下記が挙げられます。

  • 誘惑に引き寄せられることのない揺るぎない意志を願い求める
  • 成長し続ける強い意志を願い求める
  • 何時[いつ]でも、何処[どこ]でも、どのような状況でも、自己を自己以外へ役立てられる柔軟な意志を願い求める
  • 先入観、偏見、囚われ、などで物事を偏重して捉えない自由(あるがままに捉える意志)を願い求める

 この質疑応答に関連する内容には、4章2節 有形界での成長 #質疑応答の「痛み、苦しみ、困難、逆境、などを我慢して耐え忍べば、成長へつながる学びを得られるようになりますか?」がありますので参考にしてください。

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 日常に必要とする食物、衣服、住居、日用品、などに事欠く物的な生活の状況は、無形的(霊的)な側面へ意識を向け難くさせますが、意識を向けようとしていないだけであり、意識を向けることはできるという点に留意してください。物的な生活の状況と、成長の実践には、関係がないのです。

 人が地上で成長していくために必要とする知識と知識を実践する方法を有していない「霊的な貧困」が、恐れ/怯えを増大させ、物的な生活の状況を「物的な貧困」と捉えさせる要因となっているのであり、成長を求め、知識を有して、知識を実践し、恐れ/怯えを消し去っていくことで、物的な状況に対する捉え方も変化していきます。物的な状況に対する捉え方の変化とは、捉え方を変えたのならば物的に裕福になるのではなく、物的に貧困であったとしても、裕福であったとしても、霊の成長へつながる学びを得られるということを指しています。

 恐れ/怯えに基づく生活をしている限り、物的な貧困の状況が解消されたとしても、更に物的な物事を際限なく求めるようになります。同様に、物的に裕福であったとしても、所有する物品/金品などを失う状況に恐れ/怯え、際限なく物的な物事を追い求めるようになります。

 自己/他者/社会の成長を求めるのならば、物的に視える状況のみで物事を安易に判断しないように留意する必要があります。地上の物的な生活環境が相反しているといえるほどに大きく異なり、肉眼に視える側面では不公平に捉えられたとしても、同じ内容の無形的な学びを得る生活環境としては平等なのです。同じ内容の学びを得るために、溢れる物品に囲まれ飽食の生活をしている者もいれば、戦災/迫害を受けて難民となり流浪している者や、日々の食物/物品にも事欠く貧困に苛[さいな]まれている者もいます。同じ内容の学びを他者との積極的な議論を通して学び得る場合もあれば、独りで思索に没頭することで学び得る場合もあります。同じ内容の学びを家族/友人との円満な交流を通して学び得る場合もあれば、不仲/虐遇[ぎゃくぐう]を通して学び得る場合もあります。

 様々な生活環境の違いは、同じ内容の学びを得るための方向性と、学び得る難度が異なるだけなのです。学びを得るための方向性/難度は、本人が地上での生活を始める前に自身で決めており、決めた方向性/難度に適した生活環境を選定して地上へ再授肉しています。物的に恵まれていない生活環境から学びを得難いのではなく、同様に、物的に恵まれている生活環境から学びを得やすいのではありません。寧[むし]ろ、有形体の内包する物質の心から絶え間なく誘惑の影響を受け続けている地上では、物的に恵まれている生活環境の中で学びを得るのは比較的に難度が高いともいえます。なお、難度の高い環境から学ぶほうが優れていて、難度の低い環境から学ぶのが劣っているのではありません。学びを得ることが重要なのであり、同じ内容の学びを得られるのならば、どれくらいの難度の環境であったとしても構わないのです。再授肉については4章9節 再授肉、誘惑については5章3節 誘惑を参照してください。

 本人が地上での生活を始める前に「学びを得るための方向性/難度に適した生活環境」を選定して地上へ再授肉しているからといって、肉眼に視える物的な生活環境の不公平を支援/是正してはならないのではありません。物的な支援/是正をおこなう愛の行為が、学びへとつながる切っ掛けとなるのです。

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 地上では、絶え間なく物質の心から誘惑の影響を受け続けているために、誘惑に打ち克ち、誘惑を退け、誘惑を超越することが、地上での成長の実践では最も重要な位置を占めています。地上で修養の生活を実践していくには、誘惑によって成長を阻碍しないための留意点が多くなるのです。成長を阻碍しないための留意点は、成長を促進するための留意点と、指し示す方向性は異なるものの、土台となる内容は同じです。成長を阻碍しないための留意点が指し示す方向性を反転させて捉え直したのならば、成長を促進するための留意点となります。

 地上社会でみられる状況を積極的に成長へ活用していくには、現在に限らず、どの時代の地上社会で生活しているとしても、自然の営[いとな]みや、社会の状況を俯瞰[ふかん]して偏りなく観察し、それぞれの「つながり」を詳細に考察する必要があります。そして、考察した内容に基づいて、自己を内省することで成長へつながるようになります。現在の地上社会でみられる大きな変化を積極的に成長へ活用していくための例を下記に挙げます。

  • 出版される書物の増加により、様々な内容の書物を比較して考察できます
  • 公共の図書館が充実し、廃版され入手の困難な書物を参照しやすいです
  • パソコン、携帯端末、インターネット回線などの普及/拡大により、インターネットによる迅速な情報の入手がおこなえます
  • 電話、手紙、Eメール、チャット、などのコミュニケーションの手段が充実し、遠方の者とも即時に対話しやすいです
  • 物理的な移動の手段が発達し、長距離を短時間で移動できるために、広範囲の様々な物事/現象を短期間で観察しやすいです

 これらの社会にみられる変化は、広範囲に渡る様々な情報の迅速な入手を可能にして、学びを得やすくし、成長へつなげやすくなりました。その反面に、爆発的に増加した誘惑も入手しやすくなり、誘惑に晒[さら]される機会も増加させ、成長を阻碍しやすくもなっています。そして、インターネット、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス) の発達は、自己の興味/関心の向く情報のみを偏向/偏重して取り入れ、他の情報は入手しない/入手できない状況を生み出しており、更に、人工知能(AI)の発達は、情報の正確性を急激に低下させており、情報の正確性を考察することなく、「情報の見映え」で情報を入手する/入手しないを決めている状況が増加しています。これらの状況は、個々の有している情報の内容/量/程度に大きな格差として表れており、観察/考察や内省をおこなう際にも大きな影響を与えています。結局のところは、古来より変わることのない「自己が自由意志で何を選択するのか?」で決まるのです。

 この質疑応答に関連する内容には、2章3節 有形界の構造 #質疑応答の「日本は、どれくらいの成長の程度にあるのですか?」がありますので参考にしてください。

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 社会生活の中で起こる出来事を困ると捉えるのか、困ると捉えないのか、は本人の捉え方次第ですが、成長の程度が向上していくのにともない、自己が現在の段階よりも更に成長を求めていくだけの「強い意志と勇気を有しているのか?」を試される状況は多く訪れるようになります。これは、社会の常識へ「どのように対応するのかを試されている」とも言い換えることができます。

 社会の常識は、社会の成長の程度に相応する内容で構成されており、社会の成長にあわせて内容も変化し、決して不変ではありません。現在の地上社会は未だ成長の程度が低いために、社会の有する常識も相応する程度の内容です。自己が現在の段階よりも高い段階への成長を求めていくのならば、いずれは、社会の常識から逸脱していくことが必要となります。

 修養の生活を実践し、自己を社会の常識という囚われから解放していくほどに、社会や各学問/研究分野の常識に囚われている者たちからは、異常者、社会不適合者、変人、精神異常/障碍者、などと揶揄[やゆ]され、中には、誹謗中傷、嘲[あざけ]り、などだけでなく、物的に排斥/迫害しようとしてくる者たち(個体/団体/機関/組織を含む)も現れます。自己の生活に様々な変化が訪れ、生活の場、住居、職業、職場、などを転々と変えなければならない状況も有り得ます。逆に捉えるのならば、このような程度の状況へ臆[おく]しているようでは、地上での飛躍的な成長は望めないともいえます。地上での生活は、霊にとっては僅かな期間でしかありません。その僅かな期間で何を学び、どのように成長へつなげるのかは、本人の自由意志による選択で決まるのです。

 社会の常識から逸脱していくとは、周囲の者たちと異なる行動をおこなっていく状況を指しているとは限らない点に留意してください。周囲の者たちと異なる行動をおこなうことが、社会の常識から解放され、成長へつながるのではなく、周囲の者たちがおこなう行為を詳細に観察/考察して、誠実な生き方をしている者のおこなう行為と同じ方向性の行為を自己がおこなうように努め、同時に、誠実な生き方をしている者のおこなう行為の中で、自己には程度が低いと捉えられる行為をおこなわないように努めます。一方で、不誠実な生き方をしている者のおこなう行為と同じ方向性の行為を自己がおこなわないように努めます。周囲の者たちと異なる生き方を模索することは、自己の有する未だ自覚できるものの自覚していない固定観念/既成概念に気づく切っ掛けとなる場合も多くありますが、同時に、自己の虚栄心を満たすために奇抜な服装/髪型/化粧/発言/行動をおこなうようにもなりやすいです。周囲の者たちと異なる生き方を模索する目的を明確に自覚したうえで、模索していく必要があります。

 加えて、成長の程度が向上していくほどに、不誠実な生き方をしている者(成長の程度が極めて低い)との乖離が拡がるために、不誠実な生き方をしている者から、応対を避けられない状況で理不尽な応対を受ける状況も多くみられるようになります。不誠実な生き方をしている者は、自身が自覚して理不尽な応対をおこなっている場合もあれば、自覚できるものの自覚なくおこなっている場合もあります。例として、自己は丁寧に過不足のない適切な親しみのある応対をしているものの、店舗の会計/接客で従業員から、行政の窓口で職員から、病院の診療で医療従事者から、自宅へ訪問して来た営業職の者から、物的に初対面にも関わらず、謂[いわ]れの無い非難/忌避/反感/中傷などを受ける状況が挙げられます。また、日々に応対を避けられない、親族/家族、学校の教員/先輩/同級生、職場の上司/同僚からも、謂れの無い非難/忌避/反感/中傷などを受ける状況も多くみられるようになります。成長の程度が向上していくほどに、成長の程度が低い誠実な生き方をしている者との乖離も拡がりますが、誠実な生き方をしている者から、応対を避けられない状況で理不尽な応対を受ける状況はみられません。

 成長の程度が向上していくほどに不誠実な生き方をしている者から理不尽な応対を受けるのと同様に、不誠実な生き方をしている者を通して、不誠実な生き方をしている者へ憑依し操っている地獄者/地縛者たちからの妨害も増加します。日常の些細な物事でも、日常的ではない物事でも、様々な場面で生活を撹乱[かくらん]/阻滞して時間/労力を無用に消費させる状況や、怒り/苛立ち/恐れ/怯え/悲しみなどの感情を造化させようと仕向ける状況が多くみられるようになります。地獄者/地縛者が不誠実な生き方をしている者を唆[そそのか]して、相手へ物的に理不尽な応対をおこなわせる状況も含まれます。地獄者/地縛者のおこなう妨害については、2章5節 無形界の住人 #質疑応答の「地獄者は、どのような手口を用いて干渉してくるのですか?」も参考にしてください。

 なお、常識に囚われている者たちから誹謗中傷/嘲り/排斥/迫害を受けて自己が怒り/苛立ち/恐れ/怯え/悲しみなどの感情を造化したとしても、不誠実な生き方をしている者から理不尽な応対を受けて自己が感情を造化したとしても、地獄者/地縛者たちが不誠実な生き方をしている者へ憑依し操って自己に感情を造化させようと仕向けたとしても、感情を造化するのは自己の内面に原因があります。外環境の常識に囚われている者や、地獄者/地縛者/不誠実な生き方をしている者は、自己が感情を造化する切っ掛けに過ぎず、彼らが原因なのではありません。多くの場合では、自己の有している「〇〇をするのは当然だ」という自覚のある、あるいは、自覚できるものの自覚のない固定観念/既成概念が、〇〇をするのが当然ではない状況に遭遇した際に、突発的に感情を造化させ、その後も感情を持続させています。

 例として、「店員は客へ丁寧に接客/応対するのが当然だ」という固定観念/既成概念を自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく有していると、店員が自己に不遜/横柄な接客/応対をおこなうと怒り/苛立ちを造化するようになります。店員が、自覚して故意に不遜/横柄な接客/応対をおこなっていたとしても、自覚できるものの自覚なく不遜/横柄な接客/応対をおこなっていたとしても、自己が怒り/苛立ちを造化しているのとは関係がありません。なお、自己が相手(店員)を誠実に捉えているのならば、相手が誠実におこなう接客/応対へ不遜/横柄と感じ取る状況はなく、不誠実におこなわれた接客/応対へ不遜/横柄と感じ取ります。一方で、自己が相手を幻想の捉え方に基づいて不誠実に捉えているのならば、相手が誠実におこなう接客/応対を瞬間瞬間の自己に都合良く不遜/横柄と感じ取る状況もみられます。

 感情は、感情を造化している原因を明確に自覚したのならば、即刻に造化を辞めることができます。自己の成長の程度に関わらず、感情は、常に学びを阻碍し、成長を停滞させるように、はたらきます。もしも、突発的に感情を造化してしまったのならば、感情を造化する切っ掛けとなった外環境/他者へ意識を向けるではなく、自己の内面に意識を向けて、感情を造化させた原因を詳細に内省するように努めることで、「感情を造化してしまった状況」を踏み台として、学びと成長へつなげられるようになります。

 この質疑応答に関連する内容には、3章6節 内的構造 #質疑応答の「初対面の相手に違和感/反発感などを感じる場合があるのは、何に由来しているのですか?」がありますので参考にしてください。

考察/内省する

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 「考察する」あるいは「内省する」とは、つながりを把握することを指しています。外環境の無数にある物事/現象、おこなう行為、精神で造化する表現、有している習慣、物事の捉え方、などの相互のつながりを辿[たど]り、全体を俯瞰[ふかん]して観たときに、何と何がつながり(関係)を有しているのか? どの程度のつながり(関連)を有しているのか? を把握していきます。「考察する」は、主に外環境の物事/現象に対して用い、一方で、「内省する」は、自己の行為、自己の有する習慣、物事の捉え方、などの内環境に対して用いる考察を表しています。ただし、眼前の状況から自己に都合良く利己性/自己中心性/欲望を満たそうと「画策する」のは、眼前の状況を「考察している」のではない点に留意してください。考察は現実に基づいておこないますが、一方で、画策は幻想(妄想)に基づいておこなっています。幻想については、次節の5章2節 幻想を参照してください。

 つながりを辿るのは単純であり、決して複雑/難解ではありません。ただし、辿る道が一本線ではなく、複数の線が交差し、分岐し、並列している場合があるだけです。どの経路を、どの程度まで辿り、どれくらいの経路を把握できるのかは、成長の程度、同調する活動性の程度、個性の方向性、有している知識の内容/程度、固定観念/既成概念の内容/強さ、などによって決まります。

 自己のおこなった行為や生き方の内省は、どのような物的な発言/行動や思考/感情をおこなってきたのか? だけでなく、どのような目的で発言/行動/思考/感情をおこなってきたのか? を詳細に把握する必要があります。物的な発言/行動や思考/感情の内容のみを省みても、内省にはなりません。同様に、外環境の物事/現象などの考察も、物的な物事/現象の変化のみを捉えるだけでなく、物的な物事/現象の変化として現れている土台となる無形的な変化を捉えるようにする必要があります。

 有形体を通して発言/行動をおこなう状況を例にした場合では、ある発言/行動を物的におこなうには直接の土台となる思考があり、直接の土台となる思考が造化される際には、特定の記録/囚われ/習慣/技術などが影響を与えています。直接の土台となる思考が造化される前提には、複数の思考/感情があり、複数の思考/感情が連鎖し、また、組み合わさることで、直接の土台となる思考が造化されます。前提となる複数の思考/感情にも、それぞれの思考/感情が造化される際には、特定の記録/囚われ/習慣/技術などや誘惑が影響を与えています。

(1000/1000) 発言/行動の土台/前提となる表現の連なり
(1000/1000) 発言/行動の土台/前提となる表現の連なり

 加えて、外環境の物事/現象を考察する際も、自己の内環境を内省する際にも、特定の方向性へ偏重したつながりのみを把握していくのではなく、あらゆる方向性へのつながりを「あるがまま」に把握していくように努める必要があります。地上社会では、成長を志[こころざ]したものの、自己啓発、スピリチュアル、宗教団体の教義/教理/規則/戒律、哲学、チャート別/タイプ別診断、などの内容で示されている方向性に沿ってのみ考察/内省している状況も多くみられますが、どれほどに考察/内省へ努めていたとしても、特定の方向性へ偏重しているのならば、「考察/内省している」とは言い難いのです。これは、外環境から得た情報の方向性に囚われ縛られているとも言い換えられ、自己が自身の自由意志で方向性を自由に選択して、あるいは、方向性を限定せずに考察/内省していないために、考察/内省した内容は、自己の同調する活動性の程度よりも大幅に低い真実度を示すようになり、自己の成長へつながる考察/内省にはなっていません。自己の同調する活動性の程度(認識の程度)に相応する考察/内省をおこなうからこそ、自己の成長へつながるのです。あるがままに把握していくことについては、この節の質疑応答の「物事をあるがままに捉えるには、どのようにすればよいのでしょうか?」を参考にしてください。

 日々の生活の中で、自己/他者の行為や、社会の様々な物事/現象/出来事へ感じ取る違和感/不自然感から、「何へ、どうして違和感/不自然感を感じ取ったのか?」を詳細に観察して考察/内省することが、幻想の捉え方、固定観念/既成概念、利己性/自己中心性/欲望、愛、物事の本質、世界の実相/生命の真相、などへ気づく切っ掛けとなり、貯蔵する知識の増大や成長へつながるようになります。強く感じ取る違和感/不自然感だけでなく、僅かな違和感/不自然感も無視して放置せずに、違和感/不自然感を逐一に解決していくことが大切です。

 なお、自己のおこなった行為を内省し、眼前の状況に適切な内容を、適切な手段/方法を用いて、適切な程度で行為をおこなえた、あるいは、適切ではなかったと判断した際に、この判断は現在に自己の有する内省の程度に基づいている点に留意してください。今後に内省の程度が向上したのならば、適切/不適切の判断や、適切/不適切な程度(適切性)の判断も変化します。同様に、他者の行為を観察/考察して自己の行為を内省する場合や、現在の自己と過去の自己を比較して現在の自己を内省する場合も、現在に自己の有する内省の程度に基づいている点に留意してください。

 この質疑応答に関連する内容には、3章9節 精神 #質疑応答の「活動性の程度にみられる特性と、自己を内省する範囲/程度には、どのようなつながりがありますか?」がありますので参考にしてください。

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 「比較する」と「序列をつける」は、双方ともに、自己/他者を対比する行為を表していますが、行為をおこなう目的が異なります。このサイトで用いている「比較する」とは、自己のおこなう行為/おこなった行為へ気づくために「観察する対象」があることを指しています。過去の自己や他者を観察して、現在の自己と比較します。

 自己/他者を比較するのは、自己を内省するためにおこないます。自己と異なる行為をおこなう者たちを通して、自覚できるものの自覚していなかった自己の行為を自覚して省みるのが目的であり、もしも、他者と比較しないのならば、自覚できるものの自覚のない自己の行為は何時[いつ]までも自己だけでは自覚することができないのです。これには、現在の自己と過去の自己を比較して、現在の自己を内省する状況も含まれます。

 一方で、自己/他者に序列をつけるのは、優劣をつけるとも言い換えることができ、自己を内省するためではなく、他者の位置づけ(順序付け)に対する自己の立ち位置を確認するためにおこなわれます。立ち位置の確認は、自己の恐れ/怯えを隠し、虚栄心を満たすのが目的であり、自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なくおこなわれる不誠実な行為です。この行為の中には、数字や等級による順位付け、様々な競争、なども含まれており、地上では未だ社会の成長の程度が低いために、職場、教育現場、地域の共同体、研究開発、などの様々な場面でおこなわれています。これには、現在の自己と過去の自己に序列をつけて、現在の自己が過去の自己よりも優れているのか? 劣っているのか? を確認する状況も含まれます。順序付けについては、次節の5章2節 幻想を参照してください。

 なお、書物などの真実度/活動性の程度を数値で測定するのは、書物などの内容に数値を用いて序列/優劣をつけるためではなく、自己/他者の現在の成長段階に適した内容の書物を選択するためにおこないます。同様に、内的成長度を数値で測定するのも、自己の「おおよその成長段階」を把握して、更なる成長のために必要な学びの内容を考察/内省するためにおこなうのであり、自己/他者に序列/優劣をつけるためではありません。どのような道具(真実度/活動性の程度/内的成長度の測定、自己/他者の対比、など)でも、道具を用いる目的によって、行為の結果が大きく異なる点に留意する必要があります。誠実な行為も、不誠実な行為も、道具が決めるのではなく、道具を用いる目的が決めるのです。比較するのも、序列をつけるのも、自己/他者を対比する自己の目的が決めています。

 このサイトに掲載されている内容も、自己の内面や行為へ気づき修正するための切っ掛けとして用いるのであり、他者の行為を評価/批評し、あるいは、非難/批判/糾弾して自己の虚栄心を満たすために用いるのではありません。同様に、他者のおこなう行為を観察/考察し、無配慮、あるいは、配慮が不足しているように認識したのならば、他者の行為を非難/批判/糾弾するのではなく、同じ行為を自己がおこなう際に、自己は他者へ配慮するように努めます。そして、何時[いつ]でも、何処[どこ]でも、誰にでも、どのような状況であったとしても、できる限りの配慮へ努めるようにします。例として、訪れた店舗で、自己は客だから店員/従業員へ配慮しなくて良いのではありません。自己が上司/先輩/師匠だから、部下/後輩/弟子へ配慮しなくても良いのではありません。自己が集合住宅へ先に入居しているから、後から入居した者へ配慮しなくても良いのではありません。自己が先に座席へ座っていたから、後から隣の座席へ座った者へ配慮しなくても良いのではありません。

 自己/他者を比較する際には、自己/他者のおこなう行為を通して、行為の目的を把握したうえで比較しますが、物的な行為を上手くできる/できない、おこなえる物的な行為の程度、などを比較するのではない点に留意してください。地上の生活で有形体に現れる物的な側面や、有形体を通しておこなう物的な行為そのものを自己/他者で比較することに意義/価値はなく、また、物的な行為は、有形体の体質によって、おこなえる物的な内容/程度に制限を受けている場合もあります。物的な行為を上手くできる/できない、おこなえる物的な行為の程度、などを自己/他者で比較したいのは、幻想/妄想に基づく序列/優劣をつけて、虚栄心を満たしたいだけに過ぎません。

 地上での生活を始める前に設定した有形体の様々な体質は個々によって異なるために、それぞれの有形体ごとに、おこなえる物的な行為の内容/程度の基準が異なります。基準の異なるものを同列に並べて比較はできないのです。同様に、有形体の体質によって、おこなえる物的な行為の程度には「おおよその上限/限度」があり、どれほどに修練/研鑽をしたとしても、上限/限度を越える程度の物的な行為はできるようになりません。更に、有形体の体質によっては、物的な行為の程度が低かったとしても、どれほどに上限までの範囲内の物的な行為を修練/研鑽をしたとしても、特定の行為が上手くできない場合もみられ、例として下記が挙げられます。

  • 舌の形状/大きさで特定の発音がしやすい/し難い
  • 手指の形状、大きさ、動かしやすさ、などによる器用さ
  • 肉眼に視える色彩、肉鼻に嗅げる香り、肉耳に聴こえる音、の判別できる範囲と、判別できる程度
  • 有形体の平衡感覚に基づいて有形体の姿勢を調整する程度
  • 有形体を通して外環境から情報を受け入れる速さ
  • 有形体を通して外環境へ発言/行動する速さ
(1000/1000) 個体の基準と必要とする研鑽の割合
(1000/1000) 個体の基準と必要とする研鑽の割合

 個々によって行為の基準が異なるために、特定の物的な行為をおこなうのに必要とする修練/研鑽の程度も、個々の用いている有形体によって異なります。特定の物的な行為を、ある体質では少ない修練/研鑽で上手くおこなえるようになったとしても、他の体質では上手くおこなえるようになるのに多大な修練/研鑽を必要とする場合や、どれほどに修練/研鑽をしたとしても上手くできないままの場合もあります。地上社会では、特定の物的な行為をおこなえる/おこなえない、上手くできる/上手くできない、などで自己/他者を比較/判断する状況が頻繁にみられます。これは、日常の生活だけでなく、様々に競争する物事にもみられます。

 この質疑応答に関連する内容には、4章2節 有形界での成長 #質疑応答の「ゲームを通して成長への学びを得ることはできますか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000) 個々の有する基準と研鑽の程度
(1000/1000) 個々の有する基準と研鑽の程度

(1000/1000)

 自己の観察/考察したい特定の行為を他者がおこなうように誘導する状況は、他者のおこなう行為の観察/考察には含まれません。他者の自発的な行為を観察するのと、他者を誘導し他者へ特定の行為を故意におこなわせて他者を「試す」のは異なります。他者を自己の思惑に基づいて試そうとするのは傲慢[ごうまん]に過ぎない不誠実な行為です。

 他者のおこなう行為の観察/考察とは、他者が自発的におこなう行為へ、自己は一切の期待を有することなく、ありのままに捉える状況を指しています。他者は外環境の変化や周囲の人々の発言/行動などへ反応して行為をおこなう場合もありますが、自己が特定の行為の方向性へ他者を誘導する状況はありません。

 他者を試す場合には、自己は事前に自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく他者へ期待している行為の方向性があり、期待している行為の方向性に基づき、他者を誘導し行為をおこなわせて、期待している行為の方向性と実際に他者のおこなった行為の方向性との一致/不一致や、一致の程度を判断しています。自己の期待に基づいて他者を誘導するのは、自己に都合の良い状況を他者へ求める幻想の捉え方であり、他者が自身の自由意志で選択する選択肢の幅を制限させるように強制して(仕向けて)います。自己に都合の良い状況には、自己に都合が良くないと「都合良く思い込む」状況も含まれ、自己に都合が良くない方向性の行為を他者がおこなうように、自己に都合良く他者を誘導しています。幻想の捉え方については、次節の5章2節 幻想を参照してください。

 この質疑応答に関連する内容には、5章2節 幻想 #質疑応答の「期待が幻想に基づく行動で、成長するには消し去る必要があるのならば、今後に起こる物事も予測/推測しないということですか?」がありますので参考にしてください。

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 自己の内面(自己のおこなった行為の目的を含む)の観察/考察は、自己が自身に対してのみおこなえるために、誠実さに基づいて厳格におこなうこともできれば、不誠実さに基づいて誤魔化しや緩和(甘く見積もる)をおこなうこともできます。正確に内省(観察/考察)するためには、自己に都合の良い状況でも、都合の良くも悪くもない状況でも、都合の悪い状況でも、自己の都合に関係なく、あるがままに自己を観察/考察する「誠実さ」が必要となります。誤魔化しや緩和を自己が自身に許可する「不誠実さ」があるのならば、正確に観察/考察できないのです。

 もしも、不誠実さに基づいて自己が自身に対して観察/考察しているようにみえる状況があるのならば、その状況は内省ではなく、妄想/思い込みであり、瞬間瞬間の自己に都合良く捉えている、あるいは、瞬間瞬間の自己に都合が良くないという都合の良い捉え方をしています。周囲の者たちには、自己が自身を内省している/内省していない、は判別できません。外見が内省(反省)しているように視えていたとしても、内省しているとは限らないのです。

 加えて、不誠実さに基づいている場合には、内省していると自覚して信じているのに、自覚できるものの自覚なく瞬間瞬間の自己に都合良く捉えている状況もみられます。自覚して誠実に内省している状況と、内省していると自覚して信じている(思い込んでいる)のに自覚できるものの自覚なく瞬間瞬間の自己に都合良く捉えている状況とを区別するには、内省している内容に対して誠実さを有するように努めるだけでなく、「自己は現在の状況を誠実に内省できているのか?」を繰り返し自問する必要があります。自問は、自覚しておこなわれる内省のひとつの方法であり、ある内容を内省している自己に対しても内省するように努めることで、内省していると自覚して思い込んでいる状況を消し去れるようになります。

 内省は、自己との対話です。物的に対面した相手と背中合わせで対話する状況はなく、相手を視ずに対話する状況もなく、相手と向かい合って(相手へ意識を向けて)対話するからこそ相手と会話が成立するのと同様に、自己の内面や行為と正面から向き合うことで、自己を内省できるようになります。相手との会話も、自己の内省も、相手/自己と誠実に向き合うことでおこなえるのです。幻想の捉え方に基づいておこなわれる「お喋り/独り言」も対話に含まれますが、これらの行動は瞬間瞬間の自己に都合良く造り出した「妄想の自己」と向き合っており、相手と向き合わず、自己とも向き合っていないために、誠実におこなわれる状況がありません。お喋り/独り言については、次節の5章2節 幻想 #幻想による特徴ある行動を参照してください。

(1000/1000) 対話の分類
(1000/1000) 対話の分類

 現在の地上社会では、インターネットの普及とSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の拡大により、他者との物的な対面を必要としない交流が隆盛していますが、SNSが誠実な目的で適切に利用されている割合は僅かです。瞬間瞬間の自己に都合の良かった物事/出来事、自己に都合の良くなかった物事/出来事を発信するのに利用されている割合がほとんどを占めており、瞬間瞬間の自己に都合の良かった/良くなかった物事/出来事を他者に知ってもらい、他者から返信/応答を受けて幻想の安定性/安心感を得ようとしています。これは、SNSという手段を用いた、虚栄心を満たすために他者に構ってもらいたい「お喋り」といえます。加えて、SNSは、閲覧者の思考の方向性を誘導して、閲覧者の総体として現れる世論を操作するのにも拡く利用されてます。インターネット、ウェブサイト、Eメール、SNS、などは手軽に容易に利用できるからこそ、目的を誠実に内省し、目的を明確に自覚したうえで用いる必要があります。

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 自己の状況について知るように努める行動が、必ずしも内省になっているとは限りません。自己について様々に知ろうとする目的にも誠実/不誠実の違いがあり、目的の有する性質が、自己の状況について知ろうとする行動の性質を決定するのです。内省は誠実さに基づいてのみおこなうことができ、不誠実さに基づいて内省はできない点に留意してください。不誠実さに基づいておこなわれるのは、妄想と思い込みです。

 自己について様々に知ろうとする目的が有する誠実/不誠実の性質が同じ行動へ表れる例として、自己の成長段階(成長の目安としての内的成長度)を測定する場合に、成長を求める者は、現在に成長を阻碍している要因や、更なる成長のために不足している内容を考察する自覚のある目的(誠実さ)で測定しようとします。一方で、成長を求めていない者は、恐れ/怯えに基づき、自己と他者を比べて序列/優劣をつけようとする自覚できるものの自覚のない目的(不誠実さ)で測定しようとします。なお、測定に用いる筋反射検査は、不誠実な目的では検査の条件を満たせないために、検査をおこなっても正確な結果は得られません。筋反射検査については、1章3節 筋反射検査を参照してください。

 社会で多くみられる〇〇性格診断、△△心理テスト、◇◇占い、各種の適性検査、などをおこなう場合や、有形体の病状、自己の求めるもの、などについて書物やインターネットで調べようとする場合でも、これらは自己について様々に知ろうとする行動に含まれますが、知ろうとする目的には誠実/不誠実の違いがあります。瞬間瞬間の興味で刹那的に行動することなく、ひとつひとつの行動の目的を明確に自覚するように努めて行動する必要があるのです。そして、目的を明確に自覚するように努めることが「内省している」状況となります。

 加えて、自己が過去におこなってきた行為と、現在におこなっている行為を比較して、現在の自己を内省する際に、過去におこなった行為や、過去に遭遇した物事/現象/出来事を誠実に省みるのと、過去に囚われるのは異なる点に留意してください。過去を誠実に省みて現在の状況へ活かす者は、過去の行為/物事から眼を逸らさずに向き合い、過去の行為/物事に関連する「現在の行為/物事」を進展させようと自覚して努めます。

 一方で、過去に囚われている者は、過去の行為/物事から眼を逸らす、あるいは、過去の行為/物事を常に引き合いに出して、過去の物事に関連する「現在の行為/物事」が進展するのを自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく妨害します。これは、幻想の捉え方に基づく僻[ひが]み/嫉妬[しっと]や、意固地[いこじ]とも関連しており、特に、過去に他者から危害を加えられた場合に、他者を非難/批判/糾弾し、あるいは、周囲の者たちから慰[なぐさ]めてもらうことで虚栄心を満たし続けるために、何時[いつ]までも「被害者でありたい」という欲望が、自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく過去に囚われさせます。どれほどに過去に囚われても、現在に「過去の行為/物事そのもの」を進展/変更/消去することは決してできません。現在にできるのは「過去の行為/物事」を省みて、省みた内容を現在と今後に活かすことだけです。幻想の捉え方については、次節の5章2節 幻想を参照してください。

 現在に自覚できるものの自覚していない自己の状況に気づくための「ひとつの切っ掛け」として、様々な報道、書物、音曲、動画、などの情報を俯瞰[ふかん]して眺めることで、どのような方向性を有する内容へ関心が向くのか? を考察する方法があります。考察するのは、ひとつひとつの情報の内容ではなく、関心の向く複数の内容にみられる「類似する方向性(共通する方向性)」です。ただし、興味の湧く内容を考察するのではない点に留意してください。興味は、誘惑(利己性/自己中心性/欲望)に基づいて湧き上がり、利己性/自己中心性/欲望を喚起/増大する方向性の内容に湧きやすいです。ある情報の内容へ、興味が湧くと精神に騒響[ざわめき]を起こしますが、一方で、関心が向いても騒響は起きません。

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 様々なチャート別診断、タイプ別診断、などと呼ばれている個性(気質/性格/人格などを含む)の分類は、自己の状況や思考/感情の方向性を考察/内省する切っ掛けとして用いることはできます。チャート別診断、タイプ別診断、などを用いる際には、それぞれの内容が有する真実度と誠実/不誠実の性質を測定し、現在の自己の成長段階で「適切な診断方法なのか?」を確認する必要があります。現在の自己の成長段階に「不適切な診断方法」も多くあり、どのような診断方法であっても考察/内省に役立つとは限らないのです。ただし、自己の状況や方向性を、既存の分類へ当てはめるために用いるのは、幻想の安心感を得ようとする行動に過ぎず、成長の退行へつながる点に留意してください。

 同様に、県民性、国民性、民族性、などと呼ばれ分析/考察されている内容は、それぞれの地域の風土/文化を土台として形成された「行為へ現れる性質/方向性」の既成概念です。特定の地域で生活する者に必ず当てはまるのではありません。特定の地域で産まれ育った/生活していた/生活しているからと、その地域の県民性/国民性/民族性などへ当てはめて自己/他者を捉えるのも、成長を阻碍/退行させる原因となります。

 自己を内省し、成長を促進していくには、自己が観察/考察(内省)する範囲を自身で制限しない/制限されないことが重要です。言い換えると、自己の自由意志で選択する選択肢の範囲を自身で制限しない、自己以外からも制限されない状況が、適切な内省を促し、成長の促進へつながるのです。内的にも外的にも自由な状況が、成長するための大切な条件です。常に観察/考察する範囲(内省する内容/方向性)は自由であること、特定の内容/方向性へ囚われないこと、特定の物事へ当てはめないこと、へ努めているのならば、適切に内省をおこなえ、成長の促進へつながるようになります。内的/外的な自由については、5章4節 固定観念/既成概念 #自由とはを参照してください。

 内的/外的な自由が成長を促進するための大切な条件となるのは、個体だけでなく、国家/企業/学校などの共同体でも同様です。例として、国家が国民の生活を制限し、国家に都合の良い生活を強要するのならば、それは、国家のおこなう政策の方向性を制約することになり、国家の有する成長の程度は停滞します。共同体の運営状況を診断/監査する方法/内容も、共同体の有する成長の程度によって変化するために、特定の方法/内容に囚われていると共同体の成長を阻碍します。現在に共同体の有する成長の程度で「適切な診断/監査の方法」を用いることが、共同体の成長へつながるようになります。

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 全体を俯瞰[ふかん]して捉える/観るとは、捉えようとする対象の範囲を構成する一部へ意識を偏重して向けずに、範囲全体へ均等に意識を向け、全体を総合/包括して捉える状況を指しており、無形的認識に基づく捉え方です。有形的認識に基づいて全体を俯瞰して捉えることはできません。全体を俯瞰して捉えるとは、対となる極性で構成される一軸線上での中立を基点として捉えることを指しているのではない点に留意してください。

 「俯瞰する」とは、上空から山を見下ろした際に、山に生える木々の一本一本の差異/変化や、山の一部に群生する木々の変化を視るのではなく、一本一本の木々の変化が総合されて現れる山全体としての変化を視ることへ譬[たと]えられます。山を見下ろす高度が低すぎるのならば、山の全体を見渡し難くなり、逆に、高度が高すぎるのならば、山の全体は見渡せますが、山が小さく視えてしまい山全体の変化を捉え難くなります。視界に山の全体を収めながらも、山全体の変化を捉えられる適切な高度から見下ろす必要があります。

 地上社会では、対立する両者の一方が正しく、他方が誤りという状況は少なく、両者はともに、正しい内容と誤った内容、また、誠実な内容と不誠実な内容を混在して有している状況が多くみられます。中でも、対立の状況を端的に表している「戦争/紛争」の勝敗が正しさ/誤りを表しているのではありません。戦勝側が正しく、戦敗側が誤りなのではなく、同様に、戦勝側が正義で、戦敗側が不義/不正なのではありません。対象となる範囲の一部へ意識を偏重させて捉え、安易に一方を擁護[ようご]し、他方を非難/批判/糾弾するのではなく、両者のおこなう行為/活動のひとつひとつを観察/考察し、更に、それぞれの行為/活動のつながりを総合して把握する必要があります。この捉え方が、全体を俯瞰して捉える、あるいは、軸線上を包括して捉えることを指しています。

 ただし、全体を俯瞰して捉えるのと、軸線上を包括して捉えるのは、同じ捉え方ではありません。軸線上を包括した捉え方は、全体を俯瞰した捉え方に含まれています。全体を俯瞰して捉える際には、複数の軸線を同時に捉える場合もあり、それぞれの軸線上を包括して捉えたうえで、更に複数の軸線を包括(俯瞰)して捉えます。軸線上を包括して捉えることについては、4章4節 覚醒 #質疑応答の「覚醒者が認識の表現に用いる非二元性とは何ですか?」を参照してください。

 なお、無形界の生活では、地獄層のみで「対立」の状況がみられ、人霊界の各界層ではみられません。対立は、両者が互いに相手の状況を把握しようと努めないために生み出されており、対立する土台には利己性/自己中心性/欲望があります。対立は、相手の状況を理解できる/できないに関わらず、相手への「思いやり」の欠如を表しているのです。

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 物事を「あるがまま」に捉えられないのは、自己/他者、自己/自己以外、自己に都合の良い範囲/自己に都合の良い範囲以外、などの区別をして、物事を捉える方向性が偏る(偏重して捉える)ことにあります。ある方向性から偏重して捉え、他の方向性から僅かにしか捉えずに、あるいは、他の方向性から捉えようとせずに、現在の自己に「できる限り」のあらゆる方向性から均等に捉えようと努めていないのです。そのため、物事を「あるがまま」に捉えるとは、自己が現在の成長の程度で認識できる範囲内において、あらゆる方向性から均等に捉えることを指しています。成長にともない、認識できる範囲は拡大していくために、更に多くの方向性から捉えるようになります。日々の生活の中では、ある物事の現状を特定の方向性から偏重して捉えているために「あるがまま」に捉えられない状況に加えて、ある物事の、これまでの経過/推移/経緯に囚われて先入観を有してしまい、ある物事の現状を「あるがまま」に捉えられなくなる状況も多くみられます。

 愛は平等/対等の性質を有しているために、自己の有する愛の程度(成長の程度)が向上するほどに、平等/対等に捉える程度も高くなり、自己/他者、自己/自己以外、自己に都合の良い範囲/自己に都合の良い範囲以外、などの区別を薄れさせ消し去っていきます。これは、成長の程度が高くなるほどに、物事を個体として捉えずに、全体として捉える程度が高くなり、自然に「あるがまま」に捉えるようになっていく状況を指していますが、成長の程度が高くならなければ、物事を「あるがまま」に捉えられないということではありません。

 どのような成長の程度であったとしても、物事を、あらゆる方向性から捉えるように努めることで、徐々に、あるがままに捉えられるようになります。具体的に、あるがままに物事を捉えていくには、固定観念/既成概念に囚われない、現在に有している情報/知識にしがみつかない、加えて、利己性/自己中心性/欲望、恐れ/怯え、思惑、などに従わないことが必要となります。これらに基づき造化されている表現で精神が埋め尽くされ、精神に絶え間なく騒響[ざわめき]を起こしていると、あるがままに物事を捉えることはできません。精神の騒響を鎮静させて、内面の静けさを通して物事を観る必要があるのです。譬[たと]えると、水で満たされた容器へ更に水を入れることはできず、容器に入っている水を捨て去れば新たに水を注ぎ入れることができるようになるのです。また、容器に汚れた水が入っているのならば清い水を注ぎ入れても汚れます。容器に入っている汚れた水の一切を取り除いてから清い水を入れる必要があるのです。そして、波立つことのない清い水の水面には、外環境が「ありのまま」に映し出されます。

 物事を捉える方向性の中でも、あらゆる物事から物的な利益を得ようとする利己性/自己中心性/欲望に基づく「自己に都合の良い範囲」からのみ捉える方向性が、物事の本質を「あるがまま」に捉えられなくしている大きな原因となっています。眼前の物事を「自己に都合良く捉える」という表現は、強い不誠実性を有しているように感じ取りますが、不誠実性の強さに関わらず、日常の何気ない行為にも「自己に都合良く捉えている」状況は頻繁にみられます。日常の中で頻繁にみられる自己に都合良く捉える何気ない例として、晴れ続きの日に「今日は雨が降ってくれないかな?」、 気温の高い日に「今日は涼しくならないかな?」、外出する際に「これから乗る電車で座れるかな?」、などがあります。これらの表現からは強い不誠実性を感じ取りませんが、眼前の状況が自己に都合良く移り変わるように期待しており、眼前の状況を「あるがまま」に捉えようとしていません。

 現在の段階よりも更なる成長を求めて修養の生活を実践していくのならば、日常の何気ない行為や、些細な行為のひとつひとつを丁寧に内省するように努める必要があります。あらゆる方向性から均等に捉えるようになったのならば、自己の利益/損失、他者の利益/損失、などの自己/自己以外を区別した捉え方はなくなり、全体の利益から捉えるようになります。全体の利益から捉えるとは、一部ヘ損失を与え犠牲にしてでも全体の利益を得ようとすることではなく、誰ひとりとして犠牲にせず、何ひとつとして無駄にしない相互資生/相互活用の捉え方を指しています。

 もしも、入手できる情報を操作/誘導/制限されている生活環境であったとしても、「あるがまま」に物事を捉え考察するように努めることはできます。入手できる情報を操作/誘導/制限されていると自覚している場合であったとしても、入手できる情報を操作/誘導/制限されていると自覚していない(自覚できるものの自覚なく操作/誘導/制限されている)場合であったとしても、ひとつひとつの情報を受け入れた際に、理性のおこなう整合性の確認によって感じ取る、腑に落ちる、納得する、違和感、不自然感、などの僅かな感覚の変化を放置せずに丁寧に詳細に考察して、これらの感覚の変化を感じ取った原因が「情報の何に/どのような点に由来しているのか?」を把握することで、情報が操作/誘導/制限されている有無、どのような方向性へ情報が操作/誘導/制限されているのかに気づくようになります。情報が操作/誘導/制限されている方向性へ気づいたのならば、他の様々な方向性から「情報の中核となる内容」を考察するように努めることで、あるがままに捉えられるようになります。筋反射検査を用いて、情報の有する真実度、誠実/不誠実の性質、などを検査するのも、情報が操作/誘導/制限されている状況や、情報が操作/誘導/制限されている方向性へ気づく切っ掛けとなります。理性については、3章7節 心を参照してください。

 加えて、何時[いつ]の時代でも、何処[どこ]の地域でも、偽情報/誤情報を積極的に拡散する「強い恐れ/怯えを有した者たち」が溢れています。現在では、インターネットや電子端末の普及によって瞬時に広範囲へ情報が拡散しやすい環境にあり、特に、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を用いて、広告収入による利益を得たい、悪戯[いたずら]で閲覧者を愚弄[ぐろう]したい、視聴率/閲覧数を増やして虚栄心を満たしたい、などの利己的/自己中心的な目的で偽情報/誤情報を拡散する者が増大しています。これらの情報が誠実な性質を示す状況はなく、常に不誠実な性質を示すとともに極めて低い真実度が測定され、社会へ様々な混乱/対立/迫害/暴動などを引き起こす切っ掛けにもなっています。そして、これらの偽情報/誤情報を好んで受け入れる者たちも増大しており、彼らは日々を物的にも有形的/無形的にも怠惰/安逸に生活しているために退屈しており、奇抜にみえる情報を得て興奮と快楽を得たいのです。受け入れた情報や物事を、現在の自己に「できる限り」のあらゆる方向性から均等に捉えようと努めるとともに、自身で情報の内容を考察して、偽情報/誤情報を識別する必要もある点に留意してください。

 物事をあるがままに捉えるのと同様に、自己/他者を「あるがまま」に捉えるには、自己/他者の用いている「有形体という道具」を視るのではなく、「霊という自己/他者そのもの」を観る必要があります。人種、民族、性別、年齢、体型、容姿、障碍の有無、などの有形体に起因する内容へ囚われることなく、行為の目的、個性、生き方、思考の方向性、保存している習慣や固定観念/既成概念、貯蔵している知識、などの霊として有している内容を包括して捉えるようにします。特に、自己の有している固定観念/既成概念によって、社会に既存する「何らかの区分/分類に基づくラベル付け(レッテル貼り)」を自己/他者へおこない、ラベル付けした方向性のみに基づいて自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく自己/他者を捉えようとする状況は頻繁にみられます。あらゆる物事/現象/出来事や、自己/他者の行為を、社会に既存する分類へ盲目的に当てはめてラベル付けしようとする行動は、自己が自身で考察しているのではないために、責任逃避へつながるようにもなります。固定観念/既成概念については5章4節 固定観念/既成概念、責任逃避については5章2節 幻想を参照してください。

 これは、「色眼鏡(フィルター)を通して自己/他者を捉えようとする」とも言い換えられ、自己/他者を「あるがまま」に捉えるように自覚して努めていないのならば、自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なくラベル付けした方向性以外から自己/他者を捉えられなくなります。ラベル付けには、主義/主張や生き方の方向性だけでなく、職業、役職、学歴、職歴、婚姻/離婚歴、犯罪歴、傷病歴、性別、年齢層、物的な資産の量、などによる区分/分類も含まれ、ひとつの区分/分類でラベル付けする場合もあれば、複数の区分/分類でラベル付けする場合もみられます。

 もしも、眼前の物事が特定の方向性へ偏って観える場合には、自己は眼前の状況を「あるがまま」に観ている/捉えているのか? を常に内省して、自己の捉え方が偏重している可能性を省みる必要があります。眼前の物事が偏って観えるのには、実際に眼前の物事が偏って現れている状況だけでなく、自己の捉え方が偏重しているために、眼前の様々な物事の中から一部の物事のみを抽出して観ている状況もあるのです。例として、周囲の者たちが自己を嘲[あざけ]っているように観えるのは、自己が自身を嘲っている者たちにのみ意識を向けているために、自己を嘲っていない者が観えなくなっている場合もあり、自己を労[いたわ]ってくれている者に気づいていない場合もあります。

 眼前の状況を、あるがままに捉える「正確な適切な捉え方」に基づいて考察するには、生活に必要とする最低限を求めても、生活に必要とする最低限よりも多くを求めない生き方へ努めている必要があります。また、「過去」に必要とする最低限での生活へ努めていたのではなく、「現在」に努めている必要があります。過去に必要とする最低限での生活へ努めていた体験は、現在の考察へ活かせますが、現在に物事を捉える土台となるのは現在の生活です。過去の体験は、現在の生活を土台として物事を捉える際の補助となるだけであり、過去の体験を土台として現在に物事を捉えても、正確な適切な捉え方はできません。例として、過去に必要とする最低限での生活へ努めていたものの、現在に誘惑の影響を受けて必要とするよりも多くを追い求めて生活しているのならば、どれほどに貧困/差別/迫害/不公平などの「社会に蔓延[まんえん]する不誠実性の皺寄[しわよ]せ」について考察しても、不正確/不適切な考察となり、考察した結果として建てた貧困/差別/迫害/不公平などへの対策/対応も「的外れな/見当違いな内容」となるために、貧困/差別/迫害/不公平などを是正できないのです。生活に必要とする最低限よりも多くを求めない生き方については、5章3節 誘惑を参照してください。

 この質疑応答に関連する内容には、5章6節 愛の行為 #質疑応答の「無我/無私でおこなう愛の行為とは、自己犠牲と同じですか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 自己のおこなった行為に後悔しないためには、行為をおこなう前に、行為をおこなう目的を自覚する必要があります。自覚のある目的に基づいて、自覚して行為をおこなうようにします。行為の目的を明確に自覚しないままに、自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく行為をおこなってしまうために、行為をおこなった後で内省し、悔やむようにもなるのです。特に、刹那の虚栄心や利己性/自己中心性/欲望を満たすためにおこなった不誠実な行為によって、後悔とともに、今後に長い期間を苦しまなければならない状況が多くみられます。

 悔やむ(後悔)という行動は、常に行為をおこなった後にしかできないために、行為をおこなう前に悔やむことはできません。そして、既におこなった行為は、決して、無かったことにはできないのです。行為をおこなった後に、悔やみ、謝罪し、償[つぐな]いをしても、おこなった行為が、行為をおこなわなかったことには決してならないのです。行為をおこなう前に行為をおこなう目的を自覚したのならば、その行為をおこなうことで悔やむ可能性があるのか? あるいは、悔やむ可能性はないのか? の判断ができるようになるために、続けて、行為をおこなう/行為をおこなわないの選択もできるようになります。

 また、自己の思考/感情を逐一に内省するように努めているのならば、外環境の出来事へ突発的に反応して造化される思考/感情と、それらの思考/感情に基づいておこなわれる衝動的な言動(罵声/暴言など)との間隙に、これからおこなう言動の必要/不要を、自覚して冷静に判断する瞬間を造り出せるようになります。なお、自己の思考/感情を逐一に内省していないのならば、自覚して冷静に判断する瞬間的な間隙はありません。

 自己のおこなった行為が後悔するほどではなかった場合であっても、ある時、ある状況で行為をおこなった後に、おこなった行為を内省して、行為の内容、行為をおこなった手段/方法、行為の程度が適切でなかった(不適切)と気づいたのならば、次に遭遇する「類似する状況」で適切におこなえるように努めます。ある時、ある状況でおこなった行為は、その後に、行為をおこなわなかったことには決してできません。ある時、ある状況でおこなった行為から内省を通して学び、学び得た内容を今後に活かしていくのです。

 地上では、有形体の内包する物質の心から絶え間なく誘惑の影響を受け続けているために、地上で生活する人は誰にでも、過ち/犯罪と呼ばれる行動や、誘惑に基づく不誠実な行為をおこなってしまう可能性があります。そして、相手が過去に「過ち/犯罪と呼ばれる行動をおこなったことがある」からと、相手を忌避/嫌悪/排斥/差別する状況は頻繁にみられます。過ち/犯罪と呼ばれる行動や不誠実な行為をおこなわないに越したことはありませんが、自覚して過ち/犯罪と呼ばれる行動や不誠実な行為をおこなってしまったからこそ、その行動を誠実に後悔して、自身の行為/内面の内省に努めるようになる場合もあります。一方で、過ち/犯罪と呼ばれる行動や不誠実な行為をおこなったことがないと思い込んでいる(自覚できるものの自覚なく過ち/犯罪と呼ばれる行動や不誠実な行為をおこなっているのに気づかない)ために、何時[いつ]までも自身の行為/内面を内省しない者は多くいます。

 過ち/犯罪と呼ばれる行動や不誠実な行為をおこなった有無で相手を判断するのではなく、相手が過ち/犯罪と呼ばれる行動や不誠実な行為を自覚しておこなってしまった後に、その行動を通して何を学び、どのように現在の生活へ活かしているのか、あるいは、何も学ばず生活へ活かしていないのか、で相手を観るようにします。相手が過去に「過ち/犯罪と呼ばれる行動や不誠実な行為をおこなったことがある」からと相手を忌避/嫌悪/排斥/差別する行動こそが、不誠実な行為だと気づく必要があります。

 この質疑応答に関連する内容には、4章6節 自由意志/運命 #質疑応答の「眼前の選択肢の中から正解の選択肢を選び続けることで、成長が促進されていきますか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 ある内容を考察していて結論が出せない状況には様々な原因がみられますが、それらの中でも、習慣や固定観念/既成概念(思い込み/常識など)に囚われて考察する方向性が制限されている、考察に必要とする観点(視座/視点)や知識が不足している、などが多くみられます。これらの状況は、考察する内容と、考察する内容につながりのある物事を俯瞰[ふかん]して捉えるように努めることで、自覚できるものの自覚なく制限していた考察の方向性や不足している観点へ気づきやすくなります。譬[たと]えると、山は裾野から見上げるよりも上空から見下ろすほうが、山の全体を見渡せるようになり、尾根の連なりや小川の合流する様子も把握できるようになるのです。視座/視点については、3章6節 内的構造 #視場/視域/視野/視点/視座の違いを参照してください。

 加えて、ある成長段階で有している認識の程度では結論が出ない内容もあり、相対的に高い認識の程度では結論を出せるようになる場合もあります。例として、医学/哲学などで論考されている、生命とは何か? 意識とは何か? 自己とは何か? 生きるとは何か? 死とは何か? なぜ病になるのか? などの内容は、有形的認識が優勢な認識の程度で無形的な物事を捉えようとしているために、結論を見い出せない状況が多くみられます。これらの無形的な物事は、無形的認識が優勢な認識の程度で捉えようとするのならば結論が出るようになり、そして、更に無形的認識の程度が高くなるほどに、相対的に低い無形的認識の程度で結論としていた内容は考察し直され、高い無形的認識の程度に相応する考察の結果(結論)を導き出します。相対的に高い認識の程度で結論を出せる場合があることについては、3章3節 分霊 #質疑応答の「自己の有する認識の程度よりも高い程度での思考の内容が理解できないのならば、どうすれば理解できるようになるのですか?」がありますので参考にしてください。

 社会では、正しさの程度(真実度)が異なる物的/有形的な物事を一軸線上に並べて比較している状況は多くみられますが、正しさの程度が異なる物事は同じ軸線上で水平に並べても比較できず、適切に考察し難いために、結論が出せない状況にもつながっています。正しさの程度が異なる様々な物事は、ある方向性から捉える軸線(水平軸)と、正しさの程度(垂直軸)の2軸に基づいて配置することで、適切に考察しやすくなります。言い換えると、正しさの程度が異なる物的/有形的な物事の土台となる「無形的な物事(無形的な物事は正しさの程度を有していない)」を、ある方向性から捉える軸線上で水平に並べて比較/考察するのです。

 この質疑応答に関連する内容には、1章1節 サイトを読むにあたって #質疑応答の「ある記述の内容と他の記述の内容とのつながりを把握していくことが網羅的理解ですか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000) 正しさの程度を考慮した比較
(1000/1000) 正しさの程度を考慮した比較

(1000/1000)

 他者の状況へ共感するのは、今回の地上での生活だけでなく、これまでの地上/無形界でおこなってきた生活の中で、自己が他者の状況へ類似する状況の体験をし、体験を通して既に学びを得ている場合が多くみられます。ただし、共感を感じる状況のすべてに対して、必ず自己が既に体験し学びを得ているとは限りません。自己の未だ体験し学びを得ていない状況から共感を感じ取る場合が少ないながらもみられます。そして、自己が他者の状況へ類似する状況を体験していても未だ学びを得ていない場合があり、その場合も他者の状況へ共感し難いです。

 他者の状況へ共感する際には、自己は既に体験して学びを得ている状況が多いために、他者の状況にみられる「何に共感しているのか」を自己は自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく認識しています。しかし、体験するのは物的/有形的な状況ですが、体験を通して得た学びは、経験へ保存されている習慣や、記録へ貯蔵されている実証された知識と密接に関連している無形的な内容のために、共感している内容を有形的な言語/文字/図表/有形体の動作などでは正確に過不足なく表現することができません。そして、他者の状況へ共感するのは、自己が既に体験した誠実な内容の体験だけでなく、不誠実な内容の体験でもみられます。他者の誠実な愛の行為へ共感(感動)する場合もあれば、一方で、他者の利己的/自己中心的で不誠実な行為へ共感する場合もある点へ留意してください。

 なお、誠実な内容の体験で感じ取る「共感」と「感動」は類似していますが、これらを感じ取る土台が同じではありません。共感は、経験/記録の機能特性へ保存/貯蔵されている内容に基づいているのに対して、感動は、他者のおこなう愛の行為に遭遇し、自己の分霊としての根源にある生命の活動性が、他者のおこなう愛の行為へ付与された活動性の程度へ共振することで感じ取ります。自己がこれまでに他者の状況へ類似する体験をしていなくても、感動は感じ取れるのです。加えて、他者のおこなう愛の行為に対して、自己が既に体験し学びを得ている愛の行為と類似しているのならば、共感/感動を同時に感じ取る場合もあります。

 地上社会では「感動」と「興奮」を混同している状況も多くみられます。感動は、大霊の心に由来する愛に基づいて感じ取りますが、一方で、興奮は、物質の心から受ける誘惑(利己性/自己中心性/欲望)に由来しています。感動/興奮を同時に感じ取る状況はありません。

 この質疑応答に関連する内容には、3章9節 精神 #質疑応答の「感動、感激、などは、感情とは異なるのですか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 内省の程度は、成長の程度に相応して向上していくのに加えて、自己の意志で積極的に高めていくように修錬することができます。そして、積極的に内省の程度を高めていくように努める過程は、成長の促進へもつながります。

 内省の程度を積極的に高めていくには、始めに、様々に外環境を観察/考察し、考察した内容に基づいて自己を内省する習慣を、自覚して形成していくように努めます。次に、絶え間なく移り変わる自己の内面の様々な変化へ気づき(自覚し)、それぞれの変化の「つながり」を把握する必要があります。特に、外環境の変化に起因して現れる内面の変化を詳細に内省し、外環境の様々な変化と内面の様々な変化との間にみられる「無数のつながり」を把握するように努めます。

 日常の中での、あらゆる物事を通して内省の程度を積極的に高めていくことができ、特定の修錬のみで高めていくのではありませんが、現在の自己が有する内省の程度を逐次に確認しながらおこなえる修錬方法のひとつとして下記を紹介します。この方法は、書物、動画、音曲、などの「情報を内包している物事」でおこない、3段階の手順があります。書物の場合では、書物に掲載されている内容全体に対しておこなうのに加えて、それぞれの記述ごと(文ごと、段落ごと、動画では場面ごと、音曲では旋律の区切りごと、など)でも同様におこなえます。下記は、書物の場合として記述しています。

  • 1段階目は、書物へ掲載されている内容を読み、内容を考察し、内容へ付与されている活動性の程度にみられる特性と特性の強さを推測します
    • 書物へ掲載されている内容(書物の場合では記述の内容)の観察/考察と、自己が書物へ掲載されている内容から受ける無形的な感覚を総合して、特性と特性の強さを推測します
    • 特性と特性の強さを推測せずに、代わりに、書物へ掲載されている内容へ付与されている活動性の程度を数値で推測しても構いません
    • 活動性の程度にみられる特性については、3章9節 精神 #表現の活動性を参照してください
  • 2段階目は、筋反射検査を用いて、書物へ掲載されている内容に付与されている活動性の程度を数値で測定し、活動性の程度にみられる特性と特性の強さを確認します
    • 特性の強さは、ある特性がみられる活動性の範囲内で、活動性の程度が高くなり上位の特性へ近づくほどに強く表れており、逆に、活動性の程度が低くなり下位の特性へ近づくほどに弱く表れています
    • 観察/考察して特性と特性の強さを推測する前に、筋反射検査で活動性の程度を測定してしまわないように留意する必要があります
  • 3段階目は、2段階目で測定した「活動性の程度にみられる特性と特性の強さ」を、1段階目で推測した「特性と特性の強さの予想」と照らし合わせて、自己の観察/考察の経路/程度を内省します
    • 先[ま]ずは、推測した特性/特性の強さと、測定された活動性の程度にみられる特性/特性の強さとの一致/不一致を確認します
    • 次に、どの程度に一致している(特性は一致しているのに特性の強さが一致していない)のか? なぜ一致していない(推測した特性が測定された特性と異なっていた)のか? 書物へ掲載されている内容を、どのように考察していくと一致するようになるのか? などを内省します
    • 加えて、この修錬方法をおこなっている際の、熱/疲労の程度、外環境の状況、精神の状況、などが、一致/不一致や一致の程度へ与えている影響についても考察します
    • この修錬方法の中核は、一致/不一致を確認した後の「内省」にあり、一致/不一致を確認するだけでは価値が低くなります
(1000/1000) 内省の程度を高める方法の例
(1000/1000) 内省の程度を高める方法の例

学びを得る

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 有形体内の周期のひとつとして、1日の時間帯ごとに、体内で機能の亢盛する部位の移り変わる周期があり、中医学では、その周期のひとつが子午流注[しごるちゅう]とも呼ばれています。時間帯によって、特定の部位に関連する機能が亢盛することで、その部位に熱を生じやすくなり、時間の変遷によって熱のある部位が移り変わっていきます。おおよそ1ヶ月の周期では、物的な側面からみて「月経」と呼ばれている現象があり、子の生産に関連するだけでなく、定期的におこなわれる有形体の再構築でもあります。

 有形体にみられる様々な周期は、それぞれの伝統医学で体系化されいる内容が、自身の体験を通して周期を観察/考察する際に、周期へ気づき、周期の組み合わせが与える影響を考察するのに役立ちます。ただし、個々の用いる有形体の体質によって、有形体の周期から受ける影響や、影響の程度は異なるために、伝統医学で体系化されいる内容に囚われることなく、自身の体験を通して実証していく必要があります。

 外環境の中で実感しやすい周期には、主に地球の中心軸の傾きと太陽光の照射量によって変化する四季と呼ばれる1年の周期、主に地球/月/太陽の重力の均衡によって変化する月の満ち欠けなどの1ヶ月の周期があります。地球にみられる外環境の周期は、宇宙に造化されている無数の天体からも影響を受けており、無数の天体が相互に与え合う影響の総合が、地球にみられる数年、数十年、数百年、数千年、数万年、などの周期にも反映されています。物的には遥[はる]か彼方[かなた]にある惑星/恒星や、様々な場所へ移動する彗星も、地球にみられる周期へ影響を与えています。無数の天体が相互に影響を与えていることについては、2章3節 有形界の構造 #質疑応答の「あるひとつの相で人類の存在する惑星以外の惑星も視えるのはどうしてですか?」も参考にしてください。

 1年の周期にみられる四季では、気温の変化をともなうために、気温の高い/低いという情報を有形体の感覚器を通して受け入れ、痛みのひとつの側面として暑さ/寒さを認識します。なお、暑さ/寒さは自己の受ける相対的な感覚であり、気温の高い/低いとは必ずしも一致しません。そして、暑い/寒いと認識した後に、連鎖して精神で表現を造化する目的(誠実/不誠実な目的)も、目的に基づいて造化する表現の種類/内容も様々です。重力の均衡によって変化する1ヶ月の周期では、有形体に熱の強くみられる部位が上下に変化し、月齢を基に捉えると、朔月では下肢/会陰/膀胱、月齢の増加にともない、小腸、次に大腸/腎、上弦の頃に脾/胃/胆、更に、心/肝、肺、頸項部と続き、望月で頭面部へと上昇し、その後は順に下降し、下弦の頃に脾/胃/胆を経て、朔月で下肢/会陰/膀胱へと下がります。

 これらの周期以外にも無数の周期があり、有形的な言語では表現できない周期も多くあるために、様々な周期にみられる「つながり」を把握していくには、無形的認識に基づいて印象で捉える必要があります。

 この質疑応答に関連する内容には、4章5節 優位性 #質疑応答の「外環境の周期が原素材の貯蔵量へ、どのように影響を与えていますか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 学びを得ようとする意志があるのならば、どのような内容からでも成長へつながる学びを得ることができます。

 小説、漫画、映画、バレエ、舞踊、演劇、フィギュアスケート、などの、物語に沿って進行する内容の何処[どこ]を通して、どのような学びを得るのかは、個々の成長の程度、個々の有する個性、貯蔵している情報/知識の内容/程度、保存している習慣の内容/強さ、内容を視聴/鑑賞した際の外環境の状況、精神の状況、物語への理解の程度、などによって異なります。物語の内容そのものから学ぶ場合もあれば、演者の動作や話し方などの表現方法から学ぶ場合や、撮影/音響/演出/記述の仕方/作画の手法/情景の描写などから学べる場合もあり、また、視聴/鑑賞を切っ掛けに思い出した過去の出来事から学ぶ場合もあります。学びの中には、「ある物語からは学びを得られなかった」という学びを得る、あるいは、物語の内容を反面教師として学びを得るという状況もみられます。

 ただし、物語に沿って進行する内容は物的であり、物的な内容から直接に成長へつながる学びを得るのではありません。それらの物的な内容から何らかを感じ取り、自己の内面に感じ取った内容を考察し、理解し、実証を通して得た無形的な内容が成長へつながる学びとなります。なお、「ある物語からは学びを得られなかった」という学びを得るには、どうして物語から学びを得られなかったと感じたのか? 物語から学びを得るように努めたのか? などを詳細に内省することで、内省を通して学びを得られるようになります。

 地上での学びに際して、物質の心に由来し経験の機能特性へ保存されている「不誠実さ」は常に狡猾なために、学びを得ようとする意志を有していないのに「学びを得るため」という大義名分で、誘惑に呑まれ、欲望/快楽/快感の追求を正当化することのないように留意する必要があります。自己の自覚の有無に関わらず、自己のおこなった行為/おこなう行為を正当化しようとする目的が誠実な性質を有している状況はなく、正当化しなければならない時点で、「正当ではなかった/正当ではない」と自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく認識しているのです。

(1000/1000)

 学校教育を通して、自己の霊としての成長へつなげるのか/つなげないのかは、教育を受ける本人が自由意志で選択するのであり、学校教育そのものに、成長へつながる/つながらないはありません。

 学校教育は、地上社会で物的な生活をおこなっていく基礎を伝えるためにあり、学校で教える内容は社会の成長の程度に相応する程度の内容で構成されている点に留意してください。社会の成長の程度よりも高い程度を有する内容が含まれている状況はなく、加えて、社会の成長の程度に相応する常識などの既成概念へ随伴するように教育がおこなわれています。霊の成長では、社会の成長の程度よりも高い程度を有する内容を求め学んでいくために、学校教育の内容そのものが霊の成長へ直接に影響を与える状況は低いといえます。

 一方で、学校で教員が授業を通して教える内容とは別に、教員の生き方が、学生の「霊としての成長」へ大きな影響を与えています。教員の生き方が、教師と呼ばれるような「日々を愛の行為で満たしている生活」をおこなっているのならば、霊の成長への手本/模範となり学生の成長を促すように「はたらきかけ」ますが、逆に、利己的/自己中心的な生活をおこなっているのならば、学生の成長を阻碍するように「はたらきかけ」ます。学生は、教員から教わる内容よりも、教員の生き方から学んでいるのです。

 しかし、学校では、教員は必要な集団行動と認識しているものの、誠実の程度が低い集団行動、あるいは、不誠実な性質の集団行動を生徒へ強要する状況も多くみられます。もしも、生徒が強要した行動に従わないのならば、協調性がない、精神疾患を患[わずら]っている、と決めつけて、内申書や各教科の成績評価を下げる、不良生徒として扱う、親へ躾[しつけ]を要求する、などをおこなう場合もみられ、生徒の「霊の成長」を退行させるように仕向けている教員もいます。また、生徒へは「煙草を吸ってはいけない」と厳しく指導しているものの、自身は学校内で隠れて吸っており、生徒からの信用を失墜させている教員もいます。このサイトでは、教師と教員の語を区別して用いています。霊の成長への模範となる生き方をしている者は「教師」であり、職業としての「教員」とは異なります。教員の中にも教師は存在していますが、未だ少数です。同様に、聖職者(僧侶/司祭/牧師など)は職業であり、霊の成長への模範となる教師としての生き方をしている者と同じではありません。聖職者の中にも模範となる生き方をしている者は存在していますが、未だ少数です。

 なお、学校教育が不要なのではありません。学校教育を通して、文字の読み/書き、地上で発明/発見/検証/考察された様々な内容を学ぶことで、下記をおこなえる可能性が高くなります。ただし、学歴が高い/多いほどに、おこなえる可能性が高くなるのではありません。

  • 無用な偏見、貧困、搾取、差別、対立、諍[いさか]い、などを防ぎ、また、解消しやすくなります
  • 地上社会の物的な発展に貢献しやすくなります
  • 無形界から地上で生活する人へ託される「無形的な印象(研究成果)」を物的な物事へ変換して表現しやすくなります
  • 物事/現象/出来事を円滑に観察/考察しやすくなります
  • 書物などから情報を収集しやすくなります

 教育の本質は、自身で様々に観察/考察するための知識/技術を養うことにあります。知識/技術を養うことで、以前よりも拡く、緻密で、明確な観察/考察を促すようになります。観察/考察する際に、特定の捉え方へ誘導/強制するために教育をおこなうのではありません。教育機関は自己が知識/技術を学び得る切っ掛けとなる場であり、入学/卒業/修了試験、科目/課目の成績評価、などを他者から受ける場ではないのです。しかし、多くの教育機関では、試験/成績評価に重点を置いて授業/講義がおこなわれています。教育機関で拡くおこなわれている試験/成績評価は、どの程度に特定の捉え方で観察/考察しているのか? を判断している点に留意してください。

 教育機関での試験/成績評価は、生徒/受講者のためではなく、教育機関(国家/行政を含む)の権威付けのためにおこなわれており、生徒/受講者へ優越感/劣等感を植え付け、幻想の捉え方を助長させています。また、試験/成績評価を受けなければならない環境では、生徒/受講者は、各種の試験を通過することへ意識が向いてしまい、科目/課目の単位、学位、資格、などを得るためだけに教育機関で過ごすようになり、様々に観察/考察するための知識/技術が養われません。結果として、試験/成績評価が、個体(生徒/受講者)や社会の成長を阻碍するように、はたらいているのです。現在では、教育の本質へ立ち返り、試験/成績評価をおこなわない教育機関もみられるようになりつつあります。特定の捉え方へ誘導/強制する授業/講義ではなく、生徒/受講者が互いに議論/討論して授業/講義を造り出し、様々に観察/考察するための知識/技術を互いに養う方法が模索されています。

 この質疑応答に関連する内容には、4章2節 有形界での成長 #質疑応答の「学生の成長を促すには、どのように授業をおこなうとよいのでしょうか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 ある内容が正しいのか、正しくないのか、誤っているのか、は一律に判断できることではありません。個々の成長の程度、生活する地域社会の文化/伝統/情勢、生活する時代、などによって判断の基準は移り変わります。

 高齢者(老齢者を含む)を敬[うやま]い彼らに知識を請う/請わないを考察する以前に、下記を考察する必要があります。なお、このサイトでは、高齢は有形体の使用年数が多い状況を表しており、必ずしも有形体が劣化しているとは限りません。一方で、老齢は有形体の使用年数が多く、同時に、有形体の劣化も進行している状況を表しています。有形体の使用年数(年齢)と、有形体の劣化(老化)は異なる点に留意してください。

  • なぜ有形体の使用年数が自己よりも相対的に多い高齢者や、自己よりも年長者を敬うのか?
  • 有形体の使用年数が自己よりも相対的に少ない年少者は敬わないのか?
  • 動物は人ではないから敬わないのか?
  • 植物、鉱物、大地、大海、大空、などの森羅万象は敬わないのか?
  • 有形体の使用年数が比較的に多い者を指して呼ばれる高齢者は、他の年齢の者よりも知識を多く有しているのか?
  • その知識とは、どのような内容なのか?

 このサイトで用いている「知識」という語の定義に基づくのならば、有形体の使用年数(年齢)が、貯蔵している知識の多さ、本人の成長の程度、などを決定している状況はなく、両者は全くの無関係といえます。サイトで用いている知識の定義については、3章7節 心を参照してください。

 これまでの地域社会の伝統として、有形体の使用年数が多いほどに地上で物的に生活をおこなうための技術を有しており、物的な生活の中で自己を研鑽し、研鑽を通して比較的に多くの知識を貯蔵している傾向がみられたために、「高齢者/老齢者を敬い彼らの知識を請うように」と伝えられるようになったのです。しかし、この伝統が、現在の地上社会にも当てはまるのか、当てはまらないのかは、詳細に考察して判断する必要があります。

 古来より続く日本の社会では、社会を構成する、物質、霊、精神、の3つの側面に均衡がとれていたために、高齢者/老齢者の有する知識は地上での物的な生活のためだけでなく、霊/精神の成長へも役立っていました。しかし、現在の日本は物質の側面にのみ偏重した社会となり、霊/精神の側面との均衡が大きく崩れているために、敬われるような「手本/模範」となる生き方をしている(生き方をしてきた)高齢者/老齢者は少数であり、不誠実な生き方の「見本」となる高齢者/老齢者が多数を占めています。これは、高齢者/老齢者に限らず、あらゆる年齢層でもみられます。

(1000/1000)

 自己が過去に体験してきた何らかの出来事が頻繁に思い出されるのは、その出来事から気づき考察し学ぶ内容があるためです。出来事への考察を通して成長へつなげるために、天使たちが思い出すように、はたらきかけてくださっているのです。

 頻繁に思い出す出来事の多くは、感情をともなう内容や、未だ自覚できるものの自覚していない固定観念/既成概念から逸脱する内容であり、現在の成長を阻碍している習慣(囚われ)へ気づくための切っ掛けとなります。感情をともなう内容も、固定観念に関連しています。感情をともなう出来事は自己の利己性/自己中心性/欲望への気づきに、また、未だ自覚できるものの自覚していない固定観念/既成概念から逸脱する出来事は自覚して固定観念/既成概念の内容を考察し直すために思い出しており、出来事を適切に考察し終えたのならば思い出さなくなります。固定観念/既成概念については、5章4節 固定観念/既成概念を参照してください。

 出来事を頻繁に思い出す状況を厭[いと]うことなく、出来事の内容から眼を逸らさずに落ち着いて考察することで、必ず成長へとつながる学びを得られるようになります。なお、有形体に熱/疲労があり、意識に占める物質の心の影響力が増大している際にも、感情をともなう出来事が頻繁に思い出されやすくなりますが、熱を下げ、疲労を解消すれば思い出さなくなります。

(1000/1000)

 全く同じ体験ではないものの、様々な状況などが類似する体験を何度も繰り返すのは、それらの物的な体験に共通する「無形的な本質」の部分から成長への学びを得ていないためです。

 現在の成長段階で必要とする学びの一部が、類似する体験を通してのみ得られる内容のために、学びを得るまで何度も繰り返されているのです。類似する体験を繰り返す多くの場合では、この学びの内容が、現在の成長段階での学びを修了し、次の成長段階へと移行するための、最後の条件となっています。様々な状況などが類似する体験に共通して現れる、精神で造化する表現(思考/感情など)、いくつもの思考のつながり(思考の連鎖する順序/経路)、習慣、固定観念/既成概念などの囚われ、物事の捉え方、などの、自己の内面の変化を詳細に内省することで、体験に共通する無形的な本質へ気づき成長への学びを得やすくなります。

 類似する体験を通して学びを得たのならば、今後にそれらの体験を繰り返す状況もなくなります。

 加えて、自己が眼前の状況に類似する状況を、これまでに体験し、体験を通した学びを得ているからこそ、眼前の状況へ適切な行為に気づき、適切な程度に行為をおこなえるようになります。眼前の状況に類似する状況を、どれほどに数多く体験していたとしても、体験を通して学びを得ていないのならば、眼前の状況へ適切な行為を適切な程度にはおこなえません。ただし、眼前の状況へ適切な行為に気づいたとしても、誘惑(利己性/自己中心性/欲望)、習慣、固定観念/既成概念、などから影響を受けて、眼前の状況へ適切な行為をおこなうとは限りません。

 例として、為政者/政治家が物的に裕福な生活をしているのであれば、物的な貧困を解消するための政策や、経済格差を是正する政策は大きな困難をともないます。物的な貧困の中で生活しているからこそ、貧困の解消に必要とする本質的な物事/政策に気づくのです。物的に裕福な生活をしている者には、「物品や現金を支給すれば物的な貧困を解消できる」と安易で的の外れた政策をおこなう状況が多くみられます。なお、実際には、今回の地上生活だけでなく、これまでの地上/無形界の生活で体験を通して得た学びが、現在に眼前の状況へ対応する適切な行為へとつながっているために、今回の地上での生活が物的な貧困の環境ではなかったとしても、以前の地上生活で物的な貧困の環境を通して学びを得ているのであれば、貧困の解消に必要とする本質的な物事/政策に気づき適切に対応できる場合もあります。

 今この時に、この場所で、無数の運命の流れが相互に影響を与え合った結果として造り出された「自己の眼前に現れる状況(物事/現象/出来事)」は、永遠に成長し続ける生活の中で一度きりの遭遇です。今後に類似する状況へ遭遇することはあっても、全く同じ状況に遭遇する機会は二度とありません。この一度きりの貴重な機会を、何へ活かすのか? どのように活かすのか? は自己が決められます。この機会から何を学び得るのか? 何も学び得ずに過ぎ去るのか? この機会を自己/他者/社会の成長へつなげるのか? この機会を自己の利己性/自己中心性/欲望や虚栄心を満たすのに利用するのか? は自己の自由意志で選択できるのです。

(1000/1000)

 霊の成長と学問体系の内容には、全く関係がありません。学ぶ意志があるのならば、あらゆる分野の内容を通して学ぶことができます。また、最も成長へとつながりやすく学びを得やすい内容は、学問体系の中よりも、自己/他者のおこなう日常の些細な行為、周囲にみられる自然環境の絶え間ない変化、などの日々の生活の中にあります。

 物理学/化学/天文学などの主に肉眼で視える形状(数値/図像など)で証明しやすい内容を扱っている学問に比べて、哲学/心理学/宗教学などは肉眼に視えない内容を扱っているために、固定観念/既成概念などの囚われや誤謬[ごびゅう]も比較的に多くみられ、また、閉鎖した円環の思考の経路で、語の定義を置き換えて論考(言葉遊び)しているだけの場合もあります。これらの肉眼に視えない内容を扱っている学問を学ぶ場合には、ひとつひとつの記述/図表に対して丁寧に真実度を測定しながら、慎重に詳細に読み解き、考察していくことを推奨します。

 様々な学問で考察し論述している、学者、宗教団体へ所属している者(僧侶/牧師/司祭/神主などを含む)、スピリチュアリズムを論考している者、たちは多くみられますが、自身で考察した内容に基づいて、実際に実践/実証している者は少ない傾向がみられます。自身で実践している者と、実践していない者とでは、論述している内容から測定される真実度/付与されている活動性の程度とは別に、論述している内容から受ける感覚が異なります。自身で様々に観察/考察し、自身の実践を通して得た内容に基づいておこなわれる発言/行動/記述からは、深拡さ、重厚さ、実質さ、単純さ/洗練さ、芯/軸のある、と呼ばれるような感覚を感じ取ります。一方で、自身で様々に観察/考察しているものの、自身で実践していない場合(観察/考察した内容のみに基づく発言/行動/記述)には、浅狭さ、軽薄さ、空虚さ、表面的な複雑さ/難解さ、芯のない/空洞、と呼ばれるような感覚を感じ取りやすいです。

 発言/行動/記述そのものから受ける感覚も、発言/行動/記述の内容を考察する際の参考として用いることができます。なお、これらの感覚は、自己が自身で様々に観察/考察し、観察/考察した内容に基づいて実践しているほどに鮮明に感じ取るようになります。

 地上の社会では、特定の物的な物事を知っているのか? 知らないのか? 、加えて、物的な物事を知っている総量で相手の優劣を自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく決めようとする状況が頻繁にみられます。自己の知る特定の物的な物事を、相手も知っているのならば褒め称え、一方で、相手が特定の物的な物事を知らないのならば相手を侮[あなど]り/嘲[あざけ]り/蔑[さげす]みます。同様に、相手の知る特定の物的な物事を、自己も知っているのならば自己陶酔で虚栄心を満たし、一方で、自己が特定の物的な物事を知らないのならば僻[ひが]み相手を嫉妬します。これらの行動は、幻想の捉え方に基づく「順序付け」であり、自己の有する恐れ/怯えから眼を逸らすためにおこなわれています。順序付けについては、次節の5章2節 幻想を参照してください。

 地上で生活している人の中で、有形界/地上へ現在に表現されている無数の物的な物事や、過去に表現されていた無数の物的な物事の全てを把握している者はいません。特定の物的な物事を知っているのか? 知らないのか? に囚われているのは滑稽であり、また、どれほどに多くの物的な物事を知ったとしても無数の中の僅かに過ぎないのです。重要なのは、特定の物的な物事を知っていることではなく、多くの物的な物事を知っていることでもなく、物的な物事を通して「無形的に何を学び得たのか?」です。成長へとつながる学びを得ていないのならば、どれほどに多くの物的な物事を知ったとしても無価値なのです。逆に、眼前に遭遇する物的な物事のひとつひとつを詳細に観察/考察し、考察した内容を自己の体験を通して逐一に実証していくのならば、知っている物的な物事の総量は他者と比べれば少ないかもしれませんが、多くの学びを得られています。

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 どのような行為をおこなうのも、どのような生き方をするのも、どのように物事/体験を通して学ぶのかも、すべて個々の個体の自由意志による選択へ委ねられており、どのような選択をするのも本人のみが決めるのです。本人が不誠実な生き方を辞めたくないのに辞めるように自身へ強制する必要はなく、また、本人以外から辞めるように強制される状況もありません。不誠実な生き方からも学ぶことはできます。ただし、不誠実な生き方をおこなっている期間は成長へつながる学びを得られません。不誠実な生き方を辞め誠実な生き方へ努めるようになってから、これまでに不誠実な生き方をして自身の成長を停滞/退行させ、同時に、周囲の者たちへ必要のない多大な負担を与えてきたことに後悔し、重い苦しみを通して学ぶのです。苦しみについては、4章2節 有形界での成長 #質疑応答の「苦しみとは何ですか?」を参照してください。

 なお、不誠実な生き方を通してのみ学べる内容というものはありません。同じ学びの内容は誠実な生き方を通しても学べるために、不誠実な生き方の代償として無用に苦しまなくても学べるのです。個体の観点から捉えると、他者へ不誠実な生き方を辞めて誠実な生き方へ努めるように促すのは、今後に受ける「重い苦しみを避けて学んでもらいたい」という愛に基づいています。他者に誠実な生き方へ努めるように促すのは自己のためではないという点に留意してください。

 全体の観点から捉えると、個体のおこなう行為のひとつひとつが全体へ影響を与えているために、個体のおこなう不誠実な生き方によって周囲へ不誠実な活動性の影響を波及させ、周囲の者たちの成長や、社会、国家、惑星、などの共同体の成長を停滞させるように「はたらきかけ」ており、世界全体の進化への重しとなっています。不誠実な生き方をおこなう者が1人でも減ることで、世界全体の進化は加速して促進するようになるのです。

 どのような生活/生き方をするのかは個々の個体が自由意志で選択できますが、自由な生活/生き方は他者への配慮のうえで成立しています。自由とは放埒[ほうらつ]と同じではありません。利己性/自己中心性/欲望に基づいた放埒な生活(不誠実な生き方)は他者/全体への無配慮でしかないのです。自由については、5章4節 固定観念/既成概念 #自由とはを参照してください。

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 書物などにみられる、子供向け、大人向け、一般向け、専門家向け、男性向け、女性向け、などの様々な区分は、成長への学びを得ていくうえで、何ひとつ関係がありません。成長への学びを得ようとする強い意志があるのならば、どのような書物の内容からも成長への学びは得られます。同様に、学術書だから学びを得られ、小説や漫画は娯楽だから学びを得られない、ドキュメンタリー/ノンフィクションの動画は学びがあり、フィクションの映画やアニメ/ビデオゲームからは学べない、などの捉え方も成長への学びを得ていくうえで何ひとつ関係なく、寧[むし]ろ、これらの囚われた捉え方(固定観念/既成概念)は成長を阻碍しています。小説、漫画、フィクションの映画、アニメ、ビデオゲーム、などからも必ず学びを得られるということではなく、自己の有している固定観念/既成概念によって「学びを得られる可能性/機会」を潰してしまっている点に留意してください。固定観念/既成概念については、5章4節 固定観念/既成概念を参照してください。

 「◯◯向け」とは、記述の読み進めやすさ、内容を把握するうえでの容易さを客観的に区分して表しているだけに過ぎません。学びを得られる/得られないは、自己の成長を求める意志の強さ(主観的な物事)が決めるのであり、客観的な区分によって決まるのではありません。客観的な区分に囚われることなく、様々な書物を読み解いていく中に多くの気づきがあり、成長への学びにつながりやすくなります。

 特に、子供向けと区分されている書物には、暴力/残虐な表現、婉曲[えんきょく]な記述、複雑な文章などが少ないために大人にも読み進めやすい傾向がみられます。また、何らかの明確な事柄を伝える目的で記述されている場合が多いために、記述の内容を通して、記述の目的や記述の土台となる印象の内容へ意識を向けやすい特徴もみられます。ただし、子供/児童向けと区分されている書物、絵本、小説、映画、アニメ、音曲、などが、知名度に関係なく、誠実な性質の内容で構成されているとは限らない点に留意してください。知名度が高いから誠実な性質の内容とは限らず、地上社会の全体で拡く知られている有名な書物、絵本、小説、映画、アニメ、音曲、などにも不誠実な性質を示す内容は多くあります。親/大人が、知名度だけで選択した書物、絵本、小説、映画、アニメ、音曲、などを子供へ与え、子供に不誠実な習慣や固定観念/既成概念を形成させている(植え付けている)状況は、日々の生活で頻繁にみられます。

 なお、書物などにみられる様々な区分に関わらず、相対的に高い真実度を示す情報/知識の内容に基づいて、相対的に低い真実度を示す記述の内容を正確に考察することはできますが、一方で、相対的に低い真実度を示す情報/知識の内容に基づいて、相対的に高い真実度を示す記述の内容を読み進めることはできても、正確な考察はできません。記述の内容を正確に考察していくには、自己の有する認識の程度を向上させ、現在の認識の程度に基づいて貯蔵している情報/知識を考察し直し(情報は理解したうえで知識として貯蔵し直し)、貯蔵している知識の程度を高める必要があります。

 この質疑応答に関連する内容には、3章3節 分霊 #質疑応答の「自己の有する認識の程度よりも高い程度での思考の内容が理解できないのならば、どうすれば理解できるようになるのですか?」、また、2章3節 有形界の構造 #質疑応答の「惑星の進化のために、地上で生活する人が永続性のある活動をおこなうには、どのようにすればよいのでしょうか?」がありますので参考にしてください。

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 はじめに、食事の内容/味/調理方法/食材などへの拘[こだわ]り/追求が利己性/自己中心性/欲望を強化していくことについては、5章4節 固定観念/既成概念 #質疑応答の「地上で最も強く有する固定観念/既成概念には、どのような内容がありますか?」を参照してください。

 学びを得ようとする強い意志があるのならば、あらゆる物事から学びを得られます。食物/食事を通しても成長への学びを得ることはできます。ただし、成長への学びを得るように努めるのと、快楽を追求するのは異なります。両者を混同しないように行動する必要があるのです。

 食事は地上で最も物的な行動のひとつであり、その行動の根底には、食べなければ死んでしまう、有形体を維持するには食べなければならない、という固定観念/既成概念(囚われ)があります。そのため、食事という行動は、食物/食事を通して成長への学びを得ることはできるものの、食事の内容/味/調理方法/食材などへの拘り/追求によって利己性/自己中心性/欲望を強めるようにも「はたらき」やすい特徴がみられます。前者(成長への学びを得る)は「食べること」へ囚われていないですが、後者(拘り/追求)は「食べること」へ囚われている点に違いがあります。

 食物/食事に対して有する意志の方向性が、「食べること」への囚われの有無を決めています。成長への学びを得ようとする自覚のある意志の方向性が食物/食事を通して学べるように、はたらき、一方で、快楽を得ようとする(快楽を追求しようとする)自覚のある、あるいは、自覚できるものの自覚のない意志の方向性が食物/食事を通して利己性/自己中心性/欲望を満たすために、はたらいているのです。

 なお、食物/食事に限らず、あらゆる物事から学びを得るように努める意志の方向性に基づいて、精神で造化される表現から意識が受ける感覚は静けさです。一方で、あらゆる物事から快楽/快感を得て利己性/自己中心性/欲望を満たそうとする意志の方向性に基づいて、精神で造化される表現から受ける感覚は興奮による騒響[ざわめき]です。

生活を実践する : 内面の変化

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 周囲から自己が「どのように観られているのか?」が気になり、修養の生活への実践に踏み切れないのは、未だ成長を求めていくだけの「最低限の意志の強さ」を有していないのです。「なぜ成長を志すのか?」を誠実に内省する必要があります。修養の生活に限らず、何をおこなうにしても、強い意志で決断したのならば、どのような状況であったとしても突き進んでいくようになり、周囲から自己が「どのように観られているのか?」へ意識が向かなくなくなります。

 周囲の目が気になるのは、実際には、「自己が他者からどのように観られているのか?」ではなく、「自己が他者からどのように観られたいのか?」であることに気づく必要があります。そこには、自己が自己の「あるがまま」を自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく受け入れられない、恐れ/怯えに基づく虚勢を含んでいます。自己が自己の「あるがまま」を受け入れられない理由、あるいは、「あるがまま」を受け入れたくない理由を誠実に内省していくことで、成長へつながる学びを得られるようになります。これは、修養の生活でおこなう「幻想からの脱却」に含まれます。幻想からの脱却については、次節の5章2節 幻想を参照してください。

 なお、修養の生活とは、物的/有形的(外的)に非日常的な物事をおこなう生活ではなく、日常生活を成長へとつながるように修正していくのであり、無形的(内的)におこなう生活です。絶え間ない内的な修正が、徐々に外的な変化として現れるようになります。

 加えて、修養の生活を実践していく過程で、生活を実践し続ける決意の揺らぐ場合には、自己のあらゆる行為が、常に世界の進化へ影響を与えていると自覚することで、強い意志を保ち続けられるようになります。些細な思考、僅かな感情、少しの誘惑への傾倒、なども世界の進化へ影響を与えているのです。個体のおこなう行為は、行為の大きさや内容に関わらず、決して個体だけで完結する状況はなく、必ず全体へ影響を与えているのだと明確に自覚したのならば、自己のおこなう行為が有する責任の重大さへ気づき、成長を求めることのないままに、誘惑に呑まれて、幻想へしがみつき、無価値な囚われに縛られ、成長を停滞/退行させてなどいられなくなります。

 自己のおこなう行為が有する責任に気づいたのならば、修養の生活を実践することが自己の成長のためだけではなく、自己の生き方を手本/模範として他者の成長を促し、自己/他者の成長が総合されて惑星の進化へつながり、そして、それぞれの惑星の進化が世界の進化へつながっている状況も理解できるようになり、自[おの]ずと修養の生活を実践する強い意志が保てるようになります。

 修養の生活を始めた後に、「ある習慣を辞める」などの特定の目標を設定する場合には、目標を達成する期日を決定してから実践/実行するよりも、現在に実践/実行し始めた状況から考慮して、目標を達成するまでに必要とする期間を決定するほうが、目標を達成できるようになります。地上では、有形体の内包する物質の心から絶え間なく誘惑の影響を受け続けているために、自覚のある、あるいは、自覚できるものの自覚のない恐れ/怯えや怠惰が目標へ向けた実践/実行を躊躇[ちゅうちょ]させ、際限なく実践/実行を先延ばしするように、はたらきかけます。実践/実行する意志は有しているものの、「◯◯(何時[いつ])までに目標を達成しよう」という計画を、実践/実行を先延ばしにする言い訳へ用いるようになるのです。そして、目標を達成する期日が近づいて来ても未だに実践/実行し始めていないために、目標を達成する期日を先延ばしに変更して、束[つか]の間の安心感を得ようとします。何よりも先[ま]ずは、現在よりも未来ではなく、今この瞬間から、実践/実行し始めることが大切です。

 この質疑応答に関連する内容には、2章4節 無形界の構造 #質疑応答の「人霊界の最下層と地獄層の間にある道はどのようなものですか?」がありますので参考にしてください。

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 修養の生活に「飽きる」という状況はありません。修養の生活は成長の実践であり、僅かずつにでも成長する都度に、真の幸福を感じ取ります。一度でも真の幸福を明確に実感したのならば、更なる真の幸福を求めずにはいられなくなります。真の幸福については、この節の質疑応答の「真の幸福とは何ですか?」を参照してください。

 「飽きる」とは、ある一定の程度を有する欲望/快楽/快感を継続して外環境へ求めることで現れる感覚の麻痺した状況を指しています。ある一定の程度を有する欲望/快楽/快感に飽きることで、その程度からは快楽/快感を得られなくなるために、更に強い程度を有する欲望/快楽/快感を外環境へ求めるようになり、結果として、現在の程度よりも強い欲望/快楽/快感を際限なく追い求めるようになります。日常の中では、食事の量、甘味/辛味/鹹味(塩辛さ)、飲酒の量、喫煙の量(煙草の本数)、賭け事、小説/漫画/映画/音曲/演劇/ドラマの内容、などを「飽き」によって際限なく追い求めようとする状況は頻繁にみられます。

 修養の生活とは、外環境へ何らかを求めるのではなく、自己の内面を観察/考察(内省)して、自己のおこなう行為と、行為の土台となる習慣を修正していく生活です。内面の探求/探究には終着点がなく、ある習慣を修正していく過程で、次々と修正する必要性のある習慣に気づくようになります。もしも、修養の生活、瞑想、内省、などに飽き/退屈/辟易[へきえき]を感じるのならば、それらをおこなうことで外環境から何らかの報酬(多くの場合では称賛/尊敬/崇拝)を得られると期待している可能性があり、何時[いつ]までも外環境から何も得られないために落胆しているのです。外環境から何らかを得たいという自覚のある、あるいは、自覚できるものの自覚のない期待は利己的/自己中心的な願望に過ぎないという点に留意してください。修養の生活から得られるのは、自己/他者が成長していく状況への喜び(真の幸福)と、学びを得る愉[たの]しみです。なお、「愉しみ」と「楽しみ」は異なります。愉しみ/楽しみの違いについては、この節の質疑応答の「修養の生活に楽しみはないのでしょうか?」を参照してください。

 また、強い意志で自己の成長を求めていないために、何時[いつ]までも自己の有する習慣に気づくことができず、目的のないままに漫然と形骸化した行動だけをおこなっている場合にも、退屈感/停滞感を感じる状況がみられます。修養の生活は成長を求める強い意志があってこそ成り立つのです。

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 他者が自己について、どのような評価をしていたとしても、自己の成長には全く関係ありません。他者が自己を貶[おとし]めるような評価をしていたとしても、自己を称賛するような評価をしていたとしても、自己には一切の関係がないのです。

 修養の生活を実践している過程で、自己が他者から様々に揶揄[やゆ]されるのは、僅かにも成長することなく利己的/自己中心的で不誠実な生き方をしている者たちが、瞬間瞬間に移り変わる自身の都合を基準として、自身に都合が良いように自己を変人と呼んで自身の虚栄心を満たすために利用しているだけに過ぎません。そして、相手を揶揄することで、不誠実な生き方をしている自身とは異なる「誠実な生き方をしている者」への恐れ/怯えから眼を逸らそうとしているのです。

 誠実な生き方へ努めている者は、どのような状況であったとしても、他者を揶揄[やゆ]せず、婉曲[えんきょく]な嫌み/嘲[あざけ]り(皮肉表現)も言わず、囃[はや]し立ても祭り上げもしません。修養の生活を実践している者に対して、変人と揶揄する状況もみられません。自己が他者から変人と呼ばれたのに対して、他者の期待する何らかの反応を示し他者の虚栄心を満たす手助けをするのは、自己の成長を阻碍するだけでなく、他者の成長も阻碍することになるのです。自己が成長を求めているのならば、同時に、他者の成長を促しても、他者の成長を阻碍してはなりません。他者には、寛容/憐[あわ]れみで応対するだけです。寛容/憐れみについては、5章6節 愛の行為 #質疑応答の「慈悲/憐れみとは何ですか?」を参照してください。

 真摯に成長を求め修養の生活を実践している者からは、瞬間瞬間に物事を捉える基準が自身に都合良く移り変わり、利己的/自己中心的に行動する不誠実な生き方をしている者たちこそ「変態の変質者」に観えているのです。変態は一貫した意志がなく移り変わる行動のことであり、変質は利己的/自己中心的な不誠実の性質を指しています。

 また、自己が他者から変人と呼ばれることへ何らかの対応をしなければならないと捉えるのは、他者から「自己がどのようにみられているのか?」を気にしているためであり、自己の有する恐れ/怯えに基づく虚勢だという点に留意してください。どうして他者から、自己に都合の良いように評価されたいのか? 、あるいは、自己に都合の良くないように評価されたくないのか? を詳細に内省する必要があります。

 不誠実な生き方をしている者は、他者から伝えられた「相手への批評/偏見/誹謗中傷/称賛」を盲信して相手へ応対し、自身で相手を観察/考察せずに相手を揶揄する、また、非難/批判/糾弾します。これらの行動の中でも、他者へ助言という名目での「自身の妄想に基づく相手への誹謗中傷」を伝え、自身の虚栄心を満たすと同時に、相手に先入観を有して応対するように教唆[きょうさ]する状況は頻繁にみられます。不誠実な生き方をしている者は、恐れ/怯えを土台とする序列/優劣で物事を捉えるために、相手は優れていると思い込む「相手への称賛」よりも、相手を劣っていると決めつける「相手への誹謗中傷」を好む傾向が強くみられ、社会では、噂話/陰口/ゴシップと呼ばれるような情報を好む傾向としても表れています。そして、他者から伝えられた「相手の批評/偏見/誹謗中傷/称賛」に、自己の虚栄心を満たすのに都合の良い妄想の内容を自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく付け加えて、別の者へ伝え拡めるために、「噂話に背ビレ/尾ヒレが着く」といわれる状況を生み出しています。教唆については、次節の5章2節 幻想を参照してください。

 誠実な生き方をしているのならば、他者から伝えられた「相手への批評/偏見/誹謗中傷/称賛」の一切を無視して先入観を有さずに相手へ応対するように努め、自身で相手を観察/考察します。相手のおこなった行為についての意見(自身で観察/考察した内容)を他者へ述べる状況はあっても、相手の批評/偏見/誹謗中傷/称賛を伝えはしません。誠実な生き方をしている者が、他者から伝えられた「相手への批評/偏見/誹謗中傷」を信じずに、「相手への称賛」のみを信じるのではない点に留意してください。相手への批評/偏見/誹謗中傷も、相手への称賛も、相手へ先入観を有するように、はたらいています。

 この質疑応答に関連する内容には、5章3節 誘惑 #質疑応答の「最低限の必要を満たすよりも多い部分が、利己的/自己中心的な行為や欲望の追求として現れると本編に記載されていますが、服装、化粧、体形、髪型、容姿、などは、本人の美しさを際立たせるために整える必要があるのではありませんか?」がありますので参考にしてください。

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 成長は競争ではありません。速く成長したから優れているのではなく、成長が遅いから劣っているのでもなく、個々が自身で決めた「速さ」で成長していくのです。自己と他者を比較する必要性があるのは、おこなった行為と行為の目的だけであり、自己/他者の成長の進捗状況を比較する必要はないのです。成長の進み具合が速い/遅いに優劣はなく、成長の程度にも優劣はありません。

 自己の成長は自己にすべての責任があり、自己の成長の進捗状況は自己にのみ関係し、他者には関係しません。同様に、他者の成長は他者にすべての責任があり、他者の成長の進捗状況は他者にのみ関係し、自己には関係しません。自己の成長の進み具合が遅く感じると、あわせて焦りも感じるようになりますが、この焦りは恐れ/怯えに基づいて感じています。焦りは成長を停滞させやすく、成長が停滞していると感じれば、更に焦りを強める循環を形成するようになります。自己の成長の進み方が遅くても/速くても、焦り、急ぎ、力[りき]み、などを有することなく、自己の内面に静けさを保ち、自己が生活の中で、更なる成長のために修正の必要があると認識している箇所(行為/行為の土台となる習慣)を逐一に修正していけばよいのです。

 落ち着いて眼を逸らすことなく自己の内面と向き合い、どうして他者と自己の成長の進捗状況を比較しようとしたのか? 自己の成長の進み具合が遅く感じるのはなぜか? なぜ他者の成長の進み具合が速いと感じるのか? を詳細に内省していくことで、現在に有している自覚できるものの自覚のない囚われに気づくようになります。自覚できるものの自覚のない囚われに気づいたのならば、どのようにすれば成長を促進していけるのか? にも気づいたことを表しているために、後は、強い意志で意識を集中して、囚われによって形成されている習慣の修正を実践していくだけです。

 有形体を用いた物的な生活には終わり(区切り)がありますが、分霊としての生活に終わりはありません。躓[つまず]いたのならば、何度でも立ち上がればよいのです。間違ったのならば、何度でも修正し直せばよいのです。突発的に不誠実な行為をおこなってしまったのならば、何度でも不誠実な行為をおこなわないように留意して誠実な生き方へ努めればよいのです。躓いたままで、間違ったままで放置していたとしても、何も解決はせず、何も終わりはせず、成長も促進されません。自己の内面や、おこなった行為を常に内省して、眼を逸らさずに、放置せずに、投げ出さずに、挫[くじ]けずに、諦[あきら]めずに、遅くても速くても一歩一歩を着実に進めていく過程が成長を促進します。

 たった一度の躓き/間違い/失敗、競争で負けた、試験/選考に落ちたのを「終わり」と捉え諦めるのは、世間体[せけんてい]/見映えを心配して虚勢を張っているだけに過ぎません。なお、試験/選考に落ちるのは、現在に自己の有する様々な方向性/方向性の強さが、試験/選考の方向性/水準に適していなかっただけであり、自己が否定/拒絶されたのではありません。試験/選考に落ちたのならば、受かった者と落ちた者を比較して考察し、自己を内省する機会へ用いることで、成長への学びにつながります。あらゆる状況を自己/他者/全体の成長へ活用することが大切です。

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 ある行為へ意識を向ける/向けないを判断し実践するには、常に自己を内省し、これからおこなうひとつひとつの行為(発言、行動、精神で造化する表現、など)、あるいは、おこなったひとつひとつの行為の目的を逐一に把握するように努め、何に基づいて行為をおこなう/おこなったのかを明確にする必要があります。行為の目的を把握し、行為の目的を構成する様々なものが相互に有しているつながり(関係性、関連性、関連性の強さ、つながりの方向性)を自覚したうえで、どの行為へ意識を向けるのか、どの行為へ意識を向けないのかを判断します。行為の目的を構成する様々なものについては、この節の質疑応答の「行為をおこなう際の行為の目的とは何を表しているのですか?」を参照してください。

 精神では絶え間なく様々な表現が並列/並行して造化されており、それらの表現に基づいて発言/行動などをおこなっています。行為の目的を把握していく段階には、外環境へと表現した発言/行動を自覚する、発言/行動と精神で造化した表現とのつながりを把握する、精神で造化した「いくつもの表現」のつながりを把握する、それぞれの表現の造化に関与したものを把握する、表現の造化に関与した「もの」の相互のつながりを把握する、の5つがあります。この5つの段階を外環境へと表現された行為から内面の状況へ向けて順次に把握していくことで、行為の目的を自覚でき、更に、行為の目的を構成する様々なもの(表現の造化に関与したもの)の中で中核となっている内容を特定できるようにもなります。

 中核となる内容が、現在に成長を促進するのであれば行為へ意識を向け、逆に、成長を阻碍するのであれば行為へ意識を向けないようにします。中核となる内容はひとつとは限らず、多くの場合では複数あるために、複数の中核となる内容へ同時に意識を向ける/向けないようにします。

(1000/1000) 行為の目的を把握する段階
(1000/1000) 行為の目的を把握する段階

 行為の目的(中核となる内容)を把握していく過程は、文字/図で表現されていると段階が多く複雑で長時間を要し困難にみえますが、実際に把握するように努め習熟していくと瞬時に把握できるようになります。ただし、必ずしも容易に把握できるようになるとは限らない点に留意してください。中核となる内容を自覚している場合は比較的に容易に把握できますが、実際には未だ自覚できるものの自覚していない場合が多いために、自覚するまでは把握するのが困難に感じることもあります。加えて、有形的認識に基づいて把握していくよりも無形的認識に基づいて把握していくほうが、全体を俯瞰[ふかん]して速く適切に把握できるようになります。更に、行為へ意識を向ける/向けないの判断を拡大した、対となる行為の軸線上での捉え方へ意識を向けないようにする方法があります。軸線上での捉え方へ意識を向けない方法については、この節の質疑応答の「行為へ意識を向けないように努めるほどに、行為へ意識が向いてしまうのですが、どうすれば意識を向けないようにできますか?」を参照してください。

 なお、意識が一切の表現/行為へ向かなくなる状況はなく、常に何らかの表現/行為へ向いています。もしも、現在に自覚している表現へ意識を向けなくなれば、未だ自覚できるものの自覚していなかった表現へ意識が向く(自覚できるものの自覚していなかった表現を自覚する)ようになります。例として、自覚している「有形体を通して受ける感覚」へ意識を向けなくなれば、自覚できるものの自覚していなかった「無形体を通して受ける感覚」へ気づくようになります。別の例として、瞑想する際に、現在に同調している活動性の程度から受ける感覚へ意識を向けなくなり、同調している活動性の程度よりも僅かに高い活動性の程度へ意識が向くようになれば、僅かに高い活動性の程度へ同調(同化/同一化/一体化/融合)していくようになります。そして、これまでに自覚していなかった更に僅かに高い活動性の程度の感覚を自覚できるようになります。瞑想については、5章5節 祈り/瞑想を参照してください。

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 はじめに、行為へ意識を向ける/向けないの判断については、この節の質疑応答の「行為へ意識を向ける/向けないは、実際に修養の生活を実践する中で、どのように判断していくのですか?」を参照してください。

 行為へ意識を向ける/向けないを判断し実践する具体的な例として、過食/大食の行動を挙げて記述します。なお、下記では、文字/図表での記述が複雑になるのを避けるために、造化に関与するもの相互のつながりを単純化しています。実際のつながりは平面的ではなく立体的であり、無形的認識に基づいて相互のつながりを考察することで詳細なつながり(関係性、関連性、関連性の強さ、つながりの方向性)を把握できるようになります。

 過食/大食の行動をおこなわせる大きな流れは、幻想の捉え方、物質の心から受ける誘惑、固定観念/既成概念を含む習慣、の3つを主な原因としています。これらの原因は相互につながりを有しており、毎回の過食/大食の行動をおこなわせる際に、あるひとつの原因が行動へ強く影響を与えている(他の2つの原因が与える影響は比較的に弱い)場合もあれば、複数の原因が同時に強く影響を与えている場合もあります。過食/大食の行動をおこなわせる原因が常に同じ強さで影響を与えているとは限らない点に留意してください。一度一度の過食/大食の行動が、どの原因から強く影響を受けているのかを把握することが、適切な対応の選択へとつながります。

 幻想の捉え方が強く影響を与えている場合は、利己性/自己中心性/欲望によって造化される「食べたい」という思考へ意識を向けないようにします。この思考は自己(分霊の心)が造化しているために、自己の自由意志で思考へ意識を向けないように選択したのならば、思考の土台となる幻想の捉え方は弱くなり、過食/大食の行動もおこなわなくなります。幻想の捉え方は感情(怒り/苛立ちなど)を造化するのにも大きく関与しており、感情が過食/大食の習慣を喚起して過食/大食の行動をおこなわせるように、はたらきかけます。この場合は、造化される「食べたい」という思考に加えて、感情へも意識を向けないようにすれば習慣が喚起されなくなるために、過食/大食の行動へつながらなくなります。

 誘惑が強く影響を与えている場合は、誘惑に干渉を受けて造化される「食べたい」という思考へ意識を向けないようにすると同時に、克己へ意識を向けるようにします。物質の心から受ける誘惑(利己性/自己中心性/欲望)の干渉を受けて造化される思考そのものは、自己(分霊の心)が造化しているために、自己の自由意志で思考へ意識を向けないように選択したのならば、瞬間的には過食/大食の行動をおこなわなくなりますが、干渉を受け続けている状況を変えない限り過食/大食の行動をおこなうようになります。物質の心によって造化される利己性/自己中心性/欲望は自己(分霊の心)が造化しているのではないために、利己性/自己中心性/欲望へ意識を向けないようにしても消え去りません。自己(分霊の心)が造化する克己へ意識を向けて利己性/自己中心性/欲望から受ける影響を相殺(誘惑を制御)する必要があります。誘惑は、干渉して「食べたい」という思考を造化させるだけでなく、経験へ保存されている習慣を喚起し、習慣に基づいて「食べたい」という思考を造化させるようにも、はたらきかけます。この場合も、「食べたい」という思考へ意識を向けないようにすると同時に、克己へ意識を向けるようにします。

 習慣(固定観念/既成概念を含む)が強く影響を与えている場合は、習慣によって造化される「食べたい」という思考へ意識を向けないようにします。この思考は自己(分霊の心)が造化しているために、自己の自由意志で思考へ意識を向けないように選択したのならば、思考の土台となる習慣は弱くなり、過食/大食の行動もおこなわなくなります。経験へ保存されている習慣の中でも、「疲労は食べて解消できる」などの固定観念/既成概念は過食/大食の習慣を誘発して「食べたい」という思考を造化させやすくします。また、疲労によって誘惑の干渉が強くなっている場合にも、固定観念/既成概念の「疲労は食べて解消できる」という内容が克己の造化を減少させ、あるいは、造化しないように自由意志で選択させるように、はたらきます。

(1000/1000) 過食/大食を例とした意識を向ける表現/向けない表現
(1000/1000) 過食/大食を例とした意識を向ける表現/向けない表現

 加えて、習慣は他の習慣を連鎖して誘発しやすく、過食/大食や食事とは無関係に捉えられる習慣が過食/大食の行動へつながっている場合も多くみられます。過食/大食の具体例では「食べたい」という思考へ意識を向けないだけとなりますが、実際には、過食/大食や食事とは無関係に捉えられる習慣によって造化されている思考もあり、この思考へも意識を向けないようにしていく必要もあります。

 食事、怪我、疾病、有形体の疲労、熱、痛み、などによって有形体へ意識が向くほどに、経験へ保存されている「不誠実な性質の表現を造化する習慣」に基づいて、不誠実な表現/行為を造化しやすくなります。経験へ保存されている「不誠実な性質の表現を造化する習慣」の形成は、有形体の内包する物質の心から受ける誘惑に由来している点に留意してください。ただし、有形体へ意識が向く程度は、物質の心から受ける誘惑の影響の強さには関係しません。有形体へ意識が強く向いても、弱く向いても、有形体へ意識が向かなくても、物質の心から受ける誘惑の影響の強さは、有形体の均衡/調和の崩れる程度によって決まります。

 この質疑応答に関連する内容には、3章5節 有形体 #質疑応答の「食事を摂る習慣は、有形体を自己と誤認させやすくしますか?」がありますので参考にしてください。

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 はじめに、ある行為をおこなうという思考も、行為をおこなわないという思考も、どちらも精神で造化された表現であり、表現へ自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく意識が向いているために、表現へ活動性が継続して付与され表現が維持されています。表現へ意識が向かなくなれば、表現への活動性の付与が途絶えるために表現は消え去ります。精神での表現の造化については、3章9節 精神を参照してください。

 行為へ意識を向けない(行為を辞める)ように努めるほどに、行為へ意識が向いてしまうのは、意識を向けない(辞める)ことと、行為をおこなう/おこなわないの一軸線上で捉えることを混同しているために起きています。「行為をおこなう」と「行為をおこなわない」は、対を成す一軸線を形成していますが、行為をおこなう/おこなわないの軸線上での捉え方は、すべて表現を造化しているという点に留意してください。また、「行為をおこなわない」という思考へ意識が向いたのならば、必然的に、対を成す「行為をおこなう」という思考や、軸線上での捉え方へも自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく意識が向いています。軸線上で捉えることへ意識が向いているために、行為へ意識が向くようになってしまうのです。行為へ意識を向けない(辞める)とは、表現を造化しない状況を指しています。「行為をおこなわない」という思考へ意識を向けるのではなく、「行為をおこなう/おこなわないの軸線上で捉えること」そのものへ意識を向けないようにしていくのです。

 例として、過食/大食を辞めようと努めている場合に、食べる/食べないの対(両極)を成す軸線上で、どれくらいの量を食べる/食べない、どの品目を食べる/食べない、どの時間帯に食べる/食べない、何処[どこ]で食べる/食べない、などを考察して食べないように努めていたとしても、これらは全て「食べる/食べないの軸線上」で捉えているために、食べない行動へ意識を向けるほどに、一軸線の対を成す、食べる行動へも意識が向くようになります。そのため、過食/大食を辞めるには、食べる/食べないの軸線上で捉えること自体へ意識を向けないように努める必要があります。精神では意識が向いている限り造化した表現が維持されるために、食べる/食べないの軸線上へ意識を向けないようにしたのならば、精神で「食べたい」という思考が造化される状況はなく、もしも、「食べたい」という思考が造化されたとしても維持されなくなり、食べる行動へもつながらなくなります。これは、過食/大食してしまう状況を思い悩んでいるばかりでは、常に食事(食べる行動)へ意識を向け続けている状況になり、食べる行動へつながりやすいことを表してもいます。過食/大食を辞めるために、過食/大食してしまう自覚のある、あるいは、自覚できるものの自覚のない原因を内省して、原因となる「何を辞める」のかへ気づく必要はありますが、「過食/大食しない」という食べる/食べないの軸線上にある内容へ意識を向け続ける必要はないのです。意識が向いている限り造化した表現が維持されることについては、3章9節 精神を参照してください。

 ただし、意識を向けない(辞める)とは、ある行為をおこなう/おこなわないの軸線上で捉えないという単純な方法ですが、必ずしも容易とは限りません。過食/大食を辞めるために、食べる/食べないの軸線上へ意識を向けないように努めていても、食物、料理番組、食品の広告、料理の宣伝、などが視え/聴こえ、周囲へ漂う料理の香りを嗅ぐと、食べる/食べないの軸線上での捉え方へ意識が向きやすくなります。もしも、軸線上での捉え方へ意識が向いてしまったのならば、瞬時に強い意志で意識を向けないように努め続けることで、徐々に軸線上での捉え方へ意識が向かなくなり、経験へ保存されている過食/大食の原因となる習慣/囚われも弱まっていきます。なお、食べる/食べないの軸線上へ意識を向けなくなれば、過食/大食という物的な行動を突然にしなくなるのではありません。軸線上での捉え方へ意識を向けないように努め続ける過程で、経験へ保存されている過食/大食の原因となる習慣が徐々に弱くなり、自然に過食/大食をしなくなっていくのです。

(1000/1000) 軸線上での捉え方と意識を向ける/向けない
(1000/1000) 軸線上での捉え方と意識を向ける/向けない

 軸線上での捉え方へ意識を向けないように努めながら自己の行為を常に内省していると、日常の中で何時[いつ]の間にか軸線上での捉え方に基づいた行為を、習慣のままにおこなおうとする状況へ気づくようになります。一度でも行為をおこなうと軸線上での捉え方へ意識が向きやすくなるために、一度おこなった行為に連鎖して際限なく行為をおこないやすくなってしまいます。例として、食べなければ「食べたい」という思考が造化されないものの、少しでも食べたのならば、食べたい」という思考で精神が埋め尽くされ、連鎖して際限なく食べ続けてしまう状況が挙げられます。習慣のままに行為をおこなってしまう前に、自覚して行為(軸線上での捉え方)へ意識を向けないように努める必要があります。

 常に強い意志で過食/大食の習慣を修正していくように努めているうえで、衝動的に食べてしまう状況がみられる場合もあります。これは、胃熱(胃荒れ)を有している状況が多くみられ、胃に痛み/重怠さ、膨満感、消化不良、などを感じていなくても、胃熱があると頻繁に飲食を摂ろうとする傾向がみられます。同時に、腸熱を有している状況も多くみられます。食物の有する寒熱の性質に関わらず、どのような食物であったとしても、食べる行動そのものが胃に負担をかけるために、胃熱を上昇させるように、はたらきます。加えて、消化に時間のかかる食物、温熱性の食物が、胃熱を更に上昇させる状況へつながります。例として、カフェイン、アルコール(酒)、油、などを多く含む食物、肉、砂糖、小麦、餅米、香辛料、これらの加工品、などが挙げられます。

 胃熱を下げるには、食事の量/頻度を減らし、空腹の時間を長く造り出すように努める必要があります。空腹の時間を設けるほどに、胃の修復がおこなわれ、胃熱が徐々に下がりはじめます。ただし、胃熱によって物質の心の影響力が増大しており、胃熱のある状況で空腹になると衝動的に食べたくなるために、胃へ負担がかからない程度に水/白湯[さゆ]を少量ずつ頻繁に飲むようにして、空腹を感じ取りに難くすることで、食事への衝動も抑えられるようになります。また、疲労が強くなるほどに、食事への衝動を制御し難くなるために、胃熱が下がり食事への衝動が落ち着くまでは、できる限り疲労を蓄積しないように努める必要もあります。強度の高い活動や長時間の活動を控える、湯浴などによる大量の汗出を控える、睡眠を多く摂る、などで、原素材の消費を減らし、貯蔵量を増やすようにして、疲労を強めないようにします。

 なお、ある習慣を「辞めるのか/辞めないのか」の判断を迷ってしまう場合には、自己が辞める/辞めないを迷わなければならないような内容の習慣ならば、辞める必要があるという点に留意してください。辞める/辞めないの判断は、多くは不誠実な習慣に対して迷うことになり、自己を内省して習慣を辞めようと決意しながらも、誘惑を振り切れずに習慣を続けたいと感じる際に迷う場合がみられます。一方で、自己が「続けるのか/続けないのか」の判断を迷うような内容の習慣であれば、習慣の内容を詳細に考察したうえで決める必要があります。続ける/続けないの判断は、多くは誠実な習慣に対して迷うことになり、順調に習慣を形成し強めていくように努めている時には迷いませんが、習慣の形成に不調を感じる時に迷う場合がみられます。加えて、迷いを感じる際には、何が判断を迷わせているのか? どうして判断を迷わせているのか? などの「迷うという行為」の目的を詳細に内省するように努める必要があります。

(1000/1000)

 行為へ意識を向ける/向けないを、積極的に訓練することはできます。この訓練は、日常の、あらゆる物事/行為に対しておこなえます。

 行為へ意識を向ける/向けないを、積極的に訓練する方法のひとつとして、外環境より物的に聴こえる様々な音へ自覚して意識を向ける/向けないように努めて、聴こえる音を選別していく方法を紹介します。日常では、聴こえる様々な音へ同時に意識が分散して向いているために、特定の音へ意識を集中する状況が少ないです。この音の選別による方法は、自己が、どの音へ自覚して意識を向けているのか? どの音へ自覚して意識を向けないのか? を明確に把握し、意識を向ける対象を自覚して自在に選択できるようにするためにおこないます。

 1つ目に、外環境より聴こえる様々な音へ同時に意識を向けて、どのような音が聴こえているのかを把握します。眼前の景色、有形体の感触、光、香り/匂い、暑さ(暖かさ)/寒さ、などの聴こえる音以外には意識を向けないようにして、様々な音のみへ意識を向けます。肉眼は開けたままでも、閉じても構いませんが、閉じたほうが音へ意識を向けやすくなります。

 2つ目に、外環境より聴こえる様々な音の中から、特定の音を選択して、特定の音のみへ意識を向けます。特定の音へ意識を集中していくほどに、特定の音が他の音よりも鮮明に聴こえるようになり、更に、集中の程度が高くなるほどに、特定の音のみが聴こえ、他の音を聴き取らなくなります。

 3つ目に、特定の音へ意識を集中している状況から、様々な音へ同時に意識を向け直し、別の音を選択して、その音が他の音よりも鮮明に聴こえるようになるまで意識を集中していきます。このようにして、意識を集中させていく音を切り替えながら、自覚して意識を向ける対象を選択できるようにしていきます。大切なのは、焦らず、急がず、ひとつひとつの音へ丁寧に確実に意識を集中して、丁寧に意識を集中する音を切り替えていくことです。

 4つ目に、遠くより僅かに聴こえている音へ意識を向けると同時に、近くで大きく聴こえている音へ意識を向けないようにします。近くで大きく聴こえている音ほどに意識が向き囚われやすくなるために、強い意志で、近くで大きく聴こえている音へ自覚して意識を向けないようにします。

 上記の4つの手順を応用して、外環境の物的な音、景色、光、他者の発言/行動/態度、などへ意識を向ける/向けないを訓練し、更に、下記の順序を参考に、意識を向ける/向けない対象を外環境から自己の内面へ、また、粗雑な感覚から精細な感覚へと徐々に移行していきます。

  • 有形体を通して受ける物的な感覚や、有形体の有する活動性の程度から受ける粗雑な感覚へ意識を向ける/向けない
  • 自己の精神で造化する特定の有形的な表現(主に思考)と、有形的な表現から受ける感覚へ意識を向ける/向けない
  • 自己の精神で造化する特定の無形的な表現と、無形的な表現から受ける感覚へ意識を向ける/向けない
  • 有形体を通して受ける粗雑な活動性の感覚へ意識を向けないと同時に、無形体を通して感じ取る精細な活動性から受ける感覚へ意識を向ける
  • 無形体を通して感じ取る相対的に低い活動性の程度から受ける感覚へ意識を向けない
  • 無形体を通して感じ取る相対的に高い活動性の程度から受ける感覚へ意識を向ける

 この質疑応答に関連する内容には、5章5節 祈り/瞑想 #質疑応答の「様々に試しているのですが、高い活動性の感覚を把握できません。どうすれば把握していけるようになりますか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 強い意志をもつには、思考、発言、行動、活動性から受ける感覚の認識、成長を求める、などの眼前のひとつひとつの行為へ意識を集中するように努めていくことです。この「努める」状況が、意志を強めるように、はたらきます。そして、意識を一点へ集中していくように努めれば努めるほどに、意志は徐々に強くなっていきます。意志を強めていくのと、意識を一点へ集中していくのは不可分であり、循環を形成しています。意志が強くなるほどに、意識を一点へ集中するようになり、また、意識を一点へ集中するほどに、意志が強くなります。

 意志の強さは、意識を一点へ集中する程度と、集中を持続する程度(持続する期間)の両方に関連しています。意志を強めていく修養をおこなう際には、始めに、短時間であったとしても意識を一点へ集中する程度を高めていくように努め、その後に、できる限り集中の程度を持続するように努めていくことが、中程度の集中を長期に持続するよりも継続しておこないやすい方法となります。いずれは、ひとつひとつの行為へ高い程度の集中を持続するのが自然となり、絶え間なく高い程度の集中を持続したままで日常の生活をおこなうようになります。ある行為へ高い程度の集中を持続し、集中が途切れることなく、次の行為へと高い程度の集中を持続したまま移行しています。

 この質疑応答に関連する内容には、4章2節 有形界での成長 #質疑応答の「意志の強さは、どのようにして実感できますか?」がありますので参考にしてください。

生活を実践する : 模範/比較

(1000/1000)

 成長の模範となる者たちが自己の周囲にいるのならば、常に、彼らのおこなう発言、行動、挙措、態度、などを詳細に観察でき、何時[いつ]でも問答へ応じてくれる利点はあります。ただし、彼らを観察して考察/内省する、あるいは、質問へ応じてくれた答えを考察して内省するのは自己であり、自己が自己の成長へつなげるのです。彼らが直接に自己の成長を促進/飛躍させてくれるのではありません。

 誠実な生き方をしている者たちを、自己のおこなう生き方の手本/模範として自己の成長へ活かせますが、寧[むし]ろ、不誠実な生き方をしている者たちこそ、自己の成長を飛躍させてくれる起爆剤となります。自己を誹謗中傷して陰口を拡め貶[おとし]める者たち、自己を騙[だま]し財産/所有物を奪い盗っていく者たち、自己へ暴力を振るい傷つける者たち、自己を不当/不公平に扱い嘲[あざけ]る者たち、などの利己的/自己中心的で不誠実な行為をおこなう者たちによって自己が受ける、反感、失望、落胆、悲哀、憤怒、などが、自己の自覚できるものの自覚していなかった「自己の有する利己性/自己中心性/欲望への囚われや恐れ/怯えの習慣」へ直接に気づかせてくれるために、積極的に囚われを解消できるようになります。教師(誠実な生き方をしている者)は、自己の前から優しく手を引いて導いてくれますが、一方で、反面教師(不誠実な生き方をしている者)は、自己の後ろから足を引っ張り転ばせることで導いてくれているのです。

 なお、自己の成長を飛躍させるために、不誠実な生き方をしている者たちを師と仰ぎ、彼らの傍で生活する状況を推奨しているのではありません。現在の地上では、未だ社会の成長の程度が低いために、何時[いつ]でも、何処[どこ]にでも不誠実な生き方をしている者たちは溢れています。自己の周囲を見渡せば、詳細に観察する対象に欠乏する状況はないのです。

 加えて、ある先人/師の生き方を模倣しても、自己の成長へつながるとは限らない点に留意してください。模倣と模範は異なります。先人と自己では、地上での目的/役割や個性の方向性が異なる(全く同じではない)ために、先人の発言、行動、挙措、足跡、経歴、などへ自己の行為/生活を近似/類似させようと模倣しても、それらは自己の地上での目的/役割に不適切な場合もあります。先人の生き方は、自己の生き方を模索するための「ひとつの在り方(模範)」として参考にするのです。始めは、先人/師の生き方や他者のおこなう行為を参考に模倣へ努める状況が自己の成長へとつながります。上手く模倣できるように試行錯誤する過程が、今後に、自己が先人/師の生き方や他者の模倣を離れ、自己のおこなう行為を自身で試行錯誤して実践する(模索する)状況へつながります。

 地上の生活では、大人は自身で成長の模範となる者を選択できますが、一方で、子供は、親/大人を「模範となる生き方をしている」と自覚できるものの自覚なく盲目的に信じ込んでおり、親/大人が誠実な生き方をしているとしても、不誠実な生き方をしているとしても、親/大人から行為と行為の目的(生き方)を模倣しようとします。盲目的に信じ込んでいるために、親/大人のおこなう行為を偏重した方向性から捉えており、あるがままに観察/考察できていません。これは、囚われを有している状況であり、囚われに基づいて、親/大人のおこなう行為と行為の目的を捉えていることになります。この囚われは、有形体の使用年数が多い(年齢が高い)ほどに、勤続年数が多いほどに、役職が高いほどに優れているという幻想の捉え方につながりやすく、子供は親に隷属するのが当然、高齢者を敬うのは当然、教員は生徒よりも優れている、先輩は後輩よりも優れている、上司は部下よりも優れている、などの序列/優劣の順序付けを造り出しています。

 子供自身が、盲目的に信じ込んでいる「囚われ」の状況へ気づく(自覚する)ことで、始めて、あるがままに観察/考察するのか?/しないのか? 囚われを解消するのか?/しないのか? を選択できるようになります。もしも、盲目的に信じ込んでいる「囚われ」の状況へ気づかないのならば、子供自身が親/大人になったとしても、囚われたままです。子供自身が親/大人となり、自覚して「親/大人は模範となる生き方をしていない」と認識していたとしても、自覚できるものの自覚なく「親/大人は模範となる生き方をしている」と信じ込み続けているのです。親/大人は、自身の生き方が反面教師としての見本ではなく、子供の「霊としての成長」へつながる手本/模範となるように努める必要があります。

 この質疑応答に関連する内容には、4章2節 有形界での成長 #質疑応答の「子供は周囲の親/大人がおこなう行為/行為の目的を模倣するのであれば、至誠の成長の程度を有して再授肉した子供が、不誠実な生き方をする親/大人を模倣して、不誠実な生き方をするようになりますか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 自己の周囲に成長の模範となる生き方をしている者が見当たらなくなったのならば、自己の願う生き方を模範として修養の生活を実践するようにします。ただし、模範とするのは、自己の誠実さに基づく「願う生き方」であり、自己の不誠実さや利己性/自己中心性/欲望に基づく「欲する生き方」ではありません。

 現在の地上では、社会の成長の程度が低いために、修養の生活を実践しているのならば、遠からず周囲に自己の成長の模範となる生き方をしている者は見当たらなくなります。ただし、周囲の者たちの成長の程度が自己よりも相対的に低いからといって、彼らから学べる内容が無くなったのではない点に留意してください。

 自己の成長の程度が、どれほどに高くなったとしても、他者の行為から常に学ぶことができます。他者の生き方そのものが自己のおこなう生き方の模範とならなくても、また、どれほどに不誠実な生き方をしている者からでも学べる内容はあります。成長には様々な側面があり、成長の程度が高ければ相対的に成長の程度が低い者よりも、あらゆる側面の程度が高いということではありません。成長の程度が高いとは、成長のあらゆる側面を総合して捉えた際に比較的に程度が高いというだけであり、程度の低い側面も有しています。他の側面よりも程度の低い側面は、その多くが未だ自覚できるものの自覚していないために「自覚して成長へ努められていない側面」といえます。自己が自覚できるものの自覚していない側面は自己のみで気づくのは困難なために、他者の行為や書物/講演などの外環境へ表現されている情報を通して、考察し、自己を内省することで気づくようになります。自己に学びを得ようとする意志があるのならば、他者のどのような行為からでも学びへとつなげられるようになります。どのような成長段階にあったとしても、あらゆる物事/現象/他者を通して学ぶ内容は無限にあるのです。

 真摯に自己の成長を求めているのならば、現在の成長段階よりも高い成長段階の生き方を常に願い、その生き方へ近づくために、現在の生活の中で修正する/辞める必要のある習慣へ気づいています。同時に、気づいていない(未だ自覚できるものの自覚していない)修正する/辞める必要のある習慣は無数に有しています。自己の願う生き方を模範とするようになれば、思考、感情、発言、行動、などの無数の組み合わせで構成される「あらゆる行為/習慣」を自己の願う生き方に照らし合わせて、おこなう/おこなわない、あるいは、辞める/継続する、を逐一に判断していくことが、修養の生活の大部分を占めるようになります。そして、自己の願う生き方が、誠実な生き方であるのならば、その生き方を遂行できるように天使たちが指導し、支援/援助してくださいます。

 加えて、自己が周囲の者たちにとって、「どのような生き方をおこなうことが模範となるのか?」も考察する必要があります。物事の捉え方、思考/感情の構成、発言の内容/話し方、一挙手一投足に至る挙措/行動の在り方、などを詳細に考察/内省し、模範と成り得るように自己の生き方を修正していくこともまた、自己の願う生き方へと近づいていくようになります。他者が自己の生き方を模範としても、模範としなくても、自己は、自己の願う生き方の方向性が他者の模範となるように努めるのです。

(1000/1000)

 修養の生活を実践していくうえで誰もが共通して有しているのは、「真摯に成長を求める」という目的と、「自己の体験を通して実証していく」という方向性だけです。どのようにして成長を求めていくのか(実践の方法)は個々によって様々です。誠実に修養の生活を実践しているのであれば、ある方法が正しくて、他の方法が誤っているという状況はなく、すべての方法が実践している本人にとって適切なのです。

 そして、他者の発言/行動、あるいは、著書の内容などに対して、自己が受け入れられないからといって他者へ攻撃的に反駁[はんばく]する必要はありません。ある物事を、自己が自身の体験を通して実証(証明)することなく、他者が自身の体験を通して実証した内容に対して、非難/批判/糾弾、反論、批評、などをおこなうのは、臆病で自身で体験する勇気もなく、全体を俯瞰[ふかん]して偏りなく詳細に考察することもできず、恐れ/怯えと固定観念/既成概念に囚われた、相手への自覚のある、あるいは、自覚できるものの自覚のない嫉妬に基づく虚勢に過ぎません。例として、毎日に食事を摂る者たちが、食事を辞める状況で得られる、爽快感、明晰感、心身の軽快感、透明感、などを、自身で食事を辞めて体験してみることなく、食事を辞めた者からは鈍重感/倦怠感とも表現できる状況を、心身ともに活発で清々[すがすが]しい状況と捉えて、食事を辞めるなどできるはずがない、食事を辞めれば身体が重く動かなくなるだけだ、と声高に叫んでいるのです。

 他者の「ある物事を自身の体験を通して実証した内容」に基づいておこなわれる発言、行動、記述された著書の内容、などを参考にして、自己が自身で同じ物事を体験し、自己/他者の両者が自身の体験を通して実証した内容を総合して詳細に考察することで、更に程度の高い成長への学びを得られるように努めていくのです。そのように努めていく過程で、自己/他者は同じ山の山頂を目指して異なる道から登っているだけなのだと気づき、自身の体験を通して実証する生き方をしている他者へ反駁できる内容など何ひとつないと理解するようになります。

(1000/1000)

 地上では有形体の内包する物質の心から絶え間なく誘惑の影響を受け続けている点へ留意してください。物質の心から受ける誘惑によって、自覚できるものの自覚のないままに幻想の捉え方へ陥[おちい]ってしまう可能性が常に有り得ます。自己の成長の程度が周囲の者たちよりも相対的に高くなることで、自己は周囲の者たちよりも優れている、あるいは、周囲の者たちは自己よりも劣っているという幻想の序列を造り出してしまい、自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく優越感へ浸[ひた]ってしまう場合がみられます。この優越感は、霊的傲慢[ごうまん]とも呼ばれており、どれほどに成長の程度が高くなったとしても陥ってしまう可能性を有しています。幻想の捉え方については、次節の5章2節 幻想を参照してください。

 誠実/不誠実な生き方の違いに関わらず、相対的に成長の程度が低い者は、物事の捉え方、認識の程度/範囲、造化する表現の程度、などが低い(相対的に未熟)だけであり、成長の程度が高い者よりも霊として劣っているのではありません。分霊としては対等な存在であり、霊として活性している程度が異なるだけなのです。言い換えると、相対的に成長の程度が低い者は、霊として不活性の範囲が僅かに拡いだけであり、一方で、相対的に成長の程度が高い者は、霊として僅かに活性している範囲が拡いだけに過ぎません。これは、大人/子供の関係と同様であり、大人は子供よりも優れているのではなく、子供は大人よりも劣っているのではありません。子供は大人と比較して、有形体の成長の程度が低い(有形体が未熟)ために、霊の成長の程度に相応する表現を有形体を通して外環境へ表現できないだけなのです。

 もしも、自己を誠実に内省して、幻想に基づく優越感を感じている可能性があると気づいたのならば、霊として未熟な証拠であり、更に成長するための踏み台として、幻想の捉え方を弱めていく必要があります。

 また、相対的に高い成長段階の者が、相対的に低い成長段階の者と対話する際に、自己の成長段階で有する認識の程度では「自然/当然とする内容」のために、相手への説明を自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく「自然/当然とする内容」を省略して発言/記述することで、相手の成長段階で有する認識の程度では、受けた発言/記述の内容を把握し難くなる状況もみられます。自然/当然として説明を省略した内容は、発言/記述した内容の土台を構成している場合が多いです。そのため、相対的に高い成長段階で「自然/当然とする内容」は、相対的に低い成長段階で「自然/当然ではない内容」の可能性がある点を考慮して対話するように努める必要があります。なお、相対的に低い成長段階で「自然/当然とする内容」の説明が省略されて、相対的に高い成長段階の者へ発言/記述した場合には、相対的に高い成長段階の者には省略された内容を把握できるために、受けた発言/記述の内容を理解できます。相対的に低い認識の程度で、高い認識の程度での捉え方は把握できませんが、一方で、相対的に高い認識の程度からは、低い認識の程度での捉え方を把握できます。認識の程度による捉え方の把握できる/できないについては、3章3節 分霊 #質疑応答の「自己の属する次元と、つながりのある次元は、どのような違いがあるのですか?」を参照してください。

 加えて、自己の成長の程度が、周囲の者たちよりも高くなったとしても、低くかったとしても、修養の生活を実践していくうえで「慢心」は成長を停滞させる大きな原因となります。慢心は、「気の緩み/怠慢」とも言い換えられ、精神で造化した表現ではなく、内面の状況を表しています。慢心としてみられる内面の状況には下記が挙げられます。

  • 理性による整合性の確認を怠[おこた]る
  • 理性による整合性の確認に基づいて発せられた警鐘を無視する/放置する
  • 自己のおこなう行為、おこなった行為、精神で造化した表現、などの内省を怠る
  • 外環境の絶え間なく変化する物事の観察/考察を怠る
  • 意識が観察/考察/内省や行為の一点へ集中せずに散漫になる

 自己の自覚の有無に関わらず、慢心は何時[いつ]の間にか起きやすく、修養の生活では、成長しているという慢心、上手くできているという慢心、物事を「あるがまま」に捉えられているという慢心、相手へ誠実に応対できているという慢心、愛の行為を積極的に実践できているという慢心、などがみられます。もしも、慢心へ気づかないままに、慢心を放置しているのならば、慢心は驕[おご]り/傲[おご]りへと変わり、成長の退行や、生活の退廃、自己の属する家庭/職場/社会などの共同体の衰退を生み出すようになります。慢心は誠実な方向性を示している場合もあれば、不誠実な方向性を示している場合もありますが、一方で、驕り/傲りは常に不誠実な方向性を示します。

 慢心を防ぐには、「現在よりも更に◯◯できるのではないか?」と常に自問へ努めるようにします。下記は、修養の生活を実践するうえでの慢心を防ぐための自問の例となります。

  • 現在よりも更に、物事を上手くできるのではないか?
  • 現在よりも更に、正確に詳細に観察/考察/内省できるのではないか?
  • 現在よりも更に、相手へ誠実に丁寧に適切な応対ができるのではないか?
  • 現在よりも更に、効率の高い祈り/瞑想の方法へ調整/改善できるのではないか?
  • 現在よりも更に、自覚できるものの自覚していない囚われへ気づく方法があるのではないか?
  • 現在よりも更に、あるがままに物事/他者を捉えていくには、どのようにしていくとよいのか?
  • 現在よりも更に、自覚できるものの自覚していない先入観/偏見などへ気づくには、どのようにしていくとよいのか?
  • 現在よりも更に、寛容を有するには、どのようにしていくとよいのか?
  • 現在よりも更に、行為へ丁寧/美/輝き/調和を与えていくには、どのようにしていくとよいのか?

 地上では、有形体の内包する物質の心から絶え間なく誘惑の影響を受け続けているために、現在の自己の成長段階に関わらず、「自己は不誠実な目的で行為をおこなったりはしない」という慢心/思い込みは、自己のおこなう/おこなった行為や、行為の目的を内省させないように「はたらき」かけ、自覚できるものの自覚なく不誠実な行為をおこなわせるように傾倒させます。常に「自己は不誠実な目的で自覚できるものの自覚なく行為をおこなってしまっているのではないだろうか?」という自問をおこない、自己のおこなう/おこなった行為や、行為の目的を内省するように努める必要があります。

 地上での生活は、何時[いつ]でも、何処[どこ]でも、肉眼には視えないだけで、周囲には常に、大勢の地獄者/地縛者たちが群れ集まっているという点へも留意してください。自己の有する慢心、動揺、感情の造化、不誠実な目的、などは、彼らへ自己に憑依させる隙[す]きを与える、あるいは、自己を愚弄して彼らの虚栄心を満たす切っ掛けを与えることになり、自己の成長も、彼らの成長も、阻碍/退行させる状況へつながります。

(1000/1000)

 地上/地獄層で不誠実な生き方をする者たちを、誠実な生き方をする者たちにとっての「反面教師の見本」として捉える、あるいは、彼らを不誠実な生き方から誠実な生き方へ更生させる手助けをすることで自身の成長へ役立てているという捉え方は、誠実な生き方をしている者を基点とする捉え方としては適切です。

 大霊は何ひとつ無駄にしません。あらゆる物事/分霊を、他の分霊の成長へと活かし役立てます。地上で利己的/自己中心的な生活を送る不誠実な生き方をしている者たちは、彼らの周囲の者たちが、彼らの不誠実な生き方を観察/考察して自身の生き方を内省し、自身の成長へ活かすための切っ掛けとなっています。また、不誠実な生き方をして成長を退行させている者がいれば、その者を更生させ、誠実な生き方へ努めるように促す役割を有する分霊/人が無形界/地上におり、更生させる活動を通して、分霊/人の成長へつなげています。常に誰かを他の誰かの成長へと活かせるように、大霊によって綿密に配慮されているのです。

 不誠実な生き方をしている者たちがおこなう利己的/自己中心的な行為を観察して自己の学びへつなげるのに加えて、不誠実な生き方をしている者たちが自己へおこなう、中傷、差別、迫害、虐待、暴力、脅迫、唆[そそのか]し、などを含む、あらゆる不誠実な発言/行動/態度は、自己の内面を詳細に内省する機会を与えてくれるために、学びの獲得や成長の飛躍的な促進へつながります。彼らは自身の利己性/自己中心性/欲望や虚栄心を満たすために自己を利用して成長を退行させ、一方で、自己は彼らから受ける不誠実な行為を通して学び成長を促進するのです。彼らから不誠実な行為を受けている「その時」には気づき難いですが、「その後」には、彼らへ感謝の念を抱かずにはいられなくなります。

 自己へおこなわれる「あらゆる不誠実な発言/行動/態度」を成長へ活かすとは、中傷/差別/迫害/虐待/暴力/脅迫などを甘んじて受ける、あるいは、泣き寝入りすることを指しているのではなく、中傷/差別/迫害/虐待/暴力/脅迫などへ立ち向かい(反撃/復讐/仕返しするのではありません)、自己の内面を内省することを指しています。先[ま]ずは、自己の内面にある恐れ/怯えや、固定観念/既成概念の囚われ、感情、不誠実な思考、悩み、などへ立ち向かうのです。その後に、必要であれば、外環境の中傷/差別/迫害/虐待/暴力/脅迫などをおこなう者へ立ち向かい、中傷/差別/迫害/虐待/暴力/脅迫などを受ける状況を是正/改善/解消/改革します。

 同様に、中傷/差別/迫害/虐待/暴力/脅迫などの不誠実な行為をおこなう者へ寛容/憐[あわ]れみをもつとは、中傷/差別/迫害/虐待/暴力/脅迫を容認することを指しているのではなく、不誠実な行為をおこなう者たちは強い恐れ/怯えから眼を逸らし逃げ回るために中傷/差別/迫害/虐待/暴力/脅迫などをおこなっているのだと理解し、彼らが逃げ回らずに成長を求めるようになるのを「愛をもって待つ」ことを指しています。寛容/憐れみについては、4章2節 有形界での成長を参照してください

 ただし、誰もが成長を求め、地上/地獄層で不誠実な生き方をする者がいなくなれば、不誠実な性質によって造化される暗闇の中で更生させる役割を遂行する必要もなくなり、輝きの中で成長へと努めることができるようになります。そして、地上/地獄層で不誠実な生き方をしていた者たちは、不誠実な生き方をしていた状況へ後悔し、苦しみを通して学ぶ必要がなくなり、愛の行為をおこなう喜びの中で学べるようになります。地上での身近な例として、道端へゴミを捨てる利己的/自己中心的な生き方をする者がいなくなれば、ゴミを拾い集める活動をする必要もなくなり、他の活動(愛の行為)へ時間/労力を使えるようになります。なお、ゴミを拾い集める活動は、恒例行事として強制されているのではなく、自発的に活動をおこなっているのであれば愛の行為となります。

(1000/1000)

 相手の生活に受け入れられない行動があり、相手へ幻滅してしまうのは、相手に原因があるのではなく、自己の捉え方に基づいています。相手の生活/生き方へ疑惑を抱く前に、どうして相手の行動へ幻滅したのか? を自己の内面へ詳細に問いかける(内省する)必要があります。誠実な生き方へ努め、修養の生活を実践し、どれほどに高い成長段階の霊的指導者であったとしても、発言/行動などに一切の不完全性がないのではありません。ある側面からは完成されてようにみえても、他の側面からは瑕疵[かし]/欠点がみえる場合もあり、それらの不完全性へ気づき修正するために、地上で生活しているのだといえます。

 地上で、霊的指導者、宗教家、著名人、たちに完全無欠を求め、彼らの僅かな瑕疵/欠点も受け入れようとしないのは、自己に都合の良い「期待」に基づく偶像崇拝に過ぎません。相手を模範にするのと、相手を崇拝するのは異なります。模範は、自己/相手を対等に捉えていますが、一方で、崇拝は、自己/相手を優劣(順序付け)で捉えています。地上のような、世界の中で最も成長段階の低い者たちが生活する場で完全無欠などはなく、僅かにも瑕疵/欠点を有していない者はいません。瑕疵/欠点として表れている「不誠実な習慣や誠実の程度が低い習慣」に気づき修正して成長を促進するために、地上で生活しているのです。瑕疵[かし]/欠点を全く有していないのならば、成長する必要性も、世界の中で最も程度の低い地上で生活する必要性もありません。

 自己の幻想の捉え方(自己の有する幻想の順序付け)に基づいて、相手へ自己に都合の良い完全無欠を期待し、自己の虚栄心を満たすための崇拝対象として相手を扱い、何らかの切っ掛けによって相手が自己に都合の良い崇拝対象でなくなれば(幻想の順序付けで相手を現在よりも低く位置づけ直したのならば)、嫌悪し、蔑[さげす]み、貶[おとし]め、非難/批判/糾弾する状況は、地上社会で頻繁にみられます。相手を自己に都合の良い崇拝対象とするのも、自己に都合が良くなくなれば相手へ責任逃避して槍玉へ挙げるのも、自己の恐れ/怯えから眼を逸らすための行動です。幻想の捉え方については、次節の5章2節 幻想を参照してください。

 もしも、相手の行動へ瑕疵/欠点を感じ取ったのならば、自己を内省して、どうして相手の行動を瑕疵/欠点と感じたのか? 相手の行動を何に基づいて瑕疵/欠点と判断したのか? 瑕疵/欠点と感じた相手の行動と同じ行動を自己はしていないのか? 瑕疵/欠点と感じた行動を自己もしているのならば、どのようにして修正するのか? などを考察します。相手の発言/行動/挙措/態度から感じ取る違和感/不自然感は、常に自己の内面(有している習慣、固定観念/既成概念、物事の捉え方、情報/知識の内容/程度、など)を反映しており、自己の内省を促進/発展させる切っ掛けとなります。

 加えて、地上社会では、相手の発言/行動や著書/ウェブサイトなどの記述の内容を、自己に納得/理解できないからと、詳細に考察したうえで相手へ質問するのではなく、反発して非難/批判/糾弾する状況は頻繁にみられますが、相手を非難/批判/糾弾する前に、先[ま]ずは自己が相手と同等以上の成長段階へ至り、同等以上の「認識の程度」から相手の発言/行動や記述の内容を捉え直す必要があります。そのうえで、必要と判断したのであれば非難/批判/糾弾、あるいは、反論すればよいのです。自己が相手と同等以上の段階へ成長しようと努めずに、安易に相手を非難/批判/糾弾しているのは、自己に都合が良くないために駄々を捏[こ]ねている幼稚な行動に過ぎません。

 相手の生活だけでなく、自己が修養の生活を実践している過程でも、何時[いつ]の間にか自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく特定の物的な行動をおこない続けることへ囚われてしまい、囚われている状況が、自己は自身で気づいていないものの、瑕疵/欠点として生活へ現れている場合もみられます。成長を求める一貫した意志に基づいて修養の生活を実践しながらも、特定の物的な行動へ囚われずに、ひとつひとつの状況に適切な行動を自覚して柔軟におこなうように努めることが大切です。

 この質疑応答に関連する内容には、5章4節 固定観念/既成概念 #質疑応答の「偶像崇拝は固定観念/既成概念の囚われに当てはまりますか?」がありますので参考にしてください。

生活を実践する : 食事

(1000/1000)

 無形的な物事は、物的な物事へ影響を与えますが、逆に、物的な物事(食物)が、無形的な物事(霊の成長)へ直接的に影響を与える状況はありません。影響を与える有無については、1章4節 概要 #質疑応答の「無形的な影響の大きさと、有形的な影響の大きさには、どのような関係があるのですか?」を参照してください。

 ただし、食物が、霊の成長へ間接的に影響を与える状況はみられます。例として、香辛料、肉、油、小麦、砂糖、酒、などの熱性食物や、過食、大食、などが有形体に過剰な熱を生成し、熱に反応して物質の心が精神で利己性/自己中心性/欲望の造化を増大させて誘惑の影響を強め、もしも、利己性/自己中心性/欲望を克己で相殺できなくなれば、誘惑から干渉を受けて不誠実な性質の表現を造化するようになり、同調する活動性の程度が下降し、更に、低い活動性の程度への同調が習慣として形成され強められると、成長の程度も退行していきます。重要なのは、自己の有する意志の強さであり、どれほどに物質の心が利己性/自己中心性/欲望の造化を増大させても、自己の意志で自覚して克己を造化し誘惑を制御しているのならば、同調する活動性の程度に影響を受ける状況はなく、同調する活動性の程度が下降して成長の程度が退行する状況もないのです。

 食事の内容は、霊の成長の程度に相応して移り変わりますが、個々の用いている有形体の体質、生活環境、個性、地上での目的/役割、貯蔵している情報/知識の内容/程度、などによって食事の内容は異なります。同等の成長段階であったとしても、同じ食事の内容とはなりません。なお、有形体の使用年数(年齢)によって食事の内容が変化するのは、味覚の変化、有形体の成長/老化にともなう食物を消化する効率、などに由来しており、霊の成長の程度とは関係ありません。

 相対的に成長の程度が高い他者や書物などで推奨されている食事の内容は、自己の食事を考察する参考にしても、模倣して自己へ強制する必要はなく、強制しても成長は促進されません。自己の内面へ誠実に向き合えば、現在の成長の程度、生活環境、地上での目的/役割、などに適した食事の内容へ自[おの]ずと気づくようになります。必ずしも、成長の程度が高くなるほどに、穀類、肉食、飲酒、調味料、などが更なる成長を阻碍し、菜食、果物、などが成長を促進していくという状況はみられません。

 どのような食物/食品を食べるのか? 以前に、その食物/食品をなぜ食べるのか? を詳細に内省する必要があります。ある食物/食品を食べる目的という無形的な側面が、食事の内容という物的な側面へ影響を与えるのです。また、地上での目的/役割によっては、食事そのものを辞める(食べない)ことが適している場合もあります。これは、一時的な期間を断食するのではなく、継続して無期限に断食する状況を指しています。地上社会では、断食を「無理矢理に食べるのを辞める(食べるのを我慢する)」行動であり、不食を「自然に食べるのを辞める(食べなくなる)」行動と区別している場合や、断食は宗教団体の修行や民間療法で用い、絶食は現代医学で用いると区別している場合もみられますが、このサイトでは、断食/不食/絶食を区別せずに、食事をおこなわない意志の方向性を「断食」という語で表しています。

(1000/1000)

 肉食という行動を辞めるべきか/辞めないべきか(続けるのか)は、個々が自身で判断しなければなりません。自己のおこなう行動は、他者の意見に基づいて決めるのではなく、自己の自由意志で決める必要があります。ある行動を辞めるべきか/辞めないべきかの判断ができない状況は、自己が行動の目的(行動の土台となっている習慣)を明確に自覚していないために起きています。

 肉食という行動そのものが誠実/不誠実ということはなく、肉食をおこなう目的によって肉食という行動の誠実/不誠実が決まり、行動の誠実/不誠実が積み重ねられ、成長の促進/退行として表れるようになります。先[ま]ずは、下記の内容を通して、肉食をおこなう目的について考察する必要があります。

  • なぜ肉を食べるのか? 肉を食べる目的は何か?
    • (なお、食べたいから、美味しいから、は目的ではありません)
  • 人の利益のために、獣、鳥、魚、などの動物を狩猟/漁撈[ぎょろう]する是非
  • 人の利益のために、食肉用として動物を飼育する是非
  • 食肉用としてでないのならば、動物を檻[おり]へ閉じ込め、また、鎖/縄で繋ぎ行動を制限して飼育するのは容認するのか?
  • 人工的に造り出された培養肉は、動物を殺めていないために、食べるのを容認するのか?
  • 動物を殺めるのと、人を殺めるのとに違いはあるのか?
  • 動物の肉を売買し食べるのは当然で、人肉を売買し食べることへ忌避を感じているのはなぜか?
  • 脊椎動物/人は双方ともに成長段階が異なるだけの分霊ですが、誠実な生き方をしている成長段階の高い人や不誠実な生き方をしている成長段階の低い人と、脊椎動物との違いは何か?

 動物の肉を食べるという行動は、様々な情報に基づく固定観念や、現在に生活している時代/地域の既成概念によって、行動の目的を自覚できるものの自覚しないままにおこなっている場合がほとんどです。自己が肉を食べる目的、あるいは、肉を食べない目的を自身で詳細に考察することで自己の有している習慣(固定観念/既成概念)へ気づき、「肉食を辞めるべきと感じたのはどうしてか?」を明確に自覚するために、肉食という行動を辞める/続けるの判断ができるようになります。

 なお、地上の歴史上では、畜肉とともに、人の肉、内臓、骨、胎盤、胎児、などが食用/薬用として公然と店頭で売買されていた地域/時代もあります。

 動物の肉を食べるという行動を考察するのと同様に、伝染性疾患が蔓延した場合に、鳥/豚/羊などの脊椎動物の種族で蔓延した際には、感染/発症した種族を大量に殺処分するものの、人の種族で蔓延した際には、感染/発症した人を大量に虐殺しないのは、どうしてか? も考察する必要があります。脊椎動物の種族を大量に殺処分するのは、脊椎動物(動物霊)を同胞/同朋と捉えていない、また、脊椎動物を物品/商品/資源と思い込んでいるためにおこなっています。一方で、人を大量に虐殺しないのは、人の種族では肉眼に視える有形体の形状が同じ人型をしていることで、最低限に同胞/同朋と捉えているためです。

 実際には、人の種族の中でも、自己の所属する民族/人種/国/宗教団体や自己の掲げる主義と、異なる民族/人種/国/宗教団体や主義を掲げる者を、同胞/同朋と捉えていない、また、人ではないと自覚的に(自覚して/自覚できるものの自覚なく)思い込んでいる状況も多くみられます。これらの同胞/同朋と捉える/捉えないと区分する判断基準は、恐れ/怯えを土台とする「幻想の捉え方」によって形成された固定観念/既成概念に基づいています。相手(人/脊椎動物)を同胞/同朋と自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく捉えていないために、日々の差別/誹謗中傷も、集団への迫害/弾圧も、広範囲に壊滅的な被害を与えるような残虐/凄惨な破壊活動もおこなえるようになるのです。

 この質疑応答に関連する内容には、4章7節 行為の記録 #質疑応答の「行為の記録へは、自己のおこなった行為のみが加算されるのですか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 断食という「行動そのもの」が成長へつながることはありません。ただし、断食は成長を飛躍させる可能性を有しています。無数の生活習慣の中で食習慣を修正するのが最も困難であり、ある誘惑に連鎖して起きる無数の様々な誘惑を断ち切り、自己の成長を促すためには、食習慣の修正が重要な位置を占めています。加えて、利己的/自己中心的に際限なく欲望(大食/美食/味の拘[こだわ]りなど)を追い求める食習慣が、疾病の多くを生み出す原因となっている点に留意してください。このサイトでは、断食/不食/絶食の語を区別せずに、食事を辞める目的に関わらず、食事をおこなわない意志の方向性を「断食」という語で表しています。

 断食という行動にともない、強い意志の養成、有形体の浄化(老廃物などの排出)/再構築、食習慣を省みる切っ掛け、食事を求める誘惑への抵抗/超越、などがみられるようになります。断食をおこなう目的を明確にし、断食中は常に強い意志で目的を維持し続けることによって、断食を成長へとつなげられるようになります。しかし、単に断食という行動をおこない、食事を我慢しているだけでは成長へつながらないだけでなく、内面で食事への欲望を溜め込み続け、いずれ欲望が爆発して制御不能な大食をおこなうようになり、有形体の均衡/調和を崩すだけでなく、自己非難/自己嫌悪などの不誠実な性質の表現を造化し続けるようにもなります。

 断食は短期間であったとしても、有形体/精神へ与える影響が大きく、危険性も有しています。断食をおこなわなくても、日常の自覚のある、あるいは、自覚できるものの自覚のない大食、過食、悪食、などと呼ばれる食事の習慣を適切に修正(節制/摂生)していく過程が成長へつながります。食習慣を修正する際には、1日3食を品目/栄養価の偏りなく適度な量で摂るのが「適切な食習慣」なのではありません。この捉え方は既成概念による囚われに過ぎず、多くの場合では、自覚できるものの自覚のないままに不適切な食習慣を形成する温床となっています。個々の用いている有形体の体質、生活環境、活動の量/強度、などによって適切な食習慣は異なるために、他者/社会の食習慣は、自己の食習慣を省みて考察する参考としても、安易に模倣するべきではないのです。

 なお、断食は、自己の修養としてだけでなく、疾病の治療手段としても多く用いられています。断食を通した有形体の浄化/再構築によって、腸内の宿便の排泄、体内の老廃物の除去、内臓の修復、などがおこなわれ疾病の治癒/寛解へとつながり、多くの疾病に対して顕著な効果が示されています。断食と様々な疾病の治癒については、甲田光雄[こうだ みつお]が自身の体験と多数の患者たちへの治療の経験に基づいて、多くの書物を出版されていますので、そちらを参考にしてください。下記の書物では、断食を用いた治療の概要となる内容が紹介されています。

  • (370/380) 断食療法50年で見えてきたもの [2003] 甲田光雄 春秋社
  • (360/365) マンガでわかる「西式甲田療法」[2008] 甲田光雄,赤池キョウコ マキノ出版

(1000/1000)

 はじめに、食事は辞めることができるという内容については、3章5節 有形体 #質疑応答の「食事から取り込む活動性が、分霊の生命の補助でしかないのならば、食事は必ず必要な行動ではないのでしょうか?」を参照してください。

 食事を摂る多くの者たちは、食事は必要であり、生活の中で食事は重要な行動であると自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく捉えていますが、一方で、食事を辞めた者たちは、食事は取るに足らない些末な行動でしかないと捉えています。食事を辞めるとは、一切の飲食という行動を嫌厭[けんえん]し断固としておこなわないのではなく、食事を摂るという目的を有していない状況を指しています。食事を摂るという目的を有していないために、基本的に飲食をおこなう状況はありませんが、飲食をしても/しなくても、どちらでも構わない(飲食へ全く興味/関心/囚われがない)と捉えています。食事を摂るという目的を有していない状況は、何としても食べないと強い意志で決めている(食べない行動へ囚われている)のではなく、食事を摂る/摂らないという「軸線上での捉え方」への囚われがないことを表しています。この軸線上での捉え方へ囚われない捉え方は、非二元性、あるいは、一元性と呼ばれている捉え方と密接に関連しています。食事を摂る/摂らないという「軸線上での捉え方」への囚われがないために、周囲の状況によっては、少量を飲食する場合もありますが、自己が味を楽しみ栄養を摂るためではなく、周囲の者たちへの配慮としておこないます。非二元性の捉え方については、4章4節 覚醒 #質疑応答の「覚醒者が認識の表現に用いる非二元性とは何ですか?」を参照してください。

 ある軸線上での捉え方へ興味/関心/囚われがない状況について、食事以外を例とした場合では、テレビ番組を視聴しない者たちにとっては、テレビという物体は不要ですが、決してテレビを保有しない、あるいは、視聴しない行動へ拘[こだわ]っているのではありません。テレビを保有していても/していなくても、どちらでも構わないのであり、他者が自己の傍らでテレビ番組を視聴していたとしても、他者がテレビ番組の内容について話しかけてきたとしても嫌厭[けんえん]しません。ただし、テレビ番組が視界に入り、音声が聴こえたとしても、番組の内容へ意識を向ける状況もありません。別の例として、飲酒しない者たちにとっては、日本酒/ワイン/ビール/ウイスキー/カクテルなどの酒の分類、銘柄、産地、製法、アルコール度数、辛味/甘味/酸味の程度、熟成度、などは全く興味/関心のない内容であり、これらへ拘る状況もありません。自己から積極的に飲酒しませんが、飲酒しないと決意しているのではありません。食事の場で酒が提供されたのならば周囲の雰囲気を壊さないように少量を飲む場合もありますが、どのような酒で、どのような味であったとしても、全く気に留めません。

 食事(過食/大食)、飲酒、喫煙、テレビの視聴、などの、ある行為/習慣を辞める過程は、習慣に基づいて造化される行為へ自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく意識が向いている(軸線上での捉え方へ意識が向いている)段階から、行為へ自覚して意識を向けないように努めることから始まります。なお、行為へ自覚して意識を向けないようにするとは、行為をおこなわないことへ意識を向けるのではありません。行為へ自覚して意識を向けないように努める段階では、行為(軸線上での捉え方)へ意識の向きやすくなる状況が頻繁に起きますが、行為へ意識が向いた状況へ気づいたのならば、即時に意識を向けないようにします。行為へ意識を向けなくなれば行為をおこなわなくなるために、行為の土台となる習慣は徐々に弱くなり、習慣に基づいて行為が造化され難くなります。行為へ意識を向けないように努め続けている過程で、何時[いつ]の間にか、行為へ自覚して意識を向けないように努めていた段階から、行為(軸線上での捉え方)へ自然に意識が向かない段階へと移行していきます。

(1000/1000) 行為/習慣を辞める過程
(1000/1000) 行為/習慣を辞める過程

 なお、食事を辞めた者が飲食している様子を目撃して、食事を辞めていないと非難/批判/糾弾する者も見受けられますが、非難/批判/糾弾する者たちは、自身が「食事を摂る/摂らないという軸線上での捉え方」へ自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく囚われている(飲食する行動に囚われている)ために、食事を辞めた者(飲食する目的を有していない)も当然に「食事を摂る/摂らないという軸線上での捉え方」をしていると思い込んでおり、更に、誘惑による利己性/自己中心性/欲望の影響を受けて、虚栄心を満たすために非難/批判/糾弾しています。

 この質疑応答に関連する内容には、この節の質疑応答の「行為へ意識を向けないように努めるほどに、行為へ意識が向いてしまうのですが、どうすれば意識を向けないようにできますか?」がありますので参考にしてください。

生活を実践する : 疲労

(1000/1000)

 はじめに、疲労によって引き起こされる状況には、下記が挙げられます。

  • 外環境を観察/考察する程度を低下させやすくします
  • 内面を内省する程度を低下させやすくします
  • 固定観念/既成概念に囚われて物事を捉えやすくさせます
  • 自由意志で選択する眼前の選択肢の幅へ気づき難くさせます
  • 意識を一点へ集中する程度を低下させ散漫にします

 有形体の強い疲労を自覚している状況では、物質の心から受ける誘惑の影響力が増大しているために、不誠実な行為や低い程度の誠実な行為をおこないやすくなり、不誠実な性質の表現を造化する習慣を自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく形成しやすく、また、自己の成長段階よりも相対的に誠実の程度が低い習慣を自覚して形成しやすくなります。無形体の強い疲労を自覚している状況では、精神での表現の造化が遅滞するために、物事を観察/考察/判断する程度が低下するものの、観察/考察/判断の程度が低下していると気づき難く、自己のおこなう行為を適切に内省できていません。

 疲労の程度が低い際には、常に克己を造化し、誘惑から受ける干渉を防いでいたとしても、疲労の程度が強くなると急激に克己を造化し難くなります。物質の心から受ける誘惑の影響力は疲労によって更に増大し、同時に、自己のおこなう行為を適切に内省できていないために、自身でも行為をおこなった後に愕然[がくぜん]とするような、普段は決してすることのない不誠実な行為や誠実の程度が低い行為をおこなってしまう場合があり、特に、外環境の変化(他者の行為)へ突発的に反応しておこなってしまう状況がみられます。例として、他者の行為に反応して、精神で怒りの感情を造化する、悪態をつく、行為が粗雑になる、などが挙げられます。

 行為をおこなったことで「行為を造化する習慣」が形成されるために、疲労が回復し、疲労の程度が低くなった後も、習慣に基づいて、不誠実な行為や誠実の程度が低い行為を継続しておこなってしまう可能性があり、高い活動性の程度への同調を阻碍し、成長の程度を退行させやすくなります。強い疲労のある際に、不誠実な行為や誠実の程度が低い行為をおこなわないように留意するのに加えて、疲労から回復した後に、成長を阻碍するような習慣が自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく形成されていないかを、自己の行為を詳細に内省して確認する必要があります。また、強い疲労を自覚している際には、睡眠、瞑想、などで速やかに疲労の回復へ努め、無用な行為/活動をできる限り控え安静にすることも、不要な習慣を形成し難くさせます。

 この質疑応答に関連する内容には、3章5節 有形体 #質疑応答の「強い疲労があっても、自覚していないことがありますか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 はじめに、辞めようとする行為(過食/大食)へ意識を向ける/向けないについては、この節の質疑応答の「行為へ意識を向けないように努めるほどに、行為へ意識が向いてしまうのですが、どうすれば意識を向けないようにできますか?」を参照してください。

 過食/大食の行動を辞めようとする場合に、過食/大食の原因を考察/内省して疲労が原因と判断したために、「疲労へ意識を向けないようにする」という方向性(結論)へ至ったといえますが、しかし、疲労は過食/大食を引き起こす要因のひとつに過ぎず、また、疲労は有形体/無形体の貯蔵する原素材の量が減少することで自覚する「状況」を表しており、疲労が過食/大食を引き起こす土台となる「習慣」ではありません。疲労、熱、外環境の状況/出来事、他者の発言/行動/態度、外環境/有形体の周期、などは、経験へ保存されている「過食/大食を引き起こす土台となる習慣」を誘発して、過食/大食の行動をおこなわせやすくしているのです。

 過食/大食を引き起こす土台となる習慣には、食事を摂れば疲労を解消できる、苛立ち/ストレスから眼を逸らすには甘味を食べる行動が適している、外環境から何らかを得れば内面の状況を解決できる、多く食物を取り込むほどに大きな効果(疲労の解消など)が得られる、などの自覚のある、あるいは、自覚できるものの自覚のない囚われ(固定観念/既成概念)がみられます。多くの場合では、あるひとつの行動の土台となる習慣は、ひとつではなく、いくつもの習慣が組み合わさっています。

 疲労に誘発されて過食/大食をおこなっているのならば、まずは、疲労に誘発されて食べる行動へ影響を与えている「過食/大食を引き起こす土台となる習慣」の内容を自覚するように内省/考察します。そのうえで、睡眠を長く摂る、安静にする、などで疲労の解消へ努めながら、同時に、「過食/大食を引き起こす土台となる習慣」の内容に基づいて自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく造化される思考/感情を常に内省し自覚したうえで、思考/感情へ自覚して意識を向けないようにします。

 過食/大食を引き起こす土台となる習慣によって、食べる/食べないの軸線上での捉え方へ意識が向きやすくなり、食べたい/食べてはいけない、どれくらいの量を食べる/食べない、どの品目を食べる/食べない、どの時間帯に食べる/食べない、何処[どこ]で食べる/食べない、などの関連する思考/感情を造化するようになります。自己の内面を常に内省し、これらの表現が精神で造化された状況へ気づいた(自覚して/自覚できるものの自覚なく表現へ意識が向いている状況を自覚した)のならば、即時に、これらの表現から自覚して意識を向けないように努めます。

 経験へ保存されている習慣は、精神で表現の造化へ用いられるほどに強められ、逆に、表現の造化へ用いられないほどに弱くなります。過食/大食を引き起こす土台となる習慣に基づいて造化される思考/感情へ意識を向けないように努め続けることで、これらの表現は維持されず消え去り、過食/大食を引き起こす土台となる習慣を強めなくなります。そして、徐々に習慣に基づく思考/感情が造化され難くなり、思考/感情が造化され難くなることで、習慣は弱くなっていきます。過食/大食を引き起こす土台となる習慣が弱くなり、精神で関連する思考/感情を造化し難くなれば、思考/感情に基づいておこなわれる過食/大食の行動を自然にしなくなります。

 過食/大食の習慣や、食事を摂れば疲労を解消できる、苛立ち/ストレスから眼を逸らすには甘味を食べる行動が適している、外環境から何らかを得れば内面の状況を解決できる、多く食物を取り込むほどに大きな効果が得られる、などの固定観念/既成概念を弱めるように、日々に自覚して努めているとしても、有形体の疲労によって、物質の心が、これらの習慣や固定観念/既成概念を喚起させて、過食/大食をおこなわせるように「はたらき」かける状況は多くみられます。同時に、無形体の疲労は、克己の造化を抑制させて、物質の心から受ける誘惑(利己性/自己中心性/欲望)の影響を相殺させ難くし、突発的に過食/大食をおこなわせやすくします。どのような習慣や固定観念/既成概念を弱め解消していく場合でも、有形体/無形体の疲労を強めないように、日々の生活でおこなう活動の量/強度、睡眠の量、などを調整して、無用に習慣や固定観念/既成概念を強めて時間/労力を浪費しないように努めることが大切です。

生活を実践する : 時間

(1000/1000)

 あらゆる物事/現象/行為は成長へつなげることができ、成長を求める自己の意志(自由意志による選択と意志の強さ)のみが、ひとつひとつの物事/現象/行為を成長へつなげるのか/つなげないのかを決めている点に留意してください。地上での時間は物的/人工的で、毎日に使える時間は限られていますが、成長は無形的です。時間が多く使えても成長へつなげられない場合もあれば、一瞬ともいえる僅かな時間であったとしても成長を飛躍させる場合があるのです。

 時間が足りないと自覚する状況では、自覚している行為へ時間を費やしているよりも、自覚できるものの自覚していない行為へ時間を費やしている場合が多くみられます。先[ま]ずは、どのような行為へ毎日の時間を費やしているのかへ気づく必要があります。毎日の自己の行為を逐一に自覚するように努め、どのような習慣に基づいて、どのように時間を費やしているのかを観察(内省)します。この観察には、物的な行動や他者の行為だけでなく、精神で造化している思考/感情などに費やしている時間も含まれます。

 毎日に「何へ時間を費やしているのか」へ自覚して気づくことができたのならば、更に、食事(食材の調達、調理、片付け、などを含む)、テレビの視聴、インターネットでの閲覧、着る衣服/髪型への拘[こだわ]り、化粧/痩身の追求、快楽/快感を得るための遊び/ゲーム/暇潰し、お喋り、必要な物品を買うためではない無用な買い物、などの、自己のための行為や、利己的/自己中心的な行為へ消費している多くの時間、多大な労力、大量の原素材を、愛の行為や自己/他者の成長へ使うのならば、どれほどの成果が成し遂げられるのかを誠実に内省します。この内省をすることによって、自己のおこなう行為の中で、自己が必要とする行為と、必要としていない(不要な)行為/習慣を選別できるために、時間、労力、原素材、などの浪費を防ぎ、必要な行為へと意識を集中していくようになります。自己が必要とする行為と愛の行為が毎日の生活を多く占めるようになっていくほどに、生き方の効率も高くなっていくのです。

 真摯に成長を求める者は、自己/他者の成長へつながらない無価値な物事に時間/労力などが浪費される状況へ、違和感、不自然感、などを感じ取り、これらの物事を避けるようになります。時間/労力などは自然に自己/他者の成長へつながる物事へ使われるようになります。これは、地上で生活できる期間は限られており、地上で成長へ使える時間は僅かでしかないことを自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく認識しているためです。加えて、職務、学習、趣味、余暇、息抜き、などの、時間の区分をしなくなり、現在の成長段階で成長へつながると感じる物事であれば、様々に体験して、成長への学びを積極的に得ようとします。なお、自己/他者の成長へつながらない無価値な物事には、他者が自己へおこなう嘲[あざけ]り、陰口、誹謗中傷、虚栄心を満たすためのお喋り、などの不誠実な行為への反論も含まれています。自己が不誠実な行為をおこなわなくても、他者がおこなう不誠実な行為へ反論する状況も、時間/労力などの浪費にしかならないのです。成長を求める者には、これらへ反論している暇[ひま]などないのです。

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 はじめに、時間には地上で用いられている外的/人工的な尺度と、自己の認識する内的/精神的な尺度があり、両者は同じではない点に留意してください。時間の尺度については、2章3節 有形界の構造 #有形界の時間/空間、また、2章4節 無形界の構造 #無形界の時間/空間を参照してください。

 行為や瞑想へ意識を集中するほどに、内的な時間の尺度による経過よりも外的な時間の尺度による経過が速い(短い時間しか経ていないと感じていても外的には長い時間が過ぎている)、あるいは、内的な時間の尺度による経過よりも外的な時間の尺度による経過が遅い(長い時間を経ていると感じていても外的には短い時間しか過ぎていない)と認識する場合があるのは、意識を行為や瞑想の一点へ集中することで、精神で並列/並行して造化される表現が、行為や瞑想に関連する表現のみとなり、単位時間あたりに処理する量が減少する、あるいは、増大するために感じ取ります。行為や瞑想に関連する表現の造化が少ないのならば、少ない単位時間で処理できるために、内的な時間の経過を速く感じ取り、一方で、行為や瞑想に関連する表現の造化が多いのならば、処理に多い単位時間を必要とするために、内的な時間の経過を遅く感じ取ります。行為や瞑想をおこなう際には、同じ内容の行為や瞑想であったとしても、常に同じ量の表現を造化しているのではなく、ひとつひとつの状況によって、表現を造化している量は様々です。なお、意識が散漫で行為や瞑想の一点へ集中していないのならば、内的な時間の尺度による経過と、外的な時間の尺度による経過は、ほぼ同等に認識しています。

 時間の経過を速い/遅いと感じ取る感覚は相対的で、同調する活動性の程度/成長の程度に相応する「精神での単位時間あたりの処理の速さ(単位時間あたりに処理できる許容量)」を基準として感じ取ります。同調する活動性の程度/成長の程度が高くなるほどに精神での単位時間あたりの処理は速くなるために、処理する総量が同じであれば、同調する活動性の程度/成長の程度が高いほどに時間の経過を速いと感じ取るようになります。同調する活動性の程度/成長の程度と精神での単位時間あたりの処理の速さについては、2章4節 無形界の構造 #質疑応答の「成長の程度が高くなるほどに無形的認識も優勢になっていくのならば、宇宙圏無形界の各界層では時間の経過という認識はなくなってしまうのですか?」を参照してください。

 同調する活動性の程度/成長の程度に相応する「精神での単位時間あたりの処理の速さ」は、外環境を認識する際に、外環境から受け入れた情報を処理する速さにも影響を与えており、外環境から受け入れた情報量によって外環境の時間の経過を速く/ゆっくり/静止して感じ取る状況にもつながります。

(1000/1000) 精神での処理の速さと時間の認識
(1000/1000) 精神での処理の速さと時間の認識

 精神の状況から捉えると、騒響がある状況では、行為や瞑想の一点へ意識を集中していたとしても、眼前の状況に必要な処理と同時に、騒響を起こさせている「眼前の状況に不要な処理」もおこなっているために、処理量が多くなり、内的な時間の経過を遅く感じやすいです。熱/疲労のある状況や食後に多くみられます。一方で、精神に静けさがある状況では、眼前の状況に必要な処理のみのために、処理量が少なく、内的な時間の経過を速く感じやすいです。ただし、精神に静けさがあるとしても、眼前の状況に必要な処理量と、精神での処理速度によっては、内的な時間の経過を速く感じるとは限らず、遅く感じる場合もあります。精神の状況については、3章9節 精神 #精神の状況を参照してください。

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 はじめに、行為への集中と物事への熱中の違いについては、5章6節 愛の行為 #質疑応答の「意識の集中と、物事への熱中は同じですか?」を参照してください。

 行為へ集中する際だけでなく、物事へ熱中していても時間の経過を速く感じ取る状況がみられるのは、時間の経過は常に自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく認識していますが、行為へ集中している際には自覚して認識しているのに対して、物事へ熱中している際には自覚して認識しない(自覚できるものの自覚なくのみ認識している)期間が現れるためです。

 時間の経過を自覚して認識していなかった「空白の期間」の間でも、地上の外的/人工的な尺度の時間は一定の単位で経過していくために、空白の期間の後に再び自覚して時間の経過を認識するようになると、時間が速く経過したように感じ取ります。これは、精神で単位時間あたりに処理する量/速度に基づいて、内的/精神的に時間の経過を速く/遅く感じ取るのとは異なります。精神で単位時間あたりに処理する量/速度に基づいて感じ取る時間の経過については、この節の質疑応答の「行為や瞑想へ意識を集中するほどに、気づくと時間が速く経過しているのは、時間の認識とどのようなつながりがありますか?」を参照してください。

 行為へ集中している際には、自覚して時間の経過を認識しているために、内的な時間の尺度と外的な時間の尺度を逐次に対比することによって、内的な時間の尺度による経過よりも外的な時間の尺度による経過が速い(短い時間しか経ていないと感じていても外的には長い時間が過ぎている)と認識する状況と、内的な時間の尺度による経過よりも外的な時間の尺度による経過が遅い(長い時間を経ていると感じていても外的には短い時間しか過ぎていない)と認識する状況の2通りがみられます。

 一方で、物事へ熱中している際には、自覚して時間の経過を認識していないために、内的な時間の尺度と外的な時間の尺度を逐次に対比していません。そのため、内的な時間の尺度による経過よりも外的な時間の尺度による経過が速い(短い時間しか経ていないと感じていても外的には長い時間が過ぎている)と認識する状況のみがみられ、内的な時間の尺度による経過よりも外的な時間の尺度による経過が遅い(長い時間を経ていると感じていても外的には短い時間しか過ぎていない)と認識する状況はみられない特徴があります。

(1000/1000) 集中/熱中と時間の認識
(1000/1000) 集中/熱中と時間の認識

生活を実践する : その他

(1000/1000)

 はじめに、指針と、規律/戒律/規則は異なるという点に留意してください。指針は、実践する「方向性を指し示す内容」で構成されています。規律/戒律/規則は、指針を土台として造り出された「具体的に実践する内容」です。指針が生活を縛り強制する状況はみられませんが、一方で、規律/戒律/規則は生活を縛り強制する可能性も有しています。

 修養の生活を実践していくために、規律/戒律/規則を設定することで実践を促進する場合もあれば、実践を阻碍する場合もあります。規律/戒律/規則そのものが実践を促進/阻碍するのではなく、どのように規律/戒律/規則という道具を活用していくのか? が実践を促進も阻碍もさせます。規律/戒律/規則は、設定することで具体的に実践する内容を明確にできるものの、反面として、具体的に実践する内容に縛られて自己へ強制してしまう状況や、既に設定した内容を考察(再考)せずに盲目的に従うようになる状況も多くみられます。

 規律/戒律/規則や、自分ルールと呼ばれるような「自己が生活をおこなう中での自身の取り決め」は、日々の生活を整え、個体/全体(集団/共同体)のおこなう活動の効率を高めるために造り出すのです。生活を縛り、強制し、活動を制限するために造り出すのではありません。規律/戒律/規則/自分ルールを外環境から強制され縛られる状況、あるいは、自己が自身を縛りつける状況は、自己が自身で観察/考察して自由を求めるよりも遥[はる]かに容易なために、外環境/自己自身からの強制/束縛へ自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく依存しやすくなります。自己は、表面的には強制/束縛を嫌厭[けんえん]し自由を求めているものの、本質的には強制/束縛を欲し、更に強制/束縛を強めるように規律/戒律/規則/自分ルールを変更/追加しようとする傾向が多くみられます。

 修養の生活を実践していくうえでは、方位磁石のように進む方向性を指し示す「修養の生活を実践する指針」は常に確認しながらも、指針に加えて、現在に必要とする最低限の「取り決め(規律/戒律/規則/自分ルール)」を設定し、特定の期間に重点的に留意するようにします。指針は、現在の状況に関わらず、指針の内容を修正/変更/追加/削除することはありません。一方で、現在に必要とする最低限の「取り決め」の内容は、具体的に実践する内容へ意識を向けやすくするために設定し、現在の状況に相応するように適宜に修正/変更/追加/削除します。取り決めを設定する場合には、いくつもの「具体的に実践する内容」へ意識が分散してしまわないように、できる限り少なく設定して意識を集中できるようにすることが、実践を促進するように、はたらきます。具体的に実践する内容を同時に設定する量/多さは、具体的に実践する内容や、個々の成長段階/生活状況によって異なりますので、自己が実践する過程で、意識を集中できる量/多さへ調整するようにします。

 なお、取り決め(規律/戒律/規則/自分ルール)は、期間を限定せずに設定する、次から次にと内容を増やす、設定した内容は修正/変更/追加/削除してはならないと思い込む、設定した内容を常に必ず遵守あるいは隷属[れいぞく]しなければならないと思い込む(教条主義/原理主義を含む)、などによって活動の効率を低下させ、実践を阻碍するように、はたらきます。

(1000/1000)

 このサイトで紹介している修養の生活を実践する方法とは異なる観点から実践方法を紹介している書物などは多くありますが、それらの中で実践方法を総合的に体系化している内容には、ジェームズ・レッドフィールド[James Redfield]の著書が挙げられます。彼の著書は日本でも拡く認知されており、初版から30年ほどを経た現在でも入手が容易です。

 書物の内容は、成長の実践方法が冒険の物語を通して紹介されており、読み進めやすく、覚醒初期の段階での物事の捉え方(5次元の認識の程度)に基づいて記述されています。下記は上段が原著、下段が翻訳書を表しています。これらの4冊は物語が連続しているために、順序に読み解いていくことを推奨します。これらの書物(原著)の、ひとつひとつの記述(文ごと/図表ごと)の真実度は、80-710の間で構成されています。

  • (715/710) The Celestine Prophecy [1993] James Redfield
    • (700/705) 聖なる予言 [1994] 山川紘矢&山川亜希子翻訳 角川書店
  • (690/690) The Tenth Insight: Holding the Vision [1996] James Redfield
    • (670/660) 第十の予言 [1996] 山川紘矢&山川亜希子翻訳 角川書店
  • (675/680) The Secret of Shambhala: In Search of the Eleventh Insight [1999] James Redfield
    • (660/660) 人生を変える力 第十一の予言 [2001] 山川紘矢&山川亜希子翻訳 角川書店
  • (640/640) The Twelfth Insight: The Hour of Decision [2011] James Redfield
    • (610/610) 第十二の予言 決意のとき [2011] 山川紘矢&山川亜希子翻訳 角川書店

 なお、物語として記述されているために、著者が伝えようとしている内容(著者が記述している目的)と、物語としての内容を混同しないように読み進める必要があります。著者が伝えようとしている「文字で表現された内容」の土台となっている印象へ意識を向けて読み進めるように努めることで、著者が伝えようとしている内容と、物語としての内容を区別しやすくなります。加えて、書物で用いられている語の中には、このサイトで用いている語と同じものもありますが、両者で用いられている語の定義が常に類似しているとは限らず、異なっている場合もあることへ留意して読み進めると、無用な誤解や混乱を軽減できます。用語の定義にみられる相違については、6章2節 書物を読む際の留意点を参照してください。

 成長の実践方法は無数にあります。それぞれの方法が成長という山を登る道であり、誠実な実践方法である限り、道程の長さ/登る経路は異なっていても、すべての道が山頂へと続いています。ただし、先人が切り拓[ひら]いた道は先人に適した道であり、必ずしも自己に適しているとは限りません。自己は先人の切り拓いた道を参考にしながらも、自身に適した道を模索して登らなければならないのです。ひとりひとりの登る道が交差することはあっても、全く同じ道を登る者はいないという点に留意してください。

 書物を読み考察する際や、ある人物が過去におこなった発言/行動を考察する際には、書物を記述した著者、あるいは、ある人物の生活していた地域が当時に有していた既成概念を把握しておくことで、発言/行動/記述の内容を適切に考察しやすくなります。同じ地域が現在に有している既成概念に基づいて、著者/ある人物が当時におこなった発言/行動/記述を考察しても、適切に考察し難くなります。同様に、他の地域が過去/現在に有している既成概念に基づいて、著者/ある人物が当時におこなった発言/行動/記述を考察しても、適切に考察し難いです。

 この質疑応答に関連する内容には、6章2節 書物を読む際の留意点 #質疑応答の「どのような書物を読むことが自己に適しているのですか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 このサイトへ掲載されている内容を読んでいて緊張感を感じやすくなるのは、限りのある「地上で生活する期間」に成長を求めていこうとする意志の表れでもありますが、一方で、内容そのものではなく、記述の仕方から緊張感を感じ取っている場合もあります。

 記述の仕方には、このサイトの著者が有する個性の方向性が表れていますが、著者の個性は、研究肌、職人気質、生真面目、実直、などで表現されるような方向性を比較的に強く有しているために、記述の仕方にも堅さが表れやすくなります。譬[たと]えると、小説/随想(エッセイ)などの記述の仕方ではなく、教科書/論文の記述の仕方に近いといえます。そのため、読者の有する個性の方向性によっては、記述の仕方に表れている堅さから、緊張感、厳格さ、切迫感、などを感じ取る場合もあります。

 もしも、このサイトの記述が読み難く感じるようであれば、秋山佳胤[あきやま よしたね]の書物が読みやすいかもしれません。書物へ掲載されている内容は、このサイトで紹介している修養の生活を実践していく内容と大筋が同じです。特に、固定観念/既成概念などの囚われを解消するための捉え方が、柔らかく、ざっくばらんで、簡潔に記述されています。ただし、書物の中で用いられている語は、同じ用語であっても、このサイトで用いている語の定義とは異なる点に留意してください。この書物の、ひとつひとつの記述(文ごと/図表ごと)の真実度は、265-570の間で構成されています。

  • (530/540) しない生き方 [2017] 秋山佳胤 イースト・プレス

 加えて、自己が「どのような方向性」で修養の生活を実践していくのかを考察する参考として下記の書物を紹介します。これらの書物には、付与された活動性の程度が200台にみられる「勇気」の特性が顕著に表れており、修養の生活を実践するうえでの基礎となる「自己の内面と向き合う勇気」へ気づき、自己に適切な方向性を模索する切っ掛けとして用いることができます。

  • (200/205) 正々堂々 [2020] 西村宏堂 サンマーク出版
    • この書物の、ひとつひとつの記述(文ごと/図表ごと)の真実度は、40-220の間で構成されています
  • (200/200) しあわせは微笑みが連れてくるの [2012] ジャンヌ・ボッセ メディアファクトリー
    • この書物の、ひとつひとつの記述(文ごと/図表ごと)の真実度は、45-210の間で構成されています
  • (200/200) いのちのことば [2011] 佐藤初女 東邦出版
    • この書物の、ひとつひとつの記述(文ごと/図表ごと)の真実度は、45-205の間で構成されています

 これらの書物では、「自己の内面/生き方を内省する」という共通の目的に基づく内容が掲載されていますが、それぞれの書物に掲載されている内容によって、自己の内面/生き方を内省する方向性が異なります。ある書物に掲載されている「自己の内面/生き方を内省する方向性」と、自己の有する個性の方向性との親和性が高い場合には、他の書物に掲載されている方向性の内容よりも受け入れやすく感じ取ります。

(1000/1000)

 修養の生活へ専心/献身し実践しているにも関わらず、成長を促進していない理由のひとつには、祈り/瞑想で高い活動性の程度へ同調しているものの、日常の生活で行為をおこなう際には、行為へ同調する活動性の程度に相応する高い活動性の程度を付与していない状況が挙げられます。祈り/瞑想を、独立したひとつの儀式/作業のように捉えていると起きやすくなります。行為へ付与できる活動性の程度は、基本的には同調する活動性の程度を上限としており、同調する活動性の程度よりも高い活動性の程度を自己が行為へ付与することはできませんが、一方で、同調する活動性の程度よりも低い活動性の程度は自己の意志で行為へ付与できる点に留意してください。祈り/瞑想については、5章5節 祈り/瞑想を参照してください。

 成長の程度は、経験の機能特性へ保存されている無数の習慣の総合として表されるために、祈り/瞑想で同調した高い活動性の程度を維持したままで、強い意志で意識を行為の一点へ集中して行為へ高い活動性の程度を付与するように努め、行為へ高い活動性の程度を付与する習慣を形成していく結果として成長が促進されます。

 祈り/瞑想を独立したひとつの儀式/作業のように捉えていると、祈り/瞑想によって高い活動性の程度へ同調したものの、祈り/瞑想を終えた途端に同調する活動性の程度が低下しやすく、行為をおこなう際には祈り/瞑想で同調した活動性の程度よりも大幅に低下している状況がみられます。加えて、祈り/瞑想で同調した活動性の程度を維持しているのに、行為のひとつひとつへ意識が集中していない(意識が散漫)なために、同調する活動性の程度よりも大幅に低い活動性の程度が行為へ付与されている状況もみられます。祈り/瞑想は、できる限り高い活動性の程度を行為へ付与するためにおこなうのであり、行為をともなわない祈り/瞑想(祈り/瞑想を独立した儀式/作業と捉えること)に価値はありません。日常の生活そのものを祈り/瞑想とし、ひとつひとつの行為そのものを祈り/瞑想と捉えていく必要があります。生活は絶え間ない行為の連続であり、行為の積み重ねが習慣を形成し強め、習慣が生き方を造り出し、生き方が成長の促進/停滞/退行を決定しているのです。

 修養の生活を実践し始めたものの、強い意志で専心/献身していないために成長が促進されない状況もあります。この状況は、霊的/精神的な成長を「ひとつの流行」として捉えている場合に多くみられ、修養の生活が新鮮にみえるために一時的には取り組むのですが、取り組む目的が明確ではなく、取り組みへの意志も弱いために短期間で飽きてしまい、次の目新しくみえる物事へ惹[ひ]かれて移り変わっていくようになります。成長を求め実践するには、常に強い意志と、絶え間ない専心/献身を必要とする点に留意してください。地上の社会では、持続可能な社会/生活環境の構築、貧困/差別/格差の改善、これらに関連するデモ活動への参加や商品開発、なども「ひとつの流行」として捉えている側面が多くみられます。

(1000/1000)

 ある行動を「積極的におこなう」と決めたうえでおこなっているのでもなく、また、その行動をおこなっている際に行動を継続したいと感じているのでもないのに、繰り返しおこなってしまう状況があるのは、内面の状況(ストレス/苛立ち/悩みなど)、熱、疲労、などによって、物質の心から受ける誘惑の影響力が増大し、これまでの生活の中で行動を辞めて「弱くなっていた習慣」が喚起されているのです。

 この行動には、飲酒、喫煙、過食/大食(特定の品目を大量に食べる、甘味を大量に食べる、品目に関わらず何でもよいので食べ続ける)、ゲーム/賭け事、必要としていない書物/動画/テレビ番組/ウェブサイトなどの視聴/閲覧、車/バイクで走り回る、必要でもない買い物、店舗巡[めぐ]り、価値を感じていない些細な行動、などがみられ、これまでに辞めると決めて「弱めてきた習慣」の内容で構成されています。

 喚起されている習慣は、不誠実な習慣か、あるいは、自己の成長の程度よりも相対的に低い程度の誠実な習慣であり、自己の成長の程度を停滞/退行させるように、はたらきます。喚起されて間もなくは、習慣の程度(強さ)が未だ弱く、習慣に基づいておこなう行動の方向性と自己の意志の方向性が異なるために、行動をおこなうことへ違和感/不自然感を感じやすくなります。違和感/不自然感を感じている段階であれば、再度に行動を辞めてしまいやすいのですが、今後に何らかの切っ掛けによって習慣が喚起される可能性は常にあります。地上の生活では、絶え間なく物質の心から誘惑の影響を受け続けているために、弱めた習慣を決して喚起されないようにすることはできません。喚起される都度に、習慣に基づいておこなった行動を辞めて、習慣を弱めていくように努める必要があります。

 もしも、違和感/不自然感を感じながらも行動を辞めようと努めることなく、習慣のままに行動を続けているのならば、徐々に習慣は強くなり、習慣のままに行動をおこなう状況へ違和感/不自然感を感じなくなります。これは、理性が違和感/不自然感として「自覚できる警鐘」を発さなくなるためであり、現在は習慣のままにおこなっている行動を自覚しているとしても、いずれは自覚できるものの自覚なく行動をおこなうようになります。この段階では、再度に行動を辞め習慣を弱めるのは困難であり、行動を辞めるためには自己を内省して自覚できるものの自覚しなくなった行動を自覚し直し、強い意志と多大な労力をもって辞めていかねばなりません。

(1000/1000)

 はじめに、自己/相手の両者が誠実な生き方へ努めている場合には、相手へ発言の内容が適切に伝わっていなかったとしても、相手は自己の発言の目的を把握するように努めているために、自己が丁寧に適切に伝えようと発言を重ねれば伝わるようになります。発言を重ねるほどに全く異なる内容として相手へ伝わってしまうのは、自己あるいは相手(あるいは自己/相手の両者)が誠実な生き方へ努めていないために起きています。下記は、自己が誠実な生き方へ努めている状況を前提として記述します。

 利己的/自己中心的な生き方をしている者、幻想の捉え方に基づく生活をしている者、自身の内面から逃げ回っている者、自身の行為を内省しない者、物事を考察しない者、特定の物事へ固執/執着している者は、伝えられた発言の内容を瞬間瞬間の自身に都合良く捉え直すために、彼らへ言語(日本語の単語/文法など)が伝わっていたとしても、言葉(発言の目的)は何ひとつ伝わりません。彼らへ言葉が適切に伝わっていないからといって、更に発言を重ねて伝えていくほどに、発言の目的とは全く異なる方向性へ向けて捉え直していきます。

 そのうえで、相手へ伝えなければならない状況、あるいは、相手へ確認しなければならない状況では、はい(Yes)/いいえ(No)で相手が返答できるように発言の仕方を工夫して伝えるようにすることで、相手が発言の内容を瞬間瞬間の自身に都合良く捉え直す頻度を減少できるようになります。このような工夫をして伝えるのならば、相手が、はい(Yes)/いいえ(No)で返答しても、はい(Yes)/いいえ(No)以外の返答であったとしても、どの程度に相手が瞬間瞬間の自身に都合良く捉え直しているのか? どのような方向性へ捉え直しているのか? を把握できるために、相手へ更に重ねて伝える内容を選択しやすくなります。

 なお、相手が誠実な生き方へ努めており、相手へ言葉(発言の目的)が伝わっていたとしても、自己/相手の有する認識の程度(成長の程度)が乖離するほどに考察する範囲/程度にも大きな差が現れるために、言葉の伝わる程度は低くなります。認識の程度による言葉の伝わる程度の違いについては、3章3節 分霊 #質疑応答の「自己の属する次元と、つながりのある次元は、どのような違いがあるのですか?」を参考にしてください。

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