誘惑

5章 成長の実践 - 3節 誘惑

個々の記述の真実度: 999.3-1000
節全体の真実度: 1000
節全体の活動性: 1000

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誘惑とは

  • (1000/1000) 誘惑とは、物質の心によって精神で造化された利己性/自己中心性/欲望の表現が有する、分霊の心がおこなう表現の造化へ干渉し、不誠実な行為を造化させるように「はたらきかける」影響力を表しています
    • 誘惑が、不誠実な表現を造化させるように強制し、幻想の捉え方を経験へ保存させ、不誠実な習慣に基づく生き方を造り出すように、はたらきかけます
    • 誘惑の有する影響力の強さは、精神で造化された「利己性/自己中心性/欲望の表現」の量が決定しています
    • 誘惑として「はたらきかける」影響力は、利己性、自己中心性、欲望、の3つの側面から構成されます(造化された表現としての利己性/自己中心性/欲望と同じ名称を用いていますが、表現と影響力は同じものではなく、影響力は表現が造化の工程へ干渉する「はたらき」を指しています)
    • 幻想の捉え方については前節の5章2節 幻想、精神での表現の造化については3章9節 精神を参照してください
  • (1000/1000) 誘惑を構成する、利己性、自己中心性、欲望、は不可分であり、誘惑に占める割合を様々に変化させながら、分霊の心がおこなう表現/行為の造化へ影響を与えます
    • 誘惑の内容によって、誘惑に占める利己性/自己中心性/欲望の、それぞれの割合は異なりますが、誘惑には常に3者が含まれています
    • 利己性/自己中心性/欲望の3者は、不誠実性の有する方向性の違いを示しており、3者のそれぞれが有する方向性の強さが組み合わさり総合されて、様々な内容の誘惑が与える影響力を表します
    • 利己性は、他者を不利益に貶[おとし]めてでも、自己と、自己に都合の良い範囲の利益のみを求める誘惑の方向性を表しています
    • 自己中心性は、あるがままに物事を捉える一貫性をもたずに、瞬間瞬間に移り変わる自己に都合良く、物事を捉えようとする誘惑の方向性を表しています
    • 欲望は、あらゆる物事を、際限なく追い求める誘惑の方向性を表しています
  • (1000/1000) 誘惑の内容の中には、食欲、睡眠欲、性欲、顕示欲、所有欲、なども含まれ、最低限の必要を満たすよりも多い部分が、利己的/自己中心的な行為や、欲望の追求として現れます
    • 最低限の必要を満たすよりも多い部分には、大食、美食、惰眠、快楽のための性交、欲しいだけで必要としていない物品/情報の収集、着飾る、化粧、などがあります
    • 誘惑から受ける影響の「すべて」が不誠実な行為を生み出すのではなく、最低限に必要とするよりも多く受ける影響を「制御しない」状況が、不誠実な行為を生み出している点に留意してください
    • 物質の心は有形体の維持に必要とする内容を分霊の心へ気づかせ、有形体へ対応するように促しており、もしも、物質の心から全く誘惑の影響を受けないのならば、有形体は維持できなくなり、有形体を用いた活動もできなくなります
    • 例として、有形体の貯蔵する原素材の量が大幅に減少した際に、物質の心が誘惑で「強い疲労がある」と気づかせてくれるからこそ、安静にし、睡眠を摂る選択ができるのであり、誘惑で気づかせてくれなかったのならば、有形体の貯蔵する原素材の量は涸渇し、活動できなくなります
  • (1000/1000) 物質の心から受ける誘惑は、無形界には存在しない「地上のみ」でみられる特有の影響であり、誘惑に打ち克つのならば、成長を飛躍的に促進しますが、反面として、誘惑に呑まれたのならば、成長を阻碍し退行させることになります
    • 誘惑という影響が、有形界での成長の特性であり、苦しみを生み出す要因になりますが、その苦しみを通して学ぶのならば、成長を促進し、一方で、苦しみから逃げるのならば、成長を退行します
    • そして、地上で、誘惑から影響を受けて形成された習慣は、経験へ保存され、無形界での生活へ持ち越されます
    • 誘惑から受ける影響力は重力に譬[たと]えることができ、地上では、何時[いつ]でも、何処[どこ]でも、どのような状況であっても、どれほどに成長の程度が高くなっても、常に重力(誘惑)の影響を受け続けます
    • 地上でおこなう修養の生活では、成長を求める強い意志と、高い活動性へ同調する推進力を、絶え間なく維持し、重力(誘惑)を振り切り続ける必要があります
    • 有形界での成長については、4章2節 有形界での成長を参照してください
(1000/1000) 重力と飛行の譬[たと]え
(1000/1000) 重力と飛行の譬[たと]え

誘惑の性質

  • (1000/1000) 誘惑は、常に外環境から「何らか」を得ようとする内容を有しており、不誠実な行為をおこなうように強く強制します
    • 誘惑は、精神に騒響[ざわめき]を起こす主要な原因であり、騒響という精神の不安定性が、恐れ/怯えを誘発して、誘惑の干渉を受けやすくさせる循環を形成します
    • 一方で、経験へ保存されている「不誠実な性質の表現を造化する習慣」は、不誠実な行為をおこなうように「はたらきかけ」ますが、誘惑と異なり、不誠実な行為をおこなうように強制しません
  • (1000/1000) 誘惑の強さは、有形体の有する熱、疲労、飢餓、痛み、などの程度によって変化し、これらの程度が低いほどに誘惑は比較的に弱く、程度が強くなるほどに誘惑は際限なく強くなっていきます
    • 熱、疲労、飢餓、痛み、などは、相互に影響を与え、常に変化しているために、誘惑の強さも常に変化しています
    • 誘惑の強さは、物質の心が造化する利己性/自己中心性/欲望の表現の量的な増大によって決まり、利己性/自己中心性/欲望に付与された活動性の程度は一定(199の程度)のままです
    • 物質の心は、有形体の様々な均衡/調和が崩れるほどに、利己性/自己中心性/欲望の表現を造化する量を増大させて、誘惑を強めるようになります
    • 特に、有形体は直接に熱を生成することはできても、直接に冷やすことはできないために、物質の心は、熱の上昇に対して強く反応し、誘惑の強さへも大きな影響を与えています
    • 加えて、熱は、突発的な発熱だけでなく、有形体内の無数の周期や、外環境の無数の周期に影響を受けて、数時間の周期、半日の周期、1日の周期、1週間の周期、1ヶ月の周期、1年の周期、数年単位の周期、数十年単位の周期、などの周期を形成しており、それらの周期の総合が誘惑の強さへ影響を与えます
  • (1000/1000) 誘惑の干渉を受け、不誠実な行為をおこない始めると、行為へ付与された不誠実な性質の活動性に惹[ひ]かれて、地上を徘徊[はいかい]する地獄者たちを大量に引き寄せ集め、憑依させるようになります
    • 同時に、地獄者たちは憑依するために、常に様々な手口を用いて人への干渉をおこなっており、もしも、精神で不誠実な性質の表現を造化したのならば、彼らの干渉を強く受けて、急激に不誠実な性質の表現を連鎖して造化するようになり、制御不能な行動を引き起こす状況にもつながります
騒響/静けさの違い
  • (1000/1000) 騒響[ざわめき]とは、精神でおこなわれる無数の「表現を造化する工程」が統制されることなく、次々と無秩序に表現が造化される状況を指しています
    • 騒響は、精神の不安定な状況を表しており、不安定性は恐れ/怯えを誘発し、恐れ/怯えが安定を求めて誘惑を呼び込み、利己的/自己中心的な行為や、欲望の追求をさせるようになります
    • 同時に、高い活動性の程度への同調を阻碍し、意識を一点へ集中させ難くします
    • 騒響は、誘惑によって引き起こされるだけでなく、精神で造化される様々な表現によっても起こり、不誠実な性質の表現は騒擾[そうじょう]の性質を有しているために強い騒響を起こさせ、また、誠実な性質の表現でも騒響は起りますが、騒響の程度は比較的に弱いです
  • (1000/1000) 静けさは、精神でおこなわれる無数の「表現を造化する工程」が統制されており、現在に必要とする表現のみが造化され、不要な表現が造化されない状況を指しています
    • 静けさは、精神に騒響のない安定した状況を表しており、この状況に加えて、静謐(誠実な活動性の性質の表現)を造化することで、更に高い程度の静けさがみられるようになります
    • 騒響のない静けさは、実体のない静けさであり、更に、静謐を造化している状況は、実体のない静けさに、実体のある静けさを付け加えることになります
    • 克己は、自身の有する静けさの性質で、騒擾な性質を有する誘惑から受ける影響を相殺して、精神の騒響を鎮静し、実体のない静けさをもたらします
    • 活動性の性質の表現や克己の表現については、3章9節 精神を参照してください
(1000/1000) 騒響/静けさの循環
(1000/1000) 騒響/静けさの循環

誘惑の消去

  • (1000/1000) 誘惑の消去は、分霊の心が、大霊の心の支援を受けて造化する「克己」での相殺によってのみ、おこなえます
    • 克己の造化は、自由意志で造化する/造化しないの選択をできますが、造化する場合は必ず自覚して選択され、自覚できるものの自覚なく選択される状況や、無自覚的に(自覚なく)選択される状況はありません
    • ただし、克己を造化しない選択は、自覚的に(自覚して/自覚できるものの自覚なく)できます
    • 自由意志で「克己を造化しない」と選択する状況は、不誠実な性質の表現が造化されるのを制御しないと選択したことを示しており、一方で、「克己を造化する」という選択は、現在の段階で制御できる程度に関わらず、不誠実な性質の表現が造化されないように制御へ努めることを示しています
(1000/1000) 自由意志による造化の選択
(1000/1000) 自由意志による造化の選択
  • (1000/1000) 克己は、表現の内容を自覚的に認識できない無形的な表現であり、言語などで表される有形的な内容は有していません
    • 「この感情は消し去ろう」、「このような行動をしてはならない」、などは、克己ではなく、有形的な形状を有する思考の内容であり、克己の造化とともに、これらの思考が造化される場合もあります
    • 克己の表現から受ける感覚は、静けさのみです
  • (1000/1000) 有形体の成長の程度が低い幼少期は、分霊の心が有形体を用いた活動へ未だ適応しておらず、適切に克己を造化できないために、物質の心から受ける誘惑の影響を制御し難いです
    • 再授肉して無形界から地上へ生活の場を移行する際に、分霊は眠りに就き、無形体と有形体(受精卵)を涵養の糸で結びつけた時点から、思春期と呼ばれる時期までに、徐々に眠りから目覚めていきます
    • 幼少期は、分霊の心が完全に目覚めていない「寝起き」の状況のために、自覚して克己を造化し難く、誘惑の影響を受けやすくなります
  • (1000/1000) 加えて、有形体の成長の程度に関係なく、日々の睡眠より目覚めた直後は、分霊の心が有形体を用いた活動へ即時に適応できないために、適切に克己を造化できず、物質の心から受ける誘惑の影響を制御し難い傾向がみられます
  • 睡眠より目覚めた直後は、睡眠によって意識から切り離していた物質の心を再接続して間もないために、克己による誘惑の制御が追いついていません
  • これは、激流に脚を踏み入れた直後は流れを考慮できずに脚を流れに捕られやすく、激流の中を歩き始めれば、流れを考慮して脚を踏み出すために脚を流れに捕られ難くなる状況へ譬[たと]えられます
  • 睡眠(午睡を含む)より目覚めた直後は、誘惑の影響を克己で制御できずに、日常の活動中には決しておこなわないような不誠実な行為をおこないやすくなる可能性がある点へ留意しておく必要があります

成長の道標

  • (1000/1000) 利己性/自己中心性/欲望から受ける干渉を防ぎ、誘惑を超越するには、自由意志で常に「克己を造化する」選択をおこない、高い活動性の程度へ同調して、造化する克己の量を増大させ続けます
    • 克己は、自覚して「造化する」と決めることによってのみ、造化されます
    • 克己を自覚して造化するとは、何時[いつ]に、何処[どこ]で、どのような状況であったとしても、利己性/自己中心性/欲望に呑まれて不誠実な行為をおこなわないと決意することであり、絶え間なく決意し続ける強い意志が、克己の造化へつながります
    • 高い活動性の程度へ同調する方法については、5章5節 祈り/瞑想を参照してください
  • (1000/1000) 誘惑の超越は、幻想からの脱却や、囚われの解消のように、経験へ保存されている習慣を修正するのではないために、誘惑の干渉を受けて造化される不誠実な表現/行為を辞めても(表現/行為へ意識を向けないようにしても)、誘惑の干渉を受け続けている状況を変えない限り、次々に不誠実な表現は造化され、不誠実な行為をおこなうようになります
    • 物質の心が造化した利己性/自己中心性/欲望から干渉を受けて自己がおこなう「不誠実な行為そのもの」は、自己(分霊の心)が造化しているので、自己の自由意志で行為を辞めると選択したのならば、瞬間的には行為をおこなわなくなりますが、干渉を受け続けているために、不誠実な行為をおこなうように際限なく喚起されます
    • 干渉を与えている「利己性/自己中心性/欲望そのもの」は、物質の心が造化しているために、自己が利己性/自己中心性/欲望へ意識を向けないようにしても、利己性/自己中心性/欲望は消え去りません
    • 物質の心が造化する利己性/自己中心性/欲望から受ける影響は、自己(分霊の心)が造化する克己を用いた「影響力の相殺」によってのみ、制御できます
  • (1000/1000) 自己の精神でおこなわれている表現の造化を逐一に内省し、もしも、利己性/自己中心性/欲望の干渉を受け始めている状況へ気づいたのならば、干渉によって不誠実な表現が造化される前に、受けている干渉を克己で制御し、経験へ「不誠実な性質の表現を造化する習慣」が保存されないようにします
    • 干渉を受け始めている状況へ気づいた瞬間に、干渉を克己で制御し続けるように努めることで、「不誠実な性質の表現を造化する習慣」が形成されないようにするだけでなく、同時に、「干渉を受けた瞬間に克己で制御する習慣」が形成され強められるようになります
    • 干渉を克己で制御するとは、克己の造化へ意識を向けて、利己性/自己中心性/欲望から干渉を受け始めて起きる騒響[ざわめき]を鎮静し、精神へ静けさを保つことを指しています
  • (1000/1000) 肉眼には視えないだけで、自己の周囲には常に大勢の地獄者/地縛者が群れ集まっており、憑依する機会を窺[うかが]っていることへ留意し、誘惑に呑まれて、彼らに憑[つ]け入る隙[す]きを与えてはなりません
    • 誘惑に呑まれて不誠実な行為をおこない、地獄者/地縛者を自己に憑依させて操らせるのは、憑依されている自己の成長を退行させるだけでなく、憑依している地獄者/地縛者の成長も退行させています
(1000/1000) 誘惑の超越
(1000/1000) 誘惑の超越

周期から受ける変化に気づく

  • (1000/1000) 自己の体験を通して、有形体内の無数の周期や、外環境の無数の周期が、相互に関連しながら誘惑の強さへ与える影響を観察/考察し、誘惑から受ける干渉を防ぐために役立てます
    • 相手を熟知することが、相手に打ち克つ状況へとつながるのです
    • 誘惑から、どのような状況で、どの程度の影響を受けるのかは、個々の用いている有形体の体質や生活環境によって異なるために、他者の体験に基づく内容(講演の内容、書物へ掲載されている内容、など)を参考にしながらも、自己の体験を通して観察/考察する必要があります
  • (1000/1000) 外環境の様々な変化と、有形体内の様々な変化の組み合わせによって現れる「誘惑から受ける影響の強さ」にみられる変化を絶え間なく内省し、外環境/有形体の周期と、誘惑の強さとの「つながり」を把握するように努めます
    • 外環境/有形体の無数の周期は大霊の法則であり、法則を体験して実証し、無数のつながりを把握していくことは、誘惑の干渉を防ぐためだけでなく、成長への学びを得る状況にもつながります

干渉を受けている状況を隠さない

  • (1000/1000) 誘惑から干渉を受けている状況に気づいたものの、干渉を制御しようとせずに放置していると、「干渉を放置する習慣」が形成され強められ、干渉を制御しない不誠実な生き方へつながるようになります
    • 誘惑から受ける干渉へ、絶え間なく向き合う状況は苦しみを生み出しますが、勇気をもって制御し続けていくことでのみ、苦しみを乗り越えられます
    • 受ける干渉から眼を逸らすほどに、苦しみは強くなり、苦しみから逃げ回る習慣が形成され、幻想へと陥[おちい]り、不誠実な生き方を造り出すようになります
  • (1000/1000) もしも、誘惑に呑まれてしまった際には、「なぜ誘惑に呑まれてしまったのか?」を焦らず落ち着いて丁寧に内省し、有形体の無数の周期、外環境の無数の周期、疲労、自己の状況、などを総合して考察するように努め、自己の学びへつなげ、成長への足掛りとします
    • 度々[たびたび]に、誘惑に呑まれるからといって、自暴自棄になり、誘惑の制御を手放していると、際限なく誘惑へ呑まれいくだけとなります
    • 成長を求める強い意志を保ち続けることが、成長への原動力となり、誘惑に打ち克つ状況へとつながりますが、移り行く様々な状況の中で、時には強い意志を保ち続けるのが困難な場面もあります
    • 強い意志を保ち続けるのが困難な状況は、多くの場合において、無形体の疲労、有形体の疲労/熱と関連しており、どのような状況で誘惑が強く/弱くなるのか、意志が強く/弱くなるのか、を内省し、様々なつながりを詳細に考察することで、強い意志を保ち続けるための気づきを得られるようになります
    • 意志の強さは、外環境の状況が直接的に関連するのではなく、自己の状況が直接的に関連している点に留意してください

至言の紹介

(1000/1000)「瀞沁」
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誘惑は靴に着いた泥はねと同じです
靴が真新しい時は
泥が着かないように注意深く歩き
常に汚れを拭い去っていますが
僅かにでも泥が着いたのならば
拭い落とすことを辞めてしまい
何時[いつ]の間にか
濁った水溜まりの中も
平気で歩くようになるのです
(1000/1000)「瀞沁」
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相手のおこなった行為に対して
相手を責めるのは容易です
相手を責めようとしてしまう
自己を赦[ゆる]さなくてよいからです

相手のおこなった行為に対して
相手に寛容をもつのは困難です
相手を責めようとしてしまう
自己を赦すには勇気がいるからです

自己を赦せないのは
自己の有する恐れ/怯えを認めたくないからです
自己は恐れ/怯えをもっていないと信じたいのです
勇気をもって自己の恐れ/怯えを受け入れ
利己性/自己中心性/欲望への囚われを認めるのならば
相手は未だ自身を囚われから解き放つだけの
勇気をもつ「始めの一歩」が踏み出せないのだと気づき
相手へ寛容をもつことができるようになるのです

質疑応答

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利己性/自己中心性/欲望

(1000/1000)

 誘惑を構成する利己性/自己中心性/欲望の3つの側面は不可分ですが、ひとつの側面が、他の2つの側面よりも非常に強く表れ際立ってみえる状況はみられ、ある同じ内容の行動に、利己性が強く表れている状況、自己中心性が強く表れている状況、欲望が強く表れている状況、のそれぞれを識別することができます。

 誘惑は、物質の心が瞬間瞬間に要求する内容によって、誘惑を構成する利己性/自己中心性/欲望の割合を変化させながら影響を与えています。言い換えると、要求する内容に相応する利己性/自己中心性/欲望の割合が、瞬間瞬間の誘惑を構成しているともいえます。例として、ある物事を追い求める(強い欲望を有している)場合には、追い求めている物事は瞬間瞬間の自己に都合の良い内容であり(自己中心性)、追い求めるという行動は他者へ不利益を被[こうむ]らせてでも自己の利益を得よう(利己性)としている現れとなります。この場合は、誘惑を構成する欲望が大きな割合を占めており、利己性/自己中心性の割合が比較的に小さい状況を表しています。

 加えて、誘惑に占める利己性/自己中心性/欲望の割合とは別に、誘惑そのものが有する影響力の大きさもあります。物質の心が瞬間瞬間に要求する強さが、誘惑の与える影響力の大きさとして表され、精神で単位時間あたりに利己性/自己中心性/欲望の表現を造化する量が増大するほどに、誘惑の影響力は強くなります。これは、瞬間瞬間の誘惑が、誘惑という影響力の量的な大きさと、利己性/自己中心性/欲望の割合による誘惑の質的な違い、の2者によって構成されていることを指しています。

 不誠実な性質を有する「あるひとつの行動」には、利己性/自己中心性/欲望の3つが必ず含まれており、3つの中で最も多い割合を占めるものが行動に強く表れている状況として識別します。更に、行動の詳細な観察を通して、行動の目的を把握するとともに、行動の目的と密接に関連している「利己性/自己中心性/欲望のそれぞれが占める」おおよその割合も把握できます。ただし、これらの識別した利己性/自己中心性/欲望のそれぞれが強く表れている状況を、有形的な言語では区別して表現し難いです。これは、明確に区別して表現するための語が存在しないためであり、自己の観察や体験を通して、精神で造化した無形的な印象では明確に識別できます。

 なお、利己性/自己中心性/欲望のそれぞれが強く表れる状況は、ひとつひとつの発言/行動だけでなく、発言/行動などの積み重ねによって形成される生き方にも傾向がみられるようになります。利己性が多くの割合を占める発言/行動を頻繁におこなっている者の生き方には利己性が強く表れ、自己中心性が多くの割合を占める発言/行動を頻繁におこなっている者の生き方には自己中心性が強く表れ、欲望が多くの割合を占める発言/行動を頻繁におこなっている者の生き方には欲望が強く表れています。

(1000/1000) 誘惑の大きさと割合
(1000/1000) 誘惑の大きさと割合

 不誠実な性質の表現/行為には、利己性/自己中心性/欲望、付与された不誠実な性質の活動性の程度に相応する特性、狡猾性/残忍性、の3つが必ずみられます。

 利己性/自己中心性/欲望は、表現/行為の有している不誠実性を構成する割合を表しており、表現/行為へ付与された不誠実な性質の活動性の程度に関わらず、物質の心が瞬間瞬間に要求する内容、あるいは、経験へ保存されている「不誠実な性質の表現を造化する習慣」の内容によって割合が変化します。表現/行為へ付与された不誠実な性質の活動性の程度が異なっていたとしても、類似する内容であるのならば、利己性/自己中心性/欲望は同等の割合を示します。

 活動性の程度に相応する特性は、表現/行為へ付与された不誠実な性質の活動性の程度によって、表現/行為にみられる特性が変化し、物質の心が瞬間瞬間に要求する内容、あるいは、経験へ保存されている「不誠実な性質の表現を造化する習慣」の内容によって特性は変化しません。表現/行為の内容が異なっていたとしても、同等の活動性の程度が付与されているのならば、同じ特性がみられます。表現/行為へ付与された不誠実な性質の活動性の程度は199(200未満)が上限となり、199でみられる特性が、不誠実な性質の活動性にみられる特性の全てを内包しています。活動性にみられる特性については、3章9節 精神 #表現の活動性を参照してください。

 狡猾性/残忍性は、物質の心が瞬間瞬間に要求する強さ(誘惑の強さ)、あるいは、経験へ保存されている「不誠実な性質の表現を造化する習慣」の強さによって変化します。狡猾性/残忍性の程度は、表現/行為へ付与された不誠実な性質の活動性の程度が1では弱く、付与された活動性の程度が高くなるのにともない徐々に強くなります。付与された活動性の程度が上限となる199であったとしても、物質の心が瞬間瞬間に要求する強さ、あるいは、経験へ保存されている「不誠実な性質の表現を造化する習慣」の強さが増強されるほどに、狡猾性/残忍性の程度も際限なく強くなります。狡猾性/残忍性の程度に上限はありません。

 この質疑応答に関連する内容には、3章9節 精神 #質疑応答の「誘惑の干渉を受けて造化される不誠実な表現と、経験の機能特性に保存されている不誠実な性質の表現を造化する習慣によって造化される不誠実な表現には、どのような違いがありますか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000) 利己性/自己中心性/欲望と活動性の程度の特性と狡猾性/残忍性の違い
(1000/1000) 利己性/自己中心性/欲望と活動性の程度の特性と狡猾性/残忍性の違い

(1000/1000)

 はじめに、顕示欲とは、精神で造化した表現を「外環境へ表現したい」とする欲求であり、顕示欲が全く無いのならば、外環境へ様々に表現することはできません。一方で、強い顕示欲を有しているのならば、多くの場合では誘惑から影響を受けて、自己を良く見せたい、自己へ構ってもらいたい、などの虚勢を張り虚栄心を満たす行動へつながります。

 必要な最低限の顕示欲に基づいておこなわれる外環境への表現は、眼前の状況へ、過不足なく適切な程度に応対する活動を指しています。必要な最低限へ達していなくては眼前の状況へ応対できませんが、逆に、必要よりも多いのならば利己的/自己中心的な応対へとつながります。例として、発言するという行動では、発言の内容に関係なく、発言という行動そのものが自己を顕示する活動であり、発言の目的と、発言の内容によって、必要な最低限か、あるいは、必要よりも多いのか、が決まります。

 なお、過不足のない適切な発言とは、発言という行動そのものが長くも短くもない状況を指しているのではなく、発言が「必要とする内容」のみで占められている状況を指しています。必要とする内容を短い発言で伝えられる場合もあれば、一方で、必要とする内容を伝えるために長い発言となる場合もあります。

 社会の中で、自己を顕示する典型的な行為には、自己の意見を他者へ述べる(発言する)ことが挙げられます。ただし、自己が意見を述べるのは、他者の意見を聴いて、他者の述べた意見の内容を考察した後でもおこなえます。「何としてでも自己の意見を述べたい」という利己性/自己中心性/欲望に基づく自覚のある、あるいは、自覚できるものの自覚のない強い顕示欲は、他者が意見を述べている途中で遮[さえぎ]り自己の意見を述べようとさせ、また、他者の意見を「あるがまま」に聴き考察するのを阻碍し、自己の意見を押し通そうとさせるようにも、はたらきます。先[ま]ずは、他者の意見を誠実に聴くことへ意識を集中し、聴いた内容を丁寧に考察したうえで、その後に、必要であれば自己の意見を述べるように努めるのが、「必要とする内容」のみを述べる状況へつながりやすくなります。

(1000/1000)

 物質の心から受ける誘惑によって「不誠実な性質の表現を造化する習慣」が喚起されるのか、あるいは、喚起され難いのかは、自己の内面の状況によって決まります。誘惑と成り得る物品、情報、物事、現象、などを物的に遠避けていたとしても、遠避けていないとしても、両者に大きな違いはみられません。

 外環境の「誘惑と成り得るもの」を認識すると、「不誠実な性質の表現を造化する習慣」が喚起されやすくなるために、誘惑(主に欲望)と成り得るものを外的/物的に遠避けていれば、それらの「もの」が有形体の視覚/聴覚/嗅覚/触覚などを通して認識される機会が減少し、物質の心から受ける誘惑(利己性/自己中心性/欲望)によって「不誠実な性質の表現を造化する習慣」が僅かに喚起され難くなります。しかし、誘惑と成り得るものを外的/物的に遠避けていても、内的に湧き起こる誘惑を我慢/忍耐/辛抱しているのでは、物質の心から受ける誘惑によって不誠実な習慣が喚起され続けています。また、外環境の物品/情報/物事/現象などを「誘惑と成り得るもの」と認識する捉え方そのものが、「不誠実な性質の表現を造化する習慣」を喚起させやすくもしています。外環境の物品/情報/物事/現象などを「誘惑と成り得るもの」と捉えるのか/捉えないのかは、自己が自由意志で決めている点に留意してください。誰もが、外環境の同じ物品/情報/物事/現象などを「誘惑と成り得るもの」と捉えているのではないのです。

 精神で「誘惑と成り得るもの」を欲する表現を造化する、あるいは、誘惑を抑え込もうとする表現(我慢/忍耐/辛抱など)を造化している限り、経験へ保存されている「誘惑に関連する習慣」は強められ、強い習慣は物質の心によって容易に喚起されるようになります。精神で「誘惑と成り得るもの」を欲する表現や誘惑を抑え込もうとする表現を造化しないように努めることでのみ、誘惑に関連する習慣は弱くなり、物質の心によって喚起され難くなるのです。

 現在に精神で誘惑を欲する表現や誘惑/欲望を抑え込もうとする表現を造化しないように努め、誘惑に関連する習慣を弱めていたとしても、過去に満たせなかった利己性/自己中心性/欲望の内容が誘惑の影響を受けて湧き上がってくる場合もあります。熱/疲労などで誘惑の影響が強くなっていると同時に、克己の造化が減少して誘惑の干渉を受けやすくなると、経験へ保存されている、過去に手に入れたかったものの手に入れられなかったために形成された「手に入れたい」という囚われ(固定観念)が誘惑によって喚起されるようになるのです。例として、過去に欲しかったものの高価で買えなかった家電製品/服飾品/家具、読みたかった書物、視聴したかった映画のDVDメディア、遊んでみたかったビデオゲーム、食べてみたかった料理/食材、飲んでみたかった酒、などを何年/何十年が経た後にも度々に手に入れたくなる状況が挙げられます。ただし、これらを「手に入れたい」という囚われへ囚われているだけであり、手に入れて現在に使いたい、読みたい、視聴したい、遊びたい、食べたい、飲みたいのではないのです。もしも、これらを手に入れようと行動したのならば、「手に入れたい」という囚われが強められるだけであり、また、手に入れたとしても、過去に満たせなかった利己性/自己中心性/欲望の内容は満たされません。熱/疲労を解消し、克己の造化を増大させて誘惑から受ける干渉を防ぐことで、「手に入れたい」という囚われが喚起されなくなります。囚われについては、次節の5章4節 固定観念/既成概念を参照してください。

 物質の心から受ける誘惑によって不誠実な習慣が喚起されるのと同様に、地獄者/地縛者から干渉を受けて不誠実な習慣が喚起される状況も頻繁にみられます。現在に、地獄者/地縛者たちに憑依されているとしても、憑依されていないとしても、僅かにでも怒り、苛立ち、悲しみ、楽しさ、などの感情を造化すると、それらの感情を増大させるように地獄者/地縛者たちに「はたらき」かけられ、怒り/苛立ち/悲しみ/楽しさなどの感情を造化させるような行為を次から次にと自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なくおこなうようになり、更に感情の造化を増大させる循環を形成します。そして、何時[いつ]の間にか感情の造化を制御できなくなり、克己を造化することも忘れ去り、感情のままに行為をおこなうようになります。常に、自己の精神でおこなう「表現を造化する工程」を内省して、造化する表現の内容/性質を統率/制御し、無用に「不誠実な性質の表現を造化する習慣」が喚起され強められないように留意する必要があります。地獄者/地縛者から受ける干渉については、2章5節 無形界の住人 #質疑応答の「地獄者は、有形界で生活している者へ、どのようにして干渉してくるのですか?」を参照してください。

 何よりも、常に全体の成長を促進するように努める生活を実践しているのならば、個体の矮小な利己性/自己中心性/欲望を満たすことに囚われ、拘[こだわ]り、しがみつかなくなるために、物質の心から受ける誘惑の影響によって「不誠実な性質の表現を造化する習慣」は喚起され難くなります。

 この質疑応答に関連する内容には、5章1節 修養の生活 #質疑応答の「行為へ意識を向けないように努めるほどに、行為へ意識が向いてしまうのですが、どうすれば意識を向けないようにできますか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 どれほどに着飾り、化粧を施し、体型/髪型/容姿を整えても、肉眼で「有形体の表面」が物的に美しく視えるだけであり、生き方が外環境へ表れる立ち方、歩き方、日常の些細な挙措、態度、などに美しさは現れません。そして、どれほどに威厳のあるように体裁を整え、謙虚にみえるように振る舞っても、利己的/自己中心的で不誠実な生き方をしているのならば、有形体の輪郭が不鮮明に霞[かす]むほどに暗闇で染まった醜悪[しゅうあく]な様相が霊眼で視えています。

 物的な美しさは、地上で生活する僅かな期間のみしか維持されない「刹那的/表面的な美しさ」ですが、一方で、内面の状況や生き方に表れる美しさは、期間に限定のない「永続的/本質的な美しさ」です。ただし、成長を実践するうえで、服装、化粧、体形、髪型、容姿、などへ一切の意識を向けずに、無頓着であることが求められるのではありません。自己が他者からどのように見られたいのか? に基づいて服装、化粧、体形、髪型、容姿、などを美しくみせるのではなく、自己の成長を阻碍しないために、衣服や有形体を清潔に保ち、髪型や服装を整えます。他者へ見せるためではなく、自己の内面を成長へ向けて正しく保つためにおこなうのです。

 有形体の表面を美しくみせようとするのは、人(分霊)が有する美しさを際立たせているのではなく、分霊の美しさを隠し、表面へ施した鍍金[めっき]を美しいと思い込んでいるだけに過ぎません。鍍金を施すのではなく、成長を求め、成長の実践を通して分霊そのものを磨き上げることで、分霊本来の美しさが、立ち方、歩き方、日常の些細な挙措、態度、などに表れるようになります。人をランタンへ譬[たと]えると、ランタンのガラスの覆いを、どれほどに彩[いろど]り飾り立てても、中の灯火(明かり)が明滅するほどに小さくては、ランタンは用を為さず無価値です。また、ガラスの覆いを、どれほどに彩り飾り立てても、中の灯火が放つ素朴な美しさに勝る状況はなく、灯火の美しさを遮[さえぎ]るだけにしかなりません。「灯火が放つ輝き」を増大させることが最も美しいのです。

 地上の社会全体は、余りにも多くの悪(自覚のある不誠実)が蔓延しています。余りにも強大な利己性/自己中心性/欲望や、濃い暗闇で覆われています。これらの皺寄[しわよ]せを受けて、あらゆる場所で、あらゆる地域で、差別/貧困/暴虐が溢れています。そして、自己が差別/貧困/暴虐を受けていなくても、自己が直接に差別/貧困/暴虐を受けている者たちと遭遇しなくても、各地域で起きている差別/貧困/暴虐はマスメディアを通して絶え間なく報道されており、地上に差別/貧困/暴虐が溢れている状況を知らないという者はいません。また、報道されないような差別/貧困/暴虐も溢れています。

  • 日々に必要とする日用品にも不足し困窮[こんきゅう]する者たちが溢れているのを知りながら、自己は髪型/髪色/化粧/着飾ることに拘[こだわ]り、また、次から次にと必要でもない欲しいだけの物品/家電製品/自動車などを買い求めていられるのですか?
  • 日々の着る衣服が手に入らず裸同然で、履く靴もなく裸足で生活している者たちが溢れているのを知りながら、自己は少しの解[ほつ]れで、染みで、また、流行が過ぎたからと、何の支障もなく着られる衣服を靴を捨てて、次から次にと買い替えていられるのですか?
  • 日々の僅かな食物にも事欠く者たちが溢れているのを知りながら、自己は美食を追求し、飽食に浸[ひた]り、食物/食品の小さな傷みや外見の形状/色味に拘[こだわ]って無駄に廃棄していられるのですか?
  • 大量のごみ/有害廃棄物/有害排気ガス/過剰な化学肥料による河川/海洋/大気/土壌の汚染から深刻な被害を受けている者たちが溢れているのを知りながら、自己は大量生産/大量消費/大量廃棄をしていられるのですか?
  • 風雨を防ぐ家も無く寒さに暑さに不衛生に堪え忍んでいる者たちが溢れているのを知りながら、自己は暖房/冷房の効いた部屋で暇潰しにテレビ番組を視聴して、スポーツ観戦に熱狂して、ビデオゲームに熱中して、また、無用に水を電気をガスを浪費していられるのですか?
  • 差別に迫害に脅迫に弾圧に曝[さら]されている者たちが溢れているのを知りながら、自己は自慢話をして、他者の噂話/陰口/中傷を拡め、相手を非難/批判/糾弾していられるのですか?
  • 重い疾病に障碍に怪我に苦しみ立つのも歩くのも困難な者たちが溢れているのを知りながら、また、最低限の治療を受けることもできない者たちが溢れているのを知りながら、自己は指先に負った擦り傷を手厚く治療したうえで「痛い痛い」と愚痴を言い続けていられるのですか?
  • 移動手段もなく、重病で、怪我で、歩くのもままならないのに病院へ無理をして何時間も歩いていかなければならない者たちが溢れているのを知りながら、自己は余暇を過ごすために、飛行機、自動車、バイク、ヨット/ボートを乗り回して配慮なく観光地/レジャー施設へ押し寄せ、無用な渋滞/混雑や環境公害を引き起こしていられるのですか?
  • 向かう先々で逃れようのない暴力を受け続け、搾取され、何時[いつ]に終わるともわからない強制される過酷な凄惨な不衛生な環境で生活し、心身(物的/有形的)に深い傷を負いながらも、希望を失わずに前へ進もうとしている者たちが多くいるのを知りながら、自己は相手から都合の良くない応対をされたからと苛立ち拗[す]ねて僻[ひが]んでいられるのですか?

 差別/貧困/暴虐を受けている者たちが、自己の肉眼に視える/肉耳に聴こえる狭小な範囲にいないからと、彼らに気づかない/知らない振りをして怠惰に安逸に利己的/自己中心的に生活しているのは、差別/貧困/暴虐へ加担し助長させている共犯といえます。自己も、差別/貧困/暴虐を受けている者たちも、現在の同じ時期に、地上で有形体を用いて生活している同胞/同朋です。彼らの同胞/同朋として、壁を挟んだ反対側の場所で、河を山を海を隔てた向こうの地域で狡猾/残忍におこなわれている凄惨な陰湿な状況から眼を逸らしてはいけないのです。今この瞬間に自己が彼らへできる手助けをしていく必要があります。

 ただし、誰もが何時[いつ]でも、差別/貧困/暴虐を受けている者たちへ直接に物的な手助け/支援/援助をおこなえるとは限りませんが、誰もが何時[いつ]でも、彼らへの「思いやり」を通して自己の生き方を修正することはできます。「思いやり」を通して、生活に必要とするよりも多くを求めず、他者へ分配されるように配慮するのです。自己が必要とする最低限よりも多く求めないことで、余剰分が、必要とする最低限にも不足している自己以外へ自然に分配され、自己以外が必要とする最低限を満たせるようになります。これは、風が吹けば桶屋が儲かる、バタフライ効果、などと呼ばれる現象と同様であり、自然に分配されるのは自己の周囲だけでなく、地上全体へ連鎖して波及します。個々のおこなう「思いやりに基づく生き方の修正」そのものは、愛の行為ではありませんが、他者/脊椎動物/社会などの自己以外へ影響を与え成長を促す切っ掛けとなる「愛の行為に近似する誠実な行為」となり、必ず社会を変革し、悪(自覚のある不誠実)を打ち払い、利己性/自己中心性/欲望や暗闇を霧散させて、差別/貧困/暴虐の解消へつながります。

 この質疑応答に関連する内容には、5章6節 愛の行為 #質疑応答の「病床へ着いており、ほとんど寝たきりで行動することができないのですが、それでも愛の行為としてできる内容はありますか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 自己が最低限に必要とするよりも多くを求める行動が、欲望になるのか、欲望にならないのかは、行動の目的によって決まります。

 「何らかを求める」という行動そのものではなく、行動の目的へ意識を向ける必要があります。行動の目的が、自己の利益のため、虚栄心を満たすため、恐れ/怯えを隠すため、などの「自己に不要なものを求めている」のならば、これらの行動は、自己が最低限に必要とするよりも多くを求める欲望となります。何らかを求める際に、「最低限に必要とするもの」は、常に誠実な目的に基づいて求めようとしますが、一方で、「最低限に必要とするよりも多くのもの」や「不要なもの」は、不誠実な目的に基づいて求めようとする特徴がみられます。誘惑の影響を受けて形成される可能性のある「幻想の捉え方」に基づく様々な行動の中でも、お喋り、独り言、蒐集[しゅうしゅう]は、必要とする最低限よりも多くを求める典型の行動といえます。お喋り/独り言は、必要とする最低限よりも多くを発言して顕示欲と虚栄心を満たそうとしています。蒐集は、必要とする最低限よりも多くの物品/情報などを溜め込むことで幻想の安定性を得ようとしています。お喋り/独り言/蒐集については、前節の5章2節 幻想を参照してください。

 ただし、自己という個体には最低限に必要としていなくても、他者/全体のためになるのであれば求める場合もあります。これは、愛の行為と関連しており、自己を自己以外(他者/全体)のために役立てようとする思いに基づいておこなわれます。例として、語学を習得する場合に、ある書物を翻訳して他者へ紹介するために習得するのは、自己に「いずれ役立ちそう」なので習得するのと目的/必要性が異なります。なお、いずれ必要になるだろうという理由で何らかを求めた場合に、天使たちの計画で導かれているのでない限りは、今後に必要となる状況はありません。この場合の多くは、自己の恐れ/怯えに基づいて求めています。愛の行為ついては、5章6節 愛の行為を参照してください。

 有形体の内包する物資の心から受ける誘惑の影響は、外環境から主に物的な「様々なもの」を入手して眼前の状況を安易に短絡的に解決させようと「はたらき」かけるだけでなく、入手した「もの」を利己性/自己中心性/欲望に基づいて使わせるようにも、はたらきかけます。大金を手に入れたから/余剰金があるから浪費したくなるのです。銃を携帯するから撃ってみたくなるのです。ナイフを持つから斬りつけてみたくなるのです。軍隊を保有するから他国で武力を試したくなるのです。権力を有していると思い込んでいるから他者を従わせたくなるのです。これらを所有しないのならば、「使ってみよう」と思い立つ状況もありません。自己が必要とする最低限のみを所有するように努める状況は、無用に利己性/自己中心性/欲望を喚起させなくなるのです。

 地上の生活では、誘惑の影響を受けて形成される固定観念(囚われ/しがみつき)が多くあります。現在の段階で、ある物品/物事が手に入りそうになかったのならば、類似する物品/物事を次から次にと手に入れて、一時的に内面の安定性を得ようと画策します。加えて、ある物品/物事を繰り返し欲することで、固定観念が形成され強められていき、何時[いつ]の間にか、ある物品/物事を手に入れなければならないと思い込むようになり、何年/何十年を経た後にも、何としてでも手に入れようとします。類似する物品/物事を次から次にと手に入れているうちに、始めに欲していた物品/物事を忘れ去ってしまい、「物品/物事を手に入れなければならない」という固定観念に基づいて様々な物品/物事を手に入れ続けようとするのです。物品/物事を欲することで形成される固定観念は個々によって様々ですが、日常的に誰にでも頻繁にみられる固定観念の例には、特定の食物(食材/食品/料理/酒類/デザート類/菓子類など)を食べたい/食べてみたいという内容が挙げられ、広告/カタログでの宣伝、店頭での陳列、テレビ番組/書物/ウェブサイトでの紹介、などの閲覧/視聴を切っ掛けとして欲するようになります。固定観念については、次節の5章4節 固定観念/既成概念を参照してください。

 利己性/自己中心性/欲望には限度がない(際限なく強くなる)ことに留意してください。外環境から何らかの物品/物事を得ても、内面に幻想の安定性を造り出しているだけであり、内面に実在の安定性は得られないために、また、始めに欲していた物品/物事を手に入れていないために、何時[いつ]までも欲するようになります。形成し強めた「外環境から何らかを得ようとする」固定観念は、地上での生活を終えた後も有したままです。この固定観念が地上生活への未練/固執となり、無形界での成長を阻碍するように、はたらいています。幻想の安定性については、前節の5章2節 幻想を参照してください。

 誘惑の影響を受けて、ある物品/物事を繰り返し欲している状況へ気づいたのならば、克己を造化して誘惑から受ける影響を制御する(克己の造化へ意識を向ける)と同時に、ある物品/物事を欲する固定観念に基づく行為をおこなわない(行為へ意識を向けない)ように努めることで、固定観念を形成しないようになり、また、既に形成されている固定観念を弱め解消できるようになります。

 現在の地上社会では、「お金(利益)」を得るためだけに職へ就く、窃盗/強奪をおこなう、他者を騙[だま]す/脅迫する、賭け事/宝くじ/金融取引に熱中する、他国へ侵略する、などが余りにも多くみられます。同様に、社会を発展させるための環境開発という名目で、樹木の大量伐採、自然環境の破壊、資源の過剰搾取、住居/建築物の乱造、住宅地の濫造、田畑/海/湖沼の無配慮/浅慮な埋め立て、なども多くおこなわれていますが、これらは「開発」ではなく、自己/自社/自国の利益を獲得し続けたいだけに過ぎません。現在に地上社会の多くの地域で物的に生活するには「お金」を必要とし、全く不要となる状況はみられませんが、お金は物体に過ぎず、多く有していても、少なく有していても、有していなくても、成長には関係ありません。どれほどに多くのお金を得たとしても、どれほどに多くのお金を使用したとしても、成長を求める意志に基づいて行動していないのならば成長へはつながらず、寧[むし]ろ、恐れ/怯えや利己性/自己中心性/欲望を強めるようになります。

 この質疑応答に関連する内容には、5章1節 修養の生活 #質疑応答の「禁欲の生活による苦しみが成長を促すのですか?」、また、6章2節 書物を読む際の留意点 #質疑応答の「テレビ番組を視聴していて、どのような目的で放送されているのか理解できない内容の番組が増加しているように感じます。テレビ番組からでも成長への学びを得ることはできるのでしょうか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 軍隊とは、不誠実な行為へ対抗するための不誠実な行為といえます。この軍隊には、国家、企業、個人、などの所有する軍隊/武力だけでなく、公安(警察)、警備員、騎士団(日本にはありません)、法律/規則などの罰則、なども含まれます。インターネットや電子機器の普及している現在では、コンピューターシステムへ侵入(ハッキング)して情報の搾取/破壊/改竄[かいざん]、バックドア/スパイボットの設置、などをおこなう状況や、迷惑(スパム)メールの送信、ブログ/ウェブサイト/SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)への誹謗中傷/偽情報の書き込み、悪戯[いたずら]/ディープフェイク/リベンジポルノなど刹那的な快楽や復讐のために画像/動画をインターネットへ投稿する状況、なども軍隊/武力と同様に、物的な暴力となります。物的な暴力は、暴力を行使する者たちの利己性/自己中心性/欲望を必ず強める特徴を有しています。そして、暴力は、決して統率/制御できません。一時的には統率/制御できているようにみえたとしても、暴力を用い続けていれば、必ず綻[ほころ]びが現れ、無秩序に狡猾/残忍に用いるようになります。

 軍隊は、他国、他者、他集団、他部族、などから攻め込まれる/侵略されるかもしれないという「外環境に対する恐れ/怯え」に基づいて編成/整備されているために、一度でも軍隊を造り出したのならば、軍備を増強することはできても、手放し解体することはできなくなります。恐れ/怯えは、軍隊を増強するほどに恐れ/怯えを増大させ、更なる軍備の増強へと駆り立てます。恐れ/怯えが、軍隊を手放し解体するという選択肢を有する状況は決してありません。そして、恐れ/怯えに基づいて編成/整備された軍隊は、周囲の国家/企業/個人などが有する恐れ/怯えを増大させ、軍隊へ対抗するための軍隊/武力を造り出させるようになり、恐れ/怯えが恐れ/怯えを増大させていく循環を形成するようになるのです。人の有する恐れ/怯えは、同様の恐れ/怯えを有する地獄者/地縛者たちを引き寄せ集めます。地上の各地域で運営されている「それぞれの軍隊」の背後には、恐れ/怯えを隠し、幻想の鎧で身を守ろうとする、余りにも大勢の地獄者/地縛者たちが集まっており、運営する人々へ憑依し操り、軍備を増強させて幻想の安心感を得ようと日々に画策しています。

 加えて、戦争は取り決め/合意事項を守っておこないましょう、という捉え方も滑稽でしかありません。核爆弾、クラスター弾、ナパーム弾、サリンガス、白リン弾、などの大量破壊兵器や化学/生物兵器の使用は取り決め/合意事項に違反するから使用した者を非難し、一方で、ナイフ、ライフル銃、格闘技、などの使用を非難しないのはどうしてなのか? 一度に大量の構造物や人を破壊/殺害しないのならば物的な暴力を是認するのか? を詳細に考察する必要があります。物的な暴力に規則や制限は規定できません。物質の心は、有形体に危害を加えられる可能性が増大するほどに狡猾性/残忍性と利己性/自己中心性/欲望を強く発露させ、取り決め/合意事項を破らせます。そして、物的な規模に関わらず、物的な暴力を用いるほどに際限なく狡猾性/残忍性を強めていくだけになるのです。現在では、兵器へ人工知能を搭載しない/搭載の制限、宇宙空間に核兵器を配備しない、兵器を装備した自律型ロボットの使用制限、なども議論されていますが、それらの取り決め/合意事項が遵守される状況もありません。眼前の状況を武力/暴力で解決しようとする捉え方は地上社会の全体で拡く既成概念を形成しており、既成概念に基づいて武力/暴力を用いるのは当然と捉えたうえで、武力/暴力の用い方を規定する戦時国際法の制定などの滑稽な状況が生み出されています。

 同様に、戦争という状況での、民間人/医療従事者/医療機関の保護、民間人への食料/物資の支援、捕虜の待遇、などに関する規定へ違反すると戦争犯罪と呼び非難/批判/糾弾するものの、どうして戦争という物的な暴力の行使を犯罪と呼ばずに容認しているのか? を考察する必要があります。戦争や武力による威圧/牽制が政治や駆け引き/交渉に必要と思い込んでいるのならば、その国家/集団は何時[いつ]までも成長しないだけでなく、自国/自集団の設置されている地域や、自国/自集団が戦争や武力による威圧/牽制を仕掛けた他国/他集団の地域の発展を阻害するように、はたらきかけています。地上の連綿と続く歴史において、武力/軍備を増強してきた国/集団/部族が本質的に繁栄したことはありません。武力/軍備の増強は、恐れ/怯えや利己性/自己中心性/欲望を際限なく増大させているために、物的には一時的に繁栄しているように観えたとしても、有形的/無形的には腐敗/退廃/衰退を進行させており、必ず滅亡します。

 同様に、個々が護身の名目で、銃器、ナイフ、スタンガン、催涙スプレー、などを所持しても、自衛には成り得ません。銃器などを所持することで、恐れ/怯えを土台とする自己の内面の不安定性から眼を逸らしたいだけであり、実際には、「他者から危害を加えられるかもしれない」という恐れ/怯えを強めるだけになります。物品や物的な物事で、内面に安定性を得ることはできないのです。内面に安定性を得るには、「何時[いつ]でも、何処[どこ]でも、他者から危害を加えられるかもしれない」と恐れ/怯え続けている内面に向き合う必要があり、恐れ/怯えを弱め消し去っていくことのみが、内面に安定性を生み出します。類似する物事は互いに引き寄せ合うために、「他者から危害を加えられるかもしれない」という恐れ/怯えに基づく思考は、他者から危害を加えられるような運命の流れを形成し、他者から危害を加えられる状況を造り出すようになります。ただし、恐れ/怯えを有していなくても、運命の流れによって他者から物的な危害を加えられる状況は有り得ます。運命の流れについては、4章6節 自由意志/運命を参照してください。

 相手へ脅迫/威嚇/差別などをおこなう者は、自身の恐れ/怯えている内容を当然に相手も恐れ/怯えていると思い込んでいるために、自身の恐れ/怯えている内容を相手の脅迫/威嚇/差別に用いています。これは、個体だけでなく、企業/団体の活動や国家の内政/外交にも頻繁にみられます。自身の恐れ/怯えている内容を相手が恐れ/怯えていないのならば、脅迫/威嚇/差別にはなりません。例として、自覚的に(自覚しても、あるいは、自覚できるものの自覚していなくても)一切に死を恐れ/怯えていない者に「殺す」という脅迫は滑稽[こっけい]であり、物的な暴力を恐れ/怯えていない者に兵器/武力を用いた威嚇は無意味です。恐れ/怯えについては、前節の5章2節 幻想 #質疑応答の「恐れ/怯えを消し去れば、あらゆる物事を恐くないと捉えるようになるのでしょうか?」も参考にしてください。

 現在の地上社会では、社会の成長の程度が低く、同時に、不誠実な生き方が蔓延[まんえん]しており、不誠実な生き方に基づいておこなわれる不誠実な行為を抑止するために、武力/罰則などの不誠実な行為が多く造り出されています。軍隊/武力/罰則などは、不誠実な行為へ対抗するための不誠実な行為としてではなく、本来は不要だけれども「一時的な抑止力」としての不誠実な行為と捉えて、何時[いつ]でも手放し解体できる心構えを常に抱き続けて運営する必要があるのです。個々の人々が成長し、誠実な生き方をする者が増加するほどに、抑止力としての不誠実な行為は不要となります。我先[われさき]にと利己的/自己中心的に行動することなく、他者へ配慮ある行動をおこなえる「誠実な生き方」には、抑止しなければならない行為など何ひとつありはしないのです。他国、他者、他集団、他部族、などから攻め込まれる/侵略される状況を想定して軍隊を整備/編成することへ時間/労力(加えて、莫大な資金)を費やすのではなく、軍隊を不要とするような外交/対外交渉へ時間/労力を費やす必要があります。戦争/紛争の勃発へ備えて軍隊で対立的な防衛をおこなうのではなく、戦争/紛争を勃発させない外交/対外交渉こそが融和的な防衛となるのです。

 参考までに、2024年6月時点での、地上に現存する国家の中で、不誠実な生き方(強い恐れ/怯えに基づく生き方)をしている指導者/元首は、おおよそ53%を占めています。国家に加えて、国家に類似する統治組織、国際組織、などの指導者/元首/代表者を含めると、おおよそ71%を占めています。これは、強い恐れ/怯えに基づく政策、利己性/自己中心性/欲望を満たすための外交、などをおこなう共同体(国家/組織)が、地上社会の5-7割ほどにみられる状況を表しています。国家の運営に携わる者には、誠実/不誠実な生き方をしている者たちが混在していますが、誠実な生き方をしている指導者/元首は、誠実な生き方をしている者を引き寄せやすくなり、国家の運営も誠実な方向性へ向くようになります。一方で、不誠実な生き方をしている指導者/元首は、不誠実な生き方をしている者を引き寄せやすくするために、国家の運営も不誠実な方向性へ向くようになります。同様に、不誠実な生き方をしている者が多くを占める共同体/社会では、様々な選挙/選出/投票においても、不誠実な生き方をしている者や、不誠実な物事を選択しやすくなり、共同体/社会は物的には発展しているようにみえたとしても、実際には共同体/社会の成長の程度が退行していきます。社会の成長の程度が退行することについては、2章3節 有形界の構造 #質疑応答の「社会の成長の程度が退行する原因には、何がありますか?」も参考にしてください。

 本質的に、戦争、兵器の使用/生産、兵器/武力を用いた牽制/威圧、「殺す」などの脅迫/威嚇[いかく]/中傷、拷問、殺害、虐[いじ]め、虐待、性暴力、家庭内の暴力、業務上の暴力、などの物的な暴力を無くすためには、国家/社会や個々の有している「有形体を損傷/損壊/破壊すれば眼前の状況が解決する」という滑稽[こっけい]な思い込みを消し去る必要があります。

 この質疑応答に関連する内容には、5章1節 修養の生活 #質疑応答の「行為をおこなう際に用いる手段と、手段の有する誠実/不誠実の性質は、どのように分類されるのですか?」、また、5章6節 愛の行為 #質疑応答の「行動の目的が行動の誠実/不誠実の性質を決定するのならば、戦争も目的によっては誠実な性質を有する愛の行為に成り得るのですか?」がありますので参考にしてください。がありますので、参考にしてください。

(1000/1000)

 精神で、特定の歌、旋律、文言、などが、積極的に再生しようとしていないものの、あるいは、再生しないように努めているものの、自動的に繰り返し再生されるのは、誘惑から受ける影響を克己で制御しきれなくなり、干渉を受け始めているために起きています。

 この状況は、特に、熱の上昇によって起きる場合が多くみられ、物質の心が熱の上昇に反応して誘惑の影響力を急激に強めるために、克己での制御が追いつかなくなり、干渉を受けるようになります。感冒などで熱にうなされている場合にも、同様の状況が頻繁にみられます。加えて、強い疲労がみられる場合にも、物質の心から受ける誘惑の影響力は増大し、同時に、克己を造化し難くなるために、克己で誘惑から受ける影響を制御できなくなり、干渉を受けやすくなります。疲労と物質の心から受ける影響力や克己の造化との関連については、3章5節 有形体 #疲労、また、3章4節 無形体 #疲労を参照してください。

 1日の中でも、疲労の程度、食事の時間帯/内容/量、有形体の周期(1日未満での複数の周期)、などによって誘惑の強くなる時間帯/弱くなる時間帯がみられます。更に、1週間、1ヶ月、半年、1年、数年、などの有形体/外環境の周期も、日々の誘惑の強くなる時間帯/弱くなる時間帯へ影響を与えています。特定の歌/旋律/文言などが自動的に繰り返し再生されている時間帯を観察して、何時[いつ]の時期/時季に、何が、どのような組み合わせで、どれくらいに誘惑を強めているのか? を考察することで、誘惑から受ける干渉を積極的に制御しやすくなります。

 特定の歌/旋律/文言などと同様に、繰り返し湧き浮かぶ「感情をともなう過去の思い出」も、誘惑から干渉を受け始めている状況を表しており、誘惑から干渉を受けて経験へ保存されている特定の習慣(固定観念)が喚起され、習慣によって記録へ貯蔵されている「特定の習慣に関連する内容」が呼び出されているのです。この状況は放置していると、造化している感情が喚起された習慣を強める循環を形成していくために、できる限り即時に対応する必要があります。同調する活動性の程度を高め、克己の造化を増大させ、何時[いつ]までも繰り返し過去の思い出を思い出す自己を赦[ゆる]すことで、感情をともなう思い出は消え去っていきます。ただし、赦す対象は、思い出の中に出現する出来事/他者ではなく、「現在の自己」である点に留意してください。赦しについては、4章2節 有形界での成長 #質疑応答の「寛容と赦しは類似しているようにみえますが、どのような違いがあるのですか?」を参照してください。

 この質疑応答に関連する内容には、5章1節 修養の生活 #質疑応答の「有形体内の周期、外環境の周期にはどのようなものがありますか?」がありますので参考にしてください。

克己の造化

(1000/1000)

 克己を用いておこなう誘惑の相殺とは、誘惑によって湧き起こる思考/感情を抑え込み、思考/感情が湧き起こらないように我慢/忍耐/辛抱することではありません。克己は、誘惑から受ける影響を跳ね返し、また、抑え込むのではなく、誘惑から受ける影響を静かに打ち消していきます。これは、誘惑という荒波を防波堤で防いでいるのではなく、克己という静かな波(あるいは、波のない状況)をぶつけることで、荒波を鎮静させる状況へ譬[たと]えられます。

 行為を辞めるという観点から捉えた場合では、克己で誘惑を相殺する際に、自己が意識を向けるのは克己に対してであり、誘惑から受ける影響や、誘惑から干渉を受けて造化される思考/感情へ意識を向けるのではない点に留意してください。誘惑に干渉を受けて造化される思考/感情は分霊の心が造化している表現のために、これらの思考/感情へ意識を向けないように努めれば、思考/感情は消え去っていきますが、誘惑から干渉を受け続けている限り、干渉を受けた思考/感情は際限なく造化されます。誘惑からの干渉を防ぐ(克己で誘惑を相殺する)ことによってのみ、干渉を受けた思考/感情の造化を辞められるようになります。

 誘惑から干渉を受け、精神で、始めに造化される不誠実な性質を有した無形的な表現に続いて、言語による有形的な表現を造化すると、有形的な表現へ意識を向けないようにしても表現が消え去り難くなる場合があります。無形的な表現の段階で消し去るのは比較的に容易といえます。例として、「お腹が空いた」という感覚を認識した段階では無形的な表現が造化されていますが、「お腹が空いた」と言語で認識する段階は有形的な表現が造化されています。言語で明確に「お腹が空いた」と認識すると、更に、「何か食べたい」という有形的/無形的な表現を造化し、食べる行動へとつながっていきます。始めの無形的な表現の段階で、言語化しないままであれば「何か食べたい」という誘惑が膨れ上がることはなく、消し去りやすくなりますが、一方で、言語化すると、急速に「何か食べたい」という誘惑が膨れ上がり、行動の制御が困難になります。

 なお、我慢/忍耐/辛抱は、誘惑から干渉を受け始めた状況へ気づいていながらも、干渉を受けて造化した思考/感情へ意識が向き(意識が囚われ)、あるいは、思考/感情から意識を逸らし、誘惑や思考/感情を消し去らずに抑え込もうとする状況で感じ取ります。意識の受ける感覚としては、克己からは静けさ/柔軟さなどを感じ取りますが、一方で、我慢/忍耐/辛抱からは騒擾[そうじょう]/膨満感/硬質感などを感じ取ります。意識を向けない/逸らすについては、5章1節 修養の生活 #意識を向けない/意識を逸らすの違いを参照してください。

(1000/1000)

 克己を造化する方法がわからないのは、克己の造化と、思考の造化を混同しているために起きています。克己は、誘惑へ打ち克とうとする「意志の方向性」が造化するのであり、「誘惑へ打ち克つ」という内容の思考が克己を造化するのではありません。意志の方向性とは、自己の自由意志で選択する選択肢の方向性を指しており、自由意志で「誘惑へ打ち克つ」という選択肢を選択する(決意する)ことで、克己が造化されます。無形的認識に基づいて捉えるのならば、誘惑へ打ち克つ意志の方向性も、高い活動性の程度へ同調する意志の方向性も、成長を求める意志の方向性も、ひとつの意志の方向性を表しており、3者の方向性は、ひとつの意志の方向性を有形的認識に基づいて異なる側面から捉えているだけとなります。ただし、無形的な形状のみを有している克己を造化する具体的な方法は、有形的な文字/言語/図表で表現することはできません。表現の種類/形状については、3章9節 精神を参照してください。

 精神で克己を造化する工程と、思考を造化する工程は異なります。克己は「誘惑に打ち克つ」という文字/言語での有形的な形状の思考ではなく、また、我慢/忍耐/辛抱のような無形的な形状の思考でもありません。克己も、「誘惑に打ち克つ」という内容の思考も、これらの表現が造化されるのに先立ち、これらの表現を造化する意志の方向性を有する必要があります。自由意志で選択した後に、選択した選択肢の方向性に相応する表現が造化されるのです。克己も、「誘惑に打ち克つ」という内容の思考も、双方ともに自由意志で「誘惑へ打ち克とうとする方向性」の選択肢を選択することで造化されますが、克己の造化とともに「誘惑に打ち克つ」という内容の思考が造化される場合はみられるものの、思考に基づいて克己が造化される状況はみられません。また、「誘惑に打ち克つ」という内容の有形的な思考は、我慢/忍耐/辛抱のような無形的な思考を連鎖して造化しやすくなります。意志による選択と表現が造化される順序については、4章2節 有形界での成長 #質疑応答の「意志の強さは、どのようにして実感できますか?」も参考にしてください。

 克己を積極的に造化していくには、先[ま]ずは、表現を造化するのに先立っておこなわれる自由意志による方向性の選択から受ける感覚と、選択する際に意志の強さから受ける感覚を把握するように努めます。意志の方向性/強さから受ける感覚と、造化された表現から受ける感覚を識別するのです。次に、意志に基づいて造化される克己、「誘惑に打ち克つ」という内容の有形的な思考、我慢/忍耐/辛抱のような無形的な思考、などの表現の種類/形状の違いから受ける感覚を識別していきます。それぞれの感覚の違いを識別することで、文字/言語での表現ができない「克己を造化する具体的な方法」に気づけるようになります。克己からは「静けさ」のみを感じ取り、克己という表現の内容は自覚できません。一方で、「誘惑に打ち克つ」という内容の有形的な思考や、我慢/忍耐/辛抱のような無形的な思考からは、克己に比べると騒響[ざわめき]を感じ取り、克己と同等の静けさは感じ取りませんが、思考の内容は自覚できます。思考から感じ取る騒響の程度は、有形的/無形的な形状の違いや、思考の内容によって異なります。騒響の強さについては、3章9節 精神 #質疑応答の「精神に起きる騒響の強さは、どのようにして決まりますか?」を参照してください。

 克己や思考から受ける感覚は、有形体を通して受ける物的な感覚よりも相対的に精細です。そして、克己から受ける感覚は、思考から受ける感覚よりも相対的に精細です。精細な感覚は、相対的に粗雑な感覚に埋もれて把握し難いために、強い意志で表現から受ける感覚へ意識を集中する必要があります。感覚の識別は、短期間で習得できる場合もあれば、習得に長期間を要する場合もあり、また、有形体/外環境の周期、有形体の熱/疲労、無形体の疲労、内面の状況、などによって、感覚を識別しやすい場合もあれば、識別し難い場合もあります。現在の状況で感覚を識別できないからと投げ出すことなく、日々の中で丁寧に感覚を識別していくように努める必要があります。

(1000/1000) 誘惑に打ち克つ意志と克己/思考の造化
(1000/1000) 誘惑に打ち克つ意志と克己/思考の造化

 克己を持続して造化できているのならば、誘惑によって起きている騒響が徐々に鎮静され弱くなっていくのを感じ取ることができ、克己を造化し始めて数分から数十分ほどで徐々に鎮静されていく状況が多くみられます。ただし、現在に誘惑が強められている原因によっては、騒響が完全に鎮静され「静けさ」の状況になるとは限りません。例として、怪我/疾病による痛み/熱、過度の疲労、などによって継続的に強められている誘惑と、気温の高低/空腹などによって一時的に強められている誘惑では、単位時間あたりにみられる誘惑の強さが同等であったとしても、前者は騒響を完全に鎮静し難く、後者は騒響を完全に鎮静しやすいです。

 なお、誘惑に直接に起因していない騒響は克己で鎮静されず、克己を持続して造化していたとしても、克己の造化と同時に自動的に造化される静謐(活動性の性質の表現)によって鎮静されるだけであり、騒響の程度が弱くなり難いです。誘惑に直接に起因していない騒響は、経験へ保存されている習慣や、固定観念/既成概念に基づいて造化される思考/感情などによって起きており、積極的に「騒響を鎮静させる」内容の思考を造化するのと同時に自動的に造化される静謐のほうが、騒響を鎮静させやすい場合もあります。

 この質疑応答に関連する内容には、3章9節 精神 #質疑応答の「克己と静謐は類似した表現にみえますが、どのような違いがあるのですか?」がありますので参考にしてください。

誘惑を超越する

(1000/1000)

 はじめに、「悪」という語を、自覚して不誠実な行為をおこなう状況と定義した場合に、「必要悪」は、ある成長段階での、自己のおこなう行為に対して不自然感/違和感/矛盾感などを抱きながらも、その行為をおこなわなければならないと信じ込んでいる状況といえます。悪については、1章4節 概要 #質疑応答の「邪悪とは何ですか?」を参照してください。

 食事は必要悪となるのか、必要悪とならないのかは、個々の捉え方によって異なる相対的な捉え方であり、絶対的な捉え方ではありません。食事は必要悪と捉えるのが優れていて、必要悪と捉えないことが劣っているのではない点に留意してください。

 食事を必要悪と捉えるのは、どのような食物(品目)を食べる/食べないではなく、食事という行動そのものが利己的/自己中心的な行為と認識しながらも、「食事はしなければならない」という自覚のある、あるいは、自覚できるものの自覚のない囚われを残している段階といえます。食事という行動そのものが利己的/自己中心的な行為と認識するのは、自己が自己のために一定量の食物を食べることで、他者へ分配される食物の量が減る、あるいは、食物の分配されない者が現れる状況へ気づくためです。これは、自己が自己のためにおこなう行動を利己的/自己中心的と捉えており、また、限定された地域内ではなく、地上全体での無数の物的な原因と結果の連鎖を総合した捉え方です。

 なお、食事を辞める、あるいは、少量の食事を摂る者が増加したのならば、食物を購入/消費する量が減少するために、食物の生産者、食品加工/販売する企業、などが収益を得られず倒産し、失業者が増える状況を危惧する者もいますが、職の内容(職種)は社会の成長の程度にあわせて変遷していくものであり、社会の成長の程度が上昇(あるいは下降)すれば、消滅する職種があり、同時に、新たに現れる職種があるのです。特定の職の存続を危惧することは、限定された地域内で、いくつかの物的な原因と結果の連鎖を捉えただけの狭小で利己的/自己中心的な捉え方へしがみついているためだという点に気づく必要があります。加えて、現在に得ている収入/利益や既得権益/特権にしがみつくことが、自己/他者/社会の成長を阻碍しているという点にも留意してください。食事を辞める、あるいは、少量の食事を摂る者が増加する社会では、相応する新たな職種が現れているのです。

(1000/1000)

 飲酒、喫煙、などの行動そのものに誠実/不誠実はなく、行動の目的に有する誠実/不誠実が、行動を誠実にも不誠実にもするのです。現在の地上社会でおこなわれている飲酒/喫煙などの行動のほとんどは、自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく自己の恐れ/怯えから眼を逸らすために、加えて、虚勢を張るために、不快の感情(怒り/苛立ち/ストレス/悲しみなど)から逃げるために、虚栄心を満たすために、快楽を得るために、興味本位(誘惑)、などの不誠実な目的に基づいておこなわれています。これらの行動によって習慣が形成され、習慣が強められていくことで、行動をおこなう自覚のある目的も忘れ去られ、習慣のままに自覚できるものの自覚なく行動を続けているだけとなり、更に、利己性/自己中心性/欲望から影響を受けて、味の追求、銘柄への拘[こだわ]り、などをおこなうようになります。

 ただし、地域(地方)/民族/部族によっては、個々の喫煙/飲酒をおこなう目的に関わらず、伝統的な行事/風習として、喫煙/飲酒などをおこなっている場合もあります。しかし、行事/風習の目的を自覚したうえでおこなっているとは限らず、「伝統として受け継がれているから」と盲目的におこなっている状況もみられます。過去に不誠実な目的で始められた行事/風習が、既成概念として現在に受け継がれている場合もあります。既成概念については、次節の5章4節 固定観念/既成概念を参照してください。

 一方で、飲酒/喫煙は、特定の疾病に対する薬の服用手段として用いられている場合もあります。特定の材料/方法などで製造された酒を必要量だけ飲用する、特定の成分を含む植物などを乾燥させ葉巻として吸う、などがみられます。薬の服用手段として飲酒/喫煙をおこなう場合には、服用が必要な状況、必要な量、必要な頻度でのみおこなわれ、服用が必要でなくなったのならば、飲酒/喫煙をおこなわなくなります。

 なお、飲酒/喫煙は、中毒性/依存性が強いといわれていますが、アルコール、ニコチン、などの物的な成分に依存性があるのではなく、酩酊[めいてい]などによって感じる、無形的な、高揚感、浮遊感、などに依存しています。これらの感覚は、高い活動性の程度へ同調した際に感じ取る感覚(高揚感/浮遊感など)と類似する方向性の感覚を、飲酒/喫煙によって擬似的に造り出しているのです。分霊は、どれほどに不誠実な生き方をおこなっているとしても、最も根源となる奥底では、自覚できるものの自覚なく成長を求めているものです。そのため、擬似的に造り出された「高い活動性の程度へ同調した際に感じる感覚」と類似する感覚を味わうと、繰り返し求めるようになり、結果として、中毒性/依存性を示すようになります。ただし、実際には、高い活動性の程度へ同調した際に感じ取る感覚と、擬似的に造り出された感覚には大きな差があります。この感覚の差は言語での表現が困難ですが、感覚の質的な違い、あるいは、感覚の次元の違いと表現できます。成長の程度が向上し、高い活動性の程度へ同調していくほどに、擬似的に造り出された感覚との差が乖離[かいり]するために、擬似的な感覚を造り出す飲酒/喫煙などの行動を避けるようになります。

(1000/1000)

 地上では、常に物質の心から誘惑の影響を受け続けているために、他者の言動に、突発的な怒りや憤[いきどお]りを感じてしまう状況は、どれほどに成長の程度が高くなったとしても無くなりはしません。ただし、成長の程度が高くなるほどに、怒り/憤りが湧き起こる直前の間隙に、怒り/憤りを造化しないように制御する程度が高くなり、また、怒り/憤りを造化してしまったとしても、怒り/憤りが湧き起こった瞬間に怒り/憤りへ意識を向けないように努めて消し去るようになります。

 自己が積極的に造化した怒り/憤りであったとしても、突発的に感じる怒り/憤りであったとしても、その感情の土台には、恐れ/怯えに基づく利己性/自己中心性/欲望が有ることに変わりはありません。怒り/憤り、また、他の感情であっても、それらが湧き起こり、自己が感情を認識した瞬間に消し去るようにしなければ、何時[いつ]までも精神で感情が維持され、精神の騒響[ざわめき]が徐々に強められていくようになり、加えて、「感情を消し去らずに維持し続ける習慣」が形成される状況にもつながります。感情が湧き起こった瞬間に消し去り、精神へ騒響を起こさずに静けさを維持できたのならば、次に、突発的に感情が湧き起こった土台となっている「利己性/自己中心性/欲望の囚われ」について内省し、囚われを自覚して解消(習慣を修正)していく必要があります。多くの場合では、これまでの生活で形成された固定観念に基づいて、突発的に感情を湧き起こらせています。固定観念については、次節の5章4節 固定観念/既成概念を参照してください。

 どれほどに習慣を修正し続けても、自己が未だ自覚できるものの自覚していない囚われは無数に有しており、囚われに基づいて突発的な怒り/憤りの湧き起こる状況が全く無くなりはしません。どうしても怒り/憤りを消し去り難い際には、下記の内容を思考として精神へ留めることで、怒り/憤りを消し去り、騒響[ざわめき]を鎮静させやすくなります。

 余りにも強い利己的/自己中心的な行為をおこなう者たちは、その不誠実な生き方のために大量の暗闇を周囲に漂わせ、大勢の地獄者/地縛者たちを引き寄せ集めており、絶え間なく彼らに憑依されて、彼らの思うがままに操られ、本人は自身の人生を生きているつもりでも、自身の人生を全く生きていないのです。しかし、操られておこなった言動であったとしても、その代償は、憑依している地獄者/地縛者たちだけでなく、自身の人生を全く生きていない本人も支払わなければなりません。代償を支払うために、これから先の、どれほどに長い期間を、どれほどに強く苦しみ続けなければならないのかを鑑[かんが]みれば、自身の人生を全く生きていない他者にも、憑依している地獄者/地縛者たちにも、怒りや憤りではなく、ただ憐[あわ]れみしか湧いて来なくなります。

 上記の内容は、相手に対する自己の捉え方を変えれば、怒り/憤りが湧き起こらなくなるという例を示しているのではなく、これから後に、彼らが辿[たど]る現実そのままについてを記述しています。

 「利己性/自己中心性/欲望の囚われ」に基づいて感情が湧き起こるだけでなく、眼前の状況で、ある内容の物事は起こり得ないという自覚のある、あるいは、自覚できるものの自覚のない思い込み/先入観(固定観念/既成概念)が、ある内容の物事が起きることで、驚き、怒り、楽しさ、嬉しさ、などの感情を生み出す状況へもつながっています。主に驚き/怒りを誘発しやすい物事の例には、他者のおこなう突発的な行為、突然の地震による災害、火災、ガス爆発、交通事故、近隣への隕石/人工衛星/ミサイルの落下、市街/店舗/教育機関での無差別殺人、などが挙げられます。主に楽しさ/嬉しさを誘発しやすい物事の例には、サプライズパーティー、サプライズプレゼント、などが挙げられます。なお、突発的/突然とは、偶然に起きる状況を指しているのではありません。また、ある内容の物事は起こり得ないという思い込み/先入観に基づいて感情を生み出させようとする状況は、映画/ドラマ/小説/漫画/ビデオゲームなどの内容、遊園地のアトラクション、手品、などにも利用されており、驚き、楽しさ、嬉しさ、などを誘発させて、これらの内容へ熱中/依存するように企図されています。

 事前に「起こり得る可能性」を想定しているのならば、ある内容の物事が起きても、驚き、怒り、楽しさ、嬉しさ、などの感情は誘発され難く、物事へ冷静に早急/迅速に対応しやすいです。これは、外環境に起きる物事だけでなく、自己の内面に起きる変化に対しても同様であり、事前に「起こり得る可能性」を様々に想定しておくことで、感情の誘発されそうな兆候がみられた際に早急/迅速に対応しやすくなります。感情を誘発させる可能性のある内容には、誘惑から受ける干渉、疲労による意識の散漫(意識を集中できなくなる)、外環境の状況や他者の行為から内面へ受ける影響、外環境/有形体の周期から内面へ受ける影響、などが挙げられます。

 この質疑応答に関連する内容には、5章2節 幻想 #質疑応答の「期待が幻想に基づく行動で、成長するには消し去る必要があるのならば、今後に起こる物事も予測/推測しないということですか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 はじめに、不誠実な性質を示す書物に記載されている記述のすべてが、不誠実な性質を有しているとは限りません。あるひとつの不誠実な性質を有する記述によって、書物へ掲載されている内容全体が不誠実な性質を示している場合もあります。書物全体の示す誠実/不誠実の性質については、6章2節 書物を読む際の留意点を参照してください。

 不誠実な性質を示す書物を読んでいて、共感したからといって、共感する状況そのものが不誠実な行為となるのではありません。書物へ掲載されている内容へ共感するのは、自己が既に体験を通して学びを得ている内容と関連している場合が多くみられ、共感した目的によって、共感するという行為が、誠実にも、不誠実にもなるのです。行為の目的が行為の性質を決定するために、不誠実な性質を有する記述を読んで共感したから不誠実な行為で、誠実な性質を有する記述を読んで共感したから誠実な行為になる、とは限らず、不誠実な性質を有する記述を読んでも誠実な目的で共感したのならば誠実な行為となり、誠実な性質を有する記述を読んでも不誠実な目的で共感したのならば不誠実な行為となるのです。共感については、5章1節 修養の生活 #質疑応答の「他者の状況へ共感する場合もあれば、共感しない場合もあるのは、自己の状況と関係がありますか?」を参照してください。

 それぞれの記述が有する誠実/不誠実の性質に関わらず、どのような記述の内容へ共感したのか? どうして共感したのか? を、書物を読んでいる際の周囲の環境や、自己の内面の状況、疲労の有無/程度、有形体/外環境の無数の周期、などを総合して詳細に考察/内省し、共感した目的が、愛(誠実)に基づいているのか、あるいは、利己性/自己中心性/欲望(不誠実)に基づいているのか、に気づく必要があります。なお、愛に基づく共感と同時に、感動する、感激する、なども感じ取る場合があります。感動/感激については、3章9節 精神 #質疑応答の「感動、感激、などは、感情とは異なるのですか?」を参照してください。

(1000/1000)

 強い意志で自己の意見を相手へ明確に述べる行動と、自己の利己性/自己中心性/欲望や頑迷な囚われを押し通すのは異なります。自己の利己性/自己中心性/欲望を押し通すために、不誠実な目的で相手へ強く意見を述べる状況もあれば、一方で、自己の揺るぎない強い意志に基づいて、誠実な目的で相手へ強く意見を述べる状況もみられます。

 地上では、自己の利己性/自己中心性/欲望を押し通すために不誠実な目的で相手へ強く意見を述べる状況が頻繁にみられるために、「強く意見を述べるのは不誠実な行動」だと認識している場合が多いです。そのため、日本の伝統といわれている「和」では、意見を述べる目的の誠実/不誠実に関わらず、強く意見を述べる行動そのものが避けられ、曖昧に周囲の意見へ迎合/同調するような行動をおこなう傾向がみられます。「和」については、6章3節 質疑応答 #各節に含まれない質疑応答の「日本の伝統といわれている「和」とは、協調/調和のことですか?」を参考にしてください。

 成長を求め修養の生活を実践していると、周囲の他者が不誠実な発言/行動や固定観念/既成概念に囚われた発言/行動で自己へ圧力を加え、自己が自由意志でおこなう選択肢の選択を強制/束縛しようとする状況が頻繁に現れるようになります。この際に、自己の自由意志でおこなう選択肢の選択を強制/束縛されないように(選択の自由を失わないように)するには、「自己は自身の選択に基づいてのみ行為をおこない自己以外に強制/束縛されない」という強い意志で、自己の意見を相手へ明確に述べる、あるいは、相手へ明確な行動で表す必要もあります。なお、「自己は自身の選択に基づいてのみ行為をおこない自己以外に強制/束縛されない」という内容の発言/行動をおこなうとは限りません。自由については、次節の5章4節 固定観念/既成概念 #自由とはを参照してください。

 不誠実な生き方をしていると、自身の利己性/自己中心性/欲望を押し通して虚栄心を満たすために、相手へ強く意見を述べる状況や、周囲への配慮なく特定の行動をおこなう状況が多くみられます。しかし、これらの不誠実な発言/行動の土台には、常に、自覚のある、あるいは、自覚できるものの自覚のない強い恐れ/怯えがある点に留意してください。恐れ/怯えから眼を逸らすための虚勢が発言/行動に表れているのです。

 なお、自己が幻想の捉え方に陥[おちい]らず、相手の自由意志による選択を尊重し、相手へ寛容をもって応対しているのならば、自己が相手へ強く意見を述べたとしても、自己の意見を相手へ押し付けないために、相手を言い負かそうとしないために、言い争い/口論が起きません。自己/相手の双方が虚勢を張り、虚栄心を満たそうとするために、引くに引けない言い争い/口論へ発展してしまうのです。相手の自由意志による選択の尊重とは、自己が「相手の自由意志で選択した選択肢」へ迎合することではありません。相手の自由意志で選択した選択肢(選択した内容)を、自己に容認できたとしても、自己には容認できなかったとしても、相手の自由意志による選択を否定しない、他の選択肢へ誘導しない、他の選択肢を強要しない、などを指しています。

(1000/1000)

 裸体、性行為、性別を特徴づける有形体の部位、それらに準ずる発言/行動、などの性的な表現を視ると有形体が興奮性の物的な反応を起こすのは、多くの場合では、誘惑から干渉を受けて、あるいは、経験へ保存されている欲望などの習慣によって、あるいは、誘惑から干渉を受け欲望などの習慣が喚起され、有形体へ物的な反応が現れています。ただし、必ずしも誘惑や習慣に基づいて有形体へ反応を引き起こしているとは限りません。性的な表現の情報を外環境から受け入れ、自己の有している固定観念/既成概念に基づいて、これらの情報が「欲望を喚起する可能性のある内容」と自覚して認識すると、有形体を統御している物質の心は有形体と密接に関連する欲望を満たそうとして、自動的に有形体へ物的な反応を起こさせる場合もあります。

 性的な表現が、欲望を喚起させる、忌避/嫌悪する、隠匿する、信教の象徴、美の表現、日常生活での何気ない風景、などと捉えるのは、地域の文化/風習/常識(固定観念/既成概念)の内容と関連しています。裸体の描かれた絵画や彫像から美しさを感じ取るのも/欲望を湧き起こすのも、男女ともに上半身の衣服を脱いで掃除/農作業など日常の活動をおこなうのも、手首/足首を露出させる衣服に羞恥を感じるのも/感じないのも、地域の文化/風習/常識などの影響を受けて形成した自己の固定観念/既成概念に基づいています。固定観念/既成概念については、次節の5章4節 固定観念/既成概念を参照してください。

 誘惑から受ける影響を制御できている/制御できていないは、外環境から認識した際に、精神へ騒響[ざわめき]を引き起こしているのか? 引き起こしていないのか? 自己の自覚的な(自覚のある/自覚できるものの自覚のない)自由意志による選択に基づいて、どのような表現を精神で造化しているのか? によって判断できます。外環境から受け入れた情報を認識して精神に僅かにでも騒響を引き起こしているのであれば、誘惑から干渉を受けて、あるいは、欲望などの習慣に基づいて、興奮、利己性/自己中心性/欲望、不誠実な思考/感情、などを精神で造化しており、誘惑から受ける影響を制御できていないといえます。一方で、外環境から受け入れた情報が「欲望を喚起する可能性のある内容」と認識したとしても、精神に静けさが保たれ、騒響を引き起こしていないのであれば、誘惑から干渉を受けていない、あるいは、誘惑から受ける影響を克己で相殺している、あるいは、欲望などの習慣に基づいて、一切の不誠実な表現を造化していないといえます。自己の有している固定観念/既成概念を解消していくことで、性的な表現の情報を外環境から受け入れても、欲望を喚起する可能性のある内容とは認識し難くなるために、有形体を統御している物質の心も自動的に有形体へ物的な反応を起こし難くなります。

 なお、書物/動画などに記述されている性的な表現は、誠実な目的で用いられている場合もあれば、不誠実な目的で用いられている場合もある点へ留意してください。性的な表現は、記述する目的を表すための手段であり、性的な表現そのものに誠実/不誠実の性質はありません。性的な表現を用いる誠実な目的が、記述されている性的な表現を誠実な内容とし、逆に、不誠実な目的が、記述されている性的な表現を不誠実な内容とします。表現の手段にみられる性質については、5章1節 修養の生活 #質疑応答の「行為をおこなう際に用いる手段と、手段の有する誠実/不誠実の性質は、どのように分類されるのですか?」を参照してください。

 社会に溢れている性的な内容の画像/動画/小説は、ほとんどが性的興奮(欲望)を喚起させる目的で造り出されています。一方で、医学書、解剖生理学、泌尿器学、産科婦人科学、などでも性器/性交渉/生殖機能に関連する内容は記述されていますが、性的興奮を喚起させる目的で掲載されていません。常に、どのような目的で制作/記述/掲載されているのか? を考察するとともに、制作/記述/掲載された目的に関わらず、制作/記述/掲載された内容を、どのような目的で用いるのか? も内省する必要があります。

 加えて、地上社会では、肉眼に視える物的な物事へ意識が向き囚われやすいために、避妊具/避妊薬を用いる是非や、人工妊娠中絶の是非を議論している状況は多くみられますが、避妊具/避妊薬という物品を用いる是非ではなく、避妊具/避妊薬を使用してでも性交渉をおこなおうとする目的を省みる必要があります。同様に、人工妊娠中絶という物的な行動の是非ではなく、ひとつひとつの状況での人工妊娠中絶をおこなう目的を省みる必要があります。

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