愛の行為

5章 成長の実践 - 6節 愛の行為

個々の記述の真実度: 999.2-1000
節全体の真実度: 1000
節全体の活動性: 1000

検索ボタンを押した際に、該当する語がページ内にあれば強調表示
(ハイライト)され、強調表示された直近の語へ自動で移動します。
移動した語の他にも該当する語は強調表示されています。
該当する語がページ内にみつからなかった場合には移動しません。

愛の行為とは

  • (1000/1000) 愛の行為とは、「自己を自己以外/全体のために役立てたい」という思いに基づいておこなう、誠実な性質を有する行為の総称です
    • 行為を外環境へ表現する/表現しないに関わらず、思考、閃き、直観、発言、行動、挙措、などの、あらゆる誠実な行為が含まれます
    • 誠実な性質を有する「あらゆる行為」は、大霊の側面を成す摂理の「無限の愛」が表現されており、世界の進化を促進するように「はたらきかけ」ますが、これらの行為の中で、自己以外/全体のためにおこなわれる行為が、愛の行為となります
    • 自己という個体のためにおこなわれる、誠実な性質を有する行為も「無限の愛」の表現ですが、愛の行為には含まれません
(1000/1000) 行為の区分
(1000/1000) 行為の区分
  • (1000/1000) 愛の行為をおこなう対象となる、自己以外とは、他者、動物、植物、鉱物、物品、などの、あらゆる物事であり、また、全体には、自己以外と自己が含まれており、家庭、地域、国家、惑星、などの共同体も含まれています
    • 自己が「全体」と認識する範囲は、成長の程度によって異なり、特定の共同体を全体と認識している場合もあれば、地上全体を認識している場合もあり、また、有形界と無形界の一部を総合して全体と認識している場合もありますが、成長にともない、全体と認識する範囲は拡大していきます
    • 全体と認識する範囲の中で、「自己を自己以外/全体のために役立てたい」という思いは、全体へ「公平」に向けられており、愛の行為をおこなう対象が、全体を構成する一部へ傾く状況はありません
(1000/1000) 行為の対象となる範囲
(1000/1000) 行為の対象となる範囲
  • (1000/1000) 地上でおこなう愛の行為は、自覚できるものの自覚していない「現在の自身の状況や、おこなっている生き方」へ気づくように「目覚めを呼びかける」ことへ総括されます
    • 目覚めを呼びかける対象は、地上で生活する人たちを主として、地上を徘徊する地獄者/地縛者たち(地獄層で自身の造り出した暗闇に包まてれている者たちを含む)、有形界で死を迎えた後に無形界で死の眠りから目覚めない者たち(自身の有する囚われにしがみつき目覚めようとしない者たちを含む)、の3者となります
    • 3者に共通するのは、地上/有形界から影響を受けている点(現在に有形界で物的に生活している、死後も有形界の物的な生活に囚われている)にあり、地上で生活している者からは目覚めを呼びかけやすいのです
    • 呼びかけは、発言/行動/挙措/態度などの物的な行為を通して、精神伝達による印象の送付を通して、生命の活動性の送信を通して、の3通りでおこないます
    • 印象の送付と活動性の送信を通しておこなう呼びかけは、「祈り」と密接に関連しています
    • これらの呼びかけは、直接的に個体へおこなうだけでなく、社会全体、地域全体、国家全体、地上全体、人霊界(地獄層)全体、へとおこなう状況も含まれます
  • (1000/1000) 愛の行為は、自己を他者/全体の成長へ役立てる行為と、自己が他者/全体の成長を阻碍しない行為、の2つに大別されます
    • 自己を他者/全体の成長へ役立てる行為は、積極的に自己を役立てる行為であり、直接的に世界の進化を促進する行為となります
    • 自己が他者/全体の成長を阻碍しない行為は、他者の自由意志による選択を尊重し、他者が自由意志で選択する選択肢を誘導/強制しない行為であり、間接的に世界の進化を促進する行為、あるいは、世界の進化を停滞させない行為となります

自己を他者/全体の成長へ役立てる

  • (1000/1000) 自己を他者/全体の成長へ役立てる行為には、「他者/全体のために」という目的に基づいておこなわれる、あらゆる積極的(能動的/自発的)な行為が含まれ、直接に他者、動物、植物、共同体、などへおこなう場合もあれば、間接におこなわれる場合もあります
    • これらの行為には、自己の労力、時間、知識、技術、資金、所有物、などを用いておこなわれる肉眼に視える言動や、肉眼に視えない思考、祈り、なども含まれます
    • これらの行為の中には、自己が行為をおこなうことで、自己に物的な痛み、有形的な困難、無形的な苦しみを感じ取らせる内容もみられます
    • 自己を積極的に役立てる行為は、自己という個体を投げ打ってでも、他者/全体のためにおこなう勇気と、強い意志を必要とし、この勇気と意志が、あらゆる愛の行為を造り出す土台となります

自己が他者/全体の成長を阻碍しない

  • (1000/1000) 自己が他者/全体の成長を阻碍しない行為には、他者が自身の自由意志で選択しておこなう行為を、自己の自由意志で選択した行為へ誘導/強制しない、あらゆる行為が含まれ、直接に他者、動物、植物、共同体、などへおこなう場合もあれば、間接におこなわれる場合もあります
    • これらの行為の多くは、自己が行為をおこなうことで、「他者へ積極的に手助けしたいものの、他者/全体の成長を阻碍しないために手助けするべきではない」という方向性の相反によって、自己に無形的な苦しみを感じ取らせます
    • 他者が自由意志でおこなう「選択する自由」を束縛するのは、大霊によって創られた自由意志の法則へ干渉する不誠実な行為であり、自己の自由意志で選択した行為へ他者のおこなう選択を誘導/強制しようとするのは、他者への諫言/助言/手助けに相当しないだけでなく、自己が他者へ不誠実な行為をおこなっていることになります
    • 他者がおこなっている不誠実な行為や、囚われに基づいておこなっている行為、自己からは誠実の程度が低いと捉える行為は、他者が自覚的に(自覚して/自覚できるものの自覚なく)自由意志で選択した結果であり、自覚的に(自覚して/自覚できるものの自覚なく)成長の阻碍/退行を受け入れている状況を表してもいます
    • 「他者が自身の成長を阻碍/退行させている状況に気づいてもらいたい」という目的でおこなわれる諫言/助言を、自己が自身の自由意志で自覚して「他者へ諫言/助言する」と決めておこなう必要はなく、他者にとって諫言/助言が必要な場合には、適切な時機に、適切な状況で、天使たちが自己を通しておこないます(天使たちが自己を通しておこなう際には、自己が自身の自由意志で自覚できるものの自覚なく「他者へ諫言/助言する」と決めています)
    • 自己の自由意志で自覚して決めたうえでおこなえる「他者が自身の成長を阻碍/退行させている状況に気づいてもらいたい」ための行為は、自己が手本/模範となる生き方を実践することだけです
    • 自己が他者/全体の成長を阻碍しない行為は、「自己以外へ寛容/憐[あわ]れみをもつ」行為と密接に関連しています
    • 寛容/憐れみについては、4章2節 有形界での成長を参照してください
  • (1000/1000) 自己が他者/全体の成長を阻碍しない行為には、他者のおこなう不誠実な行為に迎合しない、他者が不誠実な行為をおこなうのに加担しないことも含まれます
    • 他者のおこなう利己的/自己中心的な行為や、欲望/快楽の追求、虚栄心を満たすための言動、などを幇助[ほうじょ]するのは、他者の成長を阻碍します
    • 他者のおこなう不誠実な行為へ迎合しない/加担しないことは、「愛ある無関心」とも言い換えられ、他者のおこなう誠実な行為を支援/援助するのと同等の価値を有しています
    • また、他者が不誠実な行為をおこなうために、自己のおこなう自由意志による選択を誘導/強制しようとしても決して受け入れてはならず、もしも、受け入れたのならば、他者の不誠実な行為へ迎合/加担したことになります
    • 利己的/自己中心的な「無関心」が、対象へ自覚できるものの自覚なく意識を向けないのに対して、「愛ある無関心」は対象へ自覚して意識を向けないように努めています
    • 愛ある無関心は、他者/全体の成長を阻碍しないために、他者への無関心を装[よそお]っているだけであり、表面的には意識を向けていないように視えるものの、本質的には対象へ意識(愛)を向けているのです
  • (1000/1000) 自己が他者/全体の成長を阻碍しないためにおこなう愛の行為は、傍[はた]からは厳しく冷淡に観える場合もあります
    • おこなわれている愛の行為を局所的/刹那的に捉えずに、ひとつの行為に関連しておこなわれている「いくつもの行為」を詳細に考察するのならば、おこなわれている愛の行為は厳しさではなく優しさであり、冷淡ではなく思いやりだと気づくようになります
    • 成長を求め誠実な生き方へ努めている者には、「自己/他者の成長を阻碍/退行させる不誠実な行為」を、他者がおこなう状況は寛容をもって応対しますが、一方で、自己がおこなう状況は容認できないために、外見には厳しく冷淡に観えたとしても、強い意志でおこなわないようにするのです

愛の行為の性質

  • (1000/1000) 地上でおこなわれる愛の行為は、他者の成長を促す(無形的な利益を与える)ためにあり、他者へ必ずしも物的な利益を与えるとは限りません
    • 無形的な利益を与えると同時に物的な利益を与える場合もあれば、無形的な利益を与えるものの物的な利益は与えない場合もあります
    • ただし、物的な利益のみを与え、無形的な利益を与えない愛の行為はなく、必ず無形的な利益を与えます
  • (1000/1000) 愛の行為でおこなわれる内容は、成長の程度によって、行為をおこなう対象となる範囲が異なります
    • 成長の程度によって、愛と認識する程度(愛とは何か? の内容)と、意識の範囲に相応する「全体と認識する範囲」が異なるために、成長の程度に相応する程度/範囲を総合して、行為をおこなう対象の範囲と捉えています
    • 行為をおこなう対象として認識する範囲は、家族、友人、などの個体に対する範囲から始まり、地域、職場、学校、国家、などの共同体へと徐々に拡大し、更に、地上で生活する人類全体、地上で生活する全ての分霊(人/脊椎動物)、地上と惑星圏無形界を含む惑星圏全体、などへ無限に拡大していくとともに、おこなう行為の内容も、物的な内容から有形的な内容へ、有形的な内容から無形的な内容へ移行していくようになります
  • (1000/1000) 今回の地上生活で有している「地上での目的/役割」によっては、おこない難い内容の愛の行為もあります
    • 愛の行為は、誰もが、何時[いつ]でも、何処[どこ]でもおこなえますが、誰もが同じ内容の愛の行為や、同じ手段を用いた愛の行為を、何時[いつ]でも、何処[どこ]でもおこなえると限りません
    • 個々の有する地上での目的/役割に適した内容/手段の愛の行為があります
    • 地上での目的/役割については、4章2節 有形界での成長を参照してください。
  • (1000/1000) 愛の行為には、常に「祈り」がともなっています
    • 誠実さは、低い程度の行為をおこなうように求める状況はなく、常に、高い程度の行為をおこなえるように求めるために、必ず、自覚のある「祈り」とともに、愛の行為がおこなわれます
    • 高い程度の「愛の行為」をおこなえるように求めるのは、現在の段階よりも高い活動性の程度へ同調するのを求めているのと同じであり、高い活動性の程度へ同調するほどに、おこなう愛の行為へ高い活動性の程度を付与できるようになります
    • 自己は、同調する活動性の程度と「同等の程度」の活動性を付与した行為をおこなうことはできますが、同調する活動性の程度よりも高い活動性を付与した行為は基本的におこなえないために、現在の段階よりも高い程度の行為をおこなうために、同調する活動性を高め、維持していく必要があるのです
    • なお、日々の生活の中では、天使たちの多大な支援/援助を受けて、同調する活動性の程度よりも高い程度の活動性が付与された愛の行為をおこなう場合もあります
    • 祈りについては、前節の5章5節 祈り/瞑想を参照してください
  • (1000/1000) 愛の行為は、どれくらいの活動性の程度が付与された行為であったとしても、どのような内容の行為であったとしても、行為には常に「丁寧さ」が表れます
    • 乱暴、乱雑さ、粗雑さ、などが行為に決して表れません
    • 丁寧な認識に基づく、丁寧な思考、丁寧な発言、丁寧な行動、丁寧な挙措、丁寧な眼差し、などが、行為に共通してみられます
  • (1000/1000) 愛の行為は、他者のおこなう愛の行為を引き寄せ、総合された大きな愛の行為を造り出します
    • 愛の行為とともに造り出され外環境へ表現される輝き/静謐(誠実な活動性の性質の表現)が、同様の輝き/静謐を造り出している「誠実な生き方へ努めている者」たちを引き寄せ、誠実な生き方へ努めている者たちのおこなう「ひとつひとつの愛の行為」が総合され、大きな愛の行為となるほどに、行為によって周囲へ与える影響力を累乗的に強めます
    • 大きな愛の行為によって輝き/静謐で満たされた場では、天使たちが存分に支援/援助できるようになり、一方で、暗闇を漂わせる地獄者が近づけなくなります
    • 逆に、利己的/自己中心的な行為や、欲望/快楽の追求によって造り出される暗闇/騒擾は、「不誠実な生き方をしている者」たちを引き寄せ、天使たちが近づけなくなり支援/援助をおこなえず、代わりに、大勢の地獄者たちを集めて憑依させるようになります
(1000/1000) 類似する物事を引き寄せる
(1000/1000) 類似する物事を引き寄せる

成長の道標

  • (1000/1000) 愛の行為をおこない、愛を拡大していくには、同調する活動性の程度を高め、愛とは何かを学び、何時[いつ]に、何処[どこ]で、どのような状況であったとしても、「自己を自己以外/全体のために役立てたい」と願う強い意志と、何事にも臆[おく]することのない勇気をもって、学んだ愛を実践していきます

愛を学ぶ

  • (1000/1000) 他者の言動を常に考察し、他者のおこなう様々な言動の中で、自己が「愛」(自己を自己以外/全体のために役立てたいという思い)と認識する内容の言動と、その言動がおこなわれた目的を把握するように努め、現在の自己の成長段階で、自己が「愛」と認識する内容は、どの程度の範囲を対象としているのか? どのような目的でおこなわれている内容を「愛」と認識しているのか? を考察します
    • 加えて、他者の言動を通して考察した「愛」と認識する内容の行為を自己がおこなう際に、自覚のある、あるいは、自覚できるものの自覚していない不誠実な目的が混入していないか? 囚われに基づいて行為をおこなおうとしていないか? 行為をおこなう対象/状況を選り好みせずにおこなえるか? 痛み/困難/苦しみをともなってでもおこなえるか? を自問します
    • 自問する際には、特に、他者/全体の成長を阻碍しない愛の行為に対して、行為をおこなうことで自己の虚栄心を満たそうとしていないか? 自己のおこなう愛の行為で他者に不快を感じさせる状況があったとしてもおこなえるか? 瞬間瞬間の自己の都合ではなく一貫した揺るぎない意志で愛の行為をおこなえるか? を詳細に自己へ確認する必要があります
    • これらの自問を通して、何時[いつ]に、何処[どこ]で、どのような状況であったとしても、誰に対してでも、愛の行為をおこない続ける決意をします

愛を拡大する

  • (1000/1000) 愛を学び、愛の行為をおこなう決意ができたのならば、絶え間なく移り変わる眼前の状況に対して、今この瞬間に自己がおこなえる行為を、自己が率先しておこなうだけです
    • 愛の行為をおこなうのに、遠方の場所、特別な場所、特定の場所、などは必要なく、また、今この瞬間に自己がおこなえる行為をおこなっていくのに、理由も大義も不要であり、自己が自己以外/全体へ愛の行為をおこなうことができる「喜び」で自己の内面を満たされながら、行為をおこなっていくのです
    • 今この瞬間に自己がおこなえる行為とは、自己に「できる行為」ではなく、自己の「おこないたい行為」でもなく、また、自己がおこなう行為の内容を選り好みするのでもなく、眼前の状況に「必要とする内容で、必要とする程度の行為」を指しています
  • (1000/1000) 絶え間なく周囲の状況へ眼を凝らし、愛の行為をおこなおうと身構えて、力[りき]む必要はありませんが、適切な時機に躊躇[ちゅうちょ]することなく、眼前の状況に適切な内容の行為を、過度なく不足なく丁寧に確実におこなえるように、常に努めます
    • 「丁寧におこなう」とは、ひとつの行為へ長い時間をかけておこなう状況や、丁寧という語を思い浮かべながらおこなうのではなく、「自己が丁寧そのもの」と感じ取りながら行為をおこなうことを指しています
    • 瞬間瞬間におこなう内容へ意識を集中するほどに、ひとつひとつの行為を丁寧におこなえるようになり、加えて、意識を行為の一点へ集中することで、精神でおこなわれる無数の表現の造化が、おこなう行為に関連する内容の造化のみへ統制されるために、精神の騒響[ざわめき]が鎮静されるようにもなります
    • 意識を集中して丁寧に行為をおこなうほどに、自己の内面に静けさが拡がり、内面の静けさが、更に行為へ意識を集中させやすくします
    • 丁寧な行動には、精神に焦り、急ぎ、力[りき]み、緊張、などがなく、騒響[ざわめき]の鎮静されている内的な状況が反映された「静けさ」が表れ、眼前の状況へ適切で無駄のない洗錬された穏やかで落ち着きのある行動となります
    • もしも、精神に焦り、急ぎ、力[りき]み、緊張、などによって騒響が起きているのならば、外見的には丁寧な行動にみえていたとしても、眼前の状況へ不適切で無駄の多い不自然な行動となります
  • (1000/1000) 行為を丁寧におこなえるように努めることなく、自然におこなえるようになったのならば、ひとつひとつの行為へ、美/輝き/調和を与えるように努めます
    • 行為をおこなう対象から美/輝きを感じ取るように努めるとともに、自己がおこなう行為によって、行為をおこなう対象が一段と美しく光り輝き、周囲の輝きと調和していくように、行為をおこないます
    • 自己が美/輝き/調和そのものであり、自己から「自己のおこなう行為」へ、自己のおこなう行為から「行為をおこなう対象」へ、美/輝き/調和が伝わり拡がっていくように感じ取りながら行為をおこなうことで、行為へ美/輝き/調和を与えられるようになります
    • 行為と、行為をおこなう対象へ美/輝き/調和を伝え拡げていく過程は、肉眼では対象に変化が視えなくても、霊眼では、対象の光り輝く変化と、周囲の輝きと調和していく様子が視えます

至言の紹介

(1000/1000)「シルバーバーチ」
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
躊躇[ちゅうちょ]してはいけません
思い切りよく突き進みなさい
あなたの差し出す手が拒絶されても
失望する必要はありません
あなたのことを気狂い呼ばわりされても
悩む必要はありません
ただ勇気をもって進み続けなさい
(1000/1000)「瀞沁」
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
あなたと話す人へ
あなたと擦れ違う人へ
あなたを見掛ける人へ
皆に勇気を、静けさを、喜びを
惜しみなく分け与えられるように
そのような眼差し、挙措、態度
が表れるように生きるのです
(1000/1000)「瀞沁」
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
感謝は愛の行動そのものです
相手から受けた愛を更に大きくして
相手へ「喜び」という愛を贈る行動なのです
相手に物品を贈ることが
感謝を表しているのではありません
物品を贈ることで
相手の欲望に訴えかけようとしていないか
自己の内面へ誠実に
問いかけてみなければなりません

質疑応答

  • それぞれの質問文を押すと、応答文が表示/非表示されます
    • すべての応答文を一括して開くには、「すべての質疑応答を開く」ボタンを押してください
    • すべての応答文を一括して閉じるには、「すべての質疑応答を閉じる」ボタンを押してください

愛の行為全般について

(1000/1000)

 平等/不平等/公平/不公平は、様々な状況/場面で、状況/場面に相応する意味で用いられるために、この質疑応答では、枝葉となる「それぞれの状況/場面」については例を挙げずに、根幹/本質となる内容のみを下記に記載します。

  • 平等とは、平坦な基準へ、物事を均等/均一な量/程度で付与することにより、平坦な水準が造り出される状況を指しています
  • 不平等とは、平坦な基準へ、物事を不均等/不均一な量/程度で付与することにより、起伏のある水準が造り出される状況を指しています
  • 公平とは、起伏のある基準へ、物事を不均等/不均一な量/程度で付与することにより、平坦な水準が造り出される状況を指しています
  • 不公平とは、起伏のある基準へ、物事を不均等/不均一な量/程度で付与することにより、起伏のある水準が造り出される状況を指しています

 平等/公平は、それぞれの状況/場面で均衡/調和を示すのに対して、不平等/不公平は、それぞれの状況/場面で不均衡/不調和を示すようになります。このサイトでは、平等を、あらゆる分霊に、何時[いつ]でも、何処[どこ]でも、どのような状況でも、成長する機会が与えられていることを表すために用いています。また、公平を、支援/援助を求める者には、求める意志の強さに相応する程度/量の支援/援助が与えられることを表すために用いています。

(1000/1000) 平等/不平等と公平/不公平
(1000/1000) 平等/不平等と公平/不公平

(1000/1000)

 はじめに、用語の定義は個々によって様々なために、下記の内容は、自身の用いている「無我/無私」また「自己犠牲」の定義と相互に参照したうえで考察するようにしてください。無我/無私でおこなう行為と自己犠牲では、自己の時間/労力を奉仕へ用いるという点が共通していますが、無我/無私でおこなう愛の行為は自己犠牲ではありません。無我/無私については、4章2節 有形界での成長 #質疑応答の「無我/無私とは何ですか?」を参照してください。

 自己犠牲という捉え方(用語)は、個体の有する利己性/自己中心性/欲望を土台として、自己を自己以外のために差し出している自己へ陶酔し、自身の虚栄心を満たすために用いられています。無我/無私による奉仕、自己犠牲、犠牲精神、献身、利他、などは類義語を構成していますが、土台となる捉え方の有する誠実/不誠実の性質も同じとは限らないのです。自己陶酔については、5章2節 幻想を参照してください。

 大霊は、ある個体を犠牲として他の個体たちを活かそうとはしません。大霊は誰ひとり犠牲にすることなく、常に全体の相互資生/相互活用をおこないます。他の個体たちのために、ある個体を犠牲とするのは地上特有の利己的/自己中心的な行為であり、加えて、自己を犠牲にするという捉え方は他の個体たちのためではなく、自己のためでしかないのだと気づく必要があります。なお、相互資生とは、互いを資本/資源として互いを生かす/活かすことであり、相手の生き方を模範、あるいは、反面教師として自己の成長へ活かす状況も含まれ、互助互生、相互扶助、などとも密接に関連しています。

 愛の行為は、自己を犠牲にして「他者を助けてあげる」という思惑でおこなうのではありません。この思惑は、他者を利用して自己の優越感/虚栄心を満たそうとしているだけに過ぎないのです。愛の行為は、自己が「他者/全体に必要と判断した」から無我/無私で手助けするのであり、無我/無私でおこなう手助けに、一切の思惑は不要です。

 自己が無我/無私で手助けをしていたのならば、自己が「他者の手助けをできた」ことに喜びを感じ取り、他者からは一切の物的/有形的/無形的な見返りを自覚して求めることはなく、自覚できるものの自覚なく求めることもないために、手助けをおこなったことで、他者から感謝されても、感謝されなくても、疎[うと]まれても、貶[けな]されても、自己は怒り/悲しみなどの感情を造化しません。もしも、自覚できるものの自覚なく「自己の優越感/虚栄心を満たそう」とする目的に基づいて手助けをおこなっていたのならば、自己の期待するほどに感謝されなかったり、疎まれ、貶されると、自己は怒り/悲しみなどの感情を造化します。

(1000/1000)

 自己のために他者へ何らかの行為をおこなうのは利己的/自己中心的な行為であり、愛の行為ではありません。そして、自己のために他者へおこなう行為を通して、自己が成長する状況もありません。愛の行為は常に「誠実さ」に基づいてのみ、おこなわれます。自己の利益を顧[かえり]みるような不誠実な目的を自覚の有無に関わらず一切有することなく、無我/無私で自己を他者/全体へ役立てるからこそ、愛の行為となるのです。その結果として、成長への学びを得られ、自己の成長へつながるのであり、自己が「自己のために何らか」を求めて愛の行為をおこなうのではないのです。

 愛の行為は常に「誠実さ」に基づいておこなわれるために、「祈り」をともなわずにおこなわれる愛の行為もありません。「誠実さ」は、現在の段階より少しでも高い程度を有する愛の行為をおこなえるように求め続けるのが自然なために、何時[いつ]までも同等の活動性の程度を行為へ付与し続ける状況や、低い活動性の程度を行為へ付与する状況を、許容しません。現在の段階よりも高い活動性の程度が付与された「高い程度を有する愛の行為」をおこなうには、祈りは不可欠であり、どれほどに自己の同調する活動性の程度が高くなったとしても、より高い程度を有する愛の行為をおこなえるように求め続けるのです。祈りと愛の行為は不可分であり、祈りが高い程度を有する愛の行為を造り出し、愛の行為が更に祈りを増強する循環を形成しているといえます。

 加えて、自己が地上でおこなってきた活動(愛の行為)/おこなっている活動を、地上で生活している者たちに評価を求める必要はなく、評価してもらう必要もありません。もしも、自己のおこなう活動を「他者に評価してもらいたい」という目的を有しているのであれば、その目的は不誠実であり、どれほどに他者を支援/援助しているようにみえたとしても、自己のおこなう活動が愛の行為には成り得ないのです。地上では、肉眼に視える物的な物事を偏重して捉えているために、地上で生活している者たちに受ける評価も物的な方向性へ偏重しています。他者からの称賛や、賞状/賞金/勲章/名声などを得ても、自己が地上でおこなってきた活動には何らの価値も与えません。寧[むし]ろ、賞状/賞金/勲章/名声などが今後の活動を阻碍するように「はたらく」可能性もあります。自己が地上でおこなってきた活動/おこなっている活動は、大霊が正確に「あるがまま」に評価しています。

 地上でおこなってきた自己の活動を他者が観察/考察して、他者が愛の行為をおこなうようになる状況や、他者が成長を求め実践する状況こそが、自己の喜びであり、自己が地上でおこなってきた活動の価値となります。この「他者」には、地上で生活している人だけでなく、無形界で生活している霊も含まれます。

 愛の行為をおこなう土台となる「自己を自己以外のために役立てたい」という思いは、強く湧き上がるほどに、自己を愛の行為へ駆り立てるだけでなく、自己の生活/生き方を修正するようにも、はたらきます。自己以外への思いやりに基づく「自己の生き方の修正」をおこなうようになり、結果として、自己の生き方の修正が自己以外へ影響を与え、「自己/自己以外の成長を促す循環」を形成します。自己以外への思いやりに基づく自己の生き方の修正については、5章3節 誘惑 #質疑応答の「最低限の必要を満たすよりも多い部分が、利己的/自己中心的な行為や欲望の追求として現れると本編に記載されていますが、服装、化粧、体形、髪型、容姿、などは、本人の美しさを際立たせるために整える必要があるのではありませんか?」を参照してください。

(1000/1000)

 愛の行為は必ず自覚しておこなわれます。愛の行為が、自覚できるものの自覚なく、あるいは、無自覚的に(自覚なく)おこなわれる状況はありません。

 誠実な行為は常に自覚しておこなわれ、誠実な行為の中で、自己のためでなく、自己以外/全体のためにおこなわれる行為が愛の行為となり、更に、愛の行為の中には、努めて行為をおこなう状況と、自然に行為をおこなう状況がみられます。ただし、自己が生活に必要とするよりも多くを求めない「他者への思いやり」に基づく自己の生き方の修正は、他者/全体のためにおこなっている側面もありますが愛の行為には含まれず、愛の行為に近似する誠実な行為となります。他者への思いやりに基づく生き方の修正については、5章3節 誘惑 #質疑応答の「最低限の必要を満たすよりも多い部分が、利己的/自己中心的な行為や欲望の追求として現れると本編に記載されていますが、服装、化粧、体形、髪型、容姿、などは、本人の美しさを際立たせるために整える必要があるのではありませんか?」を参照してください。

 努めておこなう状況と自然におこなう状況の違いは、大雑把には、行為をおこなうために必要とする「意志の強さ」が異なります。行為の内容をおこなう容易さ/困難さというだけでなく、行為そのものをおこなう容易さ/困難さも含まれます。行為の内容をおこなうのが困難であったとしても、容易におこなえる場合もあれば、一方で、容易におこなえる内容であったとしても、おこなうには強い意志を必要とする場合もあります。例として、「相手へ挨拶をする」という容易におこなえる内容の愛の行為をおこなう場合に、自己へ誹謗中傷/嫌がらせをしてくる者に対しておこなうには強い意志で自己を鼓舞しておこなう必要がありますが、一方で、親切で丁寧に応対してくれる者には、比較的に強い意志を必要とせずにおこなえます。

 なお、行為は自覚しておこなわれる場合と、自覚できるものの自覚なくおこなわれる場合があります。ただし、誠実な行為は、常に自覚のある誠実な目的に基づき、自覚しておこなわれます。一方で、不誠実な行為は、自覚のある、あるいは、自覚できるものの自覚のない不誠実な目的に基づいて、自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なくおこなわれます。自覚できるものの自覚していない目的に基づいて自覚できるものの自覚なくおこなわれる行為は、常に不誠実な性質を有しています。

(1000/1000) 行為と自覚の有無
(1000/1000) 行為と自覚の有無

(1000/1000)

 愛の行為の対象となる全体の中で、愛を向けない対象はない(あらゆる対象へ愛を向ける)という側面では「平等」ですが、対象へ向ける愛の大きさは「公平」です。平等/公平については、この節の質疑応答の「平等/公平とは何ですか?」を参照してください。

 利己的/自己中心的な行為や欲望/快楽/快感の追求に日々を過ごし、不誠実な生き方をしている者にも愛は向けられており、愛を向けないという状況は決してありませんが、彼らに向けられる愛の大きさは、成長を求め誠実な生き方を日々に実践している者へ向けられる愛の大きさと同じではありません。これは、世界を構成する法則のひとつであり、自己が求める内容/程度に相応する内容/程度が自己へ還元される法則を表しています。言い換えると、求めれば求めるほどに与えられる法則とも表現でき、成長を求め愛を拡大するように努めている者には多くの愛が与えられ、一方で、成長を求めず愛を蔑[ないがし]ろにする者には相応する程度の愛しか与えられません。自己/他者/全体の成長を求めるほどに、人/天使たちから多くの支援/援助を受けられるようになるのです。

 なお、愛の行為をおこなう対象となる全体の中での「愛の公平な分配」は、自己の選り好みで他者/全体へおこなうのではなく、法則の「はたらき」として自然におこなわれます。自己の選り好みでおこなうのは利己的/自己中心的な行為となる点に留意してください。

(1000/1000)

 不誠実な生き方をしている者でも、愛の行為をおこなう状況はありますが、造化される愛の行為へ付与されている誠実な性質の活動性の程度は低く、造化される頻度(愛の行為をおこなう頻度)も少ないです。加えて、不誠実な生き方をしている者には、表面的には愛の行為にみえる「実際には不誠実な行為」をおこなっている場合も多くみられます。この場合については、4章7節 行為の記録 #質疑応答の「愛の行為をおこなうことによって、行為の記録(-)の残高へ加算される状況はみられますか?」を参照してください。

 不誠実な生き方をしている者は、不誠実な行為をおこなわないように「自身を制御していない」ために、日常的に不誠実な行為を造化する頻度が極めて高く、また、自己以外/全体のために自己を役立てるのではなく、自己と自己に都合の良い範囲のために自己以外/全体を役立てようとします。愛の行為は、自己以外/全体のために自己を役立てるのであり、不誠実な生き方をしている者は、相反する方向性の捉え方を有しているために、自身の捉え方とは「相反する方向性」を有する愛の行為をおこなう状況がみられたとしても、頻度は極めて低くなるのです。不誠実な行為をおこなわないように制御する/制御しないについては、2章5節 無形界の住人 #不誠実の性質を有している者/有していない者の違いを参照してください。

 一方の手で誠実な行為をおこないながら、他方の手で誠実な行為はおこなえます。しかし、一方の手で不誠実な行為をおこないながら、他方の手で誠実な行為はおこなえないのです。これは、精神で感情や不誠実な思考を造化しながら、他者へ愛の行為はおこなえない状況を表してもいます。愛の行為は、常に、誠実な目的で造化した誠実な思考に基づいておこなわれる誠実な行為です。

 この質疑応答に関連する内容には、5章2節 幻想 #質疑応答の「不誠実な生き方をしている者は、常に幻想による捉え方をしているのでしょうか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 愛の行為をおこなう際に、優しさ/謙虚さを行為へ表すように努める必要はありません。

 地上では、絶え間なく物質の心から誘惑の影響を受け続けているために、優しさ/謙虚さを行為へ与えようと努めると、「虚栄心を満たそう」とする目的も潜ませやすくなります。自己が優しさ/謙虚さを行為へ与えるのと、自己がおこなった行為から他者が優しさ/謙虚さを感じ取るのは同じではないという点へ留意してください。自己が優しさ/謙虚さを行為へ与えるのは、「自己が優しさ/謙虚さを有しているように他者からみられたい」という利己的/自己中心的な目的を自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく有している場合がみられます。自己がおこなう行為には、丁寧さ(加えて、美/輝き/調和)を与えるように努めることで、自覚できるものの自覚していない利己的/自己中心的な目的を潜ませなくなります。

 自己という個体のすべてを用いて(差し出して)他者/全体のために役立とうとする強い意志があるのならば、自己のおこなった行為には、自然に優しさ/謙虚さが表れるようになります。

 なお、優しさ/謙虚さは、発言/行動の肉眼に視える3次元の側面に表れるのではなく、発言/行動の肉眼に視えない4次元の側面に表れます。肉眼に視える3次元の側面での発言/行動が優しくみえる/謙虚にみえるからといって、愛の行為をおこなっているとは限りません。自身の利己性/自己中心性/欲望を満たすために、優しくみえるような発言/行動で相手を懐柔しようと策謀している場合もあります。この状況では、発言/行動の目的は利己的/自己中心的なために、優しくみえるような発言/行動の4次元の側面に「暗闇」が漂う様子を霊眼で視ることができます。逆に、厳しく冷淡にみえる発言/行動が他者への優しさ/謙虚さを表している場合もあります。肉眼に視える3次元の側面での発言/行動の内容に関わらず、愛の行為であるのならば、発言/行動の4次元の側面に「輝き」が放たれている様子を霊眼で視ることができます。

(1000/1000)

 慈悲/憐[あわ]れみとは、他者が成長を志[こころざ]さずに、自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なくおこなっている利己的/自己中心的で不誠実な行為によって自身の成長を阻碍し、あるいは、成長を退行させ、際限なく行為の記録(-)の残高を加算し続けている状況に対して有する「愛ある哀情(悲しみ)」を指しています。この哀情は、不誠実な性質を有する感情ではなく、誠実な性質を有する「愛(自己を自己以外のために役立てる思い)」に基づいており、他者に対して用いられ、自己に対して用いる状況はありません。不誠実な性質を有する感情の「悲しみ/哀しみ」は、自己のために自己以外を役立てる利己性/自己中心性/欲望に基づいており、自己に対して用いられ、他者に対して用いられない点に留意してください。

 慈悲/憐れみは、寛容と類似しています。寛容は、他者の自由意志による、どのような選択でも尊重し、決して自己の自由意志による選択を強制し束縛しない状況を指しています。寛容の中で、他者の不誠実な行為を悲しむことが慈悲/憐れみともいえます。そのため、慈悲/憐れみに基づいて、他者の行為に対し、非難/批判/糾弾、諫言、助言、などをおこなう状況はなく、自己が模範を示し、他者が自己との比較を通して、自身の不誠実な行為を省みる機会を提供することのみがおこなわれます。寛容については、4章2節 有形界での成長 #質疑応答の「寛容を有するとは、どのように応対することを指しているのですか?」も参考にしてください。

 なお、「自己を憐れむ」「他者に慈悲を乞う」という表現は、慈悲/憐れみではなく、自身が恐れ/怯えから眼を逸らし、虚栄心を満たすために用いている不誠実な行為である点に留意してください。同じ語が用いられているとしても、語の定義が同じとは限らないのです。

(1000/1000) 慈悲/憐れみと寛容
(1000/1000) 慈悲/憐れみと寛容

(1000/1000)

 博愛、平等、などは愛の表現のひとつです。ただし、主義という捉え方は囚われを示す場合が多くみられ、自己/他者の成長を阻碍するように、はたらきます。囚われについては、5章4節 固定観念/既成概念を参照してください。

 主義という捉え方そのものが自己を束縛するためにあり、自己の自由意志で選択する選択肢の幅の中から「選択する選択肢」を制限し、思考や行為の方向性を特定の方向性へ誘導/強制するのに用いられています。言い換えると、制限を受けずに選択肢を選択することへ恐れ/怯えているために、自己以外から誘導/強制されて「不本意ながら/嫌々ながら」選択するのだと、自己へ自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく思い込ませようとしています。自己が積極的に選択した選択肢でないのならば、その選択肢を選択したために自己に都合の良くない状況に遭遇したとしても、自己以外へ責任逃避できるためです。責任逃避については、5章2節 幻想を参照してください。

 博愛、平等、利他、愛他、などは、主義として掲げ自己に強制しなくても、自己を自己以外/全体のために役立てようとする強い意志があるのならば、自然に自発的/積極的におこなえるようになります。

 この質疑応答に関連する内容には、5章4節 固定観念/既成概念 #質疑応答の「主義は、個体や社会の成長/進歩する方向性を決めるのに役立っていませんか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 愛の行為を構成する、自己を他者/全体の成長へ役立てる行為と、自己が他者/全体の成長を阻碍しない行為の、両者に優先順位はありません。どちらの行為も同時におこなえます。

 行為をおこなう難度からみると、自己を他者/全体の成長へ役立てる行為が比較的に容易(難度が低い)であり、自己が他者/全体の成長を阻碍しない行為は比較的に難しい(難度が高い)といえます。自己を積極的に役立てるよりも、自制するのには「強い苦しみ」をともなうためです。

 同様に、肉眼に視える/聴こえる発言/行動で愛を与えるのは、周囲からも明確な愛の行為として観えますが、一方で、手助けできても他者/全体の成長のために「肉眼に視える手助け」をすべきではない状況での、肉眼に視えない思考/祈りによる励ましは、周囲からは冷淡に観える場合も多くあります。

 自己を他者/全体の成長へ役立てる行為と、自己が他者/全体の成長を阻碍しない行為には、両者に優劣はなく、重要度の違いもありません。眼前の状況に適切な行為を適宜に、また、並列/並行しておこなっていけばよいのです。

(1000/1000)

 愛の行為をおこない、他者/脊椎動物を支援/援助する内容や、社会を是正/改善/改革していく内容の書物は多く出版されており、自己が日々の生活の中で、愛の行為を実践していくうえでの模範/参考となります。これらの書物へ記載されている「他者のおこなう物的/有形的な愛の行為」を通して、愛とは何か? に気づき、愛を学び、そして、自己の日常生活で愛をおこない、愛を拡げるために活かすことができます。同時に、これらの書物へ記載されている内容には共通して、自己を自己以外のために役立てたいという思いが、周囲の人々からの物的な支援/援助や、天使たちからの有形的/無形的な支援/援助を引き寄せている様子を把握できます。また、地上で生活する前に、本人が事前に決めた地上での目的/役割の一部と、地上で役割を遂行する過程において天使たちのおこなう指導(導き)の様子も把握できます。

 ただし、個々が有する地上での目的/役割の内容や目的/役割の遂行状況、現在の成長段階、生活の状況、などによっては、参考となる内容の書物もあれば、参考とならない内容の書物もあります。加えて、個々によって地上での目的/役割の内容は異なるために、書物に記載されている「他者の物的/有形的な愛の行為」を、自己が愛を学び、愛の行為をおこなうための参考としても、他者の物的/有形的な愛の行為を模倣する必要はなく、また、他者の物的/有形的な愛の行為を模倣することが愛の行為になるとは限らない点へ留意してください。時代、地域、社会の情勢、などが異なれば、必要となる愛の行為の方向性も異なるために、他者のおこなう愛の行為からは物的/有形的な行動を参考とするのではなく、行動の目的を参考とします。行動の目的から愛を学び、学んだ愛を、自己のおこなう愛の行為へと活かします。

 マザー・テレサ、マハトマ・ガンジー、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア、エイブラハム・リンカーン、デズモンド・ムピロ・ツツ、たちの活動(愛の行為)は拡く認知されており、様々に書物としてまとめられているために入手しやすいです。ただし、彼らの活動が固定観念/既成概念に基づいておこなわれている場合もみられる点に留意してください。彼らが活動してきた、それぞれの時代、地域、社会の情勢を総合して考慮したうえで書物を読み進める必要があります。勿論[もちろん]ながら、地上の各地域でも、日本でも、何時[いつ]に、何処[どこ]でも、多くの愛の行為がおこなわれており、愛の行為をおこなっている過程が書物として出版されています。この質疑応答では、ビノーバ・バーベの活動をまとめた書物と、ガストン・ダヤナンドの活動を題材とした書物を紹介します。

 ビノーバ・バーベ[Vinoba Bhave]は、インドで、マハトマ・ガンジーとともに物的な暴力を用いずに社会変革を成し遂げました。下記の書物には、その後に、農村での愛に基づく経済変革を推進する内容について記述されています。この書物(原著)の、ひとつひとつの記述(文ごと/図表ごと)の真実度は、365-585の間で構成されています。書物に掲載されている活動の内容は、ビノーバ・バーベが有する「地上での役割」のひとつであり、役割として遂行する愛の行為の例となります。

  • (590/595) The Intimate and The Ultimate [1986] Vinoba Bhave & Satish Kumar
    • (550/560) 怖れるなかれ [2017] 辻信一&中久保慎一翻訳 素敬パブリッシング

 ガストン・ダヤナンド[Gaston Dayanand]は、インドで、マザー・テレサの創設した「Missionaries of Charity (神の愛の宣教者会)」で活動する修道士たちとともにハンセン病患者の世話や、多くのNGO団体(非政府組織)を設立してスラム街での支援/援助をおこなってきました。2023年の時点では、自身が車椅子で行動せざるを得ない身体状況にありながらも、日々に支援/援助を継続しています。下記の書物には、著者ドミニク・ラピエールによって、ガストン・ダヤナンドたちやスラム街で生活する人々のおこなう「相手を思いやり支え合い分かち合う活動」そのままの内容が読みやすいようにノンフィクション物語として記述されています。この書物(原著)の、ひとつひとつの記述(文ごと/図表ごと)の真実度は、110-540の間で構成されています。書物に掲載されている活動の内容は、ガストン・ダヤナンドが有する「地上での役割」のひとつであり、役割として遂行する愛の行為の例となります。

  • (390/390) La Cite De La Joie [1985] Dominique Lapierre
    • (380/375) 歓喜の街カルカッタ [1987] 長谷泰翻訳 河出書房新社

 愛の行為をおこなううえで参考となる内容は、書物、特定の人物のおこなう行為、様々なニュース/報道、などの中にみられるだけでなく、身近でも多くおこなわれています。独りでおこなっている場合もあれば、複数人の集団でおこなっている場合もあり、NPO法人などの組織を設立しておこなっている場合もあります。企業が地域社会への支援/貢献としておこなっている場合もみられます。また、愛の行為(活動)の内容や規模によっては、人知れずおこなわれている場合もあれば、拡く知られている場合もありますが、知名度に関わらず、どのような活動にも多くの天使たちが支援/援助しています。愛の行為は街中に見掛ける些細な発言/行動の中にもみられ、常に観察/考察する意志があるのならば、何時[いつ]に、何処[どこ]で、誰のおこなっている行為からも、愛の行為を学べます。ひとつひとつの行為を丁寧に観察/考察して、誰のためにおこなわれた行為なのか? 何のためにおこなわれた行為なのか? を捉えていく(行為の目的を把握する)ように努めることで、学びへとつながります。

他者/全体の成長へ役立てる行為

(1000/1000)

 他者のために役立つ内容でありながら、自己の利己的な内容が含まれている場合は、愛の行為ではなく不誠実な行為になります。愛の行為には、自己の自覚の有無に関わらず、一切の利己的/自己中心的な目的が含まれていません。

 僅かにでも不誠実な内容を含む目的に基づいておこなわれる行為は、全て不誠実の性質を有するようになります。譬[たと]えると、コップに満たされた清らかで透明な水に、1滴でも黒いインクを垂らしたのならば、肉眼には水に濁りが視えなくても、黒いインクが含まれているのです。ただし、他者のために役立つ内容でありながら、自己の利己的な内容が含まれている行為の場合では、利己的な内容だけでなく、他者のために役立つ内容も含まれているために、行為へ付与されている不誠実な性質の活動性の程度は比較的に低いといえます。誠実な目的は常に自覚しているのに対して、不誠実な目的は自覚している場合だけでなく、自覚できるものの自覚していない場合もあります。不誠実な目的を自覚して有している場合は、不誠実な目的を自覚できるものの自覚なく有している場合よりも、行為へ付与される不誠実な性質の活動性の程度が高くなる点に留意してください。

(1000/1000) 目的の有する性質と行動に表れる性質
(1000/1000) 目的の有する性質と行動に表れる性質

 なお、自己/他者/自己以外を含む「全体」のために愛の行為をおこなう際に、自己のおこなう行為の対象に「自己」も含まれていますが、全体の中では、自己/他者/自己以外の対象へ偏りなく行為がおこなわれ、一部の対象へ偏る状況はありません。自己も、他者も、自己以外も、区別せずに、行為をおこなう対象として捉えているために、行為をおこなう目的には、自己の利己的な内容が含まれていません。他者のために役立つ内容でありながら、自己の利己的な内容が目的に含まれている場合では、自己/他者/自己以外を区別して、また、特定の対象へ偏って行為をおこなう対象として捉えている点に違いがあります。

 地上では、「相手のため」「社会のため」という名目で自己の利己性/自己中心性/欲望や虚栄心を満たすための行為を自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なくおこなう状況は、日常の些細な行為にも、社会の中でも、政治にも、職務にも、頻繁にみられます。例として、動物の保護や自然環境の保全を訴えるために、暴動、妨害、建造物/美術品の汚染/損壊、などをおこなう状況が挙げられます。誠実な大義を掲げれば不誠実な行為が正当化されるのではないのです。愛の行為が衆目を集めるために派手で衝撃的に始まる状況はなく、常に静かに始まり、徐々に拡大していきます。衆目を集めようとする行為が、誠実な目的でおこなわれる状況はありません。

 同様に、自己/自企業/自国の利益のために、他者/他企業/他国へ助言、技術提供、財政/経済の支援、電気/水道/交通網の設備開発/敷設、武力/軍事介入、などをおこない、自己/自企業/自国の利益へ結びつくように仕向けるものの、利益に結びつかなかったのならば後始末/事後処理をすることもなく早々に引き揚げ/手を引き、他者/他企業/他国を混乱/混迷させたままで放置する状況も多くみられます。これらの行動によって、他者の内面や企業/国家/社会に不安定化を招き、時間/労力/資金/資産の浪費、過労、各種疾患の発症、地域文化の崩壊、貧困/迫害/暴動の増大、政治汚職の増加、武装勢力/ギャングの台頭、などにもつながっています。

 地上社会で多くみられる、自国に都合が良いから他国へ兵器を供給する、自国に都合が良いから他国へ兵士/兵器を派遣/常駐する、自国が直接に相手国を侵略していなくても相手国を侵略する他国へ兵器を供給する、自国は直接に相手国を侵略しないものの自国が公式/非公式に支援する武装集団に相手国を攻撃させて間接的に侵略する、などは物的な暴力を用いて相手国を威圧/牽制/屈服/隷属させようとしているだけでなく、他国のためにおこなっているようにみえるものの、あるいは、自国は他国を侵略/搾取していないようにみえるものの、実際には自国の都合のみで行動しているために、自国の有する「運命の流れる方向性」を利己性/自己中心性/欲望を増大させ衰退/退廃/滅亡させる方向性へ流れさせています。運命の流れる方向性は急に変えることができないために、何世代にも渡って重い代償を必ず支払わなければならなりません。運命の流れについては、4章6節 自由意志/運命を参照してください。

 加えて、他者のために役立つ内容であり、自己の利己的な内容が含まれているとはいえないものの、無我/無私で愛の行為をおこなえていない状況もみられます。例として、強い疲労のある際に、「現在に他者の手伝い/手助けをおこなっておいたほうが効率が高く、後から無用な手間がかからなくなる」などの理由を自己に言い聴かせて、嫌嫌ながら手伝い/手助けをおこなおうとしないように自己に仕向ける状況が挙げられます。しかし、無我/無私でおこなっていないのならば、手伝い/手助けが不誠実な行為にはならないものの、愛の行為には成り得ていない点に留意する必要があります。

(1000/1000)

 自己は自覚して愛の行為をおこなっていると認識しているものの、自覚できるものの自覚なく不誠実な行為となっている場合があります。結果として、この行為は愛の行為(誠実な行為)ではなく、不誠実な行為となります。「愛の行為をおこなっている」という自覚のある認識と、「不誠実な行為となっている」という自覚できるものの自覚のない認識の不一致は、行為をおこなう前に、行為をおこなう目的を誠実に内省しないために起きています。行為の目的を明確に自覚したうえで行為をおこなうのならば、自覚のある認識と自覚できるものの自覚のない認識は常に一致しており、両者の不一致は起きません。

 そして、自覚のある認識と自覚できるものの自覚のない認識の不一致は、誠実な行為(誠実な目的)では起きず、不誠実な行為(不誠実な目的)でのみ起こり得ます。誠実さは、自覚のある認識と自覚できるものの自覚のない認識の不一致を容認しないために、誠実な目的に基づいて「不誠実にみえる誠実な行為」をおこなうと自由意志で選択しません。一方で、不誠実さは、自覚のある認識と自覚できるものの自覚のない認識の不一致を容認するために、不誠実な目的に基づいて「誠実にみえる不誠実な行為」をおこなうと自由意志で選択するのです。

 例として、住居の隣接する場所で蛇[へび]が出没したからと、自己が蛇を痛めつけ追いかけ回して、蛇が他者の住居の敷地内へ逃げ入った時に、その敷地に住む他者へ「蛇が敷地内へ入った」と伝えます。自己が他者へ「敷地内に蛇が入った」と伝えるのは、他者への思いやり(愛の行為)と自覚していますが、自覚できるものの自覚していない自己の恐れ/怯えに基づいて、通りかかった蛇を痛めつけ、無計画に追いかけ回した行動を正当化しており、幻想の捉え方に基づく「教唆[きょうさ]」の行動に相当するといえます。なお、この具体例は、危害を加えられてからでなければ対応してはならないという内容を示しているのではありません。自己の恐れ/怯えに基づく不誠実な行動を正当化するために、愛の行為にみえる行動で覆い隠して自己を偽[いつわ]り、他者を騙[だま]してはならないということを表しています。教唆については、5章2節 幻想 #幻想による特徴ある行動を参照してください。

(1000/1000) 自覚的/無自覚的な認識の一致/不一致
(1000/1000) 自覚的/無自覚的な認識の一致/不一致

 行為は、行為の目的に基づいておこなわれるために、行為をおこなうこと自体は行為の目的と一致していますが、一方で、行為の内容が必ずしも行為の目的と一致しているとは限らず、一致していない状況も多くみられます。例として、自己へ構ってもらいたいという自覚のある、あるいは、自覚できるものの自覚のない目的で、相手の体調を気遣う内容の発言をする場合があります。特に、お喋[しゃべ]りをしたい(自己の虚栄心を満たしたい)という目的で、お喋りをする切っ掛けとして、相手へ挨拶する行動は日常の中で頻繁にみられます。相手への挨拶そのものは目的と一致していませんが、挨拶の後に、お喋りをする行動は虚栄心を満たす目的と一致しています。

 また、不誠実な目的だけでなく、天使たちが自己の自覚できるものの自覚していない習慣へ気づかせる誠実な目的で、自己が他者から声を掛けてもらえるように「はたらきかけ」ている場合もあります。他者から声を掛けてもらうという行動の内容は天使たちの目的と一致していませんが、相手から声を掛けてもらうことで、天使たちの目的とする自己の自覚できるものの自覚していない習慣へ気づく切っ掛けへとつながっています。

 行為の目的と行為の内容が常に一致しているとは限らないために、他者への応対は他者のおこなう行為の内容に対してではなく、行為の目的に対しておこなう必要があります。これは、愛の行為をおこなう際に重要な点となり、相手への手助けをおこなう場合を例にすると、適切な内容で、適切な時機に、適切な程度の手助けをおこなうには、相手の行為の目的を正確に把握したうえでなければ、適切におこなえないためです。同様に、相手の成長を阻碍しない愛の行為をおこなう場合にも、相手の行為の目的を正確に把握したうえでおこなわなければ、自己の相手に対する不誠実な行為となってしまう可能性があります。

 なお、誠実な目的で愛の行為をおこなっているものの、眼前の状況への「考慮/配慮の不足」が、不適切な愛の行為をおこなわせやすくなり、中でも、自己の有する固定観念/既成概念に基づいて、考慮/配慮の不足した愛の行為をおこなってしまう場合が多くみられます。例として、ごみ排出の削減による環境保護を訴えるデモ活動をおこなっている者たちへ市販の弁当を差し入れる状況では、デモ活動を継続するには「何らかの食事をおこなう必要がある」という固定観念/既成概念に基づき、デモ活動をおこなっている者たちへ弁当を差し入れる行動は愛の行為となっているものの、デモ活動をおこなっている目的を考慮していないために、市販の弁当から排出される梱包ごみ、紙/プラスチックごみ、などが、デモ活動をおこなっている目的に一致しなくなり、デモ活動を自覚できるものの自覚なく妨害してしまっています。

(1000/1000)

 誠実な生き方をしている者へ積極的な愛の行為(自己を他者/全体の成長へ役立てる行為)をおこなうことに加えて、不誠実な生き方をしている者へも積極的な愛の行為をおこなえますが、不誠実な生き方をしている者へ直接にできる積極的な愛の行為は比較的に少ないといえます。寧[むし]ろ、「自己が他者/全体の成長を阻碍しない愛の行為」をおこなう状況が多くみられます。

 不誠実な生き方をしている者へ直接におこなえる「自己を他者/全体の成長へ役立てる行為」が少ないのは、彼らが相手の一挙手一投足に至る発言/行動/挙措/態度に対しても、自身の虚栄心を満たすのに狡猾に利用しようとするためです。加えて、不誠実な生き方をしている者は、自身がおこなう他者の汚し壊した物品/場所の掃除/修繕、他者へ「ありがとう」と謝意を伝える発言、他者への挨拶、なども自身の虚栄心を満たすのに利用しています。他者のために行為をおこなっている自身に陶酔しているのです。自己陶酔については、5章2節 幻想 #幻想による特徴ある行動を参照してください。

 不誠実な生き方をしている者は、挨拶、掃除、片付け、修繕、食事の準備、庭木の手入れ、必要な物品/食材の買い出し、などの日常の些細な行為であったとしても、相手から直接に受けた物的で積極的な愛の行為を自身の虚栄心を満たすのに利用し、その後に、自身の虚栄心を満たすために相手が自身へ直接に積極的な愛の行為をおこなう状況を期待するようになります。

 また、不誠実な生き方をしている者は、誠実な生き方をしている者から受ける無我/無私の手助け/支援/援助に、「裏がある(企[たくら]み/策謀/思惑が隠れている)のではないか?」と疑い、反発し拒否/拒絶する状況も多くみられます。自身が「裏のある(企み/策謀/思惑を隠した)」利己的/自己中心的な目的で、他者へ発言/行動をおこなうために、相手も同じだと思い込んでいるのです。そして、相手を充分に疑ったうえで裏がないと感じ取ったのなのらば、自身の利己性/自己中心性/欲望を満たすために、相手の手助け/支援/援助を狡猾に利用しようと試みます。相手へ手助け/支援/援助を催促するようにもなり、もしも、手助け/支援/援助をしてもらえなかったのならば、「差別/不公平だ」と相手を罵倒し、陰口/中傷を拡める状況もみられます。

 自己が不誠実な生き方をしている者に対して、どれほどに直接に積極的な愛の行為をおこないたくても、相手が虚栄心や利己性/自己中心性/欲望を満たそうと自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく期待して待ち受けている(不誠実な目的を有している)状況では、直接におこなう積極的な愛の行為は彼らの成長を阻碍する手助けとなるために、おこなえないのです。

 なお、不誠実な生き方をしている者へ直接にできる積極的な愛の行為は少なくても、間接には積極的な愛の行為をおこなえます。間接におこなう積極的な愛の行為には、彼らの視界外(虚栄心を満たそうと自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく期待して待ち受けていない状況)で彼らが必要とする物的な愛の行為をおこなう、彼らの成長を願う祈りとしての無形的な愛の行為をおこなう、などがあります。

 積極的な愛の行為をおこなっていくうえで、相手が誠実な生き方をしているとしても、不誠実な生き方をしているとしても、自己の申し出た手助け/支援/援助を相手が拒否/拒絶したからといって、自己が拒否/拒絶されたのではありません。自己の申し出が拒否/拒絶されたのと、自己が拒否/拒絶されたのを混同しないように留意する必要があります。相手から拒否/拒絶を受けた際に、自己が自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく幻想の捉え方へ陥[おちい]ってしまうと、自己が拒否/拒絶されたと思い込み、相手を忌避/嫌悪するようになる状況もみられます。相手との応対を通して、常に自己の内面を内省し、自己のおこなう愛の行為が自己/相手の成長へつながるように活用します。

 この質疑応答に関連する内容には、この節の質疑応答の「自己が他者の手助けをする積極的な愛の行為に対して、その行為を他者が虚栄心を満たすために利用するのですが、それでも他者の手助けを続けるべきでしょうか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 誠実な生き方へ努めている者は、他者のおこなう愛の行為を観察/考察し、また、自身が相手から受けた愛の行為を通して愛に気づく可能性を有していますが、一方で、不誠実な生き方をしている者は、他者のおこなう愛の行為を視ても、自身が相手から愛の行為を受けても、愛に気づくことはできません。不誠実な生き方をしている者が愛に気づくためには、先[ま]ず、他者/相手は「自身のために都合良く発言/行動してくれるのは当然」と自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく捉えている幻想から脱却する必要があります。幻想から脱却した後に、他者がおこなう愛の行為や、相手が自身へおこなってくれている愛の行為を通して、愛に気づく可能性が現れます。幻想の捉え方については、5章2節 幻想を参照してください。

 幻想から脱却するには、自身の行為、物事の捉え方、考え方(思考の方向性)、などを内省して、他者/相手は「自身のために都合良く発言/行動してくれるのは当然」と捉えている状況を自覚する必要があります。捉え方を自覚できるものの自覚しないままに、捉え方を修正(脱却)することはできないのです。そして、内省は常に誠実さに基づき自覚してのみおこなえ、自覚できるものの自覚なくおこなわれる内省はなく、不誠実さに基づいて内省することもできません。自身を誠実に内省できるのならば、その状況は、不誠実な生き方を辞めて誠実な生き方へ努めると自身の自由意志で決めたことを表しているために、結果として、不誠実な生き方をしている場合には愛に気づくことができず、誠実な生き方へ努める場合にのみ気づけるようになります。

 なお、不誠実な生き方をしている者へ積極的に愛の行為をおこなってはならないのではありません。相手の生き方に関わらず、自己は相手の生き方で選別/選り好みすることなく、誰にでも積極的に愛の行為をおこなえます。ただし、相手へ愛の行為をおこなうように自己へ無理強いしてはなりません。無理強いしても、嫌々ながらおこなっても、愛の行為には成り得ないのです。内面の状況によっては、相手の手助けをおこなえる状況であったとしても、「手助けをおこないたくない」と感じ取る場合もあり、特に、不誠実な生き方をしている者へ「自己を他者/全体の成長へ役立てる」積極的な愛の行為をおこなえる状況で感じ取る場合が多くみられます。外環境/周囲の状況、相手のおこなう不誠実な行為、自己の用いる有形体の熱/疲労、などの組み合わせが、直接に自己へ「手助けをおこないたくない」と感じ取らせる状況はありませんが、これらが自己の内面の状況へ影響を与えて、自己へ「手助けをおこないたくない」と感じ取らせる場合はあります。

(1000/1000)

 自己が他者へおこなった積極的な愛の行為に対して、その行為を受けた他者が、自身の虚栄心を満たすために受けた行為を利用するのは、他者の成長が阻碍される状況へつながりますが、自己のおこなった手助けを他者が自身の虚栄心を満たすために利用しているだけであり、自己が「他者の虚栄心を満たし成長を阻碍する目的」で他者を手助けしているのではない点に留意してください。自己が他者の手助けをおこなった後に、他者が「自己の手助けを利用して虚栄心を満たす」と自由意志で選択しているのであり、自己が他者の虚栄心を満たす手助けをしているのではないのです。なお、自己が他者へおこなう積極的な愛の行為に対して、その行為を他者が虚栄心を満たすために利用するのは、異なる様々な成長段階の者が同じ場に生活している地上のみでみられ、同じ成長段階の者が同じ場に生活する人霊界ではみられません。

 自己が他者へおこなう手助けに対して、他者は手助けの内容ではなく、自身に構ってもらえる状況へ快感を感じて虚栄心を満たしています。これは、他者が自身の自由意志で「虚栄心を満たすために相手の手助けを利用する」と決めているのであり、自己が他者の虚栄心を満たす手助け(他者の不誠実な行為へ加担)をしているのではありません。自己は他者が必要とする手助けをおこなっているだけなのです。

 他者が虚栄心を満たすために、自己の手助けを切っ掛けとして利用するのか/利用しないのかは他者が決めるのであり、自己が決めるのではありません。他者が虚栄心を満たすために自己の手助けを利用するからといって、自己の手助けが利用される状況を忌避して、自己が「他者へ必要とする手助けをおこなわない」と決めるのは自己の誠実さに反する可能性もあります。自己は自己の誠実さに基づいて他者を手助けし、周囲へ愛の行為の模範を示し続けることで、いずれは、他者も自身の虚栄心を満たすために相手の手助けを利用している矮小[わいしょう]さへ気づくようになります。ただし、今回の地上で生活している期間に気づくとは限らず、数百年後、数千年後に気づく場合もあり、何時[いつ]に気づくかは他者の自由意志による選択で決まります。

(1000/1000) 自己/他者の行為の選択
(1000/1000) 自己/他者の行為の選択

 そして、自己の手助けを他者が頻繁に虚栄心を満たすために利用するからといって、自己が嫌嫌ながら愛の行為をおこなうような状況があってはなりません。自己は常に無我/無私で愛の行為をおこなうだけです。嫌嫌ながら(無我/無私でなく)おこなう行為は愛の行為に成り得ないのです。何時[いつ]でも、何処[どこ]でも、外環境や自己の内面/有形体がどのような状況であったとしても、常に全体の成長を願う寛容のある対話/応対へ努めます。全体には、自己/他者、地上で生活する人々、脊椎動物(動物霊)、地上を徘徊[はいかい]する地獄者/地縛者、地獄層で生活する地獄者/地縛者、無形界で生活する霊、地域社会、地上の社会全体、などの自己が現在に認識する世界の全体が含まれます。

 同様に、自己が他者を手助けした状況に対して、他者から感謝されても/感謝されなくても、拒絶されても、非難されても、自己は常に無我/無私で愛の行為をおこなうだけです。他者から受ける反応によって、自己が手助けをする/手助けをしないの判断を変えるようなことはありません。

(1000/1000)

 相手の長所へ意識を向けて、同時に、相手の短所へ意識を向けないようにして対応するのは、相手の成長を促せる場合もあれば、成長を促せない場合もあります。相手を「あるがまま」に捉えて、相手の状況へ適切な内容を適切な程度で対応することが、相手の成長を促すように、はたらきます。

 個体の長所/短所と呼ばれている側面は、特定の状況に対して現れている内容であり、どのような状況でも同じ内容の長所/短所が現れるのではありません。また、特定の状況で長所と呼ばれている内容は、他の状況では短所と呼ばれている内容となる場合もみられます。同様に、特定の状況で短所と呼ばれている内容は、他の状況では長所と呼ばれている内容となる場合もみられます。長所/短所と呼ばれている側面は表裏一体であり、遭遇する外環境の物事/現象/出来事や、内面の状況によって、個性を捉える方向性が異なるために、長所/短所と呼ばれる異なる方向性として現れてみえるのです。そして、相手の長所/短所と呼ばれている側面の一方へ意識を向けて、他方へ意識を向けないのは、あるがままに相手を捉えているのではないために、相手へ適切な内容を適切な程度で対応し難く、不適切な内容を不適切な程度で対応しやすくなります。

 長所/短所を譬[たと]えると、現在に有している個性に、ある方向性から光を当てた際に現れる陰影が長所であり、他の方向性から光を当てた際に現れる陰影が短所を表しています。光を当てる方向性によって、現れる陰影は様々に移り変わり、常に同じ位置の陰影(同じ内容の側面)が現れているのではありません。相手を「あるがまま」に捉えるには、長所/短所と呼ばれている陰影を視るのではなく、陰影を生み出している基となる「個性」を観る必要があります。どのような方向性から光を当てたとしても、個性そのものが移り変わって現れる状況はみられないのです。

(1000/1000) 個性と長所/短所の譬え
(1000/1000) 個性と長所/短所の譬え

他者/全体の成長を阻碍しない行為

(1000/100])

 他者/全体の成長を阻碍しない愛の行為は、他者が「誰なのか?」を判別しておこなうのではなく、また、他者のおこなっている行為の内容を判別しておこなうのでもなく、他者が行為をおこなっている目的を判別しておこないます。行為の内容と、行為の目的は異なる点に留意してください。

 他者の誠実/不誠実な生き方や、ひとつひとつの行為の内容は、必ずしも眼前でおこなわれている行為の目的が有する誠実/不誠実を表しているとは限りません。誠実な生き方へ努めているから一切の不誠実な行為をおこなう状況がみられないのではなく、同様に、不誠実な生き方をしているから何ひとつ誠実な行為をおこなう状況がみられないのでもありません。また、外見的には誠実にみえる行為の内容であったとしても、行為の目的は誠実な場合もあれば、不誠実な場合もあります。同様に、外見的には不誠実にみえる行為の内容であったとしても、行為の目的は誠実な場合もあれば、不誠実な場合もあります。

 常に、他者のおこなう行為そのものと、行為の内容を詳細に観察して、行為の目的を把握するように努めているのならば、複数人がおこなう同じ内容の行為に対してでも、あるいは、特定の他者が繰り返しおこなう同じ内容の行為に対してでも、他者の成長を阻碍しない愛の行為をおこなう場合と、おこなわない場合の判別が徐々にできるようになります。そして、他者や、他者のおこなう行為の内容ではなく、行為の目的へ常に自己の意識が向くようになり、他者の成長を阻碍しない愛の行為をおこなう/おこなわないを瞬時に判断できるようになります。

 加えて、外環境へ表現される発言/行動などが、誠実な行為なのか、あるいは、不誠実な行為なのかも、発言/行動の目的を観察/考察して判断します。発言/行動そのものや、発言/行動の内容を観察/考察していても判断し難く、寧[むし]ろ、誤認/誤解を招きやすくなる点に留意してください。同時に、他者のおこなう誠実な行為からは、愛によって造化された「輝き」が放たれる様子を霊眼で視ることもできます。他者のおこなう不誠実な行為からは、利己性/自己中心性/欲望によって造化された「暗闇」が漂う様子(あるいは、本人から周囲へ向けて暗闇の噴き出す様子)を霊眼で視ることもできます。もしも、霊眼で輝き/暗闇を視えなかった(輝き/暗闇へ気づけなかった)としても、輝きからは自己の同調する活動性の程度を上昇させるように促す高揚感を感じ取り、一方で、暗闇からは自己の同調する活動性の程度を下降させようとする圧力を違和感/不自然感として感じ取れます。

 行為の詳細な考察は、時間をかけておこなうだけでなく、瞬時におこなえる場合もみられ、自己の成長の程度が向上するほどに、内的構造の様々な機能が活性するために、他者のおこなう行為を通して行為の目的を瞬時に正確に把握できるようになります。なお、他者が不誠実な行為をおこなっていると判断したからといって、他者そのものを不誠実と判断するのではありません。不誠実な生き方をしている場合だけでなく、どれほどに誠実な生き方へ努めているとしても、突発的に不誠実な行為をおこなってしまう場合はあります。分霊(自己/他者)そのものに誠実/不誠実はなく、分霊のおこなう行為の目的に誠実/不誠実があるのです。

 他者のおこなう行為の目的から誠実/不誠実を判断する土台には、自己の有している認識の程度、経験へ保存されている習慣の内容/強さ、物事の捉え方、固定観念/既成概念の内容/強さ、貯蔵している情報/知識の内容/程度、などがあり、判断するためには最低限として自己が誠実な生き方に努めている必要があります。自己が幻想の捉え方に陥[おちい]り、瞬間瞬間の自己に都合良く捉えようとしているのであれば、他者のおこなう行為を通して行為の目的を考察することはできないのです。加えて、自己の成長にともない、認識の程度、物事の捉え方、なども変化するために、以前に誠実と判断した行為を、現在には不誠実な行為として判断する場合も有り得ます。誠実/不誠実の判断が変化することについては、5章1節 修養の生活 #質疑応答の「誠実な行為と不誠実な行為は、絶対的な区分ですか?」を参照してください。

 他者のおこなう不誠実な行為には、自覚して不誠実な行為をおこなっている場合(悪)もあれば、自覚できるものの自覚なく不誠実な行為をおこなっている場合(邪)もあり、他者の行為を詳細に考察して判断する必要があります。自覚して不誠実な行為をおこなっている場合は、自身で不誠実な行為をおこなう状況を自覚して制御していないといえますが、一方で、自覚できるものの自覚なく不誠実な行為をおこなっている場合は、自覚できるものの自覚なく制御していないか、あるいは、知識が不足しているために、おこなっている行為が不誠実だと気づいていない状況もあります。

(1000/1000)

 自己のおこなった行為を常に内省しているのならば、自己が自由意志により自覚して決めたうえでおこなった諫言[かんげん]/助言と、天使たちが自己を通して(自己が自由意志により自覚できるものの自覚なく決めたうえで)おこなった諫言/助言は区別できます。しかし、諫言/助言をおこなった時点では区別し難く、その後に、自己のおこなった行為を内省して徐々に気づくようになります。

 他者の不誠実な行為や囚われに基づく行為に対して、諫言/助言を自己が自由意志により自覚して決めたうえでおこなった場合は、おこなった時機が刹那的で無計画であり、内容が諫言/助言をおこなった状況のみに対応している局所的な場合が多くみられます。

 一方で、諫言/助言を天使たちが自己を通しておこなった場合は、おこなった時機が他者にとって適切で、他者の成長へつながるように計画されており、内容が諫言/助言をおこなった状況だけでなく、長期に渡る他者の生活全体を俯瞰[ふかん]しています。加えて、自己は自然に諫言/助言している場合が多くみられ、他者へ諫言/助言した後に、自己が諫言/助言したことへ気づきます。

 地上では、絶え間なく物質の心から誘惑の影響を受け続けているために、自己が自由意志により自覚して決めたうえでおこなう諫言/助言は、他者のためではなく、他者の行為が瞬間瞬間の自己に都合が良くないという幻想の捉え方に基づいておこなわれている状況も頻繁にみられます。他者への諫言/助言は「他者のため」という大義名分を隠れ蓑[みの]にして、自己の虚栄心を満たすのに利用しているのです。

 なお、他者への諫言/助言を、自己が自身でおこなったとしても、天使たちが自己を通しておこなったとしても、諫言/助言されて、あるいは、指摘されて気づく者と、気づかない者がいます。自身のおこなった固定観念/既成概念に基づく行為や、不誠実な行為、加えて、それらの行為をおこなった目的を自覚できるものの自覚していない者の中で、自身のおこなった行為に違和感/不自然感を感じていない者は、諫言/助言/指摘されても自身のおこなった行為や行為の目的を自覚するようにはなりません。自身のおこなった行為に不鮮明ながらも違和感/不自然感を感じ始めている(未だ自覚するには至っていない)者が諫言/助言/指摘されると、自身のおこなった行為や行為の目的を自覚するようになります。

(1000/1000)

 自己が他者/全体の成長を阻碍しない行為の日常的な例として、挨拶があります。挨拶は、「おはよう」「こんにちは」などの発言、また、会釈などの、日常の中で他者への思いやりを表す些細な行動ですが、実際には、囚われと利己的/自己中心的な目的でおこなわれている場合も頻繁にみられます。

 些細な愛の行為としての挨拶は、意識が挨拶をおこなう相手へ向いており、相手へ伝わる適切な距離/位置で、明確な発音、丁寧な口調でおこなわれています。また、自己がおこなった挨拶に対して、相手からの返答があったとしても、返答がなかったとしても、自己が感情を湧き起こらせる状況はなく、今後の相手への応対も変わりません。

 一方で、囚われと利己的/自己中心的な目的でおこなわれている挨拶は、意識が挨拶をおこなう相手へ向いていない(相手へ投影している自己へ向いている)ために、相手へ伝えるための適切な距離/位置で挨拶がおこなわれていない状況や、唸[うな]り声のように不明瞭な発音/口調でおこなわれている状況が多くみられ、相手から返答がないと、怒り/悲しみなどの不快の感情を湧き起こらせ、今後の相手への応対を変えるようになります。この挨拶は、自己に応対してもらえる/構ってもらえることで恐れ/怯えから眼を逸らし虚栄心を満たそうとするための不誠実な行動か、あるいは、常識という囚われに基づいて物的に相手が視界に入ったために条件反射的におこなわれているだけの無価値な行動です。

 囚われと利己的/自己中心的な目的で挨拶をおこなうのか/おこなわないのかは、本人が自由意志で自覚的に(自覚して/自覚できるものの自覚なく)選択して決めており、本人の決めた自由意志による選択へ干渉しないために、その目的による挨拶を諌[いさ]める必要はありません。同様に、囚われと利己的/自己中心的な目的による挨拶へ応対するのは、相手の虚栄心を満たす手助けとなります。もしも、囚われと利己的/自己中心的な目的による挨拶と認識しながらも、自己が相手の挨拶へ応対するのならば、挨拶へ応対されない(自己が他者/全体の成長を阻碍しない愛の行為によって挨拶へ応対しない)状況から、相手が「なぜ応対されなかったのか?」を内省するための切っ掛けを奪うようにもなるために、相手の成長を阻碍することへつながります。

 自己が「相手の囚われと利己的/自己中心的な目的でおこなわれた挨拶」へ応対しなかった場合であっても、相手の挨拶の目的を自己が明確に判別したうえでの対応なのか? 自己に都合の良い思い込みで対応してないか? 自己の虚栄心を満たすための対応になっていないか? などを、詳細に内省する必要があります。

(1000/1000)

 相手を諌[いさ]める/諌めないは、常に自己の自由意志で自覚して選択できます。決して諌めてはならないのではありません。ただし、自己の自由意志で自覚して「相手を諌める選択」をするのならば、自己/他者の成長を阻碍し、世界の進化を停滞させる可能性を考慮したうえでおこなう必要があります。もしも、他者が諌められて自身のおこなっている不誠実な行為に気づき、自身を内省して成長へつなげられるようになる時機が来たのならば、自己が自己の自由意志に基づき自覚して他者を諌めなくても、天使たちが自己を通して、あるいは、適切な人物/物事を通して諌めてくれます。

 地上では絶え間なく物質の心から誘惑の影響を受け続けているために、一切の利己性/自己中心性/欲望を有さずに、自覚して他者を諌めるのは難度が高いのです。これは、自己の自由意志で自覚して「他者を諌める」と選択しておこなう行動の土台には、誠実な目的がほとんどを占めていたとしても、自覚できるものの自覚なく不誠実な目的も混入しやすい状況を表しています。混入している不誠実な目的には、自己ならば選択する選択肢を他者へ選択させようとする誘導/強制が多くみられます。

 相手を諌める前に、自己が、どうして相手の言動を余りにも酷く感じるのか? を詳細に内省する必要があります。多くの場合では、常識などの囚われ(固定観念/既成概念)や、利己的/自己中心的な幻想の捉え方が「酷いと感じる」土台に潜んでいます。特に、他者の有形体の使用年数(年齢)で、他者の行動の程度を決めつけていないか? を充分に考察します。子供と呼ばれる年齢であれば言動に酷さを感じず自己が不快な感情を湧き起こらせる状況もないのに、一方で、同じ言動を大人と呼ばれる年齢でおこなわれると酷さを感じ不快な感情を湧き起こらせている可能性があります。有形体の使用年数と、本人の成長の程度には全く関係がない点に留意してください。

 それでも、どうしようもなく他者の言動が酷く感じるのならば、他者を1-2歳の幼児と捉えると不快な感情が湧き起こらなくなり、他者の成長を祈ることができるようになります。実際に、それらの言動をおこなっている者の内的成長度を20で割ると、年齢という尺度で1-2歳に相当している場合が多くみられます。例として、相手の内的成長度が30で測定される場合は、20で割ると、1.5歳に相当していることになります。加えて、自己が地上への再授肉を繰り返す中で、自己にも他者へ酷いと感じさせる言動をおこなっていた時期があったかもしれないと省みれば、眼前の他者を諌めるよりも、他者の成長を願う愛の思考/祈りを自然に選択するようになります。内的成長度については、4章3節 内的成長度を参照してください。

 眼前の状況/情勢に対して、現在の自己/自企業/自宗派/自国を基点に他者/他企業/他団体/他宗派/他国などを安易に諌める、あるいは、非難/批判/糾弾するのではなく、「自己/自企業/自宗派/自国は、現在に何を、どのようにおこなっていくのか?」を考察する必要があります。この考察は、他者/他企業/他団体/他宗派/他国などへ対抗/牽制/排除するためにおこなうのではなく、地上の社会全体、惑星、などの全体にとって必要とする内容、必要とする程度を考察し、考察した内容を実践/実行していきます。

 この質疑応答に関連する内容には、5章3節 誘惑 #質疑応答の「他者の言動があまりにも酷く、つい怒りの湧いてくる時があります。成長していけば、怒りを感じることがなくなるのでしょうか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 相手が固定観念/既成概念などの強い囚われに基づいておこなっている誠実な行為を、自己は、その行為が相手の更なる成長を阻碍していると明確に認識しているのであれば、行為を手助けするのは相手の成長を阻碍する手助けをしていることになるために、手助けすべきではないといえます。「手助けしない」という行為が、相手の成長を阻碍しない愛の行為となります。

 逆に、自己が固定観念/既成概念などの強い囚われに基づいて、相手のおこなっている行為が強い囚われに基づいていると誤認している可能性もあります。相手のおこなっている行為が強い囚われに基づいていると認識したのならば、同時に、自己の有している囚われのために「相手の行為を誤認している可能性」を誠実に内省する必要があります。

 常に自己のおこなう行為を内省して、自己の有している自覚のある、あるいは、自覚できるものの自覚のない囚われへ気づき、囚われの解消へ努めておく必要があります。そのうえで、相手の行為に不誠実さ/囚われなどの違和感/不自然感/不調和を感じ取ったのならば、違和感/不自然感/不調和を感じ取った原因が相手にあるのか、あるいは、自己にあるのか、を考察した後に、相手の行為を手助けする/手助けすべきでないの判断をするようにします。

 自己が修養の生活を実践し、愛の行為へ努めるようになると、周囲の者たちが造り出す「利己性/自己中心性/欲望に基づく不自然さ」が際立ってみえるようになるために、自己が不自然さを正さなければならないと自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく囚われてしまいやすくなります。この囚われ(固定観念)は、自己へ不自然さを正すための行為を強制するように「はたらき」かけ、相手のおこなった行為へ苛立ち/愚痴などを湧き上がらせる不自然さを造り出す状況へもつながります。周囲の者たちが造り出す不自然さを逐一に見張り躍起になって正していく必要はありません。周囲の者たちが造り出す不自然さを自己が正してはならないのではなく、正さねばならないと囚われることで、自己が不自然さを造り出してしまわないようにするのです。自己が不自然さを造り出さないように努めながらも、適宜に「眼前の不自然さ」を正していく必要があります。

 この質疑応答に関連する内容には、5章2節 幻想 #質疑応答の「不誠実な生き方をしている者たちが幻想に基づく利己的/自己中心的な行為をおこなうのに遭遇すると苛立ちが湧いてくるために、あらかじめに行為をおこなわないように仕向けることはできますか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 修養の生活を実践し、他者の成長を阻碍しない愛の行為をおこなうようになり、そのために陰口/中傷を拡められたとしても、陰口/中傷に臆[おく]して、他者の自己に対する評価に恐れ/怯えるような無用な心配をする必要はなく、強い意志で修養の生活を実践し続けることです。誠実な生き方をしている者は、決して、他者の陰口/中傷を拡める状況がなく、他者を外道、社会のはみ出し者、社会の落ちこぼれ、非情、人でなし、などと言い呼ばわりもしません。それらを言い呼ばわるのは、常に不誠実な生き方をしている者たちであり、自身の恐れ/怯えから逃げ回るために、自己に都合の良くない相手を自己に都合良く利用しているだけに過ぎないという点へ留意してください。

 他者の成長を阻碍しない愛の行為は、肉眼に視える物的な行動/態度などが、冷淡で、厳しく、薄情にみえる場合も多くあるために、それらの行動/態度などが、不誠実な生き方をしている者たちからみれば、自身へ都合良く構ってくれない意地悪をされているように捉えられるのです。そして、相手が自身へ都合良く構ってくれない状況は自身の恐れ/怯えを増大させるために、相手を貶[おとし]めるように陰口/中傷を拡散し、自身の虚栄心を満たすために相手を利用しています。

 相手の陰口/中傷を拡める者、相手を脅迫する者、相手へ暴力を振るう者、相手を差別/迫害する者、などは、自己が陰口/中傷される、脅迫される、暴力を振るわれる、差別/迫害されることへ恐れ/怯えており、相手も自己と同様に陰口/中傷や脅迫/暴力/差別/迫害を恐れ/怯えていると思い込んでいるために、相手の陰口/中傷や、相手へ脅迫/暴力/差別/迫害をおこなうのです。自己が陰口/中傷や脅迫/暴力/差別/迫害を恐れ/怯えていないのならば、相手から受けた陰口/中傷や脅迫/暴力/差別/迫害を気に病む状況はなく、また、これらの行動を自己が相手へおこなう状況もありません。もしも、相手から陰口/中傷や脅迫/暴力/差別/迫害を受けたのならば、これらの行動を通して相手の内面を詳細に観察/考察し、同時に、自己の内面を内省して、自己の成長へ活かすようにします。

 他者を、外道、社会のはみ出し者、社会の落ちこぼれ、などと言い呼ばわる不誠実な生き方をしている者たちの言う「道/社会」とは、自己に都合良く利己的/自己中心的に生活する「生き方」を指しており、誠実な生き方をしている者たちの道/社会とは定義が異なります。そのため、不誠実な生き方をしている者たちが、誠実な生き方へ努めている者を、外道、社会のはみ出し者、社会の落ちこぼれ、などと言い呼ばわるのは当然です。もしも、自己が言い呼ばわれているのならば、自己が誠実な生き方へ努めている状況の証明となり、また、誠実な生き方を実践できているという確信にもつながります。

 自己が誠実な生き方を実践できている/努められているという確信は、誠実な生き方を求めて修養の生活を実践したいけれども実践するのに臆[おく]している周囲の者たちへ、実践する勇気を与えることへもつながっています。不誠実な生き方をしている者たちが、自己を、どれほどに貶[おとし]め、嘲[あざけ]り、蔑[さげす]んでいたとしても、自己は自己の確信に基づき、強い意志と勇気をもって誠実な生き方(修養の生活)を実践し続け、誠実な生き方を求める周囲の者たちの成長へ「自己を役立てる愛の行為」として、「他者の成長を阻碍しない愛の行為」を実践し続ける必要があるのです。もしも、自己が貶められる状況へ臆してしまうのならば、自己を手本/模範とし、自己の後へ続いて修養の生活を実践しようとする者たちを見捨ててしまうことになり、自己が修養の生活/愛の行為を実践している価値がなくなってしまいます。

 不誠実な生き方をしている者たちは、自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく常に外環境/他者へ恐れ/怯えているために、独りで相手へ物的に対面して誹謗中傷/差別をおこなえません。物的に対面して相手へ誹謗中傷/差別をおこなったのならば、相手から言い返される(自身が誹謗中傷/差別を受ける)かもしれない、相手から物的に危害を加えられるかもしれない、と恐れ/怯えているのです。彼らは、上司、先輩、親/家族、などの「自身が優位にみえる関係性」を利用してのみ、相手から言い返されない(自身が誹謗中傷/差別を受けない)、相手から物的に危害を加えられない、と思い込めるために、独りで相手(部下/後輩/子供/家族)へ物的に対面して誹謗中傷、差別、暴力、虐待、などをおこないます。

 「自身が優位にみえる関係性」がなかったのならば、日常的には、複数人で相手へ物的に対面して誹謗中傷/差別をおこなうか、あるいは、独り/複数人で相手から隠れて誹謗中傷をおこないます。もしも、独りで相手へ物的に対面して対応する状況を避けられないのならば、直接に誹謗中傷/差別をおこなわないものの、何としてでも虚栄心を満たさずにはいられないために、陰湿な嫌がらせをおこなう場合もみられます。これらの狡猾に逃げ回りながら虚勢を張る臆病な行動は、誠実な生き方へ努めている者から観ると滑稽であり、刹那の虚栄心を満たすために相手を利用したことで、今後に重い代償を成長の退行として支払わねばならない状況を鑑[かんが]みれば、彼らへ憐[あわ]れみ(寛容)を有さずにはいられなくなります。

 一見すると、成長の退行という代償は「重く」は捉えられないかもしれませんが、成長を求め、修養の生活を実践していくほどに、成長の退行は余りにも重い代償なのだと気づくようになります。成長は、多大な時間/労力を用いて修養の生活へ専心/献身し、強い意志と誠実な目的を保持し続けて同調する活動性の程度を高め維持し、高い活動性の程度を行為へ付与するように努めることで、僅かずつ促進されます。これらを常に実践し続ける困難さを明確に実感すると、僅かに成長が退行するだけでも強い苦しみを感じ取るようになるために、自己が成長を退行させるような行為をおこなうことは決して容認できなくなります。

 この質疑応答に関連する内容には、5章1節 修養の生活 #質疑応答の「修養の生活を実践していると変人と呼ばれるのですが、どうすればよいでしょうか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 はじめに、行為をおこなう目的の誠実/不誠実に関わらず、暴力/残虐な手段そのものが不誠実となることについては、5章1節 修養の生活 #質疑応答の「行為をおこなう際に用いる手段と、手段の有する誠実/不誠実の性質は、どのように分類されるのですか?」を参照してください。

 差別/暴虐などの不誠実な行動には、愛で対抗し、愛でのみ打ち克つことができます。相手の不誠実な行動に、不誠実な手段で対抗しても、何ひとつ変わりません。どれほどに誠実な目的であったとしても不誠実な手段で対抗したのならば、相手の恐れ/怯えを増大させ、相手の不誠実な行動を増強させるだけです。不誠実へ愛で対抗する行動は、地上社会では「非暴力/不服従」として認知されています。愛という無形的な行為が、外環境へ物的に表された行動を「非暴力/不服従」と呼んでいます。非暴力/不服従による差別/暴虐への抵抗運動を指導/推進した者には、マハトマ・ガンジー、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア、デズモンド・ムピロ・ツツ、たちが拡く知られています。

 地上社会では、眼前の状況を解決するのに暴力(権力/武力の行使を含む)は現実的な手段と捉えられている場合も多くみられますが、暴力は幻想/妄想に基づく手段です。幻想/妄想に基づく手段は幻想/妄想を強めるだけであり、一見すると解決しているようにみえるものの、実際には現実的な解決へは至りません。非暴力/不服従が現実に基づく本質的な手段であり、現実的な解決へ至ります。

 愛の表現である非暴力/不服従とは、消極的/受動的な行動を指しているのではありません。非暴力/不服従は、相手へ寛容をもつ行為でもあり、他者/全体の成長を阻碍しない愛の行為に含まれます。肉眼に視える物的な非暴力/不服従の行動は、物的におこなわれる差別/暴虐へ積極的に対抗しているようにみえない場合もありますが、差別/暴虐/抑圧へ立ち向かわない、差別/暴虐/抑圧を甘んじて受ける、などを指しているのではないのです。差別/暴虐/抑圧へ立ち向かわない、差別/暴虐/抑圧を甘んじて受ける、などは恐れ/怯えに基づく行動です。

 非暴力/不服従は、肉眼に視えない「愛による無形的な行動」が中核であり、力強い積極的な行動です。非暴力/不服従は不誠実を決して容認しない強い意志に基づいてのみ、おこなうことのできる行為であり、弱い意志でおこなえる行為ではありません。強い意志に基づいて造化された愛の有する無形的な影響力の大きさが、差別/暴虐などの物的な影響力を凌駕[りょうが]し、差別/暴虐などをおこなう者たちへ自身の行動(行動の目的)の卑小さを自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく認識させ、差別/暴虐などの行動を自身の意志で辞めさせるのです。他者/外環境から強制されて、差別/暴虐などの行動を不本意ながら辞めるのではない点に留意してください。無形的/有形的な影響力のつながりについては、1章4節 概要 #質疑応答の「無形的な影響の大きさと、有形的な影響の大きさには、どのような関係があるのですか?」を参照してください。

 加えて、非暴力/不服従の行動は、それらの行動をおこなう者たちにも、肉眼に視える物的な影響力を凌駕する「肉眼に視えない無形的な影響力」への確信と、強い意志は「あらゆる状況」へ打ち克つ原動力となる、という学びを得る切っ掛けとなります。そして、非暴力/不服従の行動をおこなうと自身の自由意志で選択し、積極的に非暴力/不服従の行動へ専心/献身する過程は、自身の内面に「差別/暴虐/抑圧へ立ち向かい続ける勇気」と、「差別/暴虐/抑圧をおこなう者へ愛の行為(寛容)で応対できている喜び」を湧き溢れさせてくれます。

 非暴力/不服従は、ある地域内で個体/集団が個体/国家/企業へおこなうだけでなく、自国が他国へおこなうこともできます。他国が自国へおこなう侵略/戦争/紛争、天然資源/生産物の搾取、経済的な圧力/制裁、などに対して、他国が自国へおこなうのと同様の不誠実で物的な手段を用いて対抗するのではなく、非暴力/不服従で応対するのです。物的には、他国によって自国が征服/蹂躙[じゅうりん]される期間もみられるかもしれませんが、どれほどに長くても数百年に過ぎません。永遠に存在し成長し続ける霊として捉えるのならば、数百年は僅かにも満たない期間であり、僅かにも満たない期間に拘[こだわ]りしがみつかずに、この期間を今後の成長へつながるように活かすことが大切です。勇気のある誠実な愛の行為(非暴力/不服従が与える影響)は永続しますが、一方で、暴力、搾取、制裁、弾圧、支配/隷属、などの臆病で不誠実な行為は決して永続せず、必ず退廃/衰退/滅亡します。

 なお、不誠実な行為へ寛容/憐[あわ]れみをもって応対することは、不誠実さの存続を容認しているのではありません。誠実さ(愛/実在)が、不誠実さ(幻想/非実在)と和解する状況はなく、不誠実さへの譲歩も妥協も、不誠実さという幻想を存続させるだけでしかないのです。寛容/憐れみは、他者が現在の段階で未だ不誠実な行為をおこなっている状況へ示すのであり、いずれは不誠実な行為の一切をおこなわないようになることを願い/祈っているのです。寛容/憐れみについては、この節の質疑応答の「慈悲/憐れみとは何ですか?」を参照してください。

 ただし、地上社会で物的に生活する中では、差別/暴虐などをおこなう者や、不誠実な生き方をしている者と交渉しなければならない場合もあります。例として、他国との外交で、不誠実な生き方をしている首長(首相/大統領など)と交渉しなければならない状況は多くみられ、相手が不誠実な生き方をしているからと対話を拒むのならば、国家間/地域間の様々な取引/交流に不和を生じさせるようになります。不誠実な生き方をしている者との交渉は、不誠実性へ妥協することではありません。長期間を俯瞰[ふかん]して、現在に必要とする交渉をおこなうのです。

 この質疑応答に関連する内容には、5章3節 誘惑 #質疑応答の「国家が軍隊を保有することは、不誠実な行為となるのでしょうか?」がありますので参考にしてください。

愛の行為を実践する

(1000/1000)

 行為をおこなうための判断基準は無数にありますが、それらの中で、誠実な行為をおこなっていくための判断基準のひとつとして、個体にとって「ある行為をおこないたいのか? おこないたくないのか?」で判断するのではなく、全体にとって「ある行為が必要か? 不要か?」を判断するように努めることで、誠実な行為をおこなえるようになります。

 個体として、ある行為をおこないたいのか/おこないたくないのかを判断する際には、「他者/全体のためにおこないたい」という自覚のある誠実な目的に基づいている場合もあれば、「自己のためにおこないたい」という自覚のある誠実な目的に基づいている場合もあり、一方で、「自己のためにおこないたい」という自覚できるものの自覚のない利己性/自己中心性/欲望が判断の土台となっている場合もあります。地上では絶え間なく物質の心から誘惑の影響を受け続けているために、自己のおこなう行為の目的には、必ずしも自覚している誠実な目的だけでなく、自覚できるものの自覚のない不誠実な目的をあわせもっている場合もあるのです。自覚していなくても、不誠実な目的が僅かにでも含まれているのならば不誠実な行為となります。

 自覚の有無に関わらず、不誠実な目的を有している限りは、どのような行為をおこなっても、行為は不誠実な性質を有する点に留意してください。不誠実な目的で誠実な行為がおこなわれる状況は決してなく、同様に、誠実な目的で不誠実な行為がおこなわれる状況もみられません。これは、自身が手の汚れ(不誠実な目的)に気づいていなくても、汚れた手で触れたものには必ず手の汚れが付着する(不誠実な行為になる)ことへ譬[たと]えられ、触れたものを清いままで保つ(誠実な行為になる)ためには、手の汚れへ気づき、手の汚れを洗い流して(不誠実な目的を消し去って)から触れる必要があり、清い手で触れたものは清いままなのです。

 そのため、個体という観点から自己のおこなう行為を判断しようとせずに、全体の観点から自己のおこなう行為を判断していくように努めることで、自覚できるものの自覚のない不誠実さ(利己性/自己中心性/欲望)から影響を受け難くなります。全体の観点から自己のおこなう行為を判断していく際に、全体には「行為をおこないたい/おこないたくない」という基準がありません。全体の判断には、現在に個体のおこなう行為が「必要か/不要か(世界の進化を促進するか/停滞させるか)」しかありません。

 なお、「全体の観点から自己のおこなう行為を判断する」「全体を総合して捉える」などの表現は、地上に存在する国家/社会の利益を基点とした矮小な捉え方を指しているのではなく、世界全体の進化を基点として捉えることを表しています。これらの表現は、政治体制/信条/思想で用いられている全体主義、共産主義、社会主義、などとは全くの無関係です。国家/社会の利益を基点とした場合では、個体のおこなう自由意志による選択が、国家/社会の利益へ結びつく方向性の選択肢を選択するように、外環境(国家/社会/為政者)から制限/強制/誘導を受けています。一方で、世界全体の進化を基点とした場合では、個体のおこなう自由意志による選択が外環境から一切の制限/強制/誘導を受ける状況はなく、個体本人が自身で選択肢の幅を制限している状況のみがみられます。世界全体の進化を基点として捉える範囲を縮小した捉え方が、全体主義、共産主義、社会主義、などではない点に留意してください。そして、国家/社会/為政者が個体のおこなう自由意志による選択を制限/強制/誘導するのは不誠実な行為となります。自由意志については、4章6節 自由意志/運命を参照してください。

 また、地上社会での国家間の外交、国内の政治、企業間/個体間の交渉、などで頻繁にみられる「相手へ交換条件を提示して、相手が交換条件を受け入れない限り、相手へ協力しない」行動は不誠実な行為です。自己に都合が良くないから協力/協調しない、自己に都合が良くなったから協力/協調する、自己に都合が良くなるように駆け引きするのは、自己の都合で眼前の状況を捉える「自己の利益に囚われた利己的/自己中心的な判断基準」に基づいています。

 行為をおこなう際には、誠実な行為をおこなっていくための判断基準に基づき、眼前の状況へ必要とする内容を考察するのに加えて、必要とする内容を「適切な程度」におこなっていくことも重要です。適切な程度でおこなうとは、何時[いつ]でも、どのような状況でも、思い切りに力を込めておこなえばよいのではなく、力加減を調整しながらおこなうことへ譬[たと]えられ、眼前の状況を観察/考察して、眼前の状況へ対応するのに適切な程度を把握する必要があります。特に、知識の増大や技術の習得によって物事を上手くできるようになると、眼前の状況に必要とするよりも多くを過度におこなおうとしてしまう場合もみられます。物事を上手くできないために眼前の状況へ適切に対応できない場合は多くみられ、物事を上手くできるようになることで適切に対応できる状況は増大しますが、物事を上手くできるために適切に対応しなくなる場合もみられる点に留意する必要があるのです。物事を上手くできるために適切に対応しなくなるのは、幻想の捉え方へ陥[おちい]っていなくても、誘惑から精神での表現の造化へ干渉を受けていなくても、起こり得ます。

 この質疑応答に関連する内容には、4章2節 有形界での成長 #質疑応答の「自己が行為をおこなううえでの判断基準はありますか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 行為ヘ与えていく丁寧/美/輝き/調和は、結果的には、表現の活動性にみられる特性の丁寧/美/輝き/調和と同じです。どちらの丁寧/美/輝き/調和も意識の受ける感覚となります。表現の活動性にみられる特性については3章9節 精神 #表現の活動性、意識の受ける感覚については3章9節 精神 #質疑応答の「意識の受ける感覚は、精神で造化された表現ですか?」を参照してください。

 行為ヘ丁寧/美/輝き/調和を与えていくとは、自己を「丁寧/美/輝き/調和そのもの」と感じ取るように努めながら行為をおこなうことで、行為へ高い活動性の程度を付与していく状況を表しています。行為へ高い活動性の程度を付与するほどに、行為へ付与された活動性の程度にみられる特性が、丁寧/美/輝き/調和に近づいていくようになります。行為へ付与された活動性にみられる「美/輝き」は、誠実な性質の表現に共通してみられる特性であり、行為をおこなうのと同時に自動的に造化され外環境へ表現される「活動性の性質の表現」と密接に関連しています。行為へ付与された活動性の程度が高くなるほどに、美/輝きも強さを増大させていきます。

 行為にみられる「丁寧」の特性は、行為へ付与された活動性の程度がおおよそ500台後半で顕著にみられ、同様に、「調和」の特性は600台で顕著にみられますが、500台後半/600台の活動性の程度へ同調していなければ行為へ丁寧/調和を与えられないのではありません。同調する活動性の程度に関わらず、「自己が丁寧/調和と感じ取る」感覚を与えていくように努めることはできます。ただし、丁寧/調和とは何か? へ明確に気づき、丁寧/調和の感覚を鮮明に実感できるようになるのは、500台後半/600台の活動性の程度へ同調して行為をおこない、行為へ500台後半/600台の活動性の程度を付与し、行為から丁寧/調和の特性がみられるようになる段階からとなります。

 同調する活動性の程度を600台以上に高め、丁寧/調和の特性が鮮明にみられる行為をおこなえるようになることは、今後に宇宙圏無形界で、それぞれが変化しながら様々につながり合う多くの物事を総合して考慮し造化をおこなっていくうえでの必須の条件となります。何時[いつ]に、何処[どこ]で、どのような状況であったとしても、丁寧/調和の特性がみられる行為をおこなえるようになる習慣が明確に形成されると、有形界での学びを修了し、分霊の成長の程度が覚醒の成長段階へと移行するための条件のひとつを満たしたことになります。覚醒の成長段階へ移行するための条件については、4章4節 覚醒を参照してください。

 なお、行為へ丁寧/美/輝き/調和を与えていこうと力[りき]む必要はありません。寧[むし]ろ、力みは丁寧/美/輝き/調和を行為へ与え難くします。「丁寧/美/輝き/調和」は無形的認識に基づいて与えていきますが、一方で、「力み」は有形的認識に基づいて造り出しています。「力み」の造化にともない、認識に占める有形的認識の割合を増大させたのならば、相対的に無形的認識の割合は減少するために、「丁寧/美/輝き/調和」を行為へ与え難くさせるのです。

(1000/1000)

 「誰のための行為なのか?」を判別してから、行為へ丁寧/美/輝き/調和を与える/与えないを決めようとするのは不誠実な行為です。自己のためにおこなう行為だから行為へ丁寧/美/輝き/調和を与えない、あるいは、自己以外/全体のためにおこなう行為だから行為へ丁寧/美/輝き/調和を与える、と判別する目的には、「瞬間瞬間の自己に都合の良いように行動を変える」という不誠実性が混入しているために、誰のために行為をおこなったとしても誠実な行為(愛の行為)にみえる不誠実な行為となり、幻想の捉え方に基づく選別の行動になります。選別の行動については、5章2節 幻想を参照してください。

 加えて、自己のおこなう「あらゆる行為」へ常に丁寧/美/輝き/調和を与えるように努めていないのならば、行為へ丁寧/美/輝き/調和を与える習慣は何時[いつ]までも形成されず、成長へつながる状況もありません。勿論[もちろん]ながら、行為へ常に丁寧/美/輝き/調和を与えるように努めていないのならば、愛の行為をおこなう際にも、何時[いつ]までも行為へ丁寧/美/輝き/調和を与えることができるようにはならないのです。

 自己のためにおこなう誠実な行為であったとしても、自己以外/全体のためにおこなう誠実な行為(愛の行為)であったとしても、一切の判別なく、無我/無私に意識を行為の一点へ集中し、行為へ丁寧/美/輝き/調和を与えるように努めることで、行為へ丁寧/美/輝き/調和を与える習慣が形成され強められ、成長へつながるようになります。クラシックバレエでは、日々の地道なバーレッスンの積み重ねが、舞台での華麗な踊りの基礎を構築しているように、修養の生活では、日々の「ひとつひとつの丁寧におこなう行為」の積み重ねが、成長へつながるようになるのです。

(1000/1000)

 愛の行為へ努める修養の生活を実践している過程で、自己のために何らかの行動をおこなう状況へ虚[むな]しさを感じるようになるのは、日常の生活の中で、自然に愛の行為をおこなう習慣が「形成され始めた」ためです。愛の行為へ努め、愛の行為をおこなう習慣が強められて、何時[いつ]でも、何処[どこ]でも、誰にでも、どのような状況であっても愛の行為をおこなえるようになると、愛の行為をおこなうのが自然であり、おこなわないのが不自然に感じ取るようになります。同様に、愛の行為をおこなえて当然になり、おこなえないのが意外/異様に感じ取るようになります。

 日常生活の中で、努めることなく自然に愛の行為をおこなうのが習慣となれば、自己のために時間/労力を費やす状況へ空虚さを感じるようになります。他者、動物、植物、などの自己以外や全体へ時間/労力を使える状況へ喜びを感じ、自己を自己以外/全体へ役立てられることへの喜びで自己が満たされているために、自己のために時間/労力を使うと喜びを得られず、空虚さを感じるようになるのです。加えて、他者への応対も、他者の成長へつながらない目的/内容への応対は、必要でない限り避けるようになります。お喋[しゃべ]りへ付き合う状況はなく、世間話をする状況もなく、婉曲[えんきょく]で遠回しな話し方をせずに「必要とする内容/核心となる内容」のみを率直に話すようになります。核心/本質に焦点を当てた率直な発言は、丁寧で穏やかな話し方であったとしても、相手は苛烈に感じ取る場合もみられます。

 なお、生き方の性質からみると、誠実な生き方では自己を喜びで満たし続け、一方で、不誠実な生き方では自己を虚栄心で満たし続けようとします。喜びは無我/無私による奉仕の報酬として全体(大霊)から頂いた(還元された)愛であり、逆に、虚栄心は恐れ/怯えから逃げ回るために個体が造り出した幻想なのです。

 愛の行為を自然におこなうのが日常となれば、自己が重い体調不良や疾病/怪我/障碍により、他者の手助けをしたくても思うようにできない(手助けによって他者がおこなう活動の効率を低下させてしまう可能性のある)状況では、強い苦しみを感じ続けるようになります。日々に他者の手助けをできることが自己の喜びであり、喜びの満ち溢れている日々が自然なために、愛の行為によって他者へ喜びを与えられず、自己も喜びを感じ取れない日々は、不自然で違和感のある非日常として感じるのです。

(1000/1000)

 自己のおこなう、同じ内容の同じ活動性の程度が付与された愛の行為を、地上で生活している誰かが視て聴いて気づいていたとしても、あるいは、誰も気づいていないとしても、世界の進化へ与える影響の範囲、与える影響の大きさに違いはありません。どちらにも同等の価値があるのです。

 そして、自己のおこなう愛の行為を、人は誰ひとりとして気づいていなくても、霊たちは常に気づいています。人が気づいているから、気づいていないから、によって愛の行為をおこなう/おこなわないの判断をする状況や、行為へ意識を集中する程度を変える、行為へ丁寧/美/輝き/調和を与える/与えないを決めようとするのは、誠実さに基づいているとはいえません。

 常に自己の誠実さに基づいて、どのような時でも、どのような場所でも、誰が居ても/居なくても、意識を行為の一点へ集中して、眼前の状況へ必要とする内容の行為を、眼前の状況へ適切な程度におこなっていくだけなのです。意識を行為の一点へ集中するほどに行為へ高い活動性の程度を付与できるようになるために、世界の進化へ与える影響も大きくなり、行為の価値も増大していきます。

 加えて、地上社会では、様々な愛の行為をおこなっても、肉眼に視える発言/行動(物的な愛の行為)は人々から評価されて、称賛あるいは非難/批判/糾弾されますが、一方で、肉眼に視えない行為(有形的/無形的な愛の行為)が評価される状況はありません。有形的/無形的な愛の行為で、どれほどに大きな影響を地上社会へ与えていたとしても、地上社会へ与えている影響に気づく人は僅かです。なお、地上でおこなった有形的/無形的な愛の行為は、無形界で評価されています。有形的/無形的な愛の行為を通して地上社会へ与えた影響の大きさは無形界で正確に評価されており、今回の地上での生活を終了し無形界へ戻った後に、評価に相応する待遇が与えられます。勿論[もちろん]ながら、地上の生活でおこなってきた物的な愛の行為も無形界で正確に評価されています。ただし、物的な愛の行為によって地上社会で人々から得た評価と、無形界でおこなわれる評価が同じ程度とは限りません。地上社会での評価は、物的な発展/拡大の規模に基づいている場合が多くみられますが、一方で、無形界での評価は、世界の進化へ与えた影響の大きさに基づいています。

(1000/1000)

 何らかの活動をおこなうのに、年齢を理由にして活動し始める時期を先延ばしにする、あるいは、活動を断念する必要はありません。何よりも先[ま]ず、今この瞬間から活動し始める(行動を起こす)ことが大切です。活動し始めなければ、何時[いつ]までも活動できるようにはならないのです。

 年齢は、活動をおこなう程度に影響を与える場合もありますが、活動できない理由にはなりません。例として、子供には、大人と同等の重量物を持ち挙げたり、長時間の活動を継続するのは困難ですが、大人と同じ内容の活動はおこなえます。また、年齢だけでなく、有形体の劣化が進行している者(高齢者とは限りません)、身体の障碍/疾病で物的な活動が困難な者、物的な貧困の中で生活している者、日々を時間に追われ慌ただしくしている者、たちも同様であり、様々な理由を付けて、活動し始める時期を先延ばしにする、あるいは、活動を断念する状況は多くみられます。

 現在の自己が有する知識/技術/財力/人脈/所有物などと、自己の周囲にある「もの」を組み合わせて活用していくのならば、現在に自己が「どのような状況」であったとしても、今この瞬間から活動を始められます。資金/時間が不足しているからできないのではなく、手元の資金/空き時間でできる内容/方法、資金を集める方法、空き時間を捻出する方法、などを考察するのです。また、遠方から何らかを取り寄せた後に活動し始める必要はなく、何らかを習得/修得してから活動し始める必要もなく、活動し始めた後に、必要であれば取り寄せ、必要となる内容を習得/修得していくのです。

 そして、自己の状況は常に変化しています。自己のおこなう活動の状況も常に変化しています。それらの状況の変化に相応するように、活動の内容、活動をおこなう手段/方法、などを適宜に修正して、活動を継続していくように努めます。

(1000/1000)

 愛の行為は、物的/有形的におこなう内容だけでなく、無形的におこなえる内容も多くあります。自己がどのような生活の状況/有形体の状況であったとしても、愛の行為をおこなう強い意志があるのならば、何時[いつ]でも、何処[どこ]でも、どのような状況でもおこなうことができます。

 有形体の状況によっては、どれほどに物的な愛の行為を積極的におこないたくても、おこなうのが困難な場合もあります。自己の用いている有形体の状況を考慮して、全体の中で、自己にできる内容を、できる程度におこなえばよいのです。他者が物的な愛の行為をおこなっているからといって、自己も「物的な愛の行為をおこなわなければならない」のではない点に留意してください。例として、日常的に寝たきりで立つのもままならない者に、地震/洪水/土砂災害/戦争などによる被災地での救助支援はできません。寧[むし]ろ、無理をして被災地へ救助支援に赴[おもむ]いたとしても、周囲の者たちが被災者へおこなう支援の効率を低下させます。しかし、物的な愛の行為として、インターネットを用いた被災地への募金を呼び掛けることはできます。無形的な愛の行為として、被災した者たちの悲しみを慰[なぐさ]め勇気を鼓舞するように祈ることもできます。

 愛の行為の本質は無形的です。無形的に「自己を自己以外/全体へ役立てよう」とする強い意志が、結果として、物的/有形的な行動として現れているだけなのです。外見的には有形体が静止している(行動していない)ように視えたとしても、内的には強い祈りで絶え間なく愛の行為をおこなうことができます。誠実な強い祈りは、必ず愛の行為の対象へ大きな影響を与えます。

 誠実な強い祈りの例として、自己の意識の範囲内にある全ての「もの」が有する活動性の程度を高めるように祈る状況が挙げられます。活動性の程度を高める対象は、自己と自己以外を含む全体であり、地上で生活する人/脊椎動物たち、地上を彷徨[さまよ]う地獄者/地縛者たち、地上で活動する霊(天使)たち、無形界で生活する霊たち、が含まれ、祈りによって、生命の活動性を有する彼らの同調する活動性の程度を高めるように促します。更に、祈りを通して、肉眼に視える/視えないに関わらず、物事/現象などの造化された「あらゆる表現」に付与されている活動性の程度を高める(自己が更に高い活動性の程度を追加して付与していく)ように努めます。地上で生活する人/脊椎動物や無形界で生活する人霊/天霊たちの更なる成長を願い、地上/地獄層で不誠実な生き方をしている人/地獄者/地縛者たちが自身の生き方を省みて誠実な生き方を求めるように願い、地上へ造化/表現されている「あらゆる物事」へ高い活動性の程度を付与していくように強い意志で努める祈りは、肉眼で視える有形体の外見は静止して何ひとつ行動していないようにみえますが、これらは高い活動性の程度が付与された無形的な愛の行為であり、他者の成長や世界の進化へ大きな影響を与えるようになります。

 加えて、無形的な愛の行為は、老化(劣化)が進行して物的に活動し難くなった状況でもおこなえます。有形体の劣化が進行し、活動へ用いる原素材の利用効率が低下すると、有形体の貯蔵する原素材の消費量が累乗的に増大するために、短時間の活動でも疲れやすくなり、有形体を通した物的な愛の行為をおこない難くなりますが、有形体を通さない無形的な愛の行為は有形体の劣化の程度に関係なくおこなえます。有形体を通した物的な活動には、有形体の積極的な行動だけでなく、座っている、執筆する、会話する、肉眼で視る、肉耳で聴く、などの有形体が静止していてもおこなえる行動も含まれ、これらの活動のすべては有形体の貯蔵する原素材を消費しておこなわれています。有形体の劣化が進行すると、有形体の貯蔵する原素材を消費しておこなう活動のすべてに影響が現れるようになり、他者/全体のために自己を役立てたくても思うように行動できない自身へ葛藤を感じるようになります。

 地上での愛の行為は、必ず物的におこなわなければならないのではありません。また、有形体の劣化によって活動し難いにも関わらず、自己へ物的な愛の行為をおこなうように無理強いしても、自己へ物的な行為を強制しようとする目的(自由意志による選択を自身で制限している)に基づいておこなわれる行為が愛の行為には成り得ません。自己のできる限りの範囲内で、制限のない自由な自由意志による選択に基づいて物的な愛の行為をおこなうようにすればよいのです。

 そして、祈りなどの無形的な愛の行為は、有形体を通さずにおこなえるために、有形体の劣化に影響を受けません。無形的な愛の行為も造化された表現であり、表現の造化へ原素材を消費しますが、無形体の貯蔵する原素材から消費され、有形体の貯蔵する原素材は消費しません。無形的な愛の行為をおこなうことで無形体の貯蔵する原素材は減少していきますが、分霊から無形体へは原素材が速やかに供給されるために、絶え間なく無形的な愛の行為をおこなっていたとしても、無形体の貯蔵する原素材が涸渇するような状況にはなりません。もしも、無形体の貯蔵する原素材の量が少なくなって精神的な疲労を感じ取ったとしても、短時間の休息によって回復します。

 祈りは、思考/感情/発言/行動などと同様に、造化された明確な表現/行為として周囲へ大きな影響を与えており、霊眼には祈りの効果が視えているものの、地上で有形体を用いて生活している者は、肉眼に効果/成果が視えないと何の意義/価値もないように捉えてしまいやすいです。もしも、祈りという行為が「ぼんやりとした不鮮明な誰かへの願い」に感じられるのならば、自己が自身で積極的に「輝き/静謐(活動性の性質の表現)」を造化して、周囲へ影響を与えていくように努めることで、意義/価値を感じ取りやすくなります。活動性の性質の表現については、3章9節 精神 #活動性の性質の表現を参照してください。

 自己の造化した輝き/静謐で周囲の外環境を満たし、また、地上全体を常に輝き/静謐で包み込むように強い意志で努めます。結果として、輝き/静謐を造化する過程は、自覚の有無に関わらず「祈り」をともなっています。輝き/静謐は、地上に蔓延し互いに影響を与え合って増大/増幅し続けている恐れ/怯え、利己性/自己中心性/欲望、騒響[ざわめき]を軽減/鎮静させるように「はたらき」かけ、地上の様々な地域で何時[いつ]になってもおこなわれている、戦争、紛争、迫害、差別、殺人、暴行、傷害、窃盗、掠奪、暴動、対立、衝突、格差、不正、搾取、仲違い、諍[いさか]い、軋轢[あつれき]、中傷、虐待、などを減少させていくことにつながります。

 この質疑応答に関連する内容には、4章5節 優位性 #質疑応答の「疲労困憊して動くのも考えるのもできない時に、短時間の休息で有形体は動かせなくても思考ができるようになるのは、原素材の供給量と関連しているのですか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 誠実な生き方をしている者たちに対してだけでなく、不誠実な生き方をしている者たちへも、常に親しみをもって接する行動は、彼らが自身の生き方を省みるための切っ掛けとなる可能性を有しています。ただし、自身の生き方を省みる/省みない、生き方を変える/変えない、また、自身へ親しみをもって接してくれる状況を自身に都合良く利用する/利用しないは、彼らが自身の自由意志によって決めるのであり、常に彼らが親しみを感じるように接する行動が、必ずしも彼らの成長を手助けしている(自己を他者/全体の成長へ役立てる愛の行為)とは限らず、成長を阻碍している(不誠実な行為を手助けしてしまっている)場合もみられる点には留意する必要があります。厳しく接するほうが、彼らの成長を手助けしている(自己が他者/全体の成長を阻碍しない愛の行為となる)場合もあるのです。

 不誠実な生き方をしている者は、常に強い恐れ/怯えを有しており、絶え間なく外環境の変化や他者の動向を警戒しています。自身に近づいてきた相手がいれば、先[ま]ず、相手が自身にとって敵か? 敵ではないのか? を判断しています。これは、相手が今この瞬間の自身にとって都合の悪い存在か? 都合の悪い存在ではないのか? を判断しているとも言い換えられます。相手が自身にとって敵ではなかった(都合の悪い存在ではなかった)場合には、次に、自身にとって味方か? 味方ではないのか? を判断しています。これは、相手が今この瞬間の自身にとって都合の良い存在か? 都合の良くない存在なのか? を判断しているとも言い換えられます。

 恐れ/怯えに基づいて常に周囲を警戒している日常的な例として、相手が前方から歩き近づいて来た際に、自己は顔を下へ向けて自覚して相手と眼を合わさないようにしながらも、相手と擦れ違い様に顔を上げて相手を凝視した後に、再度に顔を下へ向け直す状況や、相手と擦れ違う際に、相手から眼を逸らしたままで必ず咳払いする状況、などがみられます。

 強い恐れ/怯えは、自己に都合の良くない状況では更に恐れ/怯えを増大させるために、常に自己に都合の良い状況を求め続けているのです。そして、自己が敵と捉えた者に対しては、忌避する、中傷して貶[おとし]める、睨[にら]みつける、排除/排斥しようとする、差別する、公平/公正/対等に応対しない、などの行動をおこない、自己が敵と捉えた者に対して際限なく増大させている「自己の恐れ/怯え」から眼を逸らし、虚栄心を満たすために虚勢を張ろうとします。

 自己が不誠実な生き方をしている者たちへ親しみをもって接しているのならば、彼らは最低限に自己を敵とは判断し難いために、敵対したほうが彼ら自身にとって都合が良いと判断しない限りは自己と敵対しようとはしません。ただし、憑依している地獄者/地縛者たちが、自己を敵と捉えるように唆[そそのか]している状況も頻繁にみられ、加えて、親しみをもって接してくれる状況を、自身に都合良く捉えて虚栄心を満たすために利用している場合も多くみられます。自己が不誠実な生き方をしている者たちへできるのは、自己の生き方が手本/模範となるように(彼らが自身の生き方を省みる切っ掛けとなるように)日々の生活へ努めることです。眼前のひとつひとつの状況を適切に把握して、彼らの成長を手助けしても、成長を阻碍しない(不誠実な行為を手助けしない)ように適宜に判断して行動する必要があります。

(1000/1000)

 相手に受け入れる準備が整っていないのならば、どれほどに「生きること」の本質/根幹を表す内容(世界の実相/生命の真相)であったとしても受け入れられません。現在の段階での、自身の内面の状況に相応しない内容は受け入れられないのです。もしも、成長の程度が高く、高い程度の内容を理解できたとしても、他の側面での準備が整っていないのならば、受け入れることができない点に留意してください。受け入れるためには、あらゆる側面での準備の整う必要があるのです。受け入れる準備が整ったのならば、容易に受け入れられるようになります。

 自己が真摯に誠実に相手へ伝える意志を有しているのならば、相手の受け入れる準備が整った際には、天使たちの後押しを受けて相手へ伝える時機が来た状況に気づくようになるために、その時には、臆[おく]することなく勇気をもって伝える必要があります。もしも、相手へ伝えたことで、相手から拒絶/非難を受けたとしても、自己の伝え方が相手へ適していなかっただけであり、自己が相手へ伝えた状況に落胆し後悔する必要はありません。物的な物事へ偏重する生き方が蔓延[まんえん]している現在の地上では、世界の実相/生命の真相に関する知識は、相手の成長の程度、固定観念/既成概念の内容/強さ、生き方の性質/程度、意志の方向性、などが受け入れられる状況として整ったうえで、更に、受け入れやすい伝え方で伝えられなければ、拒絶し、否定し、相手の妄想/虚言と非難しやすいです。例として、このウェブサイトに掲載されている内容の中で、ある内容は容易に受け入れ理解できるのに、ある内容は受け入れ難い、あるいは、どれほどに考察しても理解できない、などが現れる場合もあります。そして、ある時に、受け入れ理解する状況が整ったうえで適した伝え方(記述の仕方)で伝えられると、突然に理解できるようになります。

 逆の方向性から捉えると、日々の生活の中で、相手が自己へ伝える自身の体験した内容や、考察/推測した内容を、「そんなことは起こり得ない/有り得ない」と安易に断定していないか? 相手の妄言/虚言と決めつけていないか? を誠実に内省する必要があります。自己の有する認識の程度、情報/知識、技術、などでは「起こり得ない/有り得ない」と捉えているだけに過ぎない場合も多くみられるのです。特に、相手が自己へ伝える内容を、自己には理解できない、視えない、聴こえないからといって、相手の妄想/虚言と決めつけるのは、自己の恐れ/怯えと虚勢に基づく滑稽な行動です。相手が誠実な生き方へ努めているのならば、自己を騙[だま]し、欺[あざむ]き、愚弄[ぐろう]するような発言/行動はしません。相手に観えている眼前の現実が、自己には未だ観えていないだけに過ぎないのです。

 相手が自己へ伝える内容、相手が自己へ伝える目的、伝えられた際の外環境の状況、などを総合して考察し、実際に起こり得る/有り得るのか? どのような原因の組み合わせであれば起こり得る/有り得るのか? どのような原因の組み合わせであれば起こり得ない/有り得ないのか? 現在に自己の有する認識の程度、情報/知識、技術、などで明確に考察できているのか? 考察する過程で不足していると感じ取る側面(認識の程度、情報/知識、技術、など)はあるのか? を考察と並列/並行して内省します。

 誠実な目的で継続しておこなわれる様々な活動(愛の行為)の結果は、直線的(線形)ではなく、曲線的(非線形/累乗的)に現れます。活動を始めた頃は遅々として進展せずに、何時[いつ]までも結果が現れないように感じ取りやすいですが、結果が現れ始めたのを明確に実感する頃には、畏怖を感じるほどに途轍[とてつ]もなく活動が拡大/発展しています。活動に進展がみられないために焦り/急ぎを感じ取るようになると、焦り/急ぎが誘惑(利己性/自己中心性/欲望)から受ける影響と組み合わさり、強硬/強引に活動を進展させようとする状況も多くみられますが、強硬/強引な活動は不誠実な手段や不誠実な目的に基づいており、誠実な目的でおこなわれる愛の行為には成り得ません。誘惑については、5章3節 誘惑を参照してください。

 現在には活動の進展する結果を感じ取れなかったとしても、焦り/急ぎを有することなく、落ち着いて冷静に強い意志で活動を継続していくのならば、必ず結果が現れるようになります。強い意志と明確な目的に基づき継続しておこなわれる愛の行為は、大勢の天使たちを惹[ひ]きつけます。天使たちが支援/援助せずに無視/放置するような状況は「決して」ありません。加えて、特定の方法/手段/捉え方などに囚われ自己を縛りつけて活動を継続せずに、柔軟に物事の全体を俯瞰[ふかん]して観察/考察するように努めることで、天使たちが送信する印象(閃き/発想)に気づき、閃き/発想に基づいて活動を進展させやすくなります。

(1000/1000) 愛の行為に現れる結果
(1000/1000) 愛の行為に現れる結果

 なお、物的な活動でも、有形的/無形的な活動でも、愛の行為を発展/拡大していくには、必ず天使たちの多大な支援/援助を必要とします。地上では、肉眼に視えない有形的/無形的な愛の行為を拡大/発展していくのに、必ずしも地上で生活する人の支援/援助を必要とはしませんが、一方で、肉眼に視える物的な愛の行為を拡大/発展していくには、天使たちの支援/援助に加えて、地上で生活する人の支援/援助も必要です。どれほどに大勢の天使たちが支援/援助をおこなっているとしても、天使たちには直接に物的な活動をおこなえないのです。地上で有形体を用いて生活している者にのみ、物的な活動がおこなえます。

 この質疑応答に関連する内容には、4章2節 有形界での成長 #質疑応答の「様々な物事の捉え方の中で、成長を阻碍する捉え方はありますか?」がありますので参考にしてください。

行為へ意識を集中する

(1000/1000)

 ひとつひとつの行為へ意識を集中する際に、ひとつの行為は入れ子構造を成している場合が多くみられますが、入れ子構造の中の「できる限り小さな行為」ごとに意識を集中するように努めます。例として、食べるという行動では、食物を口へ含む行動、口へ含んだ食物を噛む行動、噛んだ食物を飲み込む行動、などが連結して「食べる行動」を造り出しています。これらの小さな行動のひとつひとつに意識を集中しておこないます。

 そして、一連のつながりを有する行為では、ひとつの行為から次の行為へと順次に集中を途切らせることなく意識を移行させながら、今この瞬間におこなう「ひとつの行為」へ意識を集中します。加えて、ひとつの行為(外環境への発言/行動)へ意識を集中している際には、発言/行動へ直接に関連しない思考/感情などの「精神での自覚のある表現の造化」を辞めるように努め、外環境へおこなう行為のみへ意識を集中するようにします。逆に、思考をおこなう場合には、できる限り外環境への発言/行動を控え、視界に入る眼前の物事へも意識を向けないようにし、思考のみへ意識を集中するように努めます。

 地上の生活では、肉眼で視ながら外環境へ物的に行為をおこなう状況は、ひとつひとつの行為へ意識を集中させやすくします。肉眼で詳細に視ながら、ひとつひとつの行為をおこなうように努めることで、行為へ意識を集中する程度を高める訓練ができるようになります。ただし、肉眼で視ながら行為をおこなう状況に囚われると、肉眼で視ていなければ行為へ意識を集中できなくなり、行為へ意識を集中するという本来の目的を遂行できなくなります。行為へ高い程度で意識を集中することができるようになったのならば、肉眼で視ている/視ていないに関わらず、行為へ意識を向けるように努める必要があります。物的な物事(肉眼で視る)へ囚われず、常に、物的な物事の土台となる無形的な物事(行為へ意識を集中する)へ留意するように努める積み重ねが、物事の本質(行為へ高い活動性を付与する)を捉える状況へつながるようになります。

 地上では、有形体の内包する物質の心から絶え間なく誘惑の影響を受け続けているために、常に「行為をおこなう目的」を内省し、強い意志で自覚して誠実な目的を維持し続けていないのならば、何時[いつ]の間にか自覚できるものの自覚なく不誠実な目的に取って代わりやすくなります。同じ内容の発言/行動を、常に同じ内容の目的や、常に同じ性質(誠実/不誠実)の目的でおこなっているとは限らない点に留意してください。行為の中でも、日常の生活で繰り返しおこなう些細なひとつひとつの発言/行動は、日々に繰り返しおこなっているために、一度一度の「行為をおこなう目的」を内省しなくなり、何時[いつ]の間にか自覚できるものの自覚のない不誠実な目的でおこなうようになっている状況が多くみられます。例として、挨拶、相手への受け答え、扉/窓や冷蔵庫/戸棚/水栓の開け/閉め、掃除、衣服の着替え、調理、食事、食器の片付け、階段の昇り/降り、照明を点ける/消す、などが挙げられます。ひとつひとつの行為へ意識を集中する際には、ひとつひとつの行為をおこなう目的を逐一に内省するように努める必要もあります。

(1000/1000)

 意識を集中するのと、物事へ熱中するのは異なります。意識の集中は行為に対しておこないますが、物事に対しておこなうことはできません。自己の外(外環境)にある物事へ意識を集中しているようにみえる場合もありますが、これは、外環境にある物事を、自己の内面で認識/理解するという行為へ意識を集中している状況を表しています。例として、本を読んでいる場合では、本に記述されている文字/文章という「自己の外にある物事」へ意識を向けているのではなく、文字/文章として表現されている内容を「自己の内で把握する」という行為へ意識を向けて(集中して)います。

 一方で、熱中は物事に対しておこなわれますが、行為に対してはおこなわれません。例として、ビデオゲームで遊んでいる場合では、自己の外にある「画面に映る映像の動き」という物事へ意識を向けて(熱中して)いますが、自己が外へおこなう「コントローラーのボタンを操作する」という行為へ意識は向いていません。そして、熱中は快楽/快感などの感情を得るのと密接に関連しています。

 ある行為へ集中している際には、行為をおこなうのと同時に、祈り/瞑想で同調する活動性の程度を高めることができます。一方で、ある物事へ熱中している際には、熱中するのと同時に、祈り/瞑想で同調する活動性の程度を高めることができず、逆に、同調する活動性の程度を下降させる可能性があります。

 集中は、大霊の心(愛)に由来しており、行為の一点へ意識を集中する状況は、同時に、意識を拡大させるように「はたらく」ために、同調する活動性の程度を上昇させるように促し、加えて、周囲の状況が拡く明確に視えて/観えて(自覚して認識して)います。なお、不誠実な思考へ没頭している、怒り/悲しみなどの感情を際限なく増幅させる、などの不誠実な表現の造化へ意識を集中しているようにみえる行為は、外環境の物事/現象へ反応しておこなわれているために、あるいは、過去に外環境の物事/現象へ反応した記憶に基づいておこなわれているために、熱中に属しています。意識の集中は、常に誠実な行為に対してのみおこなわれるのです。

 熱中は、物質の心(誘惑)に由来しており、眼前の物事へ熱中する状況は、同時に、意識を狭小させるように「はたらく」ために、同調する活動性の程度を下降させるように促し、加えて、周囲の状況が視えなく/観えなく(自覚して認識しなく)なります。世界の構造から捉えた場合に、同調する活動性の程度が高くなるほどに意識の範囲は拡大していくために、意識の範囲が狭小していくほどに同調する活動性の程度を下降させるように、はたらきます。

(1000/1000) 集中/熱中の比較
(1000/1000) 集中/熱中の比較

(1000/1000)

 眼前の行為が、この瞬間に最も優先度/重要度の高い行為であり、眼前の行為の一点へ意識を集中していく以外に、今この瞬間に意識を向ける必要のある行為/物事はありません。

 眼前の些細な行為のひとつひとつも、常に世界の進化へ影響を与えている点に留意してください。自己が今この瞬間におこなう行為は常に眼前にあり、眼前よりも遠い場所や、眼前よりも未来にあるのではなく、また、自己が今この瞬間におこなう行為を、眼前よりも遠い場所や、眼前よりも未来でおこなうこともできません。そして、過去の出来事を考察するために思い出す以外で過去の出来事へ意識を向ける必要性はなく、同様に、未だ起きていない未来の出来事へ思いを馳[は]せ、あるいは、心配することへ意識を向ける必要性もありません。

 眼前にはない物事や今後におこなう可能性のある行為へ意識が分散し、眼前の行為へ意識を集中していないのならば、同調する活動性の程度に相応する活動性の程度を眼前の行為へ付与できず、大幅に低い活動性の程度を付与するようになり、世界の進化へ与える影響も僅かになってしまいます。眼前の行為のひとつひとつへ意識を集中していくことで高い活動性の程度を付与できるようになり、世界の進化へ与える影響も大きくなるのです。なお、眼前の行為の一点へ意識を集中するとは、後先を考慮せずに、無計画に刹那的/遊移不定な行為をおこなう状況を指しているのではありません。一貫した強い意志で、眼前の状況に適切な行為のひとつひとつをおこなっていく結果として、計画性のある連続した行為が成されるようになるのです。

 なお、物的に遠方(遠い場所)の物事/出来事は、有形的にも遠方とは限らず、自己の捉え方によって遠方にも近隣/近辺にもなります。内的に認識する有形的な距離は、その時その時の「自己の捉え方」によって変化する精神的産物という点に留意してください。自己の捉え方によって、物的に遠方の物事/事件/災害/戦争/貧困/迫害などを自己の近隣で起きているように感じ取り、考察/行動することもできます。内的に認識する距離については、2章4節 無形界の構造 #無形界の時間/空間を参照してください。

(1000/1000)

 はじめに、大きな音を出す、お喋[しゃべ]りをする、騒ぐ、などをおこなっている多くの者は不誠実な生き方をしており、生き方を変えない限り、彼らが、それらの行動をおこなわなくなる状況はなく、また、それらの行動を自己が辞めさせることもできないという点に留意してください。自己の認識/捉え方を変えていくことのみが、行為へ意識を集中するために必要となります。

 集中しようと努めている行為以外の外環境の状況へ意識が向きやすくなるのは、これまでの類似した体験の積み重ねによって形成された囚われ(固定観念)を有しているためです。形成した囚われには感情をともなう内容が多くみられます。これまでに何度も類似した状況で、状況に反応して、類似する不快の感情(驚く/怒る/苛立つなど)を造化してきたことで、ある状況に対して、ある感情で反応する習慣が形成されるようになります。そして、この習慣が、外環境を認識する際に影響を与えるために、外環境の状況の変化によって、状況へ意識が向くようになるのです。形成した固定観念に基づいて外環境の状況へ意識が向くのは、状況へ反応して不快の感情を造化しないように予防するためです。例として、不意の大きな音に対して驚くという反応を繰り返してきた場合では、外環境を自覚できるものの自覚なく認識している中で大きな音が起きそうな僅かな予兆を捉えると、外環境へ自覚して意識が向き、大きな音へ身構え、大きな音が出ても驚かないように対処しています。

 また、有形体の熱、疲労、などは物質の心から受ける誘惑の影響力を強めるために、外環境の状況に対して不快な反応を引き起こしやすくなります。特に、熱は、驚きを生み出しやすくなります。これらの反応を引き起こす土台には、経験へ保存されている「物質の心に由来する恐れ/怯え」があり、外環境の状況の変化に対して自己を脅[おびや]かす可能性へ即座に対応できるように、常に警戒しているのです。しかし、外環境には、本質的に自己を脅かすことのできる物事/現象はありません。自己は霊であり、物質の心を内包する有形体が自己ではないのです。自己を脅かすことができるのは、自己の有する恐れ/怯えと、自己が恐れ/怯えに基づいて造化する不誠実な性質の表現(思考/感情/直観)だけです。

 ある状況に対して、ある感情で反応する固定観念は、外環境の類似する状況ごとに形成されているために、無数に有していますが、これらの固定観念を弱めていくことによって、外環境の状況へ意識が向き難くなり、行為へ意識を集中させやすくなります。自己の内面を常に観察(内省)し、外環境の「ある状況」へ意識が向いた際に、自己の内面で、どのような内容の表現(思考/感情など)が造化されそうになったのかへ気づき、有している固定観念を把握するように努めます。そして、類似する状況へ意識が向いた際に、内面へ静けさを保ち、外環境に自己を脅かせるものは一切ないことへ留意して、感情などを造化しないように、あるいは、造化してしまった場合は瞬時に消し去り、行為へ意識を戻します。これらを繰り返していく過程で、関連している固定観念は徐々に弱まっていきます。

 なお、固定観念を弱めて意識が外環境の状況へ向き難くなったとしても、外環境の状況を認識しなくなるのではありません。大きな音が出されたのならば、意識は行為へ集中したままで「大きな音が聴こえた」として認識しますが、大きな音へ反応して思考/感情などを造化しなくなり、大きな音へ身構える状況もありません。加えて、もしも、大きな音へ意識が向いたとしても僅かな程度であり、即時に行為へ意識が戻り、行為への集中が途切れ散漫となる状況もありません。

 ひとつひとつの行為へ意識を集中できるようになり、更に、集中を持続できるようになることは、今後に無形界(宇宙圏無形界)で成長していくための最低限の基礎となります。これは、無形界での日常生活を適切に送るうえでの基礎でもあります。一点への意識の集中と、集中の持続ができるようになる状況は、地上での生活に譬[たと]えると、4つ脚で歩いていた段階(ハイハイ歩き)から2本脚で、その場に立てるようになった段階に相当します。ひとつひとつの行為/造化へ意識を集中できるようになり、更に、集中を持続できるようになることが、地上/惑星圏無形界での学びを修了する最低限の条件のひとつともいえます。これらができるようになって、はじめて、宇宙圏無形界での学びをおこなえるようになります。2本脚で立つという基礎ができてこそ、歩き、走り、跳ぶことができるようになっていくのです。

(1000/1000)

 行為へ意識を集中しようとするほどに、自己と、自己のおこなっている行為との一体感を感じ難くなるのには様々な原因がありますが、多くの場合では、意識を前方に押しながら(意識を前のめりに向けながら)肉眼で視ておこなっている行為へ意識を集中させようとしている状況が挙げられます。言い換えると、自己のおこなっている行為に意識が向いているのではなく、行為をおこなっている対象の物事へ意識が向いているとも言えます。

 肉眼で視ながら行為をおこなっていると、自己のおこなっている行為そのものではなく、行為をおこなっている対象へ意識が向きやすくなる傾向がみられます。意識が行為ではなく、行為の対象へ向くようになると、行為へ意識が集中しなくなるために、自己と、自己のおこなっている行為との一体感を感じ難くなります。意識が行為の対象へ向く状況は、意識を集中しているのではなく、物事へ熱中している状況となります。意識の集中と物事への熱中については、この節の質疑応答の「意識の集中と、物事への熱中は同じですか?」を参照してください。

 ひとつひとつの行為へ意識を集中する際に、意識を前のめりに行為へ向けるよりも、意識を僅かに後方へ引きながら「自己のおこなう行為と、行為をおこなう対象の、全体を俯瞰[ふかん]する」ように行為へ向けることで、自己と行為の一体感(融合/同化)を感じ取りやすく、更に、行為へ高い活動性の程度を付与しやすくなります。なお、おこなう行為へ意識を向けるとは、肉眼に視える有形体の動作、肉耳に聴こえる有形体の動作音、有形体の動作から受ける感触へ意識を向けることではありません。行為へ意識を向ける状況を言語で表現するのは困難ですが、おこなう行為に現れる動作/動作音/感触は物的であり、おこなう行為そのものは「本質的には」有形的/無形的という点に留意して行為へ意識を向けるように努めるのならば、行為へ意識を集中しやすくなります。

 意識に占める物質の心、分霊の心、大霊の心、の3つの位置関係からみると、地上の外環境へ最も近い位置に物質の心があり、意識は狭く感じ取ります。その後方に分霊の心、更に後方に大霊の心があり、後方へ向かうほどに意識も拡く感じ取ります。行為をおこなうのは自己の中核を成す「分霊の心」ですが、意識の中で「自己」と強く認識している範囲が分霊の心よりも前方に押される(前のめりになる)と、「自己」は行為をおこなう対象へ偏狭して意識が強く向き、おこなう行為へ意識が向き難くなります。一方で、「自己」を分霊の心よりも後方へ引くことで、おこなう行為と行為をおこなう対象へ拡く意識が向くようになります。意識に占める心の位置関係については3章8節 意識、また、意識の中で「自己」と強く認識している範囲については3章8節 意識 #質疑応答の「自己という意識の中で、更に「自己」と強く認識している範囲とは何を表しているのですか?」を参照してください。

(1000/1000) 意識の受ける心の位置関係と熱中/集中
(1000/1000) 意識の受ける心の位置関係と熱中/集中

 加えて、自己のおこなう行為が有する「責任の重さ(重大性)」を自覚するのも、ひとつひとつの行為へ意識を集中していくように、はたらきます。物的には、有形体を有している「個人」は矮小であり、自己のおこなう行為が自己以外へ影響を与えているようには感じ取れないかもしれませんが、有形的/無形的には、自己のおこなう行為は自己以外へ大きな影響を与えています。これは、1滴の水によって生じた波紋/揺れは、必ず大海の全体へ波及していくことに譬[たと]えられます。

 日々に繰り返しおこなう些細な行為も世界の進化へ影響を与え、自己の所属する惑星/社会/国家/企業/学校/家庭などの共同体の成長へ影響を与え、他者/脊椎動物の成長へ影響を与え、与えた影響が行為の記録を通して自己へ還元(成長の促進/退行)されている現実を明確に自覚したのならば、また、些細な行為の積み重ねが自己の有する運命の流れを形成し、流れる方向性に相応する様々な物事/出来事へ遭遇させている現実を明確に自覚したのならば、ひとつひとつの行為を適切な目的で、自己以外へ配慮/考慮し、丁寧に、意識を集中しておこなえるようになり、同時に、利己性/自己中心性/欲望や虚栄心を満たすために行為をおこなわなくなります。

地上にみられる行為

(1000/1000)

 金銭を対価とする商売としておこなわれる他者のための奉仕、物品/情報の提供(製造/販売)、なども愛の行為に成り得ます。ただし、他者のための奉仕、物品/情報の提供、などは物的な行動を表しているだけであり、これらの行動のすべてが愛の行為に成り得るとは限らない点に留意してください。ひとつひとつの行動の目的によって、愛の行為となる場合もあれば、愛の行為に含まれない自己のための誠実な行為となる場合もあり、また、自己/他者への不誠実な行為となる場合もあります。なお、業種/業務の内容によって愛の行為になる/ならないという区分が決まるのではなく、ある内容の業務を継続しておこなう瞬間瞬間の目的によって、瞬間瞬間におこなわれる行為が愛の行為になる場合もあれば、愛の行為にならない場合もあります。これは、同じ人が同じ内容の業務をおこなっていたとしても、ある時は愛の行為となり、別の時には不誠実な行為となっている状況もあることを示しています。

 愛の行為の本質は、金銭、物品、謝礼(「ありがとう」などの言葉/態度によるお礼)、などの一切の物的/有形的/無形的な対価を望むことなく、無我/無私でおこなわれる他者/自己以外/全体のための行為であり、高い活動性の程度を付与できます。もしも、業務として愛の行為をおこなえていたとしても、一切の対価を望むことなくおこなわれる愛の行為に比べると、付与する活動性の程度は低くなります。

 短期的な利益であったとしても、中長期的な利益であったとしても、自己/自国/自社の利益を得る目的で他者/他国/他企業へ支援/援助をおこなっている、あるいは、応対しているのならば、愛の行為には成り得ない点に留意してください。金銭を対価とする商売としておこなわれる他者のための奉仕、物品の提供、などが愛の行為になるのは、商売という場/状況を通して自己/自国/自社の利益を顧[かえり]みずにおこなわれる場合となります。自己/自国/自社の利益を顧みずにおこなった行動の結果として、自己/自国/自社の利益へつながる状況もみられるのです。自覚的に(自覚して/自覚できるものの自覚なく)自己/自国/自社の利益を得る目的を混在させて他者のための奉仕、物品の提供、などをおこなっているのであれば、愛の行為にはなりません。

 現在の地上では未だ社会の成長の程度が低いために、金銭を対価とする商売/業務としておこなわれる他者のための奉仕、物品/情報の提供、などが愛の行為と成り得ている状況は僅かです。多くは、金銭(収入)を得るために漫然とおこなっている、あるいは、嫌嫌ながらおこなっており、愛の行為には程遠いのが現状です。毎日の生活の中で、家庭内、通勤途中、帰宅途中、などでの些細な応対/行動のひとつひとつが愛の行為となるように努めることで、商売/業務を通しても、愛の行為を実現できるようになっていきます。

(1000/1000)

 他国から戦争を仕掛けられ応戦せざるを得ない側は、戦争(応戦)をおこなう目的に誠実/不誠実の内容が混在している場合もみられますが、一方で、他国へ戦争を仕掛ける側は、常に恐れ/怯えと利己性/自己中心性/欲望に基づく不誠実な目的で始めています。どちらの側であったとしても、戦争という行為が誠実な目的のみでおこなわれる状況はありません。行為をおこなう目的に僅かにでも不誠実な内容が含まれているのならば、行為は不誠実となる点に留意してください。

 そして、戦争をおこなう目的以前に、戦争と呼ばれている「物的な暴力の手段」を用いることが、利己的/自己中心的で不誠実な選択肢を選択している状況となります。もしも、他国によって自国が侵略され国民を守るために応戦せざるを得ないような、誠実な内容の含まれる目的で戦争をしなければならなかったとしても、物的な暴力を用いて応戦するのならば、戦争という行為は不誠実な性質を有するようになります。相手を威圧、牽制、屈服、隷属、などさせようとする手段(選択肢)を、選択肢の幅の中から自由意志で選択する意志の方向性が、利己的/自己中心的なのです。物的な暴力の手段を選択する状況そのものが不誠実となることについては、5章1節 修養の生活 #質疑応答の「行為をおこなう際に用いる手段と、手段の有する誠実/不誠実の性質は、どのように分類されるのですか?」を参照してください。

 物的な暴力の手段を選択すること自体が不誠実となるのは、国家間の戦争に限らず、隣人、友人、家族、などとの諍[いさか]いも同様です。そして、物的/有形的な暴力には、兵器、腕力、などによる物理的な手段だけでなく、発言による非難/批判/糾弾、誹謗中傷、嘲[あざけ]り、陰口、なども含まれるのです。国家間による戦争であっても、家族との諍いであっても、物的な規模は異なっていますが、行為の記録(-)の加算される程度に大きな差はありません。これは、国家間での戦争において支払う代償(行為の記録(-)への加算)が少ないということではなく、家族との諍いであったとしても、国家間での戦争と同等の大きな代償を支払わなければならない場合もあることを示しています。行為の記録については、4章7節 行為の記録を参照してください。

 上述の内容は、決して戦争(応戦)してはならないと伝えているのではありません。もしも、戦争(応戦)するのならば、個体も、国家も、地域も、物的/有形的/無形的な重い代償を長期に渡り、必ず支払わなければならないと明確に理解したうえでおこなう必要があると伝えているのです。長期に渡る重い代償の支払いも考慮せずに、安易に物的な暴力を用いて解決/応対する行動へ依存している物事の捉え方や生き方を省みなければなりません。国家/地域の背負い支払う代償は、社会の再建として物的に、貧困/飢餓や傷病/後遺症の蔓延による痛み/苦しみとして有形的に、不誠実な方向性へ向けて流れる共同体の有する運命の流れとして無形的に、何世代にも渡って支払い続けるものの、代償の支払いは有形界での生活に限定されます。一方で、個体の背負い支払う代償は、行為の記録(-)の残高への加算と成長の退行としての還元、不誠実な物事を引き寄せるように形成された運命の流れ、不誠実な習慣の形成/強化、誠実な習慣の弱化、などとして表れ、有形界/無形界での生活に関わらず、支払い終えるまで持ち越されます。

 なお、物的な暴力を用いて、物的な構造物や有形体を破壊(殺害)すれば、眼前の状況が解決すると思い込んでいるのは、近視眼的で滑稽な捉え方に過ぎません。有形体を破壊されて有形体を用いなくなったのならば、物的な影響を与え難くなるだけであり、無形的には遥[はる]かに大きな影響を与えられるようになります。ただし、地獄者/地縛者となり人へ憑依して無形的な不誠実の影響を与えるのか、あるいは、天使となり人へ支援/援助して無形的な誠実の影響を与えるのかは、有形体を破壊された本人の生き方が決めます。

 加えて、地上社会でみられる、武装勢力/テロリストなどと呼ばれている集団も、軍隊を保有する国家も、物的には異なっているように捉えていますが、無形的には両者に違いはありません。双方ともに、物的な暴力/武力を用いて、現在の状況を解決しようと、あるいは、現在の状況を維持しようと試みています。組織/集団などの共同体は、物的な形式の違いではなく、無形的な目的と、用いている手段から捉える必要があります。

 武装勢力が特定の地域を実効支配/管理する延長線上に国家を樹立する状況もみられます。圧政/弾圧をおこなう国家へ抵抗するために組織された武装勢力もあります。テロリストが政党を結成して国家の運営へ参与/参画する状況もみられます。地上の歴史では、戦争/内戦で勝利した集団が、国家の樹立/運営をおこなう状況は頻繁にみられます。そして、国家が、他国への侵略、他国を威嚇/牽制、他国からの搾取、国民の弾圧、特定の民族/人種/宗教団体への迫害、密輸、コンピューターシステムへのハッキングによる窃盗/破壊/盗聴、暴力/破壊/奪取/制裁/殺害の規模/人数/金額を誇示/称賛/喧伝、などをおこなっているのならば、武装勢力/テロリストと何らの違いもないのです。

 精神に騒響[ざわめき]を起こしていると、内面(内環境)が不安定となるために、外環境の認識/捉え方や外環境へおこなう行為にも不安定性が現れます。

  • 精神に強い騒響を有している者や、騒響を際限なく強めている者が、外環境へ対立/争いを求め「好戦」します
    • 好戦は、対立/争いを積極的に生じさせ、対立/争いを激化させます
  • 精神の騒響を弱めるように努めている者が、対立/争いを嫌厭[けんえん]して融和を求め「反戦」します
    • 反戦は、外環境でおこなわれている対立/争いを終息させるように行動します
  • 精神の騒響を鎮静して「静けさ」のある者や、静謐を造化している者は、融和を拡げ「無戦」します
    • 無戦は、あらかじめに対立/争いとなる原因を解消し、対立/争いを生じさせません

 この質疑応答に関連する内容には、4章2節 有形界での成長 #質疑応答の「死刑制度には社会の成長にとって何らかの意義がありますか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 性行為(性交渉)は愛の行為とは関係がありません。また、子を成したいという目的以外での性行為は欲望となります。最低限に必要となる性行為の目的が「子を成す」という内容のために、必要よりも多い内容が欲望に含まれています。子を成したいという目的であっても、双方の同意のうえで欲望を満たし快楽を得たいという目的であっても、同意なく強制された強姦であったとしても、性行為をおこなった者たちの目的に関わらず、現在の状況が両親となる可能性のある者と、子供となる可能性のある者(再授肉する者)の学びへつながる場合には、受精卵が造り出されます。欲望については5章3節 誘惑、再授肉については4章9節 再授肉を参照してください。

 現在の社会では、性行為は、お互いの愛を深める手段であると当然に受け入れられていますが、これは誘惑に基づいて形成されている既成概念です。愛(愛の行為)と恋愛(利己性/自己中心性/欲望)は異なります。物的な快楽/快感を通して、お互いの愛を深めるための手段であると偽[いつわ]り、欲望を自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく覆い隠していては、何時[いつ]までも愛が深まる状況はなく、お互いの成長にもつながりません。外環境/他者/相手から刺激/快楽/快感を得て刹那の欲望を満たしたとしても、欲望は次から次にと際限なく湧き上がり、更に強い刺激/快楽/快感を外環境/他者/相手へ追い求めるようになります。お互いの愛を深めるために物的/有形的な手段は必要ではなく、お互いが相手を所有しようとせずに、また、相手を自己の思い通りに行動させようとせずに、相手の行為(発言/行動)へ寛容を有して、自己を相手へ役立てるように努めることが、お互いの愛を深めていきます。愛と恋愛の違いについては、2章2節 大霊 #質疑応答の「愛と恋愛は同じですか?」を参照してください。

 地上社会では、生殖活動(性交渉を含む)を特別に捉えている状況も多くみられますが、生殖活動は人の有している「霊媒」としての機能が物的に反映されているだけであり、日々におこなう些細な発言/行動などと同じで特別な活動ではありません。人霊が無形界から地上へ再授肉するには、地上で有形体を有している者たちの生殖活動を必要としますが、初潮、月経、閉経、夢精、乳房/外性器の形状/大きさ、性行為の有無/回数/人数、フェティシズム(性的嗜好)を含む生殖活動/生殖機能に関する物事を特別視する、神聖視する、忌避/嫌悪する、人目を避ける恥ずべきものとして扱う、殊更[ことさら]に性欲を煽[あお]り立てる、などは利己性/自己中心性/欲望に起因する囚われに過ぎません。再授肉については4章9節 再授肉、霊媒としての機能については3章1節 人全体の構造 #質疑応答の「霊媒と呼ばれている人たちは、特殊な人体構造や能力を有しているのでしょうか?」を参照してください。

 なお、子を成す目的以外での性交渉が不誠実な行為になるからといって、子を成す状況を破壊する「中絶」も不誠実な行為になるとは限らない点に留意してください。中絶が、不誠実な行為となるのか? ならないのか? は、中絶をおこなう目的によって決まります。中絶という物的な行動そのものに誠実/不誠実はありません。目的の有する誠実/不誠実の性質が、行動の性質を決定するのです。

 加えて、中絶という物的な行動によって、胎児の用いている有形体の使用期限が変更される状況はありません。胎児は事前に地上(胎内)で生活する期間を決めたうえで胎内にいます。誠実/不誠実な目的に関わらず、中絶を試行し、中絶が成功した場合は、胎児の用いている有形体が使用期限を迎えたために、中絶という行動を通して死を迎えたのです。もしも、胎児の用いている有形体が使用期限を迎えていないのに中絶を試行した場合には、何らかの理由で中絶が中断されるか、あるいは、中絶が失敗します。そして、胎児が有形体の使用期限を迎えた場合には、中絶という手段だけでなく、流産、死産、などを通して死を迎えます。胎児の用いている有形体の使用期限は決して変更されません。

 この質疑応答に関連する内容には、2章3節 有形界の構造 #質疑応答の「無形界から地上へ植物/無脊椎動物を造化しているのならば、植物の種子や無脊椎動物の卵は何のためにあるのですか?」、また、5章3節 誘惑 #質疑応答の「性的な表現を視ると有形体が反応するのですが、これは誘惑を制御できていないために起きているのでしょうか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 はじめに、「人権」という語は、地上社会において頻繁に用いられていますが、不鮮明な定義で拡く用いられている点に留意してください。人権とは何か? を明確に定義する必要があります。「人権」という語の定義は個々によって異なり、誰もが全く同じ定義ではないために、このサイトの定義に基づいて下記を記述します。

 人権が、地上に表現されている鉱物/植物/無脊椎動物や物品は有しておらず、地上で生活する脊椎動物(動物霊)も有しておらず、人(人霊)のみが有している特性を表しているのならば、人権とは、本人の自由意志による行為の選択を尊重し、本人以外が自由意志による選択へ干渉して誘導/強制しないことを指しており、これは社会で様々に用いられている「人権」の定義に共通する土台となります。自由意志の法則は、人(人霊/天霊)に適応され、造化された表現である鉱物/植物/無脊椎動物や物品、人(人霊)以前の成長段階にある脊椎動物(動物霊)には適用されません。自由意志については、4章6節 自由意志/運命を参照してください。

 そのため、人権を尊重するとは、「自己が他者/全体の成長を阻碍しない愛の行為」に含まれる側面のひとつを指しているといえます。発言/行動や思考/感情を通して様々な差別/迫害/排斥などをしないことだけが人権の尊重されている状況を表しているのではなく、日常の些細な物事の中で、他者の自由意志による選択へ自己が干渉しない状況と、自己の自由意志による選択へ他者に干渉させない状況が人権を尊重することになるのです。自由意志による選択へ干渉しない/干渉させない(人権を尊重する)のは単純ですが、日常の些細な行為で逐一に実践するのは容易とはいえません。常に強い意志で、自己は他者の自由意志による行為の選択を尊重しているのか? 他者の自由意志による選択を自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく誘導/強制していないか? 自己の自由意志による行為の選択へ他者の干渉を許していないか? 自己の自由意志による行為の選択を他者へ自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく依存していないか? を内省し続ける必要があります。

 なお、他者の自由意志による選択へ干渉して選択する選択肢を誘導/強制するのと、他者へ選択肢を提供するのは異なります。前者は、他者が選択できる複数の選択肢の中から、ひとつの選択肢を自己が選択させようとしていますが、一方で、後者は、他者が選択できる選択肢を増大させ(自覚できるものの自覚していなかった選択肢を自覚させ)、自己は選択を誘導/強制していません。

(1000/1000)

 制度は、制度を利用する者たちの目的によって、愛の行為にも、不誠実な行為にも成り得ます。制度そのものは、目的を遂行するための手段に過ぎません。

 医療制度、年金制度、失業保険、介護保険、他の多くの制度、などは、国家の統治している地域内で生活する者たちが「お互いに支え合う」という誠実な目的で考案され、施行されている場合が多くみられますが、制度を利用する者たちの目的が必ずしも誠実とは限らないために、制度そのものも誠実な性質を有する愛の行為とは成り得ていないのです。不誠実な目的で制度を利用するのならば、利用された制度は不誠実な行為となるのです。例として、医療保険制度では、誠実な目的で制度を必要としている者が制度によって救済されている割合は僅かです。多くの場合では、利己的/自己中心的な生き方によって有形体の均衡/調和を崩した者たちが、自身の生き方を省みることなく、利己的/自己中心的な生き方を強めるために制度を利用し、制度を圧迫しています。個々が不誠実な生き方を辞め、誰もが誠実な目的で適切に制度を利用するようになったのならば、その時に、制度は、制度を必要とする者たちのための「愛の行為」となるのです。

 国家は、本来では、国家の設置された地域でおこなわれる人々の生活を円滑に扶助するために存在しています。地域での生活を支配/制限するために存在しているのではありません。同様に、独立を宣言したから国家となるのではなく、他国から国家として承認されたから国家となるのでもありません(表面的には国家と呼ばれるものの、本質的には国家ではありません)。国家は国民のためにあり、国家/為政者のために国民があるのではないという点に留意してください。国民の生活を制限し、国民に特定の行動を強制し、国民を弾圧/搾取している”国家”は国家ではないのです。少人数が相互に扶助するのであれば国家を必要としませんが、大人数が相互に扶助するには「相互扶助の取り決め」が必要となり、「取り決め」を造り出し運営するために国家が必要となります。国家の運営に携[たずさ]わる為政者/政治家の有する「地域の生活を支配している」という自覚のある、あるいは、自覚できるものの自覚のない思い込みが、国家の有する本来の役割を阻碍し、権力/覇権という幻想への渇望/しがみつき、領有権の主張、領土の拡大、他国への侵略/威嚇[いかく]、他国からの搾取、言論/情報/行動の規制/操作/弾圧、民族/人種の迫害、身分/階級制度の制定、移民の制限/拒否、特定の宗教団体への信教の強制(国教の制定/義務付け)、などをおこなわせるようになります。

 なお、権力は、権力へ従ってくれる者がいるからこそ物的な影響を与えられるようになります。権力という「もの」が存在しているのではありません。もしも、行使する権力へ従ってくれる者がいないのならば、権力は妄想の演戯[えんぎ]/戯言[たわごと]に過ぎないのです。権力という「もの」が存在しているという思い込み(固定観念/既成概念)が、自己を他者の権力へ従わせ、同時に、自己も権力を欲するように、はたらきかけています。権力と同様に、通貨(お金)も、物品や各種サービスと引き換えることができるという暗黙の了解事項があるからこそ通用します。お金(銀行券/貨幣)を発行しても、暗黙の了解事項がないのならば、あるいは、お金を物品や各種サービスと引き換えられなくなったのならば、お金の信認を維持できません。固定観念/既成概念については、5章4節 固定観念/既成概念を参照してください。

 国家の施行する制度について関連する内容には、サイト利用に関する各種取扱 #質疑応答の「著作権法は、利己性/自己中心性を土台として制定されているのでしょうか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 臓器移植、骨髄移植、輸血、などの有形体の一部を、他の有形体へ移す行為が誠実な愛の行為となるのか、あるいは、不誠実な行為となるのかは、行為をおこなう目的によって決まります。有形体の一部を他の有形体へ移す行為そのものに誠実/不誠実はありません。なお、この質疑応答では、臓器移植、骨髄移植、輸血、有形体への機械/金属の埋め込み、生体間移植、脳死による各部位の提供/移植、などの倫理的な是非については記述していません。倫理も、常識などと同様に、社会の成長の程度によって捉え方が変遷する既成概念のひとつであり、不変ではないためです。既成概念については、5章4節 固定観念/既成概念を参照してください。

 自己の有形体の一部を他者へ提供する行為は、多くの場合では他者への思いやりに基づいておこなわれており、他者を助けるための愛の行為となっています。しかし、有形体の一部を単なる物品の提供として捉えているのならば愛の行為に成り得ず、同様に、他者のために有形体の一部を提供しながらも提供する自己へ陶酔することで虚栄心を満たそうとしていても愛の行為には成り得ません。愛の行為は、物的/有形的な行為であったとしても、無形的な行為であったとしても、その土台には、自己/他者/自己以外/全体の成長を促す(愛に気づき、愛を学び、愛を拡げる)という目的が常にあります。この目的に基づいておこなわれていない行為は、外見的には他者を助ける行為にみえたとしても愛の行為にはならないのです。

 そして、自己の有形体の一部を提供する行為が、他の行為よりも愛の行為としての程度が高いとは限らず、道端のゴミをひとつ拾う行為のほうが愛の行為として高い程度を有している場合もみられます。自己を自己以外へ役立てたいという思いの強さが行為へ高い活動性の程度を付与し、愛の行為としての程度を決定するのであり、社会の常識、倫理感、行為をおこなう物的/有形的な難易度、などで愛の行為としての程度が決まるのではない点に留意してください。

 臓器、骨髄、血液、などは有形体という物体を構成する一部であり、有形体を使用している者が絶え間なく様々な性質の活動性の程度を付与することで維持しています。これは、臓器/骨髄/血液などには、有形体の使用者の思い、囚われ、思い出、愛、利己性/自己中心性/欲望、などが印象として保存されているともいえるために、他者へ臓器移植/骨髄移植/輸血をおこなった後に、提供者の有していた思い/囚われ/思い出などを、移植者が感じ取る場合もみられます。物体として提供される臓器/骨髄/血液などは同じであったとしても、日々を誠実な生き方へ努めている者から提供された臓器/骨髄/血液と、日々に不誠実な生き方をしている者から提供された臓器/骨髄/血液は、付与されてきた活動性の性質が異なるために、保存されている思い/囚われ/思い出の性質も異なります。提供者の付与してきた活動性の性質(保存されている思い/囚われ/思い出の性質)の違いは、移植者の用いる有形体の機能を回復させ均衡/調和を維持するような影響を与える場合もあれば、一方で、均衡/調和を崩すような影響を与える場合もある点に留意してください。臓器/骨髄/血液などを愛の行為として提供する意志を有しているのならば、日々の生活で、できる限り高い誠実な性質の活動性の程度を「あらゆる行為」へ付与するように努める必要があるのです。物体へ使用者の思いが保存されることについは、2章3節 有形界の構造 #有形界の造化を参照してください。

 この質疑応答に関連する内容には、3章5節 有形体 #質疑応答の「脳死や植物状態といわれる状況には、どのような違いがあるのですか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 遺跡/遺構、美術品、書物、景観、伝統技術、伝統儀式/祭事、伝統的な風習、などの物的/有形的な文化財の保存/継承が次世代への愛の行為となるのか? 愛の行為にならないのか? は保存/継承しようとする目的で決まります。次世代の学びを助け成長を促す目的で保存/継承するのならば、次世代への愛の行為となります。一方で、「これまでに保存されてきたから、これからも保存/継承しなければならない」というような、手段が目的に取って代わっているのならば保存/継承することに価値はなく、次世代への愛の行為にもなりません。常に、行為をおこなう目的が、おこなう行為の性質を決定します。なお、社会で用いられている「有形文化財/無形文化財」の語は、物的な形状(造形物)を有している/有していないで区分されており、双方ともに物的/有形的な文化財に含まれます。本質的に、無形的な文化財というものはありません。

 現在では、後継者の不足により、伝統技術の継承が途絶える状況も多くみられます。伝統技術の継承が途絶えて物的/有形的な技術が地上から失われた後に、もしも、地上社会へ特定の伝統技術を復活させる必要性が現れたのならば、技術の復活へ向けて無形界から支援/援助が成されます。地上では物的/有形的な技術が失われていたとしても、無限の叡智には技術の内容が保管されているために、無形界から地上の適切な人物へと技術を伝えることができます。無限の叡智については、2章2節 大霊 #摂理を参照してください。

 地上で、どれほどに長期に渡り受け継がれている祭事/行事であったとしても、大量の食物を無駄に用いるような内容や、脊椎動物へ無用な負担/苦しみを与える内容、などは利己的/自己中心的で不誠実な伝統といえます。例として、トマト/オレンジ/小麦/パイなどを互いに投げつけ合う、ビールなどの飲料を互いに掛け合う、大食い/早食い競争、などの「用いた食物を再利用できずに廃棄するしかない祭事/行事」が挙げられます。ただし、用いた食物を事後に再利用する祭事/行事は含まれません。地上でおこなわれている祭事/行事の多くは、無形界でおこなわれている祝祭と密接に関連していますが、大量の食物を無駄に用いるような内容や、脊椎動物へ無用な負担/苦しみを与える内容、などの祭事/行事は、無形界で「大霊への崇敬を強め積極的に成長を求める意志を促す」ためにおこなわれている祝祭とは関係がありません。無形界でおこなわれている祝祭については、2章6節 無形界の生活を参照してください。

 大量の食物を無駄に用いるような内容や、脊椎動物へ無用な負担/苦しみを与える内容、などの祭事/行事が、本年の豊作に感謝し来年の豊穣を願う目的であったとしても、祭事/行事の発祥した時代にみられた地域社会の情勢や物事を知り得る物的な範囲は、現在の地域社会の情勢や物事を知り得る物的な範囲とは異なります。物事を知り得る物的な範囲が拡く、多くの情報を比較的に速く(あるいは即時に)得ることのできる現在では、地上の狭小な地域のみで物事を捉えずに、地上全体として捉え、地上全体への配慮に努める必要があるのです。配慮のない行動は、不誠実な生き方へ陥[おちい]らせるように、はたらきます。

 何時[いつ]の時代であっても、僅かな食物を得るのにも事欠く者たちや地域が、地上には多く存在しています。祭事/行事で無駄に用いる食物を彼らへ分け与えられたのならば、多くの者たちが飢餓に苦しまずに済みます。実際に、祭事/行事で無駄に用いなかった食物を分け与えられるのか? 分け与えられないのか? ではなく、他の地域での凄惨な貧困や食物の不足している状況を知っているにも関わらず、自己が配慮ある行動をおこなおうとしない状況が利己的/自己中心的なのです。

 この質疑応答に関連する内容には、5章3節 誘惑 #質疑応答の「最低限の必要を満たすよりも多い部分が、利己的/自己中心的な行為や欲望の追求として現れると本編に記載されていますが、服装、化粧、体形、髪型、容姿、などは、本人の美しさを際立たせるために整える必要があるのではありませんか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 社会から不公正、不誠実、差別、貧困、などをなくすためには、地上で生活する個々の人が成長していくしかありません。社会の不公正、不誠実、差別、貧困、などだけでなく、家庭内の不和も、民族間の対立も、国家間の紛争/戦争も、物的な規模が異なるだけであり、全ては個々が成長することによって解消されていきます。個々の成長の程度が総合されて、共同体、社会、国家、地球、などの成長(進化)の程度を決定しているために、個々が成長することで、相対的に成長の程度が高い者を模範として他の者の成長を促し、全体としての成長へつながります。このサイトでは、貧困という語を、絶対的貧困と相対的貧困を包括した定義として用いていますが、絶対的貧困に重点を置いています。絶対的貧困では、必ず必要とする最低限を満たしていませんが、一方で、相対的貧困では、必要とする最低限を満たしていない側面もあれば、必要とする最低限は満たしているものの生活している地域の水準から捉えると水準を大幅に下回る側面もみられるためです。

 地上という狭小な範囲の中で、お互いが自身の利己性/自己中心性/欲望を満たすために些細な物事で争い合っている矮小さへ気づく必要があります。ましてや、地上の範囲にも遠く満たない国家間、国家内(国内)、地域間、地域内、企業間、企業内(職場)、家庭内、などの範囲で利己的/自己中心的に奪い合い、騙し合い、牽制/威圧し合い、対立/反目/仲違いし、啀[いが]み合い、非難/批判/糾弾し合い、傷つけ合い、殺し合っている愚かさは、悲劇そのものであり、喜劇/コメディ/ギャグそのものでもあり、滑稽でしかありません。瞬間瞬間の自己に都合の良い物事のみを全体から切り離して、近視眼的/刹那的に捉えているために、悲劇/喜劇の連鎖が連綿と続き、何時[いつ]までも連鎖を断ち切れないのです。

 ある観点から社会を捉えると、個々の利己性/自己中心性/欲望の程度が総合されて、共同体、社会、国家、などでの不誠実な行為の程度を決定しているともいえます。個々が誘惑に呑まれ幻想の捉え方へ陥[おちい]っている程度が総合されて、社会の不公正、不誠実、差別、貧困、などの程度として表れているのです。特に、物事/物品を所有するという利己的/自己中心的な捉え方が、不公正、差別、貧困、などを生み出しており、奪い合い、押し付け合い、貸し借り、搾取、隷属、などによる社会を形成しています。法律、罰則、助成金、制度、などは、一時的/表面的に不公正、差別、貧困、などを緩和させることはできても、それらが個々の成長を促さない限りは、根本としての解決にはなりません。

 個々が成長していくためには、先[ま]ず、地上で物的/有形的に所有できるものは何ひとつ無いということに気づく必要があります。土地、水、大気、太陽光、海、森林、などの自然環境はもとより、動物、構造物、物品、他者、なども所有はできないのです。お金を支払って取得したから所有して当然という幻想は捨て去らなければなりません。所有ではなく、有形的な共有、共用、分かち合い、与え合い、などが、無形的な自立、自律、自助、自制、を養い、加えて、愛に気づき、愛を学び、愛をおこない、愛を拡げる行為へつながり、個々の成長や社会の成長を促します。共有、共用、分かち合い、与え合い、などをおこなっていく具体的な内容は個々によって様々であり、個々の成長にともない、個々の有する地上での目的/役割に相応して自[おの]ずと気づくようになります。そして、天使たちの指導/援助によって、共有、共用、分かち合い、与え合い、などを実践していくようになるのです。

 地上では、同じ地域に戦争/紛争/武力衝突や、貧困、搾取、掠奪、暴力、強姦、差別、迫害、などが繰り返し蔓延しやすい状況が多くみられます。この状況は、これまでの出来事によって形成された地域の有する「不誠実な方向性へ流れる運命の流れ」へ積極的に抗[あらが]うことなく、流れのままに利己性/自己中心性/欲望に呑まれているためです。運命の流れについては、4章6節 自由意志/運命を参照してください。

 例として、圧政への対抗や、他国から受ける侵略への応戦で武力/暴力を用いているのならば、個体/組織/国家/地域の有する運命の流れは、利己性/自己中心性/欲望に基づく不誠実な物事を引き寄せる方向性へ強く流れるように向きを変えます。圧政をおこなう政府/為政者を打倒した後に、他国を退けた後に、利己性/自己中心性/欲望に基づく不誠実な物事を引き寄せる方向性へ流れる運命の流れの中では、個体/集団/国家/社会の利己性/自己中心性/欲望を増大させるように影響を強く受けるものの、利己性/自己中心性/欲望に呑まれないように絶え間なく抗[あらが]いながら、僅かずつ誠実な方向性へ変えていく過程は、地域社会を安定/発展させていくだけでなく、個体/集団/国家/社会の成長へもつながります。一方で、圧政をおこなう政府/為政者を打倒した後に、他国を退けた後に、運命の流れのままに利己性/自己中心性/欲望に呑まれてしまうことで、新たな内戦/紛争、汚職の蔓延、利権争い、派閥/勢力の対立、などが勃発し、それらへ呼応するように、貧困、搾取、掠奪、暴力、強姦、差別、迫害、などが生じます。

 多くの場合では、内戦/紛争、汚職の蔓延、利権争い、派閥/勢力の対立、などを勃発させた者たちは、権力/武力を有しており、利己的/自己中心的に権力/武力を行使しています。そして、それらへ呼応するように生じる、貧困、搾取、掠奪、暴力、強姦、差別、迫害、などを受ける者たちは、権力も武力も有さずに、周囲の者たちと協調して助け合い生活しており、一部の者たちによって利己的/自己中心的に行使される権力/武力の皺寄[しわよ]せを被[こうむ]っています。

 組織/国家/地域などの共同体の有する運命の流れは、一部の者たちが流れる方向性を「利己性/自己中心性/欲望に基づく不誠実な物事を引き寄せる方向性」へ変えたとしても、組織/国家/地域などの共同体へ属する者たち全員に影響を与えます。運命の流れを物的な側面から捉えると、地域に生活する強い暴力や権力を行使できる一部の者たち(多くは為政者/権力者)が横暴/暴虐をおこなった重い代償を、他の多くの者たち(一般市民/国民とも呼ばれている)が長期に渡る痛み、苦しみ、困窮、困難、などとして支払わされているのです。

 ある地域の有する運命の流れは、必ず、地上社会の有する運命の流れにも影響を与えています。ある地域の有する運命の流れが、利己性/自己中心性/欲望に基づく不誠実な物事を引き寄せる方向性へ流れるように向きを変えたのならば、地上社会の全体でも、利己性/自己中心性/欲望に基づく不誠実な物事を引き寄せる方向性へ流れるように引き摺[ず]られていきます。逆に、個々のおこなう配慮/協調/思いやり/支え合いのある「ひとつひとつの誠実な行為」は、個体の有する運命の流れを「愛のある誠実な方向性」へ流れていくように向きを変えさせるだけでなく、家庭、企業、国家、地上社会、惑星、などの共同体の有する運命の流れにも必ず影響を与え、誠実な方向性へ流れるように、はたらきかけます。

 有形的認識に基づいて規模を捉えると、個々は微小なために、個々が与える影響力も微々たるものにみえるかもしれませんが、個々が全体を変化させています。特定の人や複数人が先導して全体へ影響を与えているのではなく、1人1人が常に全体へ影響を与えているのです。

 無形的認識に基づいて規模を捉えるのならば、個々それぞれは全体と同等の大きさ/拡さ/範囲を有しています。個々が全体と同等の大きさ/拡さ/範囲を有しているからこそ、「ひとりひとりの人」が成長していくことで、社会という「個々の総合された全体」から不公正、不公平、不誠実、差別、貧困、暴力、搾取、虐待、などを消し去っていけるのだという点に留意する必要があります。自己以外の誰かが、社会から不公正、不公平、不誠実、差別、貧困、暴力、搾取、虐待、などを消し去ってくれるのではありません。

 この質疑応答に関連する内容には、サイト利用に関する各種取扱 #質疑応答の「知識は個体ではなく全体のものとは、自身で考え出した内容も自身の知識ではないということですか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000) 有形的/無形的認識で捉えた個体/全体
(1000/1000) 有形的/無形的認識で捉えた個体/全体

(1000/1000)

 子供が自身の患[わずら]った病を知りたいと決めている(望んでいる)のであれば、親は正確な病名を伝えることが愛の行為となります。もしも、子供が自身の患った病を知りたいと自身の自由意志で選択しているのに、親/大人が病名を偽[いつわ]って伝えるのは子供への愛の行為ではなく、親/大人の恐れ/怯えを隠し虚栄心を満たすための不誠実な行為となり、また、子供への虐待[ぎゃくたい]にも相当します。例として、子供が白血病を患ったのに親が子供へ重度の貧血と病名を偽って伝える、肺結核をインフルエンザウイルスの感染と伝える、骨肉腫を関節炎と伝える、などが挙げられます。

 親/大人が子供へ病名を偽って伝えるのは、子供へ正確な病名を伝えることで「子供が恐れ/怯えを抱く」のを心配しているではなく、親/大人が子供の病を受け入れたくないために、子供も当然に病を受け入れたくないと思い込んでいる幻想の捉え方が土台にあります。子供は病名を偽って伝えられることで、自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく病へ向き合えなくなる(治療の効果を激減させる)ために、不必要に長い闘病生活を送らねばならなくなる場合も多くみられます。

 病を患ったのが、地上での目的/役割に由来しているとしても、あるいは、利己的/自己中心的な生活に由来しているとしても、病へ眼を逸らさずに勇気をもって向き合わなければ、病を治癒/寛解させることも、病を通して自己を内省し成長へつなげることもできなくなります。子供が病と向き合う(自己と向き合う)状況を通して苦しまなければならないとしても、子供の「霊として成長」する機会を親/大人が奪い去ってはなりません。子供は親/大人の庇護[ひご]を必要としますが、子供は親/大人が所有しているのではないのです。子供と親/大人のつながりについては、4章2節 有形界での成長 #質疑応答の「子供を叱ることは、子供の成長を阻碍しますか?」を参照してください。

 加えて、親/大人が子供へ偽って伝える内容には、赤ちゃんは何処[どこ]から来るの? という質問に対して鴻鳥[こうのとり]が運んできてくれると答える、クリスマスにはサンタクロースがプレゼントを運んできてくれる、などもあります。これらの内容は子供へ夢を与えているのではなく、親/大人に都合良く子供を弄[もてあそ]んでいるだけなのだと親/大人は気づく必要があります。

 上記の内容は、親が養子にした子へ「養子」であることを伝える場合にも当てはまります。何時[いつ]に、何処[どこ]で、どのような状況で伝えるのかを、親が悩む必要はなく、両親/子供に帯同する天使たちが連携して、両親/子供の双方が成長へとつなげられる時機/場所を調整してくださいます。ただし、成長へとつなげられる時機/場所が、親/子供にとって都合の良い時機/場所とは限りません。子供へ「養子である」と、成人の年齢に達してから伝える、幼少の時期に伝えられると辛いのではないか? 周囲の者から可哀想とみられるのではないか? などの親の思惑ではなく、子供を親と対等の「ひとりの霊」として誠実に応対するように日々の生活で努めているのならば、何時に、何処で、どのような状況であったとしても冷静に丁寧に率直に伝えることができるようになります。

 この質疑応答に関連する内容には、3章5節 有形体 #質疑応答の「精神で造化する表現が有形体の状況へ現れるのであれば、疾病や怪我も強い意志で治癒を願えば治療の効果を高めますか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 ある国家が政策として、他国へ侵略する、他国を威嚇[いかく]/挑発する、他国に制裁を課す、他国から搾取/強奪/簒奪[さんだつ]する、他国へ報復/対抗措置を執行する、他国へ国内の不正な情報/虚偽の情報を発信する、自国に都合の良い世論の操作工作をおこなう、国内で弾圧/人権侵害や人種/民族の差別/迫害を指揮する、国内で報道や入手できる情報の制限をおこなう、国家間の約束事/条約を一方的に破棄/反故[ほご]する、などの不誠実な行動をおこなっている場合に、国家の不誠実な行動を批判し対抗するために、他の様々な地域/国で、不誠実な行動をおこなっている国の文化を排除/排斥しようとする活動は、他国への恐れ/怯えを土台とした幻想の捉え方に基づく行動であり、「自己が他者/全体の成長を阻碍しない愛の行為」ではありません。幻想の捉え方については、5章2節 幻想を参照してください。

 国家と、国家の存在している地域社会/文化を混同しないように留意する必要があります。国家の政策や為政者のおこないと、その地域で生まれ育[はぐく]まれた文化は異なります。同様に、現在に就任している為政者のおこなう発言/行動が、地域の文化を育んでいる国民の意見(総意)を代表/総括しているとは限らず、国民の意見とは逆の方向性を有している発言/行動の場合も多くみられます。どれほどに国家の政策や為政者のおこないが利己的/自己中心的で粗悪/愚劣/臆病であったとしても、その地域社会では精細な洗練された愛ある文化が育成されている場合もみられるのです。

 不誠実な行動をおこなっている国家へは、不誠実な行動を手助けしない/加担しないことで「自己が他者/全体(国家)の成長を阻碍しない愛の行為」をおこないながらも、同時に、その国の地域社会で育成された文化を擁護し支援/援助する「自己を他者/全体(地域社会)の成長へ役立てる愛の行為」をおこなう必要があります。不誠実な国家/為政者は、瞬間瞬間の国家の政策へ都合の良くない自国の文化/世論を排除/排斥しようとして国民の活動へ圧力/制限をかけるために、自国内で文化を自由に存続させられない状況が頻繁にみられます。国民の活動への圧力/制限には、言論の弾圧、行動の制限、インターネット/書物/動画などの閲覧の規制、政治宣伝(プロパガンダ)の正当化を強制、反逆罪/不敬罪/国家転覆罪の適用(反逆罪/不敬罪/国家転覆罪そのものが恐れ/怯えに基づいて制定されている)、などの自由意志による「選択の自由」を制限する行為のすべてが含まれます。他の様々な地域/国で、不誠実な行動をおこなっている国の文化を排除/排斥しようとするのならば、文化の存続は更に困難となるために、他の様々な地域/国は、不誠実な行動をおこなっている国家/為政者へ加担していることになるのです。自由については、5章4節 固定観念/既成概念 #自由とはを参照してください。

 文化の排除/排斥や擁護と同様に、国家のおこなう政策や、企業の活動へ抗議し改善を求めるために、不誠実な行動を手助けしない/加担しないことで「自己が他者/全体(国家)の成長を阻碍しない愛の行為」として、特定の品目/原産国/企業の食物/製品/原材料などを購入/使用しないのはデモ活動であり、非暴力/不服従の行動にもなりますが、一方で、特定の品目/原産国/企業の食物/製品/原材料などを投棄/処分/破壊するのは暴動になります。デモ活動と暴動を混同しないように留意してください。デモ活動/暴動については、5章2節 幻想 #質疑応答の「デモ活動に追随しておこなわれる暴動が不誠実なのならば、デモ活動で抗議すること自体は不誠実にはならないのですか?」も参考にしてください。

 なお、不誠実な行動をおこなう国家は、国家/為政者のために国民を利用/支配していますが、一方で、誠実な行動をおこなう国家は、国民のために国家が眼前の状況へ対応/対策しています。

 加えて、自国/自地域の伝統/風習を大切に保存し受け継ぐのと、他国/他地域の伝統/風習が自国/自地域へ侵入/流入しないように制限する、あるいは、自国/自地域に導入/紹介された他国/他地域の伝統/風習を排除するのは異なります。制限/排除しようとする行動は、他国/他地域の伝統/風習を、自己の体験を通して観察/考察せずに、利己性/自己中心性/欲望や恐れ/怯えに基づいて軽視/忌避/嫌悪しているだけに過ぎず、成長の学びにつながらないだけでなく、自己/自国/自地域の成長を阻碍/退行させています。自己/自国/自地域の成長を求めるのならば、自国/自地域の伝統/風習を明確な目的に基づいて保存しながらも、同時に、他国/他地域の伝統/風習から学ぶことも大切です。

 この質疑応答に関連する内容には、1章4節 概要 #質疑応答の「日本は欧米の文化を採り入れたことが、霊/精神/物質の不均衡を生み出す原因となったのですか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 はじめに、この質疑応答で用いている「愛国心」の語の定義は、本人が自発的に抱く内容を指しており、他者/国家/社会から強要された内容や、学校の授業で教えられた内容を指しているのではありません。他者/国家/社会から強要された内容や、学校の授業で教えられた内容は、政治宣伝(プロパガンダ)であり、既成概念の刷り込みです。地上社会では、同じ語を、誠実な定義で用いている状況よりも、不誠実な定義で用いている状況が多くみられる点に留意してください。加えて、本人が自発的に愛国心を抱いたとしても、愛国心は、国家や国家の指導者に対して有するのではなく、国家の存在している地域の社会、文化、伝統、などに対して有するという点にも留意してください。国家や国家の指導者へ忠実に従うことが愛国心ではありません。既成概念については、5章4節 固定観念/既成概念を参照してください。

 愛国心は、自己を国/地域の発展(自己以外)へ役立てようとする思いであり、その思いに基づき誠実な目的で国/地域を発展させようとするのならば、その行動は愛の行為と成り得ます。愛国心に基づいて、どのような内容の貢献を国/地域へするのかは、個々によっても、時機によっても様々ですが、肉眼に視える物的な貢献であったとしても、肉眼に視えない有形的/無形的な貢献であったとしても、自己/他者や地域の成長を促進するように、はたらきます。地域の状況によっては、国家の圧政や指導者の不正/横暴などへ立ち向かい是正しようとする思いも愛国心となります。

 ただし、愛国心は、貢献する対象となる範囲を限定しやすい傾向がみられるために、愛国心を抱く地域のみに囚われ固執し、愛国心を抱く地域以外を排他的に捉えて行動しないように留意する必要があります。排他的に捉えるのは利己性/自己中心性/欲望に基づいており、不誠実な目的で国/地域を発展させようとする行動へとつながるようになります。成長とともに意識の範囲(認識する範囲)が拡大していくのにともない、愛国心を抱く地域の範囲も徐々に拡大され、いずれは、地上全体/惑星へ「愛星心」を抱くように移行していきます。

 なお、愛国心も、国家主義/民族主義も、特定の地域/範囲に対する捉え方を表していますが、両者は捉え方の方向性が異なります。愛国心は郷土へ抱く思いであり、郷土の環境や郷土で生活する人々のために自己を役立てようとしますが、必ずしも郷土に設置されている国家や為政者へ忠誠/恭順するとは限りません。一方で、国家主義/民族主義は、主に国家への所属/帰属を指向しており、国家のためになるのならば、国民を弾圧/迫害する場合もあります。愛国心が自己の捉え方を制限する囚われになる場合もあれば、囚われにならない場合もあるのに対して、国家主義/民族主義は常に自己の捉え方を制限する囚われとなります。

 惑星の表面(地上)を覆う大地/大海/大気に、国境線(領土線)、領海線、領空線、県境線、市区町村境線、州境線、などは引かれていません。これらの線は、それぞれが管理する範囲を決めるために地図上に引かれているだけに過ぎないのです。そして、「地図上に引かれた線は物的に存在する」という思い込みが既成概念を形成し、これらの線で内側/外側を自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく区別して物事を捉えるようになります。線の内側だから自己に関係し、外側だから自己には関係ないと捉えるようになり、この様々な物事への線引き/区別が、恐れ/怯えや、利己性/自己中心性/欲望と組み合わさり、多くの争いを生み出す原因にもなっています。同様に、家族、親族、友人、知人、他人、民族、種族(人/脊椎動物)、などの範囲に線引きをしているのも、自己の属する内側/外側を自覚して、あるいは、自覚できるものの自覚なく区別して、対応の仕方に格差をつけようとしているのです。内側/外側を区別する既成概念を解消していくことで、自己を自己以外へ役立てようとする範囲が徐々に拡大していきます。既成概念については、5章4節 固定観念/既成概念を参照してください。

 この質疑応答に関連する内容には、4章2節 有形界での成長 #質疑応答の「人種の違いは、生き方の方向性に影響を与えていますか?」がありますので参考にしてください。

(1000/1000)

 募金や物資の援助は、物的な愛の行為と成り得る可能性を有してますが、募金や物資の援助を自己が納得しないままにおこなっているのならば、愛の行為に成り得ていません。嫌嫌に募金しているのではないとしても、自己が募金せずに通り過ぎることへ罪悪感を感じ取っているのであれば、「どうして罪悪感を感じているのか?」を詳細に内省する必要があります。

 募金せずに通り過ぎることへ罪悪感を感じるために募金したのならば、特定の人物/団体を物的(金銭的)には支援できているようにみえますが、これは、自己の利己性/自己中心性/欲望や虚栄心を満たすために、恐れ/怯えから眼を逸らすために、あるいは、利益を得るために他者へ投資/投機しているのと何ら変わらない点に留意してください。加えて、「募金してあげた」と優越感に浸[ひた]っていても、税金の控除を受けられるからと自己に都合が良いために募金を利用しても、これらの行動が愛の行為にはならず、不誠実な行為となっています。自己の物的/有形的/無形的な利益を顧[かえり]みずに無我/無私でおこなうからこそ、愛の行為となるのです。

 特定の人物/団体を支援する目的でおこなわれている募金活動へ、他者が募金しているからといって、自己も募金しなければならないのではありません。募金を外環境/他者から強制される状況はなく、常に、自己が自身へ「募金しなければならない」と強迫/脅迫しているのです。自己が現在の状況において支援を必要と判断したのならば、自己に適した方法/手段で支援をすれば良いのであり、お金や物品などで物的に支援する以外にも、自己の有する技術/知識/人脈を用いた支援や、無形的な祈りでも支援できます。

 また、特定の人物/団体を直接に支援するだけでなく、誠実な目的に基づいて無我/無私で支援をおこなうのであれば、何処[どこ]で、何に/誰に対する、どのような支援の内容であったとしても、特定の人物/団体を間接的には支援できます。個体は全体の一部を構成しているために、自己のおこなう他者への支援/手助けが、他者から他者へとつながり受け継がれ、いずれは対象とする特定の人物/団体へも届くようになるのです。

 なお、誠実な目的でおこなう募金は愛の行為となっていますが、募金する金額の多い/少ないで、支援する程度が決まるのではありません。募金する金額が多いほどに、物的には大きな支援をできているようにみえますが、無形的には募金する目的と、募金する意志の強さが、支援する程度を決定しています。受けた募金の中から、どれくらいの金額を、どのような内容へ分配して用いるのかは、募金の金額が影響を与えているのではなく、募金する目的/意志の強さによって造化された「祈り」が影響を与えているのです。

(1000/1000)

 特定の他者/企業/国家/団体などへの支持/支援を表明/喧伝することは、相手へ愛の行為をおこなっているようにみえますが、愛の行為には成り得ていません。支持/支援をおこなうのと、支持/支援を表明/喧伝するのは異なる行動です。

 地上社会では、特定の他者/企業/国家/団体などへの支持/支援や、不支持を表明/喧伝する状況は多くみられるものの、誠実な目的で表明/喧伝している状況は少なく、自己の虚栄心を満たすために、自己/自社/自団体/自国の利益へつなげるために、他者/他社/他団体/他国を牽制するために表明/喧伝している状況が多くみられます。地上で生活している/生活したことのある者は、有形体の内包する物質の心から誘惑の影響を受けて、「狡猾性」が経験へ保存されている点に留意してください。自覚の有無に関わらず、あらゆる状況を自己/自社/自団体/自国のために狡猾に利用しようと試みるのです。

 支持/支援を周囲へ社会へ表明/喧伝しなくても、相手を支持/支援できます。愛の行為は無我/無私でおこなうために、相手へ支持/支援を積極的におこなっても、相手へおこなっている支持/支援を周囲/社会へ積極的に表明/喧伝する状況はみられません。また、特定の他者/企業/国家/団体などへの支持/支援や不支持を表明/喧伝している者へ、先入観/偏見で捉え応対する状況もありません。もしも、相手を支持/支援するのならば、特定の人物、企業、国家、政党、派閥、宗派、団体、人種、民族、などを支持/支援するのではなく、個体/共同体のおこなう「ひとつひとつの発言/行動の目的」に基づいて、「ひとつひとつの発言/行動」を支持/支援する、あるいは、支持/支援しないように判断する必要があります。特定の個体/共同体が常に誠実な目的に基づいて発言/行動するとは限らず、また、誠実な目的に基づいて発言/行動していたとしても、眼前の状況に適切な発言/行動とは限らないのです。

 なお、様々な支援団体が団体の活動内容を紹介/広報しているのは、表明/喧伝とは異なります。団体の活動内容を紹介/広報することで、活動への理解、募金/賛助の増大、活動へ参加する者の増加、などへつながり、団体のおこなう支援活動(愛の行為)を拡大できるようになるためです。

 日々の生活の中では、個体でも、企業でも、国家でも、対立している他の個体間/企業間/国家間の、一方を擁護/援護/支持し、他方を非難/批判/糾弾する状況は多くみられます。身近な例としては、親が子供の兄弟喧嘩を仲裁して叱る状況があります。この状況は、対立する両者を「対となる極性」として一軸線上で捉えているのと同じであり、どの程度に一方を擁護/援護/支持するのか、あるいは、どの程度に他方を非難/批判/糾弾するのかで、軸線上の「自己/自企業/自国の立ち位置(基点)」を移動させて、対立する両者へ対応しています。軸線上に立ち位置(基点)を置いて対応しているのならば、表面的には対立を解消できたようにみえたとしても、対立している両者に、怨恨[えんこん]、軋轢[あつれき]、不満、などを残し、対立を再発させやすくなります。そのため、軸線上に立ち位置(基点)を置かずに、軸線を包括する観点から、対立している他の個体/企業/国家の両者へ対応するように努めることで、対立している他の個体/企業/国家の対立を解消しやすくなるだけでなく、自己/自企業/自国の成長へもつながるようになります。軸線上での捉え方と、軸線上を包括して捉えることについては、4章4節 覚醒 #質疑応答の「覚醒者が認識の表現に用いる非二元性とは何ですか?」を参照してください。

 このサイトに記述されている内容では、肉眼に視える物的な物事の具体的な例を挙げている場合もありますが、特定の人物がおこなった発言/行動、特定の企業/組織/団体の方針/活動、特定の国家の政策、特定の世論、などへ賛成/反対、支持/不支持、賛同/反対を表明しているのではありません。このサイトの内容は7次元の認識の程度に基づいて記述されており、6次元以上の認識の程度は、枝葉となる「ひとつひとつの物的な物事」へ自己の意見を表明する段階ではありません。6次元以上の認識の程度で発言/記述する内容は、個体の成長や、社会/国家などの共同体の成長/発展を促進していくために必要となる、ひとつひとつの物的な物事の根幹となる「肉眼に視えない土台となる方向性」を指し示しています。

ご質問の送信